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中宮寺菩薩像
■菩薩半跏像
中宮寺新本堂に安置される菩薩像は、寺伝では
如意輪観音
とされるが、これは
中世以降に新たに加えられた別称
であって、
本来は弥勒菩薩として造像
されたものであることは、
太秦広隆寺像
などを代表例とする飛鳥時代の半伽思惟像がいずれも弥勤菩薩であることからも理解される。
また
欽明10年(638)
に
斑鳩法起寺
で聖徳太子のために弥勒像が造立されており、飛鳥時代には
聖徳太子に関係した弥勤造像
が行われていたことも、中宮寺像の造立背景を考える上で注目される。
右手の指先を軽く頬にあて、場座と呼ばれる丸椅子状の台座に片足を踏み下げて坐る姿は、身体各部の均衡が自然のままに整えられ、
飛鳥彫刻のうちで一段と進んだ造形を示している
。特に上体を真直に起した伸びのある身の構えは、他の半伽像にはみられない
独特の美しさを実現
したものであり、いずれも前傾姿勢をとる
渡来様式の表現に、際立った日本的洗練が加えられている
さまが実感させられる。
体躯の柔軟なふくらみや衣の摺のたたみ方
などは、目立って自然味を増した的確な表現となって、すでに飛鳥彫刻の図式的な象形からの発展がみられ、また
眼球にふくらみをつけた伏し目の表現
などは、
白鳳彫刻への先駆
をなしている。
本体、光背、台座とも棒材から彫成され、肉身部を肌色に、着衣部には朱や緑青の彩色を施しているが、頭体部は類例のない特殊な
木寄せ
が行われており、こうした技法面における独特の工夫も本像の進展した作風を物語るものと考えられる。
■中宮寺と上宮王家の人びと
『
上宮聖徳法王帝説
」は、法隆寺に伝わった
最古の聖徳太子伝
。本文はそれぞれ成立時代の異なる部分から成るが、聖徳太子を中心とする上宮王家に関わる系譜は、その成立が
飛鳥時代にまでさかのぼる可能性強い
。太子は
用明天皇と
穴穂部間人皇女
(あなほべのはしひとのひめみこ)
との間に生まれ、兄弟は七人であった。また太子は三人の王妃との間に、十四人の子があり、蘇我馬子の娘との間に生まれたのが斑鳩宮を継承した
山背大兄王(
やま
しろのおおえの
おう
)
で、王には七人の子があった。
太子は推古六年(598)4月15日に、
推古天皇のために
勝鬘経(この経典は、舎衛国波斯匿(はしのく)王の娘で在家の女性信者である勝鬘夫人が説いたものを釈迦が認めたとされ、一乗真実と如来蔵の法身が説かれている)
の講義
を行い、天皇より播磨国の土地を与えられ、その土地を法隆寺に納めた。法隆寺や兵庫・斑鳩寺には、この時の場面を描いた
勝鬘経講讃図
がある。そこには太子初講義を聴く
山背大兄王
や大臣の
蘇我馬子
、遣隋使として中国に行った
小野妹子
などの姿が見られる。
太子は四天王寺・法隆寺・中宮寺・橘寺・蜂丘寺(太秦広隆寺)・池後寺(斑鳩法起寺)・葛木寺の七つの寺を建立した。
太子創建の中宮寺は、三重塔と五間四間の二重金堂を南北に配した四天王寺式の伽藍で、その姿は、延久元年(1069)の「
聖徳太子絵伝屏風
」(
東京国立博物館の法隆寺献納宝物
)に描かれていをが、今は建物すべてが失われ、
伽藍遺構を残すのみ
である。
遺跡の発掘調査により、塔跡の心礎上面(塔の心柱(しんばしら)の礎石。 中心に柱を受ける座や孔のあるものが多く、奈良前期以前のものでは舎利(しゃり)を納める孔をもつものもある)から、
金環二・金糸片血・金延枚小塊丁境拍東宝片二・ガラス挨玉片一・丸玉二・水晶角柱一
が散らばった状態で発見された。
また遺跡からは
飛鳥・白鳳時代の瓦が出土
している。創建時の瓦しては、軒丸瓦で飛鳥時代のものが三種あり、そのうち二種が
推古朝未年
のもの、他の一種は
法隆寺若草伽藍と同笵品( 瓦に同じ鋳型を用いていること)
で、七世紀中葉のものとされる。また白鳳時代の軒丸瓦は、法隆寺西院に使用されたタイプの
複弁八弁蓮華文
のものである。
これら瓦の
同笵
関係は、中宮寺が聖徳太子にはじまる上宮王家の寺として、飛鳥時代に創建され、白鳳時代も法隆寺と同様の発展をしていたことを示している。
■紙の文殊と鎌倉再興
創建以降の中宮寺は、平安時代末から退転(落ちぶれてよそに移ること)し、鎌倉時代に
尼信如(
中宮寺にはいり,同寺の復興につくす。文永11年(1274)に法隆寺でわが国最古の刺繍(ししゅう)天寿国曼荼羅(まんだら)繍帳を発見した
)
によって復興された。
文永6年(1269)7月12日に信如が発顕造立した五髻(キツ・髪を頭の上で束ねたところ)
文殊菩薩像
は、他に類例のない
紙製の仏像として注目
される。この像は
経巻類を束ねて頭・体部あるいは両腕の芯とし、これに紙を糊粘り厳て重ねて造形
したもので、
玉眼を
嵌入(かんにゅう・穴などに長い物がはまりこむこと)
し、
切金
をまじえた彩色で上げられている。胸部には、敏文を記した紙片に包まれた
仏舎利納入
されていた。聖徳太子の葦垣宮にある成福寺の聖徳太子孝養像は、
袈裟紐
を紙でつくるなど、
紙製文殊像
との関連をうかがわせる鎌倉彫刻である。
信如による中宮寺再興
は、弘安4年(1281)正月に落慶が行われた。『
尼信如願文
」は、落慶供養のために琴王である
信如が用意
したもので、ここでは中宮寺を問人皇后建立の霊場と述べている。
木造扁額
は、再興の堂に掲げられたもので、江戸時代には
紫宸殿承明門
等の額を新造するに際し、その手本とされた。また再興時の瓦も出土している。このほかに信如に関係する文書として、弘長2年(1262)の霊鷺山院年中行事、弘安5年に信如が加点をした奈良時代書写の
瑜伽師地論
二巻が遺されている。
聖徳太子二歳像
・
両界種子曼荼羅荘
・
刺繍阿弥陀来迎図
・
密教法具類
など、いずれも鎌倉時代の中宮寺の美術工芸を物語るものである。
信如によって再興を見た中宮寺は、延慶2年(1309)と応長元年(1311)の二度の火災で荒廃した。明応5年(1496)には朝廷よりの奉加があったものの経営は苦しく、大永2年(1522)4月の伽藍造営のための『
中宮寺勧進状
』が現存している。
■ 概 説 中宮寺菩薩と飛鳥美術
松浦 正昭
中宮寺は法隆寺や四天王寺とともに聖徳太子が創建した
七寺の一
として、『
上宮聖徳法王帝説
』や『
法隆寺資財帳
』(747年成立)に記され、
聖徳太子に直結する寺
として登場する。また旧伽藍跡の調査により、飛鳥時代創建の寺院であることはすでに確定している。しかしその後の変遷で、史料の多くが失われたために、本尊像についての文献上の記載は、いずれも
鎌倉時代以降のものしか残されていない
。
中宮寺本尊である半伽思惟像についての最古の史料は、建治元年(375)の『
太子曼荼羅講式
』で、本像を救世観音とし、それは
四天王寺本尊と同じ
であると記している。また『
聖誉抄
』も四天王寺・中宮寺・橘寺の麹 本尊は、救世観音としており、平安時代の『
別尊雑記
』には、半跏思惟の
四天王寺本尊の図像が掲載
され、そこ に「
救世観音像
」あるいは「
如意輪
」と注記している。すなわち平安・鎌倉時代には、
半伽思惟像はいずれも観音と考えられていた
のである。弘安四年(1281)の中宮寺再興時の『
願文
』は、中宮寺金堂本尊を「
如意輪
」としているから、中宮寺像を如意輪観音とする現在の寺伝は、
鎌倉再興以来の伝承にもとづいている
と考えられるのである。
半伽思惟像を観音とするのは、寛弘4年(1007)の『
四天王寺御手印縁起
』で、四
天王寺金堂本尊
を「
金銅救世観音像
」と称しているのが最初であるから、それは
平安後期
に始まった伝承であることがわかる。しかし四天王寺金堂の半伽思惟像が、実は観音ではなく、飛鳥時代に弥勤として造られたことは、『
御手印縁起
』を200年さかのぼる
延暦22年(803)
の『
資財帳
』(『太子伝古今日録抄』に「大同縁起」として収める)が
飛鳥の天智朝に造立
した「
弥勤菩薩像
」であると明記しているのではっきりする。
半伽思惟像を観音とする伝承は、
11世紀に四天王寺で始まり
、それが同じ聖徳太子創建の中宮寺や橘寺にも波及し、それらの寺の
半跏思惟像が観音と称される
に至ったと考えられるのである。しかしそもそも観音説のもとになった四天王寺本尊が、本来は
弥勤
であることがすでに明らかなのであるから、中宮寺や
橘寺の半伽思惟像
も、観音ではなく
弥勤が本来の尊名
であると考えなくてはならない。
つまり
中宮寺の菩薩半伽像を如意輪観音とする寺伝
は、鎌倉時代以来の歴史があり、半伽思惟の弥勤を観音とした
四天王寺本尊についての信仰に支えられたもの
であるから、それは信仰史的には正しいものの、飛鳥時代までさかのぼる本来の尊名とはならない。飛鳥時代の天智朝に造られた四天王寺像が、本来の弥勒から観音に改められたことからも知られるように、
中宮寺像も飛鳥時代には弥勤菩薩
として造られたと考えるべきなのである。
中宮寺像は
太秦広隆寺の宝冠弥勤
に対して、
宝冠
弥勤という別称
で呼ばれることがあるが、飛鳥仏である
中宮寺像の尊名
としては、むしろこの方が妥当である。
飛鳥時代の半伽思惟像が、弥勤菩薩として造られたことは、天智朝の四天王寺像について『
四天王寺資財帳』に「弥勤菩薩像
」と記されているのではっきりするが、太秦広隆寺に伝わる
二体の国宝像
も、寛平2年(890)の『
広隆寺実録帳
』がともに「
弥勤菩薩像
」と明記している。
さらに
天智5年(666)
に造られた
野中寺金銅像
には、造像銘記として「
弥勤御像
」と刻み付けられているから、もはや飛鳥時代の半伽思惟像が弥勤であることは確実である。中宮寺の菩薩半伽像は、長い信仰の歴史から尊名に変遷はあったものの、正しくは
弥勤菩薩として理解しなくてはならない
。
弥勤は釈迦のあとに現れる未来の仏で、現在は
菩薩として兜率天(とそつてん)
にあるが、やがて釈迦入滅ののち56億70,000,000年してこの世界に降(くだ)り、仏となって衆生を救済する、と経典に説かれている。弥勤は、広く各派の仏教徒に信仰され、その像がつくられ始めたのも早く、時期的に釈迦像の成立とほとんど変わらないと考えられる。
仏像は、紀元1世紀から2世紀にかけて、
西北インドのガンダーラと中インドのマトウラーであい次いで成立した
と考えられている。
紀元2世紀のカニシカ王の貨幣
には、
弥勤の銘がある像が表され
、同じ頃の
マトゥラーのアヒチャトラー出土像
にも台座に
弥勤の銘文
がある。これら初期の弥勤像は、いずれも
水瓶を持物
とすることで共通の特徴を示している。この水瓶を持つ姿の弥勤菩薩像は、
ガンダーラで大流行
し、やがて西域へ展開し、
中国へは三国から五胡十六国時代に伝えられた
ことが、
藤井有鄰館の古式金銅仏によって確認
される。
また
両足を交叉させて腰かけた交脚スタイルの弥勤像もインドで成立
し、これも
西域から中国へ伝えられ
、
敦煌や雲岡などの北魂時代の石窟
には、
交脚弥勤菩薩像が多くつくられている。
『
弥勤上生経
』
(下図)
という経典によると、弥勤菩薩の宝冠には化仏が現れると説かれている。実際マトウラーでは、宝冠に化仏を表し、左手に水瓶を待った弥勤菩薩像の例が確認されている。また
交脚弥勤菩薩
で、宝冠に化仏を表した像は、
敦煌や雲岡などの中国石窟に例が多い
。
そして半伽思惟の姿で、冠正面に化仏を表した
マトウラーの菩薩像
が、近年新たに紹介されて注目をあびている。
米国のクロノスコレクション所蔵
のこのマトウラー石像は、左足を踏み下げた半軌の姿勢で楊座に坐し、右手を頬に当て思惟のポーズを示す明らかな半伽思惟像で、また
冠には禅定相の化仏
が表されている。上半身を欠失しているが、この像と同じ特徴を示す半跏思惟像が、
マトウラー博物館
(下図右)
に現存しており、これは
マトウラーではかなり流布した形式
であったと推測される。
この像については、観音像の可能性を指摘する研究者もいるが、まず
半伽思惟の観音像には確実な例が存在しない
ことを知るべきであろう。それに対し半跏思惟の弥勤像は、西域・中国・朝鮮・日本に広く流布し、その遺例は枚挙にいとまがないほどで、この像容の弥勤の原形は、
必ずインドで成立し、インドからアジア各地に展開
したと考えるべきであろう。
また弥勤像は、
クロノスコレクション像
のように、
ターバン冠飾
を着けないとの指摘があるが、それは正しくなく、マトウラーの弥勒像には、頭飾にターバンを着け、水瓶(すいびょう)を持物とする例がかなりある。西域や中国では、水瓶を持物とする像も交脚像も、いずれも弥勤の頭飾はターバンである。
宝冠の化仏(けぶつ)は、『
弥勤上生経
』の経説に合うものであり、現にマトウラーでは
宝冠に化仏を表した弥勤像がすでに成立している
のである。クロノスコレクション像こそ、半伽思惟の弥勤菩薩が、インドで成立していたことを実証する、重要な適例ととらえるべきなのである。さらにこれと同じ
宝冠に化仏を表した半軌思惟の弥勒像が
、中国では
雲岡10窟東壁
に存在し、
日本では兵庫慶雲寺に伝わる朝鮮百済様式が濃厚な金銅像が新たに注目される
に至った。クロノスコレクションの半伽思惟像は、明らかに弥勒菩薩として中国・日本での受容が確認されるのである。
半跏思惟の弥勤像は、西域の
キジル石窟
あるいは中国の敦燈・雲岡の北魂石窟においては、
交脚弥勤像
の左右に表されているが、やがて
東魏から北斉・北周の時代
になると、独立した単独造像が行われるようになり、洗練された作風の弥勤菩薩半伽思惟像が制作されている。
また
朝鮮・日本の弥勤菩薩には交脚像
は全くなく、もっぱら
独尊(どくそん・すぐれて尊いとすること)形式の半蜘思惟像
が行われた。そうした
独尊形式の弥勤菩薩半伽思惟像
の系譜の上でも、クロノスコレクションの単独像はその源流をなしているのである。半助思惟像は、二世紀のインド・マトウラーで成立し、
中国へは三世紀・三国時代に伝播
したと思われる。それは、半伽思惟像を表した
四世紀・晋時代
の
画文帯仏獣鏡
が、すでに日本にまで到達しているからである。
韓国には、
三国時代の金銅仏を代表する二つの弥勤菩薩半伽思惟像
がある。そのうち一方は、
装飾をこらした宝冠を戴く像
で、宝冠の形式や足裏の写実的な表現が、
中国青州竜輿寺出土像
と共通しているので、
中国の北斉様式の影響を受けた造像
と考えられる。もう一方は、
三国新羅で成立した独自様式の造像
で、その表現は
日本の太秦広隆寺の宝冠弥勤像に直接に反映
されている。
なお中国の半助思惟像には、仏伝の釈迦太子として造られたものがあり、
「太子思惟像」(北魂太和16年銘龕大阪市立美術館)
と銘記されている。この
釈迦太子半蜘思惟像
は、日本では奈良時代の
絵因果経
には受容されているが、飛鳥時代の造像では、半伽思惟像はもっばら弥勤であり、釈迦太子像としての例は知られていない。
中宮寺菩薩像は、まるいクッションを設けた
櫂座(とうざ・クッション)
に、右足を左膝の上にかけ、左足を踏み下げて坐る、半伽のかたちをとっている。左手は右足首に置き、右腕は肘を右膝の上につき、軽く曲げた指先を右頬に触れ、思惟の相を示す。
双髻
(
そうけい・ 髪の結び目が二つあるもの
)
を頂く頭部を正面に向け、
背筋を張った伸びのある上体の構え
は、他の半伽思惟像には見られなかった
独特の造形美
を実現している。前傾姿勢を示す
渡来系の表現形式
に、
新たな日本的洗練が加えられたのである
。
懸布(けんふ)
をかけた円形の
櫂座
は、広隆寺の
宝冠弥勤像
をはじめとする飛鳥の半伽思惟像に一般的な形式であるが、本像の
櫂座
ははるかに
高大
につくられている。そのため本体は
一段と位置を高められ
、同時にすそ広がりの安定感のある円錐形の構図のうちに見事に収められたのである。
身体各部の均衡は、自然のままに整えられ、
飛鳥前期の止利様式
のような図式的で硬い造形からは、すでに
完全に解放
されている。また
飛鳥後期の法隆寺百済観音像
に見られるような、自然を離れた極端な長身からも脱け出して、造形が新たな段階に至っていることが理解される。
ゆったりと構えた両腕の配置
、
力強く交差する両脚部の構成
には、十分な広がりと奥行が示され、その立体的造形は目覚ましい。また体躯の柔軟なふくらみや背筋のくびれなどにも、際立って自然味を増した的確な表現がなされている。
衣の重なり
は、
微妙な質感と軽快な流動感
を含み、
写実と意匠性が一体
となった豊かな表現が展開している。
さらに、
眼球にふくらみ
をつけ、下瞼(したまぶた)に刻線を入れない
伏し目の表現
などは、666年の
野中寺像
での表現を受けつぎ、その後の白鳳彫刻への先駆をなすものといえる。
宝珠(ほうじゅ)形
の光背に刻まれた周縁部の
火焔文(かえんもん)
や、光心部の
蓮華葉文(れんげかようもん)
は写実的で、とくに進んだ意匠といえる。
こうしてみてくると、この像は、飛鳥彫刻としては最も発達した段階に達した
写実表現と立体的造形
が基調になっていて、それはすでに大きく白鳳彫刻へと接近するものである。
一方、
蕨手状(わらびてじょう)の垂髪(すいはつ)
、
台座や光背の単弁蓮華文
などには、なお
飛鳥形式
がわずかながら残されていて、この像が飛鳥彫刻から白鳳彫刻へと移行する
過渡期の造像
であることを物語っている。また
双髻
(
そうけい・ 髪の結び目が二つあるもの
)
にしたヘアスタイルは、
繍仏
(しゅうぶつ
・
刺繍で仏像や仏教的な主題等を表現したもの)の
天人や玉虫厨子絵の薩錘(さった)太子
と同じであるが、とくに
双髻
を
菩薩の髪形とした玉虫厨子絵
との関連が注目され、同時に本像の
造立
背景を探る上で重要な手掛りとなる。
現在は長年の
お身拭い(
おみぬぐい・寺の本尊の仏像を布で拭き清める行事
)
により表面が黒光りして見えるが、もともとは
肉身部を肌色に、着衣部には朱・緑青・群青・丹などの彩色が行われ、金箔を細く切った切金もおかれていたことが確認
される。
また
本体・台座・光背とも樟材(クスざい)から彫り出されている
が、
頭体部にはきわめて特異な寄木技法が行われている
。頭部は前後を二材で、しかも
頸部(けいぶ)
で頭と体とを上下に接合している。
これをエックス線撮影したところ、頭部の前後二材は、後頭部から面部に向かって打ち込まれた二本の大きな鉄釘で
緊結(きんけつ・部材を留め具などで結合すること)
されていた。
頸部
の結合は、上下に
ヤトイ柄(ほぞ
)
を仕組む方法がとられていることも判明した。
両腕はそれぞれ
別材を肩口に矧付け
、
外側から鉄釘を打って固定
している。右腕は指先まで一材で、肩の
矧口
に小さい材をはさんでいるが、これは指先を頬にあてる右腕の位置を調整するための工夫と考えられる。こうした微妙な調整のあとから判断すると、この
寄木技法
は、制作者が造形的な完成度を追求するあまり、独創的に考案したこの像限りの技術ではないかと思われる。
この特異な技法は、そのまま継承されることはなかったが、
前後二材を上下二本の鉄釘で打ち留める方法
は、
法隆寺
六観音像が体部材を矧ぎ合せる際に行っている
ことが、同じく
エックス線写真で判明
する。つまり
中宮寺像の造像技法が白鳳彫刻の技法に直結するものであった
ことが理解されるのである。
中宮寺菩薩像
は、その進んだ表現内容においても、また
特異な造像技法
においても、
飛鳥彫刻と白鳳彫刻を結ぶ重要な位置
にある作例として、注目されるのである。
さて、菩薩の髪形を
双髻(そうけい)
に表すのは、
玉虫厨子絵の薩錘太子像
をはじめとして、いずれも法隆寺関係の造像に限られているから、同じく
双髻
の菩薩である中宮寺像は、
法隆寺を中心とする斑鳩での造像
であると考えられる。また
鉄釘
を使用して大きく材を矧ぎ合せる特異な技法が、
六観音像
などの
法隆寺西院の白鳳造像に継承
されていることも考え合せると、中宮寺菩薩像が、
斑鳩文化圏
において造られたことは問違いないと判断される。
そして
斑鳩の仏教文化を指導したのは、聖徳太子を中心とする上宮家の人々
である。斑鳩には、その時代の
飛鳥仏教の造像が現在にまで伝えられている
が、厳密にいえば、
聖徳太子自身が直接関与した仏像はほとんどなく
、いずれも
太子没後のもの
である。その意味では、
斑鳩の造像文化
は、いずれも
太子信仰の所産
であり、太子没後に
上宮王家の人々によって始められたとして誤りではない
。
すなわち
天寿国繍帳
は、太子往生の浄土のさまを図に表すために、
太子妃が発願
して、
太子の没年(622)に制作
したものである。また
法隆寺金堂の釈迦三尊像
も、太子の浄土往生を念じて、
王后王子等が太子没年に発願
し、その翌年に完成したことは、
光背銘文に明らか
である。
聖徳太子は、菩薩として敬われ、『
延暦僧録
』では「
上宮皇太子菩薩
」、『
聖徳太子伝暦
』では「
救世菩薩
」と尊称されているが、このような
太子菩薩信仰
は、中国の
梁武帝の例にならったもの
で、
梁武帝は諸僧から「国主救世菩薩
」(『善慧大士録』)あるいは「
皇帝菩薩
」(『続高僧伝』)と尊称されているのがわかる。また梁武帝は、自ら
涅槃経の講義
を行うなど、
仏教皇帝として有名
であるが、聖徳太子の
勝鬘経講讃の事績
について、「
その儀、僧の如し
」とする『
上宮聖徳法王帝説
』の書き方は、
武帝の伝を踏まえたもの
である。このように見ると、聖徳太子信仰の成立には、
南朝の梁仏教からの影響があったように思える
。さらに造像では、法隆寺夢殿本尊が『東院資財帳』に「
上宮王等身観世音菩薩
」と記載されているが、この斑鳩宮安置の等身像という構想は、そのまま
梁武帝
の
大雲殿安置の等身像
(『集神州三宝感通録』)の例にならったもので、造像における太子信仰も
梁仏教との関連が指摘
されるのである。
太子信仰の動きを示す最初の遺例は、推古31年〈623)造立の
法隆寺金堂釈迦三尊像
で、その
光背銘文
に「
釈像尺寸王身
」とあり、王身すなわち
聖徳太子の身丈に尺寸を合わせて造られた釈迦像であることを明記
している。
太子の身に合わせた王身像
という構想は、
北魏文成帝の「令如帝身」(『親書』釈老志)
の考えをうけたものと思われる。
法隆寺釈迦三尊像は太子の死とともに造立が開始されたもの
であるから、銘文にいう「尺寸王身」とは、まさに
現実の聖徳太子の身丈をそのまま仏像に移した
ということになる。したがって、造像の基準寸法ともなる面長は、
太子の顔の長さと同じはずで、ここでは釈迦像の面長18・8㎝(『六大寺大観』による)が、太子自身の面長となる。
この数値は、太子信仰の造像における基準になったと思われ、夢殿の
救世観音像
の面長〈20.9㎝)がこれに近いのも、これが太子等身の観音として造像されたからである。
さてここで、
中宮寺菩薩像の面長
を示すと、19.2㎝(『大和古寺大観』による)で、
法隆寺釈迦像との差はわずか
4㎜
であるから、そのままこれは太子の面長を移したものと判断される。すなわちこの数値の一致から、
中宮寺菩薩は、まさに釈迦銘文にいう「尺寸王身」の像と考えることができるのである。
斑鳩における太子信仰の造像では、まず
天寿国繍帳
にはじまり、続いて
法隆寺金堂の釈迦像
があり、また
夢殿の観音像
もあるが、中宮寺像のような弥勤による
太子信仰の造像
は、行われたのであろうか。これについては、
斑鳩法起寺塔
の
露盤銘
に、
舒明
10年(638)
に
福亮僧正
が
法起寺金堂
を建て、「
聖徳皇御分
」として「
弥勤像一躯
」を敬造するとあることで、
太子信仰による弥勤の造像が確認される
のである。
まさに中宮寺菩薩像は、面長の数値を聖徳太子に合わせて造立された、尺寸王身の弥勤菩薩像であり、法隆寺金堂釈迦三尊像や夢殿救世観音像とならぶ斑鳩の太子信仰による造像としてあらためてその意義が注目されるのである。その髪型を
双髻
にして、特に玉虫厨子の
薩錘太子
の髪形にならったのは、天寿国繍帳の「太子」を受けて、先の法起寺露盤銘に「
上宮太子聖徳皇
」と同じく「太子」を称していることに関連があると考えられる。
聖徳太子のあとを受けて、
斑鳩の仏教文化
を指導したのは
山背大兄王
で、まず推古31年に
尺寸王身
の
法隆寺金堂釈迦像
を造立し、斑鳩宮には
太子等身
の
救世観音像
を安置し、
岡本宮(おかもとのみや)
には
欽明10年
に太子御分の
弥勤菩薩像を安置してこれを法起寺
にあらため、斑鳩に
太子信仰の造像を展開
したのである。中宮寺とは、
葦垣宮(あしがきのみや)
・
岡本宮・斑鳩宮
に対する
中宮(ナカミヤ)
を寺としたことによる名称であると伝えられており、ここはもと
上宮王家の宮殿
であった。
聖徳太子から上宮王家を継承した
山背大兄王
は、
皇極2年(643)
に滅ぼされるが、
山背大兄王
によってはじめられた岡本宮の法起寺造営は、
山背大兄王没後も継続
され、
天武13年(685)に堂塔が整った
。中宮寺の造営もこれと同様の経過をたどったと思われ、平行して造営が進められた
法起寺金堂本尊
にならって、中宮寺において尺寸王身の弥勤像が造立されたのは、同じく
太子信仰の弥勤像
である
四天王寺金堂本尊が造られた
天智朝(662〜671)
であろう。
山背大兄王のあと、斑鳩の造像に関わったのは、『
法隆寺資財帳
』に
灌頂幡(上図左右)
の
納賜者
として登場する
片岡御祖命
で、
片岡御祖命
は『上宮聖徳法王帝説』では
片岡女王
と出ている。
片岡女王は聖徳太子
の
14子の1人
になる。
中宮寺の弥勤菩薩像
が造られた
天智朝時代
、斑鳩における
上
宮王家の造像
を指導していたのは、
山背大兄王
と
同母兄弟の片岡女王
と考えられる。
(奈良国立博物館 仏教美術研究室長)
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