邪馬台国・九州説

■第1章 九州・東アジアへの門戸


▶︎第1節 王の芽生え・青銅武器をもつ人 

 日本列島において、弥生時代はそもそも大陸文化の影響を受けて成立している。各時期の中国王朝や朝鮮半島の人びと、列島の人びとの交流は絶えず続いていたようだ。九州北部にみられる埋葬施設の上部に大きな石を置く支石墓などの墓制も朝鮮半島のそれと類似性が高い。

 前期末頃になると、群を形成する墓の中で副葬品を「持つ」人と「持たない」人が存在するようになる。社会の中で階層の分化が起こり始めたようだ。「王」出現の萌芽だろうか。

 前期初頭にも伯玄社(はくげんしゃ)遺跡のように墓に磨製石剣など石製武器を副葬する墓も少数ながら認められる。しかし前期末以降、副葬品の内容や質などに大きな画期がありそうだ。

 

多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)は、鏡の裏面に紐を通す鈕(ちゅう)が2、3個付いており、細線の幾何学紋様を施した朝鮮半島系の銅鏡である。弥生時代中期前半に伝わった。

 この時期の副葬品は、朝鮮半島とつながりの深い青銅武器類を中心に、多鈕細文鏡(たちゆうさいもんきょう)円環状銅釧(どうくしろ)、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)などがある。一部の人びとが、青銅器や装身を介するネットワークをもち、副葬品となる文物を入手したのだろう。

 また、副葬品を「持つ」人が出現し始める頃、佐賀県柏崎では、大陸東北部と関連性の強い青銅製触角付有柄(ゆうへい)式銅剣が伝来する。この資料の柄と非常に似通った中国出土とされる資料が、慶応義塾大学に所蔵されている。近い時期、近い場所でつくられた内のひとつが柏崎石蔵に伝わった。広域で往来する人びとの姿が読み取れる。

 多量の副葬品を「持つ」墓とされるのが宇木汲田遺跡や吉武遺跡群。前期末から中期中頃までの甕棺墓や木棺墓が集団ごとに築造されたことが明らかになっている。吉武高木・吉武大石・吉武樋渡遺跡などだ。

 これらの集団にも上下があるようだ。吉武大石よりも吉武高木の副葬品のはうが多種類であり量も多い。中期初頭の吉武高木三号木棺墓には多紐細文鏡、銅剣、銅矛銅戈(どうか)のほか、勾玉と多旦皇の管玉が副葬されていた。吉武大石の墓にはこれほど多量の副葬品をもつ墓は確認されない。また、甕棺のサイズも吉武高木で使用されているものの方が大きいとの指摘もある。

 だが吉武大石も他の墓群と比較すると、副葬品の量は多い。「吉武高木→吉武大石→その他の墓群」の集団の図式がみえそうだ。

 では同一の集団内ではどうだろう。副葬品に差が認められても、一つの墓域に複数の墓が造営されており、突出した個人(王)の存在を認めにくいとする意見がある。墓そのものが同じ集団の人びとと区分されていない点を重要視する立場だ。

 その一方で中期前半段階でも吉武高木では、大量の副葬品をもっていた三号木棺墓などを中核とする一群と、その周辺の群の存在を指摘する意見もある。副葬品の変化を重視する立場である。「王」出現の時期はこれからも検討していかねばならない問題である。

▶︎第2節 王の出現 (鏡・玉・剣)

 弥生時代中期後半には、平野単位など比較的広域にわたる地域ごとにまとまりが認められる。中国の歴史書に記述された「国」に対応すると考えられる。現在までに、奴国(なこく)、伊都国(いとこく)、末慮国(まつらこく)、不弥国(ふみこく)などの地域が推定されている。

 これらの領域にはそれぞれ王墓とみられる遺跡も存在し、その墓には中国・前漢王朝の文物が副葬される。同時に、副葬品の質・量ともに被葬者によって格段の差ができる。墓自体も群からや離れた位置に立地する墓、墳丘のある墓の造営など違いが際立つ。舶載品の副葬状況から、特に奴国と伊都国の王が中心的に中国王朝と交渉を行ったようだ。それは日常物資の交易というより、集団の長による政治的な交渉であろう。

 彼ら「王」たちは、紀元前108年に前漢によって設置された楽浪郡を介して王朝と接触した。楽浪郡は朝鮮半島の付け根に位置したとされ、日本列島の「王」たちと中国王朝の交渉の中継地点として以後も重要な位置を占める。

 日本に入ってきた中国製文物の分布をみると、交渉の中心となった奴国・伊都国の王墓に大型青銅鏡や朝鮮半島製武器類が副葬される。その周辺地域には舶載ではあるが小型の鏡や日本で製作された青銅武器類が副葬される。中心と周辺の関係が存在したのでは、との指摘もなされている。

 では具体的な王墓をみてみよう。

▶︎中国王朝と交流し始めた王たち (奴国・須玖岡本遺跡)

 須玖(すく)岡本遺跡D地点でみつかった棄棺墓は、奴国王の墓とされる。福岡県春日市に位置し、低い墳丘のある墓である。甕棺二つを合せ口にして内部に遺骸を納め、甕棺を埋めた上部には大きな石を配置していた。

 前漢王朝時代の青銅鏡30面近くと、剣・・矛など青銅武器類、ガラス製壁、ガラス製勾玉(まがたま)などが副葬され、棺内から大量のがみつかっている。中期後半に位置づけられる墳墓である。

朱・・硫化第二水銀 HgSを主成分とする赤色系の顔料。天然には辰砂として産する。普通,硫化水素,稀酸およびアルカリに耐性があるが,硝酸と塩酸との混酸で溶解する。日光には比較的安定しているが,熱には弱い。有毒。印肉用,絵具,漆器,ゴムなどの着色用に使われるが,現在では高価なため使用量は減少している。中国では土器の彩色,殷代には甲骨文を記した亀甲にも塗ったものがある。日本では,縄文時代の土器や骨器の彩色に使われた跡がある。古墳時代には,墳墓内部に呪術的意味や防腐剤として大量に使われた跡もある。

 副葬品は、その銅鏡の多さが注目されるが、この中でも草葉文鏡の存在は重要だ。復元すると直径23㎝前後になる前漢の大型鏡で、河北省満城一号墓(中山王劉勝の墓)など皇帝の一族や功臣の墓からしか出土しない特別な鏡だ。須玖岡本遺跡D地点に埋葬された奴国の王が前漢から厚遇されていた証ともされる。

 この王墓が造営された周辺地域の須玖岡本遺跡では、中期前葉から甕棺墓を主体とする墓群が形成され始める。この地域は同時期の墓群と比較して、副葬品を保有する率が高いこと、棺内に朱を施す例が多いこと、墓墳の規模が大きいなどの特徴が指摘できる。他の墓群よりも上位に位置する集団の墓かとも考えられる。このような集団に近接して王墓が築かれている点も、地域の中での「王」の位置づけを考える上で重要である。(中川)

▶︎伊都国の王と王妃 (三雲南小路遺跡)

 伊都国の王墓は三雲南小路遺跡でみつかった方形の墳丘をもつ墳墓が考えられる。須玖岡本遺跡の王墓とほぼ同時期の中期後半の墓である。

 ここから嚢相が二基検出され、一号棄棺墓には前漢鏡三五面のほか、有柄銅剣、銅矛、金銅製四葉座金貝、ガラス製壁、ガラス製玉類など多量の副葬品が出土している。

 一号棄相墓出土の銅鏡の中には、日本で唯一の出土になる大型前漢鏡の重要文化財彩画鏡や四乳電文鏡のほか、連弧文鏡など多数がある。大型の彩画鏡は大型草葉文鏡と同じく、前漢王朝の諸侯や列俣かその一族に皇帝から下賜される鏡だという。

 ガラス製壁や、金銅製四葉座金貝なども注目される。これらは臣下の死に伴い身分に応じて皇帝から下賜されるものだ。四葉座金具は木棺の装飾目一ハとして使用される。だが当時の伊都国「王」は甕棺に葬られており、金具裏面には繊維が付着するなど、布などに付けて服飾品として使用した可能性も指摘される。本来の用途とは違うのだ。

 二号窯相墓からも前浜鏡二二面以上、ガラス製勾玉、碧玉製勾玉などがみつかっている。やはり銅鏡を多数保有している。これらは一号棄棺墓の銅鏡とほぼ同時期に製作されたものであるが、全てが小型鏡で大型鏡は含まれない。またガラス製壁などもない。一号甕棺墓より少々ランクが下のようだ。以上から、この二つの埋葬施設は「王と王妃」(または王女)の墓とも考えられている。これらに続いて井原鑓溝(やりみそ)遺跡に墳墓がつくられる。

 漢代では鏡は姿見として使用されており、一人の埋葬には一面副葬するのが通常である。大型墓でも多くて二〜三面である。しかし、須玖岡本や三雲南小路の王墓では大且里の鏡が副葬される。日本列島の王にとって、中国王朝の鏡は、姿見以外の意味を持っていたのだろう。(中川)

▶︎隔絶された墓に埋葬される王たち(椛島山遺跡・桜馬場遺跡)

 後期の「王墓」には、椛烏山遺跡や桜馬場遺跡の墳墓がある。この時期、青銅武器類は副葬されなくなる。

 椛島山(かばせしまやま)は佐賀平野西部の独立丘陵上に立地する後期前半の墳墓だ。二号石棺からは連弧文「昭明」銘鏡や素環頭刀子、玉類が出土。素環頭の刀類は中期末頃から日本列島でも確認される漢王朝とつながりの深い資料である。この墳墓の副葬品である鏡・剣(刀)・玉の組合せは、弥生時代以降の墓制を考える上で興味深い。

 桜馬場は、末慮国の「王墓」とされる後期前半の墳墓だ。昭和19年(1944)、防空壕の掘削作業中に発見され、甕棺の中から方格規矩四神鏡二面の他、巴形銅器、有鈎銅釧26点などが出土した。その後墳墓は埋め戻され、位置の確認もできなくなっていたが、平成19年(2007)の調査により、この時の墳墓が再確認された。この調査でも、漢王朝の新しい武器である素環頭大刀のほか、巴形銅器、ヒスイ製勾玉、碧玉製・ガラス製管玉、ガラス製小玉など大量の副葬品が出土し、改めて「王墓」の豊かな内容が明らかになった。

 これらの副葬品の中で、方格規矩四神鏡中国新〜後漢前半に盛行した鏡で、墳墓の年代を明らかにする手がかりとして有力だ。この鏡の文様は天円地方観(てんえんちほうかん・世界は円形(球形)の天と四角い地面で構成されるという考え)や神仙思想に基づきデザインされている。鏡に刻まれた銘文も同様の内容を伝える。このような思想は、どの程度、列島の人々(倭人)に伝わっていたのだろう。

この天保銭のデザインは、お金に対して「足るを知る」をあらわしているだけではなく、自然界=天に対する人間界=地方の足るを知るも表現されていたと思われます。表現されているのは、お金の話だけではないのです。

 また、この 「王墓」周辺では、同時期の建物や墓などの痕跡が確認されない。どうやら空間的にも他から隔たった位置につくられたようだ。これ以前の「王墓」と異なる存在の仕方である。

 さらに素環頭大刀という武器が新たに下賜され始めた点に関して、漢王朝による冊封体制の中での倭人の「王」の地位が上昇したとの指摘もある。列島内外での 「王」の存在が変化しつつある時期なのだろうか。(中川)

▶︎大量の鏡とともに葬られる王(平原遺跡・ひらばるいせき)

 桜馬場遺跡よりも副葬品や埋葬施設などが、さらに他と隔絶した墳墓も見つかっている。伊都国の「王墓」、福岡県前原市平原遺跡二号方形周溝墓だ。溝に囲まれた13m✖️9.6mの部分に墳丘が存在した。そのほぼ中央部に4.6mX3.7mの墓墳を持つ埋葬施設が確認された。棺には長さ約3mの割竹形木棺が用いられている。

 棺の内部では西側から朱とともに管玉や勾玉などの玉類、そして耳培(耳飾)が出土した。この状況から、西側に頭をおいて埋葬されたと考えられている。

 副葬品の中でも特筆すべきは銅鏡の多さ。合計40面もの鏡が全て割られ、墓境内に五つの群に分けて埋められていた。一度に副葬された鏡の枚数では、弥生時代だけでなく古墳時代まで含めても最多である。

 鏡は方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)が32面と大半を占めるが、直径46.5㎝を測る大型の内行花文鏡が目を引く。ほぼ完形に復元できる10号鏡では重さ約8kgに達する。鉦の周辺には木の葉状の文様が八枚鋳出されている。この八乗座はこの墳墓でのみ確認される。内行花文の周辺は九重の同心円が取り巻くだけのシンプルな文様構成となっている。様ざまな要素で独自色がみられる鏡群だ。

 これほど大型の鏡が中国には存在しないことや、文様構成の独自性、製作技など様ざまな視点から研究が行われ、中国から伝わった舶載説と日本で作られた彷製説が議論されている。

 また、方格規矩四神鏡では六組一四面が、内行花文鏡では一組五面が、それぞれ同じ鋳型を使って製作されている。近い時期に近い場所で多くの銅鏡が製作されたことがわかる資料だ。

 さらに、墓境内からは素環頭大刀一口も出土している。全長80.2㎝を測る長大な大刀である。出土状況から見て、ガラス製勾玉3点ガラス製州小玉約500点とともに木棺の上に置かれていたと考えられる。

 棺内からみつかった豊富な玉類は、他に類例がほとんどないものも多い。メノウ製管玉や耳培などである。耳培は後漢代に盛行した貴婦人のピアスである。装飾品の玉類も多いことから、女性が埋葬されているとする根拠のひとつとなっている。

 出土当初は内向きに強く反つていたが、錆落としと補修により、刀身はほぼ直線をなすことが明らかになった。

 平原遺跡一号方形周溝墓からは多くのガラス製品が出土している。多くが大陸からもたらされたものだ。この中で、北西の周溝内でみつかった7号土墳墓からは、特異なガラスが出土している。

 赤褐色の不透明なガラス玉で、紀元前三世紀頃からインドで製作が始まり、東南アジアへと広まったとされる。漢代の中国国内では生産されてはいなかった。

 他の出土遺物から考えて、この七号土壌墓出土例は、南や東南アジアから中国に入り、その後中国から伝わったものと考えられる。小さな資料ではあるが、当時の国際的な物流を伝え、その中で いとこくの伊都国の位置づけを考えさせる重要品である。また、類似資料が福岡市西新町遺跡の住居跡からも出土している。古墳時代前期とされる資料だ。

 北部九州の弥生時代後期末頃の「王墓」では、現在のところ伊都国の平原遺跡一号方形周溝墓にひってき匹敵する副葬品をもつ墓はみつかっていない。青銅器などの生産を中心的に行っている奴国の中心でも同様である。この時期は伊都国が対外的な交流の中心となっていたのだろうか。(中川)

■コラム1  大陸権威の表象(王たちが携えた素環頭大刀)

 弥生時代の中期の終わりに近い頃から、鉄製の武器では舶載の大刀が現れ、剣よりも重宝されて副葬されるようになる。それがいち早く見られる北部九州での出土例は、柄の端部に簡素な輪状の飾りのついたものがほとんどで素環頭大刀と呼ばれる。大刀は、中国において前漢代に生み出されたとみられ、後漢には長剣に取って代わり主要な短柄の武器となったようである。また「高い実用性を具えるとともに、所持者の位階や身分等を示す象徴性を帯びたものであった。その性質は、朝鮮(韓)半島を経て辺境となる北部九州にも受つけ継がれていったと考えられ、冊封体制への編入を重視した社会の中で、青銅鏡等と併せ漢王朝と結びついた権威を誇示する役割を担っていたとられる。

 一方で、列島内の北部九州以外の地域での大刀の副葬は、弥生時代後期の中頃から、山陰から北陸といった日本海に広がって、更にそこから中部や北関東へと後期の終わり近くに至っている。注目されるのは、北部九州では舶載された素環頭がそのままで副葬されるのに対し、これらの地域では素環頭部分を断ち切って副葬されている点である。また、素環頭に代わる形で独自の木製装具をそうちゃく装着したとみられる。

 中国内でも周辺部で、剣の装具を改変した副葬例を伴う墓地があり、入手した漢文化由来の武器に民族独自の象徴性を加味していたのだろう。にもかかわらず、その墓地内でも素環頭大刀はそのまま副葬されており、漢王朝との繋がりを示す特別な要素であったとうかがえる。それからすると、列島内の日本海沿岸地域で始まった素環頭裁断の動きは特殊であり、漢王朝の権威を解しない辺境の行為とも受け取れる。しかしながら、この素環頭裁断の流れの中で、古墳時代の大刀が成立しているため、前方後円という墳形や三角縁神獣鏡等と併せて、倭国という規模での新しい社会に対応した価値観創出の中で採用されるだけの意義が込められていたに違いない。

 福岡市早良区所在の藤崎遺跡六号方形周溝墓では、畿内系要素の方形周溝墓三角縁神獣鏡とともに素環頭大刀が組み合い、新旧の価値観が混在する中での葛藤がみられるようである。(坂元)

■第3節 王をとりまく社会

▶︎金属器の生産

  弥生時代中期以降、九州北部の王墓には大量の青鋼製品が副葬される。鏡などは中国王朝との交渉の結果であるが、王を支える列島内の社会での文物の生産の状況も明らかになっている。

 まず、他の地域と比較して九州北部の青銅器生産力は注目される。中期前半に有明海の湾岸周辺で盛んであった青銅器の生産は、中期中頃には春日丘陵周辺で、集中して行われるようになる。

 中期中頃は中細形鋼矛や鋼曳など武器形青銅器を使った祭りが盛んに行われた時期であり、祭器の必要性から生産が盛んに行われたのであろう。春日・筑紫地域では、青銅製祭器が最終的に大量に埋納された福岡県日永遺跡などがみつかっている。これらの地域に供給されたのだろうか。

 春日丘陵周辺の須玖遺跡群など青銅器生産遺跡からは、鋳型はもちろん、鋳上がるとすぐ破壊・廃棄されてしまう真土製中子相場、金属浮などが出土する。実際にこの地で青銅器が鋳込まれ、出来上がった様子が浮き上がってくる。

 一度に多数の鉄をつくることのできる鋳型が出土した須玖岡本遺跡坂本地区では、溝に囲まれた掘立柱建物が複数検出されている。ここからは、銅矛や小銅鐸の中子、取瓶、輔の羽口、銅浮などが出土している。このため、これらの建物は青銅器生産の工房との見方が強い

 中期末頃からは、中広形鋼矛や銅曳の生産が行われ、製品は対馬や四国、そして一部は新鮮半島にまで広く分布するようになる。一大生産地帯だ。この大きな生産地のほど近くに王墓が築造されていることは興味深い。青銅器生産に「王」がどのように関わったのか。生産・流通をどこまで把握したのか、興味は尽きない。       (中川)


■様ざまな鉄の道具

  佐賀県吉野ヶ里遺跡  弥生時代中期〜後期 写真左上から毒兼、素環頭刀子、鋤(鍬)先、環状鉄製品、鞍、鈍、整状鉄斧、板状鉄斧、鍛造袋状鉄斧、鋳造鉄斧。 吉野ヶ里遺跡では、完全な形状の道具出土例が多い。52 ガラス製勾玉の鋳型とガラス 福岡県須玖五反田遺跡/弥生時代後期  勾玉長3㎝溶かしたガラスを流し込んで、勾玉を作る。ガラスも高温を維持しての作業が必要である。

▶︎新しい技術

 操業時に高温を保つ技術が必要なのは、青銅器だけではない。鉄器やガラス製品も同様だ。 近年、九州の山間部で後期集落から大量の鉄器が出土し、鉄製錬の可能性も指摘される。だが、弥生時代の鉄製錬が行われた明確な遺構は未発見だ。当時は鍛冶加工が主体のようだ。中期末の鍛工房が赤井手遺跡や二王手遺跡で確認される。

 吉野ヶ里遺跡では完全な形の鎌や鋤などの鉄製品が出土している。しかし、他の遺跡から出土する鉄器の多くは板状の小鉄片だ。これは板状の三角形や不定形、銑鉄の茎のような角柱状の小片で、小型の鉄器類を製作するときに断ち切ることで生じた鉄片であろう。

 西日本の集落出土鉄器の組成を検討された野島永氏によると、九州北部は鉄製農耕具が多いという。可耕地開発のために使われたのだろうか。

 一方、ガラス製品の生産須玖五反田遺跡で後期の資料が確認されている。排水用らしき講をもっ酢溜挑から、彗・丸玉の土製掛撃箪ガラス浮などが出土した。ガラス製品の生産工房だろう。出土した勾玉鋳型は、長さ約三血程度の勾玉を一度に複数個作れる形状を呈している消托なるとガラス慧の葉品が、彗ともに飛躍的に増加する。「王」たちに好まれたようだ。ここで作られた製品も王墓に供給されたのかもしれない。(中川)

▶︎新しい製品

 木を素材とする道具は、一般的な道具としてつくり続けられているものの、新しい木工技術の伝播を窺(うかが)わせるものもつくられるようになった。

 その一つが木胎漆塗りの容器蓋である。これらの蓋は直径7〜30㎝と小振りで、弥生時代中期後半〜後期にかけて糸島市本田孝田遺跡、福岡市雀居遺跡、唐津市千々賀遺跡、神埼市吉野ヶ里遺跡など、玄界灘周辺の遺跡や茶戸里遺跡や新昌洞遺跡など韓半島南部の遺跡でも確認できる。その意匠は里芋地に赤漆で円と同心円を描くもので、赤漆は細い線で睨敷を表現するなど、筆による描画も想起される。

 いずれの資料も、文様構成・形状・法量などの様ざまな点で一致することから、ある一定の規格が存在するようである。その一方で、用途はいまひとつはっきりしない。化粧箱としての機能をもつ奄のようなものであるのかもしれないし、あるいは椛畠山遺跡の筒形籠などのような円筒状の器の蓋を構成するのかもしれない。

 このほか、福岡市今宿五郎江遺跡からは、案(机)などの指物や沓などの、従来には無い製品がみられるようになる。この遺跡からは、楽浪郡でつくられた土器も出土しており、新来の製品と文化の受容が行われていたことが想定できる。

 こうした、これらの新しい製品は、対外交流の在り方を考える上でも非常に重要な資料と言えるだろう。(正岡)


55 博多湾周辺の遺跡 1:元岡・桑原遺跡  3:西新町遺跡 56 石の道具  福岡県元岡・桑原遺跡群  弥生時代中期後半〜後期  上:石庖丁/右下幅11cm下:石錘(石のおもり)/右下直径11.5㎝

 各種の道具は、石の特性を熟知して、道具ごとに使し、分けている。立岩付近では石庖丁など石器生産が盛んな地域で、その製品は広域に流通してしいる。

▶︎道具から読み取るネットワーク  

 広域で交流し、様ざまな文物や情報の交換を行っていた様子は、石の道具からも読み取れる。とりわけ博多湾に面した地域に営まれた集落では、人びとの往来も活発であった。

 56のひとつは石庖丁。穂摘貝だが、どんな石で かまも構わず使用しているわけではない。エンジ色の石は福岡県飯塚市の立岩付近原産の石だ。加工しやすく、刃部が磨り減りにくい特徴がある。これらは九州各地の広域に分布している。石器のネットワークが成立していたようだ。

 この付近の立岩堀田遺跡では前漢鏡六面を副葬する棄相墓が調査された。三雲南小路一号窯棺墓などと同じ中期後半である。この周辺は不弥国の比定地ともされる。物流の拠点の「王」だろう。

 石の道具は海に面した地域のつながりを示すこもある。そのひとつに石錘がある。これは魚綱につけて使用された道具である。特に卵形を呈し長軸方向に溝が彫りこまれた石錘に関しては、九州型石錘とも垂下型石錘とも呼ばれ、後期末頃には壱岐や唐津湾地域まで分布を拡大する。その後も、南は薩摩半島から東は若狭湾までさらに広域に分布を広げる。しかし、瀬戸内地域ではあまり認められないという特徴がある。

 このような資料の分布は、博多湾での交易活動を支えたであろう海辺に暮らす人びとの行動の足跡を語る。舟を操り、海を渡ってあちらこちらで活躍する人びとの姿がみえてくる。 (中川)

他地域から持ち込まれた土器

福岡県元岡・桑原遺跡群 弥生時代中期後半〜後期  左:山陰地方の葉形土器 高19.2巾 右:糸島半島の丹塗り磨研の壷形土口径16〔m58 山陰地方や近畿地方の土器 福岡県西新町遺跡 古墳時代初頭 住居跡からも山陰系の土器や近畿系の土器が出土する。

▶︎他の地域との交流

 広域な交流で運ばれたものは、石器だけではない。土器も同様である。さらに、土器はより狭い地域の特徴が明らかにされており、移動元の地域が限定しやすい。

 中期後半には、博多湾に面する今宿五郎江遺跡などには陸続きの地域のみならず、山陰地方の土器も持ち込まれている。少数ながら他に中国地方の資料存在する。

 元岡・桑原遺跡群から出土した土器は赤く彩色された糸島半島産の壷形土器である。比較的近い地域との行き来を示す資料となる。中に何かを入れて運ばれてきたのだろうか。

 他方、山陰地方は、先述した石錘などからも人びとの往来、そして生活の中での情報の交換など ひんばんが頻繁であったことが指摘されている。土器からも同様のことが言えそうだ。

 時期が下って弥生時代末から古墳時代初頭になると、人びとの交流範囲の拡大が窺われる。

 西新町遺跡では、山陰地方の土器だけでなく、近畿地方の土器もみられるようになる。日常生活で使用する壷・棄も存在するが、小型器台や小型丸底壷など古填での祭祀に使われるような精製土器が存在することは注目される。土器自体の移動、人の移動とともに、同時期の近畿地方での文化の要素の一端も九州北部まで伝わっている証と言えよう。 (中川)

ヒョウタン形の土器

福岡県元岡・桑原遺跡群  弥生時代中期/高31㎝ 破片はみつかっていたが、完全な形に  復元できる国内唯一の例である。61青銅製の鞘金具  福岡県元岡・桑原遺跡群/弥生時代中期後半包60 五鉄銭(上)と貨泉(下)  福岡県元岡・桑原遺跡群/弥生時代中期後半〜後期  上:直径2.5〔m 右下:直径2.3〔m   前漢の武帝によリー度発行され、後漠の光武帝により再度制定された五  錬銭と、両王朝の間にある新の王葬により発行された貨泉。62 貨泉  福岡県今宿五郎江遺跡/弥生時代後期直径2.3〔m

▶︎大陸との交流

 王墓には中国王朝から与えられた銅鏡などが大量に副葬される。ではその他に、大陸からもたらされた文物はなかったのだろうか。

 人が行動すれば必ず何かしらの痕跡が残される。大陸との交渉の痕跡は集落にも残っていた。金属製品、土器など様ざまである。

 五錬銭・貨泉などの銅銭は、中国王朝(前漢・しん新・後漠)が発行した銭で日本列島内でも少数ながら出土する。発行時期が比較的はっきりしている。特に短期王朝であった王弄の新王朝が西暦一四年に初めて発行した貨泉は、中国国内に広く流通し、朝鮮半島でも慶尚南道金海貝塚や済州畠山地港などから出土する。日本列島でも弥生時代後期以降の遺跡で確認される。

 その他、元岡・桑原遺跡群出土のヒョウタン形の土器は中国秦〜漢代の中原一帯に分布する青銅や陶製の「蒜頭壷」の影響を受けた土器との意見も示されている。どのような情報が伝わったのだろうか。

 朝鮮半島からの生産技術の伝来も続いている。ガラス製小玉の鋳型は、一度に多数の小玉が生産できるものだ。弥生時代後期の鋳型が豊島馬場遺跡(東京都北区)で確認されているが西新町遺跡の鋳型とはやや異なる特徴をもつ。類似する鋳型は、朝鮮半島でのみ確認されている。

 生産工人も含む人と情報の移動が活発だったのだろう。(中川)


64 ガラス製小玉・勾玉鋳型 福岡県西新町遺跡/古墳時代前期/右奥長約20〔m平面形が方形の鋳型は、京畿道河南市漠沙里遺跡・全羅両道海南郡郡谷里貝塚・全羅北道全州市中仁洞遺跡など朝鮮半島に類例がみられる。また、西新町遺跡出土の鋳型は、被熱したものもあり、実際に使用された可能性が高いとされる。63 小形彷製鏡(上)と破鏡(左)

 福岡県今宿五郎江遺跡/弥生時代後期〜後期末  上:小形佑製鏡石直径12.5〔m  左:破鏡右幅4.5m 朝鮮半島の影響が強い土器

福岡県西新町遺跡/古墳時代前期/右奥長約32〔m多種多様な土器が出土するが、特に朝鮮半島西南部地域の土器と類似する資料が多い。しかし、全ての器種が存在するわけではなく、選択的に持ち込まれているようだ。