真備・唐の長安へ

▶︎真備・唐の長安へ

▶︎遣隋使と遣唐使

 6世紀末から7世紀初めにかけて中国大陸では、五胡十六国の戦乱の時代を経て強大な隋帝が出現した。ここで遣隋使から遣唐使までの歩みを略記しておきたい。聖徳太子が摂政になった推古天皇の時代に、日本(倭国)は初めて隋に使節を派遣した。しし、この第1回の遣隋使のことは『日本書紀』には記録がなく、中国側の正史『隋書』のみにる。

 隋の文帝の開皇20年(600)は日本では推古天皇8年に至る。・・・倭王、姓は阿毎(あま)、字は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雉弥(おおきみ)と号し、使を遣(つか)わして詣(もう)らしむ・・・使者の名はわからないが、アマタリシヒコという男性名のオオキミ(大王)が派遣者であるとがわかる。当時は推古女帝の時代であるから、日本の使節が「女帝」であることを隠し、摂政の聖徳太子の名を使ったのではないか、と考える説がある。

 第二回の遣隋使は、推古天皇15年(607)小野妹子を使者鞍作福利(くらつくりのふくり)を通事(通訳)として派遺したことが「日本書紀』に、また、隋の煬帝に拝謁したことが『隋書』に載っている。 この使節の時の有名な国書、

 ・・・日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無(つつがな)きや・・・

の文句が問題になり、隋の瘍帝は、

 ・・・蛮夷の書、無礼なるもの有り、復(ま)た以って聞する勿れ・・・

と、担当の鴻臚寺(こうろじ・外交機関)の(けい・長官)に語った。煬帝は激しく怒ったが、使節の帰国にあわせ、隋使の裴世清(はいせいせい)を日本へ派遣した。

 第3回は、隋から派遣されて来た裴世清を、隋まで送るための使節である。推古天皇16(608)の使節も小野妹子。『日本書紀』はこの時に同乗した高向玄理(たかむこのくろまろ)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)ら8人の留学生と留学僧の名を記している。

 第4回は、推古天皇の22年(614)6月に、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)、矢田部造(やたべのみやつこ)を遣わし、翌23年9月に帰国した。

 中国では隋が滅び、唐が建国した。推古天皇31年(623)唐の留学から帰った薬師恵日(やくしのえにち)らは、朝廷に参上し、

 ・・・かの大唐国は、法式完備の立派な国。常に往来して交わりをもつべきである・・・と進言した。

 第1次の遣唐使は、舒明2年(630)犬上三田耜(いぬがみのみたすき)と薬師恵日(くすしのえにち)を使者として派遣した。その時の様子が『旧唐書(くとうじょ)』に次のように書かれている。

 ・・・唐の貞観5年(631)太宗(たいそう)がその道の遠いのをあわれに思い、毎年の朝貢をやめさせた。また新州刺史(しんしゅうしし)の高表仁(こうひょうじん)を使者として倭国に行かせ、慰撫(いぶ)せたが、その才がなく、王子と礼 を争い、皇帝の勅を述べることなく帰国した・・・

 第2次の遣唐使は、それから23年後の白雉4年(653)に派遣された。初めて2隻の編成。第一船の大使は吉土長丹(きしのながに)、第二船の大使は高田根麻呂(たかたねのねまろ)である。第一船は121人を乗せ北路を通ったのに対して、第二船は同じく120人を乗せ南島路か南路を通ったらしく、薩摩の竹島付近で遭難し、5人がやっと竹島に上陸した。第一船だけが中国に着き、目的を果たして帰国した。

 第3次の遣唐使は、その翌年の白雉5年(654)に出航した。押使が高向玄理(たかむこのくろまろ)、大使が河辺麻呂(かわべのまろ)、副使が薬師恵日(くすしのえにち)、2隻の編成で人数はわからないが、安全な北路のコースをとった。しかし、押使の高向玄理は彼の地で客死した。

 次は第4次の遣唐使。唐の高宗が朝鮮半島の新羅国と手を結び、高句麗国と百済国を攻略しょうとしている緊迫した情勢のなかで、斉明天皇5年(659)に派遣された。大使は坂合部石布(さかいべのいわしき)、副使は津守吉祥(つもりのきさ)で、2隻の編成。大使の乗った第一船は、南海の島に流され、やっと五人が生き延びて中国の括州に着き洛陽に送られた。副使の乗った第二船は、中国江南の越州(浙江省紹興・せっこうしょうしょうかい)に着き、洛陽に入って高宗に拝謁した。その後、津守吉祥らが、一時、城内に監禁される騒ぎがあった。

 唐はこの間、朝鮮半島の百済を滅亡に追い込んだ。百済と友好関係にあった日本は、百済遺民からの救援要請に応え2万人を超える救援軍を朝鮮半島に派遣したが、斉明天皇六年(660)錦江下流の「白村江」の海戦で唐と新羅の連合軍に破れた。

 百済はここに完全に滅亡した。 当時の日本は、唐と新羅の連合軍が日本に攻めてくるのではないかと恐れ、百済亡命人の協力を得て壱岐・対馬から北九州、瀬戸内海沿岸にかけて朝鮮式山城を築いた。

 そんな緊迫した情勢が続くなか、天智天皇四年(665)唐帝国から劉徳高(りゅうとくこう)郭務踪(かくむそう)の案内で筑紫にやって来た。その劉徳高が唐に帰るにあたって日本は、その年の暮に守大石(もりのおおいわ)と坂合部石積(さかいべのいわずみ)を送便として唐へ派遣した。これが第五次の遣唐使である。

 やがて唐は朝鮮半島に兵を進め、天智天皇7年(668)高句麗を滅亡させた。日本は天智天皇9年(669)河内鯨(かわちのくじら)を使者とする第六次遣唐使を派遣した。唐の高句麗平定を慶賀するための使節と思われる。

 大宝元年へ(701)1月に任命された第7次遣唐使は、唐に対して32年ぶりに派遣される使節だった。

 使節史が栗田真人(あわたのまひと)、大使が高橋笠間(たかはしのかさま)。少録に山上憶良(やまのうえのおくら)、留学僧に道慈(どうじ)の名があった。このの遣唐使船が何隻だったのか、何人が乗り込んでいたのか、明らかではない。青木和夫氏は三隻の編成と見る。一行は北路を経由したと思われ楚州に着いている。この遣唐使の最も大きな目的は、日本が「大宝律令」を完成させたこと唐をはじめ東アジア世界のなかでアピールしょうとするものだった。

 この第7次遣唐使で注目されるのは、これまでの「倭」に代わって「日本」という国名を初て使ったことである。

 中国の正史『旧唐書』では、

日本国は倭国の別種である。その国が日の昇る所にあるので日本と名づけた。その国の+ 朝臣真人は、中国の戸部尚書(民部省長官)に当たる、好んで彗日や史書を読み、文を綴又とを理解し、容姿は温雅だった。則天武后は真人を麟徳殿でもてなした− と、時の女帝・則夫武后に拝謁した真人について述べている。少録として一緒に唐に渡った山上憶良は、時に四十三歳。

いざ子ども 早く日本(やまと)へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ(巻一・六三)と『万葉集』のなかで望郷の歌を詠んでいる。

▶︎真備、長安へ

 遣唐留学生の下道真備の乗った第八次遣唐使の船4隻は、南島路のコースをとったと阿れる。

 『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると文武天皇2年(698)に文忌寸博士(ふみのいみきはかせ)ら8人を南の島に遣わした。・・・は遣唐使の南島路のコースを確保するために南の島々の調査を行い、日本の支配下に置こうとするものだ。この結果、翌年の七月には、多祢(たね・種子島)、夜久(やく・屋久島)、奄美(奄美大島)、度感(とく・徳之島)などの人々がやってきて地の産物を献上した。その後和銅7年(714)十二口は、球美(くみ・久米島)、信覚(しかく・石垣島)の人々が朝貢するようになった。その結果、南の島々の様子が詳しくわかり、安心して停泊できることが明らかになった。

 こうしたなかで迎えた第8次遣唐使は、当然、南方の島々を南下し、阿児奈波(あこなわ・沖縄本島)球美(くみ・久米島)あたりから大海を越えて中国の長江(揚子江)の河口をめざしたと考えられる(このときの航海中の様子は、記録がないからわからないが、後に淡海三船(おおみのみふね)によって撰修さも『唐大和上東征伝』や最後の遣唐使船で入唐した円仁(えんにん)の『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』などの記録を参考にすると、その航海はまことに容易ならぬものがあった。

 九州から南の島々を一つ一つたどり、しかも風の向きを考えながらの航海だから久米島に着くまでに30日か40日ぐらいかかったのではないか。潮流の点から見ると対馬暖流に逆行することになるのだから、なおさら航海は容易ではなかったはずである。

 日本と中国との間の海は、順調に行けば10日前後で横切ることができるが、途中に島のない大海であり、しかも荒海である。

 船に乗り込んだト部(うらべ)が方向を定め、風向や風力を計った。

卜部とは亀卜(亀甲を焼くことで現れる亀裂の形(卜兆)により吉凶を占うこと)を職業とした品部。系統が異なる氏族が日本各地に存在するが、このうち伊豆・壱岐・対馬の卜部氏は神祇官の官人に任ぜられ、神祇官の次官(大副・少副)には伊豆卜部氏が、下級職員である卜部には伊豆5人・壱岐5人・対馬10人の、それぞれ卜術に優秀な者が任じられた。この三カ国以外の卜部氏は日本古来の卜占である太占に関係した氏族の後裔であるという。

 海水の色を鑑別して船の位置を知り、鉄を錘(おもり)にした縄を海に下げて海の浅深を計りながら船を進めた。星の位置で方角を知り、僚船との間で互いに火信によって連絡をとり合った。

 船が強風に見舞われると、大海のなかで木の葉のように揺れ、猛烈な故に翻弄され続ける。船が大きく傾くと、水をかぶる。みんなで浸水を掻(か)きだし、故障個所を修理するが、あわや沈没いう事態も度々起こる。帆柱が吹き飛ばされて漂流ということもある。そんな時は神仏に航海の加護を祈るしかない。

  航海が長くなると、水や食糧が不足する。飢えが始まる。病人がでる。航海中に死者がでることもある。気がいらだってくると、狭い船内で殺傷事件まで起きるのだ。

 真備たちは、おそらくこうした厳しい航海の連続で、常に不安におびえながらの航海だった。あるいは何度か死を覚悟したかも知れない。まさに命がけの航海だったのである。第八次の遣唐使船4隻は、このような危険で困難な族を乗り越えて、その年の夏、無事に大陸の沿岸にたどり着いた。目指すのは江南の「揚州」である。

 東南アジア、インド、アラビアなどの船が行き交う国際都市の揚州は、水量ゆたかな長江の水運に支えられて古くから栄え、春秋時代には呉王夫差の居城があった。揚州からは北の開封へ伸びる江北大運河(通済渠・つうさいきょ)が開かれていた。揚州から南に伸びるのが江南運河長江銭塘江(せんとうこう)を結び杭州を終点とするものでる。

 南北を貫く大運河は全長1500kmに及ぶ。揚州はの南北大運河と長江との十字路にあたる交通の要衝地だ。

 暴君として知られる隋の煬帝は、百万人を越えるびただしい数の民を動員し、膨大な国費を費やしての大運河を建設した。さらに大軍を率いて朝鮮半島の高句麗遠征を強行して失敗した。煬帝の臣下と民の不満が爆発、反乱の動きが高まった。煬帝は隋末の乱を避けてこの大運河に数多く竜船を連ねながら離宮に4度目の行幸をし、多くの美姫を侍らせて歓楽の極みをつくした。折しも大原(たいげん)の護りについていた李淵(りえん・唐の高祖)とその子の李世民(りせいみん・唐の太宗)が首都の長安を襲い、これを占領した。この報せが揚州に届くと、煬帝は部下によって絞殺され隋帝国はここにあっけなく滅亡した。その揚州には煬帝の墓と離宮跡の「迷楼・めいろう」がある。

 煬帝のイメージはあまりよくないのだが、その彼がつくった大運河は、中国の南北を結付け、経済の交流と統一を進めた効果は計り知れないものがある。

 第8次遣唐使船の一行は、この揚州に着くと、直ちに唐政府の出先幾閑の許可を得て上陸した。船団長以下の船員や航海に関係した人は、そのまま揚州に留まり、押使、大使、副使、大判官、それに留学生や留学僧など一部に限って長安の都に入ることが許された

 上京を許された一行は唐の政府が用意した数隻の小型の船に分乗し、大運河を北上することになった。小型船は船員が十数本の擢で漕ぐとともに、船に結びつけた長い綱を陸上から人夫が引っ張るようにして進んでいく。広大な大地のなかに水を湛えた運河は、果てしなく長く遠い。途中何度も休憩し、停泊し、食糧や水を補給し、人夫を交代しながら、開封(かいほう)までの気の遠くなるような運河の旅であった。

 

 開封からは黄河に沿って黄土地帯を陸路西へ向かい、やがて洛陽に着く。紀元前11世紀、周王朝の成王洛水の北の地に国都「洛邑」を建設したのが洛陽。その後は北魏孝文帝が都城として整備した。隋の文帝がこの洛陽城を模して長安の地に大興城を造り、さらに唐の高祖が大興城を引き継いで長安城としたが、その間、洛陽城は陪都(副都)となっ則天武后洛陽城が気に入ったのか、ここにしばしば滞在した。そんな歴史をもつ。この洛陽から先がまた大変である。函谷関(かんこくかん)の難所を越えなければならないのだ。

 一行はそれぞれ荷物を背負い、黄河の峡谷にそそり立つ絶壁の細い道をたどりながら、関中の地へと歩を進めた。そしてめざす長安城へやっと到着し、高い城壁の東側に開いた春明門をくぐった真備二十三歳の時だった。