鉄と平将門

■鉄と平将門

福田豊彦

 昭和53年(1978)夏、茨城県結城郡八千代町尾崎で製鉄遺跡の発掘が行われ、九世紀前期のものと推定される製鉄炉が発見された。発掘代表者は新潟大学甘粕健教授、発掘主体は町当局および東京工業大学科学概論研究室、発掘指導は茨城県立歴史館阿久津久研究員である。発掘は第一次の試掘の段階であって、発掘地点上部には別の遺構も確認されており、自然科学的技法の有効性の検討を課題の一つとする本計画の全体からみれば、研究は着手されたばかりといえる。


 しかしっぎの諸点はほぼ明らかになっており、この発掘の意義は大きい

①発掘された炉は、大鍛冶や鋳物のような二次加工の炉ではなく、明らかに製鉄の炉である。

②炉の作製年代は今後種々の技法によって検討されるが、炉周辺の踏み固められた土場から多くの土師器(はじき)・須恵器が出土しており、これによって推定された九世紀前期(八世紀末に遡る可能性もある)という年代が、大きく変わることはないであろう。

③製鉄炉であるから炉壁は破壊され、一部の立上りが確認されるのみであるが、炉底はほぼ完全に残っており、長径2.2m、短径1.2〜1.5mの開口部が少し狭まった長円形であった。したがって炉は、これよりやや大きい長円型炉と考えられる(ただし、上部の構造天井や煙突部の存否は不明)。 

④ふいご使用の有無は今後の検証にまたねばならないが、南面した傾斜地に、強い南の風をうけ入れるように作られており、自然送風の利用も考慮した炉と推察される。      

⑤炉底焼土の下に、下部砂層まで達する木炭・鉱浮(スラグ)・焼土をつき固めた約30㎝の層があり、防湿・断熱のための地下構造と考えられる〈下部砂層が自然のものか人工のものかは未確認)。近世の高殿(たかどの)たたらの築炉に際し、もっとも力を入れられるものは防湿・断熱の地下構築であるが、これが九世紀の製鉄炉にすでに認められたことは重要である。

原料砂鉄(または鉄鉱石)の産地も今後の課題であるが、同じ八千代町内に「金山(かねやま)」の旧地名が二ヵ所、「金田(かねた)」の旧地名が一ヶ所見出される。いずれも鬼怒川の旧河道に接し、輸送上も便利な地点である。

 これまでも鉄に関係のある炉は各地で発見されており、関東にもいくつかの事例がある。しかし年代が明らかな製鉄炉は稀であって、今回の発掘は製鉄技術史の解明に大きな意味をもつであろう。ここではこの発掘に参加した一人として、まず9世紀前期にここで製鉄が行われたとすることが文献的知見と整合するかどうかを考え、つぎにこの発掘地と関係の深い平将門の基盤について検討したい。もとより将門がこの地方を地盤として名をあげるのは10世紀の三十年代であり、その祖父高望王(たかもちおう)上総介(上総介というのは上総の国(現千葉県)の国司の次官という官職名である)として関東に下向するのも9世紀末であって、この製鉄炉が将門と関係もないことは明らかである。それにもかかわらず、ここであえてこの問題をとりあげるのは、直接的にはこの地方の製鉄遺跡をすべて将門に関係づけた新聞報道などがあるからでもあるが、より基本的には、比較的史料も豊富で研究も蓄横されている将門をもって当時の豪族の典型とし、彼らを媒介とする鉄の生産と流通の様相を推察しょうとするところにある。

▶︎関東地方の製鉄

 鉄器の使用は国家の発生と密接な関係があり、題ではなくて労働編成・交通形態の問題であり、と考えられる。しかしながら鉄器の流通問題は、その生産と流通の問題は、単に技術や武器だけの間それはその時期の社会の性格を端的にあらわすものあまりにも日常的であるために文献史料に残りにくい。とくに製鉄の技法は、通常その時期の技術の集大成であるにもかかわらず、秘伝伝習の対象として記録されることは稀である。こうしたことのため、製鉄の技法や技術者を古く何と呼んだかということすら必ずしも明確ではない。近世に行われた「たたら」「たたら師」をもってこれにあてる論者もあるが、「たたら」はもともと蹈鞴(たたら・足踏のふいご)を指す用語であり、これは鍛冶や鋳物師の道具であって、主として自然送風に頼る製鉄炉は「たたら」とはよばれないであろう。おそらく初期には、製鉄は、製鋼を主とする大鍛冶とともに「鍛冶(かぬち)」の職掌に属し、のちには鋳物師が製鉄に関与した場合もあったように思われるが、その技術の差異も明らかではなく、もっとも基本的な製鉄と鍛冶・鋳物師の分化の時期も明確にされていない。とはいいながら、製鉄の原料である砂鉄(または鉄鉱石)と木炭は全国的に広く分布しており、伝統的な鉄産地である中国地方以外でも製鉄が行われたことは確かである。関東もその例外ではない。

鹿島神宮における日本刀奉納鍛錬の記録映像。筑波大学の酒井利信教授(体育系、当時准教授)が企画し,故宮入行平刀匠(人間国宝)の高弟である藤安将平氏が執り行いました。武道は古来,信仰宗教と密接な関係を保ちながら発展してきましたが,特に鹿島神宮は剣の神であるタケミカヅチを祀る社で,古くから武の聖地として独特な文化を形成してきました。この社において,剣神の前で武士の魂であった日本刀を鍛錬し,これを奉納することにより武の文化性を再認識しようというものです。

 鹿島神宮で刀剣を打つのは,「常陸国風土記」に記されている慶雲元年の佐備大麻呂らの作剣以来,実に1‚300年ぶりの大事業ということになります。鍛錬は,平成20年6月7日~9日の3日間にわたり執り行われ,9月1日の例祭において無事に研ぎあがった日本刀を奉納しました。当年の例祭は,6年に一度,天皇の勅使が参向するお祭りで,同神宮のご理解により,この特別な日に奉納させていただきましたなお,この企画は,科学研究費補助金(基盤研究B)「武道文化に関する教材の開発」にかかわる事業で,当DVDは、一連の行程を映像として記録し武道文化を視覚的に理解するための教材として作成したものです。

 関東でも各地の古墳から刀剣をはじめとする鉄製品が大量に出土しているが、これらが関東で作られたとする確実な証拠はまだない。しかし8世紀になれば、文献的にも製鉄の事実を確認することができる。すなわち『常陸風土記』によると、慶雲元年(704)、国司が鍛(かぬち)を率いて鹿島郡の若松の浜の砂鉄を採って太刀を作ったという。若松の浦は「常陸と下総と二つの国の堺なる安是(あぜ)の湖(うみ)であるところ」とあるので現在の利根川河口付近であろうが、鹿島の丘陵地帯には各地に鉱滓(こうさい・金属を精錬するとき、とけた鉱石の上層に浮かぶ非金属性のかす)の出土地があって、時期はわからないが製鉄が盛んに行われていたことは確かである。

 ところでこの『常陸風土記』の記事において、国司がを率いている点にまず注目したい。令によると宮内省に鍛冶司(かぬちのつかさ)があって、これが国家で必要とする鉄製品を作る宮廷工房であったことも『延喜式(えんぎしき)』などで確認されるが、これは調庸などとして集められた鉄挺(てってい・あらがね)加工するもので、政府直轄の製鉄部門ではない。しかし官による鉄鉱石や砂鉄の採取が行われたことも確かであり(雑令、国内条)、『日本霊異記(りょういき)』(下巻一三話)にはその実例もみえている。そしてこの「日本霊異記』の事例も、国司が仕丁(しちょう・律令制で、50戸につき二人ずつ選ばれ、3年間中央官庁および親王家・大臣家などの雑役に服した者)を使って採鉱しているものである。したがって律令体制下においては、国衛直営事業として採鉱・製鉄が行われた可能性が強く、『常陸風土記』の史料は関東におけるそれを裏付けるものといえよう。

 製鉄の事業は、鍛冶原料となる鉄鋌(てってい・鉄の素材と推定される鉄板)を作るためにも、直接の製鉄と大鍛冶段階の工程だけでなく、砂鉄や鉄鉱石の採取、大量の木炭の製造(生鉄<ずく>の生産にも駄数にして砂鉄の三、四倍を要し、鋼の生産には十余倍を必要とする)、炉材粘土の採取などが付属し、これに各段階に応じた厖大な輸送力の確保など、多様な労働の編成が必要であって、その労働力の給養には多くの資本を要する産業である。近世のことに属するが、佐藤信淵の『山相秘録』には「何レノ鉄山ニテモ人夫三、四百人ヨリ少キハナシ、大ナルハ八、九百人ヨリ二千人二及プ処モ有ルコトナリ」と記している。出雲の場合、一つのタタラ場に1000人の人と200頭の馬とが属していた(奥村正二『小判・生糸・和鉄』)というから、この数字は過大なものではない。商品としての鉄生産を目的としない場合には、連続操業を行われず、一時にこれほどの人員・馬量は不要であろうが、その場合には成品の必要量に応じて各種の労働を計算・投入せねばならず、労働の編成はかえって複雑になる。製鉄に国衙が関与したことは、単に製鉄技術の導入という問題だけではなく、この労働編成の要請があったと考えられる。律令制下においても国衙以外の製鉄は認められていたが、この私的生産の場合でも、貴族や豪族のような強力な統率者の存在が製鉄には前提とされよう。8世紀の初期に国家が近江の鉄穴(かんな)志紀(しき)親王賜い、また有勢の家の専有を禁止していることも、これをしめしている(『続日本紀」大宝三年九月辛卯、天平十四年十二月戊子の条)

 律令制下において、関東の製鉄をしめすものとしては、他に交易雑物としての鑣(くつわ)〈轡・くつわ〉がある。交易雑物とは国司が各国の特産物を購入して京に送る制度であり、その購入も輸送も正税(しょうぜい・田租)が宛てられるが、国ごとの内容は『延喜式』にみえている。相模・武蔵の鞦(しりがい)、常陸の鞍橋(くらぼね)のように、馬具関係のものが関東地方から納められていることは興味深いが、上総からは鑣20具の納入が定められている。これが中国地方や畿内から運ばれた鉄鋌(てってい)の加工とは考えがたいので、上総でも製鉄が行われていたとみてよい

 ところで『延喜式』には諸国の禄物価法が定められており、そこに鉄鋌および鍬の価格も含まれている。

禄物価法(ろくもつかほう)とは、『延喜式』主税寮式(上)に設けられた規定で季禄・位禄・時服などの禄を稲穀にて代わりに支給する際に用いられた換算規定。

 これによると、陸奥・出羽や土佐を除くと各地とも大差なく、鉄鋌一鋌の価は、東海道の駿河・伊豆、東山道の近江・美濃と下野で畿内と同じ五束、関東のその他の諸国では伊賀・伊勢と同じ七束である。この関東の価格は、伝統的な鉄産地である中国地方〈四〜六束)に比べるとやや高いとはいえ、中央からの輸送費を加算した価ではない。参考までにあげると、絹一疋と糸一絇(く)の価は、畿内の三〇束と六束に対し、関東は80〜90束と10束である。こうした価格をみるならば、遅くも9、10世紀には、上述の常陸や上総のみでなく関東の各地で鉄が作られ、とくに下野ではかなり盛んな製鉄が行われていたと考えざるを得ないであろう。

 下野は陸奥と並ぶ砂金の産出国であり、交易雑物として砂金150両と練金80両が納められている。砂金の採取には冶金(やきん)技術はいらないが、錬金の製造にはこれが不可欠である。また鬼怒川をはじめ日光山から流れ出る諸河川からは、良質の砂鉄を採ることができる。おそらくこうしたことが下野を関東における早期の有力な製鉄地したものと考えられる。全国の鉄仏を調査された佐藤昭夫氏によると、関東地方には鎌倉時代に作られた鉄仏が多いが、下野はその最たるもので、早期のものが宇都宮周辺に多い(「関東の鉄仏」璧彫刻の研究宗収)。

 鉄仏の場合には長途の輸送は考えがたいので、これから推察される中世初期の関東の製鉄状況は、9、10世紀にはすでにその兆候をあらわしているといえよう。そして今回発掘された製鉄炉は、下野を流れるこの鬼怒川の水系に位置しているのであって、9世紀にここで製鉄が行われたことは文献的な知見と整合する。

 製鉄炉が発掘された八千代町尾崎は、旧くは下総国豊田郡に属し、炉跡は、下は水田、上は畠地という比高さ10m足らずの南斜面の中腹に位置している。ところでこの水田は、以前には飯招の入江になっていた。飯沼は、中世までは南北24㎞、東西2㎞という巨大な沼であったが、江戸時代の享保年間に近郷の合議による開発申請が出され、測量の結果、その水位は江戸初期に流路が変えられた利根川より6m高いことがわかり、飯沼川と東西仁連川を開鑿(かいさく・山野を切りひらいて道や運河を通すこと)して利根川に水を落とし、三万石、数千町歩の田地を開いたのである。この干拓に参加した当時の名主と村々の名前は、伊左衛門新田・五郎兵衛新田・左平太新田・古間木新田・栗山新田のように、地名として今に伝えられている。五万分ノ一の地図を開けぼわかるように、以前の飯沼の水位は海抜10mの等高線を超え、ほとんど15mに近いところまで達していた。したがってこの製鉄遺跡地には、飯沼が1㎞も北に入り込んだ入江に直面し、この入江が絶好の通風路となって斜面に強い南風をふきつけている。そして炉は、この風をうけ入れるように開口し、長軸を正しくこれに合わせているのである。そしてこの斜面に連なり、入江につき出すような位置にある台地突端には、数個の小古墳が散在しているのであって、これは製鉄と豪族の関連を推察せしめるものである。

 ところでこの尾崎は、『将門記』に「岡崎」とみえる地であり、「常羽御厨」に比定されている大間木とひと続きの地形をなし、「栗栖院(くるすのいん)」にあてられている栗山とは、この入江延長上の谷地を隔てて相対している。この尾崎と大間木を取り囲むように築かれた長い土塁が、馬柵の遺構であるか否かの判断は差し控えるが、大間木(おおまぎ)が牧の通名であることは間違いあるまい。とすればこの製鉄遺跡は、前述のように製鉄に必要不可欠の輸送力を背後にそなえていたことになる。大間木は『延喜式』にみえる兵部(ひょうぶ)省の大結(おおゆい)馬牧の地で、栗山にその官厩(かんうまや)があったといわれており、牧の存在は古いものであった(赤城宗徳「平将門』)。この地方の馬牧については、視点をかえて検討しよう。