第二部 弥生時代(早期・前期・中期)

■第二部 弥生時代(早期・前期・中期)

 弥生時代を通じて、南朝鮮(南韓)の倭人の帰来があった。また、江南人、華北人や朝鮮人(高句麗系)の渡来があったが、縄文時代に確立した古日本語やY染色体型に大きく影響するほどの多人数の渡来はなかった。

1. 弥生時代早期(先I期)(BC1000年~BC800年)

 縄文時代前期には岡山ブロックで陸稲熱帯ジャポニカの直播による焼畑を代表とする粗放な稲作が始まった。縄文中期にはこの粗放な稲作が有明海ブロックにもみられた。弥生時代は温帯ジャポニカの水田稲作の開始をもって始期とする。従って、紀元前1000年頃の菜畑遺跡(唐津市)や曲り田遺跡(糸島市)からの水田跡の発掘をもって弥生時代早期の始まりとする。この遺跡からは縄文時代晩期の突帯文土器も出土しているように、弥生時代早期と縄文晩期が重複している。弥生早期の始期は縄文晩期の始期より300年遅いが終期は同じである。この段階の水田稲作は南韓から持ち込まれたものと見られるが、当時の南韓は漢民族などの北方民族(華北人)の本格的な南下の前で、倭人(西日本縄文人)が多数を占めていた。その南韓に山東半島を経由し水田稲作技術をもった江南よりの避難民が入り、南韓で水田稲作が始まった。その技術が主として南韓の倭人により北九州に持ち込まれたと思われる。ちなみに曲り田遺跡の近く新町遺跡の支石墓(朝鮮半島南東部に多く見られる墓形式)には縄文人が埋葬されていた。この突帯文土器段階の水田稲作は、松菊里型竪穴住居に居住して営まれていた。この住居を囲む環壕は、内蒙古由来と思われ、華北人の朝鮮半島南下によりもたらされた。この突帯文土器を伴う水田稲作は西日本に広がった。

 中国では弥生早期の始めに殷が滅び周が起ったが、早期の終わりに犬戒の侵入により周が滅び春秋時代が始まる。

2.弥生時代前期(I期)(BC800年~BC400年)

 春秋時代に入ると西戒(犬戒を含む)の中原への侵入が著しくなり、漢民族もまた東南に移り始める。これら華北の民(燕など)は朝鮮半島西岸をも南下した。漢民族は江南の東夷を圧迫するようになる。江南の流民は山東半島から南韓に移ったが、流民の一部は西北九州や日本海西部沿岸に直接辿り着くようになる。土井が浜人は淮河辺りから渡来か。この流民が江南の水田稲作技術を直接倭にもたらしたと思われる。こうして、菜畑・曲り田段階に続く、板付遺跡に代表される新たな水田稲作段階に入る。そこで新来の温帯ジャポニカと縄文以来の熱帯ジャポニカとが混雑し、耐寒性の温帯ジャポニカが産れた。この耐寒性の稲が遠賀川式土器を伴い西日本一帯に急速に拡大した。さらに、この耐寒種が海人により逆に南韓に持ち込まれたと思われる。この時期、江南から伝わったのは、土笛、環濠集落、石包丁(一部)、高床倉庫や神道体系などである。南韓には見られない甕棺もまた長江中・下流域から直接北九州に伝わったと思われる。甕棺は弥生中期に専ら北九州で盛んに使用された。甕棺から銅剣・銅戈・石剣・石戈の切っ先が出土することが多い。農耕社会の成熟に伴い弥生の争いが始まる。近畿地方では木棺埋葬地の周囲を区画し、土盛りした墳丘を築く墓(方形周溝墓)が登場した。

 中国は春秋時代から戦国時代に入る。鉄製農具も使用されるようになる。この時期、燕の民が朝鮮半島さらに列島に鉄器を持ち込んだと思われる。春秋時代末に滅亡した呉の遺民や流民は九州や瀬戸内に渡来、一部は青銅器や鉄器を伴っていたと思われる。

3.弥生時代中期(Ⅱ-Ⅳ期)(BC400年~AD50年)

 弥生前期には水田稲作が西日本全域に広がった。この余剰農産物の生産は弥生社会に身分・階級制をもたらし、土地や水を求める戦いが始まった。この戦いは弥生前期から始まっていたが、中期に入ると急に増加し始める。その証拠は石鏃や銅鏃や鉄鏃は、縄文時代の狩りに使用された石鏃より大型化して、人の殺傷に適したものになったことである。このように弥生時代中期には、激しい争いが始まり、「国」という小さな政治的まとまりが生まれた。続いて「国」と「国」の間にさらに激しい争いが始まり、さらに大きなまとまりであるブロックが生まれた。

 弥生中期に形成されたブロック間の関係を知る上で様々な祭器の異なる分布圏は各ブロックの配置に重要な示唆をあたる。北部九州では、銅矛と銅戈、瀬戸内海東部沿岸では平型銅剣、畿内と東海では銅鐸、出雲地方ではこの地方を特有の中細形銅剣や銅鐸が祭器として使用された。尚、弥生時代中期の戦いはブロック内部の争いであり、ブロックを超えた広域戦争は考えにくいことが次のことから類推される。すなわち、戦闘用石鏃は、大きさ、厚さ、形、成形、材質などが、それぞれのブロックごとに特色をもっている。石鏃の材料が同じサヌカイトでも産出地によって石質の違いがあるので、石鏃を拾ったとき、どのブロックの石鏃かを識別できる。また別のブロックでつくられた石鏃は入り混じっては出土しない。

 春秋・戦国の動乱による流民が倭に青銅器・鉄器などをもたらした。また、燕と倭との交易路は確立していて鉄器などがもたらされたと言われるし、半島の南東部(辰韓と弁韓)、北九州沿岸および山陰(出雲と丹後)は、楽浪郡を中心に広域経済圏を形成し交易が行われていた。さらに、紀元前1世紀になると南韓の倭人の一部が、華北人や朝鮮人(高句麗系)に圧迫され列島に帰来した。彼らも中国や朝鮮の文物をもたらしたと思われる。とはいえ、当時の南韓はなお倭人が多数を占め、南韓は倭の勢力圏といえるような状況を作っていたと考える。

・中期前葉(Ⅱ期)(BC400年~BC250年)

 越が滅亡し、銅鐸の原形と思われる銅鼓などの青銅器や鉄器が持ち込まれる。越の流民は呉からの流民を避け日本海沿岸の中央部の越に渡来か。さらに首長集団が九州北部に渡来、青銅器の本格的な流入と鉄器使用が始まる。一方、大国主は、出雲の玉造、銅精錬、砂鉄からの原初的な野ダタラ製鉄を背景にして、日本海沿岸に銅、鉄、玉の文化圏を形成し、さらに多一族と協力し、西日本各地に進出し青銅器(聞く銅鐸)、鉄器と玉の出雲を中心とするネットワークを構築し始めた。

・中期中葉(Ⅲ期)(BC250年~BC100年)

 燕が朝鮮半島に進出し南韓に真番郡を置く。しかし、斉に続き燕も秦により滅ぼされ、秦が中国を統一した。列島への青銅器・鉄器の流入がさらに盛んになる。北九州では甕棺が最盛期に入る。徐福が不老不死の薬を求めて出航、列島に到達か。秦が滅び漢が建国される。漢により衛氏朝鮮が滅ぼされ、楽浪郡が設置される。倭国には大型の鉄製錬所はなく、弁韓、辰韓、筑紫、出雲や丹後の倭人は鉄鉱石を楽浪郡に供給していた。楽浪郡からの舶載の鋳造鉄器は通貨の代用品であり、緞造鉄器の原料となる半製品である。ちなみに、中期前葉の鋳造鉄斧の出土地は、北九州が圧倒的に多いが、中期後葉になると中国地方や近畿北部での出土が多くなる。

・中期後葉(Ⅳ期)(BC100年~AD50年)

 大国主は西日本各地に進出し、出雲を中心とする玉、青銅器「聞く銅鐸」と鉄器のネットワーク(大国主の国)を完成させた。出雲、摂津、大和で「聞く銅鐸」の製造が盛んで、摂津の東奈良遺跡から銅鐸鋳型出土。唐古・鍵遺跡でも銅鐸製造盛ん、また翡翠入りの渇鉄鉱が出土。

 倭は百余国に分かれ、楽浪郡に朝献する。漢の楽浪郡の設置や高句麗の建国などにより南韓の倭人が圧迫され、一部は北九州や日本海沿岸に帰来。BC57年 新羅が建国される(新羅本記第1代  赫居世居西干は伊邪那岐(イザナギ)か。)イザナギ・伊邪那美(イザナミ)が弁韓の伊西国より丹後を経て近江に進出。漢が崩壊し新が起こる。さらに新が滅び、後漢が興る。

 第2代南解次次郎と思われる素盞嗚(スサノオ、須佐乃袁)は辰韓(新羅の前身)よりまず大国主の勢力の及ぶ筑紫に侵攻して、伊都国を建てる。さらに肥前に進出し神崎の櫛名田姫を妻とし、伊都国に戻る。次いで、出雲に侵攻して、大国主(八岐大蛇)を倒す。スサノオの出雲侵攻により、出雲の青銅器祭祀(銅剣、聞く銅鐸)が大量に埋納される(加茂岩倉遺跡・荒神谷遺跡)。大国主はスサノオに敗れ、丹後・若狭さらに近江に向かう。大国主の青銅器と鉄器のネットワークの拠点が出雲より近江に遷る(浦安の国へか)。

-弥生時代中期の遺跡群-

<環濠集落・甕棺・楽浪系土器・中国の銭貨>

・吉野ヶ里遺跡(環濠集落、厳重な防護施設、墳丘墓や甕棺)

・原の辻遺跡(中国鏡、戦国式銅剣、貸泉(新の銭貨)、トンボ玉、鋳造製品、無文土器、楽浪系土器、板状鉄など出土)

・三雲南小路遺跡(楽浪系土器、石製の硯すずり等出土)

<大型環濠集落・方形周溝墓・戦いの跡>

・下之郷遺跡(大規模多重環濠集落、戦の跡、方形周溝墓)

・朝日遺跡(環濠集落遺跡、強固な防御施設、方形周溝墓)

・池上・曽根遺跡(環濠大集落遺跡、巨大丸太くりぬき井戸、方形周溝墓、鉄製品の工房、高床式大型建物、ヒスイ製勾玉、朱塗りの高坏、石包丁等出土)

 方形周溝墳が近畿より各地に広がり中期後葉には北九州に達する。

<銅鐸・銅製品>

・東奈良遺跡(大規模環濠集落の遺跡、銅鐸の鋳型(聞く銅鐸)出土、銅鐸・銅製品工場)

・唐古・鍵遺跡(環濠集落遺跡、青銅器鋳造炉など工房の跡地、ヒスイや土器などの集散地、銅鐸の主要な製造地、多層式の楼閣)

<鉄製品・ガラス>

・扇谷遺跡(高地性大環濠、鉄斧などの鉄製品やガラス玉等出土、対岸の途中ヶ丘遺跡とは相関関係)

・奈具岡遺跡(水晶や緑色凝灰岩の玉作工房跡、鉄錐、大量の鉄片等出土)