⓵鉄を運ぶために生まれてきた海洋民族「倭人」

鉄を運ぶために生まれてきた海洋民族「倭人」

長野正孝

▶︎ 鉄を巡る争いは漢の武帝の朝鮮侵略より始まった

 大昔、朝鮮半島には、遊牧民族、農耕民族と一握りの海洋民族が静かに暮らしていた。鉄が朝鮮半島でつくられ始め、隣の大国中国が侵略したのをきっかけに、この民族は存亡かけた大きな戦いの渦に巻き込まれた。それが千年近く続き日本まで巻き込まれた。どうもそれが日中韓の歴史の出発点になって、今もって仲が良くない。

 紀元前三世紀周代の「戦国の七雄」の云ある燕(えん)が朝鮮半島周辺を治めている時代、朝鮮半島で鉄がつくられ始め、日本に少しずつ流れていた。紀元前194年、中国人(燕・斉の忘命者)と原住民の連合政権で衛氏(えいし)朝鮮が建国された。王険城、現在の平壌(ぴょんやん)を首都とした。

 一方、中国はといえば、朝鮮半島の鉄やこの国には興味がなかった。始皇帝をはじめ、これまでの中国の歴代の帝王は、万里の長城が海に落ちる山海関から東、現在の中国の東北地方や朝鮮半島には領土的野心はおろか関心もなかった。鉄であろうと、金や玉であと、とても運べるものではなかった。だから、千キロ以上離れた朝鮮半島から、寒風吹きすさぶ道なき荒野をどう都まで運ぶか、知恵を巡らすこともなかった。

 興味が生まれ、欲が出てきたきっかけは、朝鮮半島へ渤海湾から船で渡れるようになことである。どうやら資源が自分のものになるという判断ができてからであった。漢の武帝在位紀元前141年から紀元前87年)の時代、西方の匈奴討伐の結果中国と西方の路が開け、西欧やインドから多くの知識・文物がシルクロードを経て伝わった。その中には帆船の技術もあった。

 中国と朝鮮半島の問の渤海湾がにわかに注目を浴び始める。それまで中韓の間に横た渤海湾は、中国にとって、万里の長城が海に落ちる東の果ての山海関まで建設資材や軍隊を運ぶためだけの海であった。天津から山海関の秦皇島まで、軍事用航路で結ばれていた。

 シルクロードを渡ってきた帆船の技術は、山東半島の煙台(イエンタイ)から遼東半島の先端の大連までの100㎞余りを廟島(ミンタオ)諸島を繋いで渡ることを可能にした。その後、遼東半島の南岸を繋ぐことで朝鮮半島に到着した。

 武帝は一生の間、親征はしていない。常に机上で謀(はかりごと)を考え、周到に準備してことをはじめた。紀元前109年、彼は水軍を編成陸と海から侵攻を開始した。そして海からの攻撃を予期していなかった衛氏(えいし)朝鮮を瞬く間に滅亡させて鉄資源を支配、中国に鉄を輸送する巨大プロジェクトを完成させたと考えられる。

 司馬遷の『史記』には、「山東から攻め入った水軍が敗北し、遼東半島から攻めた部下の逃亡があった。将軍同士がいがみあって、征服には時間が掛かり、翌年の夏にようやく終わった。それからも紛争は続いた」と書いている。

 この漢の武帝の軍が朝鮮に侵攻したときから東アジアの鉄を巡るドラマが始まるのである。司馬遷は『史記』「朝鮮列伝」の中で、武帝の朝鮮出征を次のように正当化している。「朝鮮王の満(衛満ともいう)なる者はもともと燕人で、漢の高祖の時代(紀元前195年)に千人程無頼の徒を集め現在の平壌に亡命、やがて朝鮮王になった。朝鮮の王位は漢が承認したが、三代目・満王の孫の右渠(うきょ)王が漢に背いた。だから成敗した」

韓国の古代史をめぐる在野の歴史学界と講壇(大学)の歴史学界の論争が再び激しくなっている様相だ。「殖民史学の批判」を共同目標に掲げた在野史学連合体である「未来に向けた正しい歴史協議会」(略称:未史協、常任代表ホ・ソンクァン元行政自治部長官)が26日にスタートした。講壇の史学界は在野の史学界を「いんちき歴史学」と批判する寄稿を今年2月と5月に雑誌『歴史批評』に載せた。

 つまり、『史記』では、王位を与えた天子が王位を与えられた者を成敗する国内の戦・位置付け、攻撃の正当性を主張している。ただ、司馬遷は朝鮮に非がないのに天子は高句麗侵攻の時代に罪のない人を罪人にする行為だったとこの戦争を断じている。要する国の資源目当ての侵略であることをほのめかしているのである。

 この戦争を契機に、歴代の朝鮮半島は、中国に承認されなければならないしきたり(朝貢)が生まれ、実に清の時代まで千年以上続く。司馬遷は「武帝は鉄を得るため攻撃した」とは書いてはないが、その後の朝鮮半島における漢人のふるまいから、この戦争が何の目的でたか明らかである。この戦争以降、は周辺諸国にとって常に侵略をおこなう恐ろしい国となり、それは現在のウルグルや南沙諸島でも続いている。

 

 武帝は朝鮮半島に楽浪と玄菟(げんと)、真蕃(しんばん)と臨屯(りんとん)の漢四郡をつくつて、漢人の郡太守県令を送り植民地政策を始めた侵略した漢人達は土着の住民達を奴隷のように使って半島の地下に眠る鉄鉱石を掘り出し、燕や衛氏朝鮮の古い製錬・鍛造施設を使い何ら投資することー鉄生産を始めた。

 東アジアの古代鉄研究の第一人者である愛媛大学村上恭通(やすゆき)氏も、この時代は朝鮮半跡から農工具の出土品が少なく武器が多かったと指摘、その生産の実態を裏付けている。

▶︎ 朝鮮半島の鉄・・・海は倭船、陸は高句麗の馬が運んだ

 当初、朝鮮半島で生産された鉄は、漢が国家統制した。もっぱら中国国内には専売品として輸出周辺の友好国には恭順させるための贈答品として送られた。長剣と短剣がつくられ、威力のある長剣は遠くの倭や辰韓に、短剣は高句麗など周辺部族に配られたらしい。下賜された長剣は弥生中期後半の紀元前100年から紀元100年頃、倭人を通して海を渡り九州、西日本沿岸の国々に送られた。これらは、朝鮮半島南部もしくは九州で手斧、ナイフなど鉄器に加工され、西日本に拡散した。

 北部九州では、福岡県糸島市井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡佐賀県唐津市の桜馬場(さくらのばば)遺跡など、昔の伊都国を中心に鍛冶技術が発展した。鉄器を一からつくる技術がなくとも、戦撃で破損し捨てられた鉄剣や、あるいはもっと小さな鉄クズを輸入・加工して、別の道具に仕立てることは広く行われた。多くの甕棺墓(かめかんぼ)から鉄器が出土している。

 輸入された一部の質の良い鉄剣は、権力の象徴として豪族の墳墓の副葬品として残った。柄頭(つかがしら)に丸い穴がある素環頭鉄刀(そかんとうてっとう)がそれらしい。

 当然、東宝よりも九州、西日本の墳墓の方が、刀剣が多いと考えるのが常識と考える。

 しかし、野島永(ひさし)氏によれば、弥生後半から弥生末期、紀元200年から400年までの墳墓出土刀剣を比較したとき、筑前、豊後、豊前より丹後、播磨、越前、但馬、上野(こうづけ)の肯同等か多い状態にある(『初期国家形成過程の鉄器文化』雄山閣出版、二〇〇九年)。これはなを意味するか?私は倭人以外が関わる「鉄の路」がこの時代からすでに存在していたとえる。

 いったいそれはどういうことか?その謎を解くカギが高句麗にある。最初の数十年、浪郡では、鉄の交易を管理・統制し、製鉄技術を秘匿していたが、周辺異民族に楽浪郡や配地が繰り返し襲われ、その度に鉄の鋳造・鍛造技術は四方に拡散していった。

 村上恭通氏は「世界では鉄は川を移動したが、朝鮮半島では不思議なことに、平原を西から東に移動した」という。この意味するところは、高句麗の遊牧民が略奪した武器を、山の太白山脈を通って馬で運んだことだ

 『親書』「東夷伝」高句麗条によれば「その馬みな小、登山をよくす」とある。 西海岸は大河が多く、島も多いリアス式海岸が続き、舟での移動は容易であるが、馬は難しい(上図参照)。一方、東海岸は川が少なく平原が続き馬で移動できた。どうもこの地形が朝鮮半島の倭人高句麗の歴史をつくつたといえここには、二つの「鉄の路」があったのだ。 中国人は西海岸の動静は把握し、朝鮮半島西海岸の沿岸部の鉄は倭人が運んだと思わふ書き物が残っている。

 1世紀頃に王充(おうじゅう)が書いた後漢の思想書『論衡(ろんこう)』(大滝一雄訳、平凡社東洋文庫)によれ「周の時、倭人来たりて薬草を献ず。倭は燕に属す」とある。また、春秋戦国時代から秦、漢の時代の地理書『山海経』にも倭は燕に属していたと記されている。当時燕が支配していた遼東半島は日露戦争のときの激戦地・旅順や大連がある半島であり、海岸に沿って船で運んでいたと思われる。小さい手漕ぎの舟で沿岸を運んでいたのであろう。

 遼東半島とはずいぶん遠いところから倭人が鉄を運んでいたと思われるが、一度にそこから運ばれたわけではなく、朝鮮半島北部から少しずつ普及していき、その鉄器の一部が朝鮮半島の南部から対馬海峡を越えて九州に着いたのだろう。「海路は先達の路に倣う」のが鉄則である。これら武帝の侵攻ルートと『論衡』の記述から、後の卑弥呼の特使難升米(なしめ)は遼東半島周辺の海路を辿ったと考えて間違いないであろう。

 卑弥呼の時代になつて、半島南部で鉄生産が始まり、金海(キメ)から対馬・厳原(いづはら)、壱岐。原の辻(はるのつじ)、唐津・松浦潟に運ばれた。中国の歴史書は、西海岸については以上のように記述してるが、朝鮮半島東海岸については記述が見当たらない。

 歴代中国王朝は、朝鮮半島東側でこれから起きる騒動について十分に把握していなかったのだろう。ゆえに、中国中心の文献学に依存している日本の古代史では倭国大乱」がまったくわかっていないのである

▶︎ 日本への鉄は小舟で対馬海峡から運ばれた

(西谷 正氏・館長講座・第一回目録画記録)

 では、朝鮮半島から日本列島に鉄が初めて運ばれ始めた紀元前三世紀頃、どんな手段で運ばれ続けたのであろうか?

 海を越えて運ばれる鉄は姿・形によって輸送手段が違う。長崎県壱岐市の原の辻遺跡、唐神遺跡からは、鍬先、鋤先、鎌などの農耕具、槍飽など木工具、刀などの武器、鉄、比釣針など狩猟漁拷用道具と鉄の塊が出土している。いずれも大きなものではない。これら北部九州で普及した鉄器同じである。

 紀元前後までは、海峡周辺の倭人によって小さな手漕ぎの丸木舟で対馬海峡を渡って運れたと考えてよい。卑弥呼の時代の前まで毎年、勾玉(まがたま)、翡翠(ヒスイ)、黒曜石などを持ち寄った倭人は、船で集まり、数十隻あるいは百隻以上の船団で、年に数度の弁韓への冒険旅行を挙行した。対馬海峡には二カ所、50㎞の距離を帆走もしくは手漕ぎで進まねばならところがある。

 卑弥呼の時代から半島南部で鉄生産が始まり、その遺跡からその時代の海路を考えてみよう。金海市にある伽耶の浜からまず西に向かい勒島(ヌクト)遺跡がある慶尚南道泗川(サチョン)市の島々をぎ、そこから対馬までの60㎞の海峡を対馬海流に乗って一気に漕ぎ進み、対馬の西海岸に流れ着く。基本的には対馬海流に流される

 そして、中央の船越を東海岸に渡り、厳原(いづはら)に着く。そこから、壱岐の北岸に向けて50㎞を漕ぎ進み、島を回り、南端の原の辻(はるのつじ)に着く。そこから、福岡(那の津)に向て岬の鼻や島をつなぎながら60㎞を漕、最終的に鉄は糸島、唐津(松浦潟)付近の鉄加工の工業地帯に運ばれた。

 朝鮮半島に向かうコースは海流に乗って糸島半島から直接対馬に漕ぎ進み、厳原に琴そこから西海岸の和多都美神社に出て、そこから風を選んで漕ぎ進み、金海に着く。多くは金海より東の釜山の方向に漂着する。

 元農林官僚で稲の渡来の研究長されてきた池橋宏氏も、『稲作渡来民』(講談社選書2008年)の中で遣唐使と紀貫之『土佐日記』の航海を分析した上で、弥生時代の外接海について「弥生時代の舟は大勢の人が擢(かい)で船を漕ぎ進める。船尾で操舵擢というべき、舵(かじ)の代わりになる大きな擢を持った人が、方向を調整し進んだ」という。

 残っている倭人の記録の中に、弁韓の鉄市場で鉄を豪快に買っている有名な記述があるが、これはすでに朝鮮半島南部で鉄がつくられ始めた弥生後期の紀元200年代のこと最初に定期的な交易が始まった時期とは300~400年ほどの差があり、船のカタチも大きさも変わっていったと考えられる。その変わり方に歴史のヒントが隠されている。この卑弥呼の時代は準構造船、5世紀頃には応神天皇が使った帆船と、次第に大きを変化しながら鉄は運ばれたが、その船の系譜は謎である

▶︎ 対馬海峡を渡る流儀・・・季節・船・天候

 対馬海峡の50㎞の微妙な距離を帆走もしくは手漕ぎで進ばならぬところとは、壱岐から対馬の厳原(いづはら)と、そして対馬の北端から朝鮮半島の金海(キメ)である。ここを渡るには三つの要素が大切である。舟と季節と天候である。そのためには速力が出る細身の船と天気を読むスキル持続して漕ぎぬく腕力があ者が必要であった。また、天候を選ばねば対馬海峡、日本海沿岸は航走できない。卑弥呼は、天気を占い、船を選び、組織で「海峡を渡る」指導力がある巫女であったと考える。天候を選ぶ重要性が卜骨(ぼつこつ)の神頼み、祈躊につながった。

▶︎ 地域格差がはなはだしい鉄の加工技術(伯耆ほうき国)

 紀元前には鉄は東に運ばれ始めていた。森浩一氏は作家松本清張が編集した『邪馬壹国常識』(毎日新聞社、1974年)の中で、鉄の伝播・生産に基づいた時代区分を提唱している。第一段階は鉄の使用段階、二番目は鉄器を製作(鍛造)した段階、三番目は鉄器を鋳造した段階という。弥生前期(紀元前4世紀から紀元前2世紀)のころ、北部九州では鉄器使用する第一段階で、問題の卑弥呼の弥生時代の3世紀には北部九州では鉄器は普及、石器使われなくなり、鉄器製作の段階に入っていた。よそはどうかといえば、弥生中期になっても、鉄は全国に一巡していなかった。大和け運ばれていないという。

 森浩一氏の40年前の発見によると、紀元前の弥生時代、鉄は大変貴重で、九州では倭・運んで来た刀を潰して、山陰地方で木製の柄の先に袋状に巻き付けた斧の板状鉄斧に変えて交易をしていた。九州でつくつた袋状の刃を持ったた斧は本来そのまま東に伝わるはずであったが、途中に板状鉄斧に加工された。それは何を意味するのか? 野島永氏らによれば、当時鉄は貴重で、九州から鉄器が東進するにつれさらに加工が細かくなり、素環頭鉄刀の環の部分、袋状鉄斧の甘部分や、さらに小さな破片なども鍛造加工され、小さな刃物や銑鉄(やじり)に化けていった(『初期国家形成過程の鉄器文化』)。

 河合章行氏らがとりまとめた『海を渡った鏡と鉄』(鳥取県埋蔵文化財センター2012年)によると、妻木晩田(むきばんだ)、青谷上寺地(あおやかみじち)は、これまでそれぞれ400点以上の鉄器が出土し鳥取県最大の遺跡で、朝鮮半島との交易があり、この地で鉄器を生産したことがわかってきた。

 まず、鳥取県で一番古い鉄器前期後葉(紀元前400年前後)に遼東半島でつくられ鉄器が運ばれたという。これはかなり早いという印象だ。これら古い鉄器は、日本海沿岸の西高江(にしたかえ)、茶畑、海岸線に沿って点々と出土している。倭人の舟による鉄の日本海交易を物語る遺構で、東西の鉄の流れの痕跡と考えてよい。

 伯耆(ほうき・鳥取)地方からは、九州にしかない筈の素環頭鉄刀、大柄の板状石斧が大量に出土してる。これは、直接朝鮮半島から別の流れがあったと考えられる。前掲書『海を渡った鏡と鉄』によれば、紀元前100年から紀元100年くらいの間に、九州から鉄の加工品朝鮮半島からは素環頭鉄刀、大柄の板状石斧や、紀元前150年かゝ紀元50年頃に中国で作られた星雲文鏡や内行花紋鏡(下写真)がどっと入ってきたという。鍛冶跡から数多くの鉄工所ができ、ここで板状鉄斧などに加工し国内版売を行った。ここでは袋部を潰し斧の刃先部分を板状斧として出荷した。

 しかし、この地の鉄の技術力は低かった。前掲書によれば、素材の鉄は良質な朝鮮半島の鉄であったが、加工技術は低く、質は九州の製品より悪かったという。

 紀元前1世紀に大規模な玉つくり工場があった京都府京丹後市奈具同遺跡では、玉石にに穴を空けるための針のような鉄製品を自らつくる高度な技術があった。その技術は倭人の日本海交易でもたらされたものではなく、突然変異的を技術である。ここの鉄器も謎が多い。すなわち、「九州から日本海沿岸に倭人が鉄を加工して運んだ」形跡はあるが、伝わった鉄器技術に差がありすぎるのである。この技術の不均衡については野島永氏も疑問に感じでぉられるが、原因を説明されていない。偶然の漂着民による鉄の持ち込みで、個々の地点での渡来人の技術力の格差になったと考えられる。

▶︎ 倭人とはどこの地域、どこの国の人間を指すのか?

 「倭国」は、「和国」すなわち日本だ、と思われがちだが、実は定かではない。『論衡』や『山海経』に書かれた遼東半島の倭と『後漢書』の楽浪都(平壌)を挟んで反対側で活動する倭は距離が離れすぎている。しかし、中国から見れば一緒である。紀元前から1世紀頃の中国人の倭に対する認識は、遼東半島以遠の、鉄の交易と漁業に従事していた人種としか見ていない。

 ただ、港津を繋ぎ交易をする倭という民族が、朝鮮半島に存在した事実はこれら文献より見て取れる。ここで倭とは一つの民族かどうか疑いがもたれるところである。

 考古学的に見ると、朝鮮半島の影響を強く受けた曽畑式(そばたしき)土器が、彼ら倭人の生活圏と一致していた。倭人は九州、西日本島嶼(しま・小さい島)部、朝鮮半島西部海域から遼東半島付近まで活躍していた海洋民族だったのである。

島嶼部とは? 島(とう、しま)は、大陸の面積より小さく、四方を海洋に囲まれた陸地である。中国語では「島」とは別に小島を意味する「嶼」という言葉があり、これらをあわせて島嶼(とうしょ)とも言う。常用外であることから、…

 九州の鉄の遺跡で見ると、糸島平野の三雲南小路、井原鑓溝、平原などが鉄製品の交易の出発点であるといえる。

 私はこの倭人は、どうも同じ人種ではなく、日本海を渡る知恵と技能を身に着けた仲間たちで、海で助け合いをすることが宿命づけられることから生まれた”海洋民族″ではないかと考える。五世紀頃まで彼らに首都や王の都という概念はなかった。群雄割拠でそれを結ぶ交易路こそが「倭国」の実体だと考えられる。

▶︎ 倭人はなぜ中国に朝貢し続けたのか?

 古代、倭人達は何の目的で中国の皇帝に朝貢したのか。中国の多くの史書には「朝貢した」とあるだけで、なぜ来たか理由が書かれていない。時代背景から推測すると、倭人が鉄の交易で莫大な利益を生むために、中国にその交易の利権を守ってもらう・・・別な表現でいぇば航路の権利、商売をする権利を認知してもらうことがその目的であった。

 朝鮮半島で鉄づくりが始まってから約三百年が経った紀元57年に、有名な「倭の奴国(現在の博多)の王の金印」が授けられたことが、『後漢書』「東夷伝」に記されている。奴国使者大夫(たいふ・たゆう)が朝貢した折、後漢の光武帝は彼に金印を授けた。その金印は江戸時代に志賀島にて発見された

 大夫はどんな時代に訪中し、金印の意味するところは何であったのか? 紀元25年に後漢が建国されて約30年、楽浪郡が高句麗の襲撃を受けてから10年後で、高句麗はこの時期、さらに力を増強しっつあった。光武帝は奴国を味方につけたかったが故に厚遇したと考える。倭国だけではなく、東夷の遊牧民の夫余にも礼を尽くしている。

 大夫の次に倭人としての記録が現れるのは、同じく『後漢書』「東夷伝」の107年の記述である。「倭国王・帥升(すいしょう)らが後漢の安帝へ160人の生口(せいこう・奴隷)洛陽まで運んだ」という。

 日本の博多から160人もの生口を当時の細身の船で運ぶには、かなりの数の船が要った。おそらく、博多からは運んでいない。当時立ち寄った朝鮮半島西海岸の幾つかの河口の港町で生口は簡単に手に入ったと考えられる。そして、人数を集めた1、楽浪郡からは洛陽まで漠の帆船で向かったと考える。

 倭人は燕の時代から後湊の時代まで、渤海湾から楽浪郡九州までの鉄の交易を幅広く行つていたが、なぜ、この帥升の朝貢だけが『後漢書』に記録されたのか?単に大勢の生口を貰っての感謝ではあるまい。

 この時代も高句麗から圧力を掛けられて、多くの船で帝都洛陽に来た倭人の交易ネットワークの強靭さに驚いたのではないだろうか。

難升米(なしめ、生没年不詳) または難斗米(なとめ)は、3世紀の人物。邪馬台国の卑弥呼が魏に使わした大夫。

 卑弥呼の特使・難升米のケースはどうか? 『三国志』『親書』巻三〇「東夷伝倭人条俗称『魏志倭人伝』中に、卑弥呼の使いとして難升米が登場する。景初2年(238年)6月、卑弥呼は帯方郡に大夫の難升米を遣わし、太守の劉夏(りゅうか)に皇帝への拝謁を願い出た。

魏の帯方太守の劉夏のこと。楽浪太守の劉茂の一族。238年に邪馬台国の女王卑弥呼が派遣した難升米一行を迎え入れて、洛陽まで同行した

太守(たいしゅ)は、中国においては郡の長官のことで、単に守とも呼ばれた。尊称として「明府」または「府君」と呼ばれる。

 劉夏はこれを許し、役人と兵士をつけて彼らを都まで送った。難升米は皇帝に謁見、男女の生口10人、それに班布(はんぷ・人物・花鳥などの模様を種々の色で染めた綿布) 2匹2丈(長さ:約23mの布)を献じた。皇帝は遠い土地から海を越えて倭人が朝貢に来たことを悦び、ねぎらい、卑弥呼を親魏倭王と為し金印紫綬を与え、献上物の代償として錦、毛織物、絹、金、刀、銅鏡百枚など莫大な下賜品を与えた難升米(なとめ)どんな目的で訪中したかは書いていないが、鉄の交易を保護してもらうことを目的とした資源外交であったことには異論がないであろう。

 難升米が持参したのは男女の生口10人、布などだけで、それほどたいそうなものは持って行かなかった。しかし、当時の3世紀初めの朝鮮半島の厳しい情勢が、彼女の特使派遣の目的を教えてくれた

 瀬戸内海は5世紀まで鉄が通っていなかった鉄のために朝貢しているにもかかわらず、鉄が通っていない瀬戸内海の行き止まりのヤマトに卑弥呼がいたというのは無理があるようだ。

公孫氏(こうそんし)は、三国時代の中国において栄えた氏族。2世紀後半、後漢の地方官だった公孫度が黄巾の乱以来の混乱に乗じて遼東地方に半独立政権を樹立した。

 当時、魏は高句麗の力を借りて、公孫氏の遼東(りょうとう)地域を征服、その南の楽浪・帯方二郡を百年ぶりに奪還中国の支配下としていた。公孫氏の時代でも倭国は交易をしていたが、魏の時代になって新領主に改めてその交易の庇護を求めたと考える。当然、魏への慶賀(祝賀)の挨拶も兼ねていた

「朝鮮半島で鉄の交易をさせていただく」中国への挨拶は、帥升、卑弥呼、倭の至」と倭国の為政者が変わっても、中国の政権が変わる度に欠くことができない儀式であった。

 卑弥呼の時代には、「倭国大乱」の余波が続いており、日本海の交易路に新規参入者やライバルが現れ、より複雑になっていった。背後には巨大高句麗の姿が見え隠れし、5世紀にはとうとう倭国と高句麗の百年戦争が始まり、大変な状態になっていくのである。

396年、好太王は兵を率いて百済の城々を占領した。兵が首都を包囲するに到り、百済は降伏し高句麗への服従を誓った。好太王は百済王子と貴族子弟を人質と成し、また多数の奴隷を連れて首都へ引き返した。

399年、百済は以前の盟約を破り、と同盟を結んだので、好太王は平壌へ侵攻した。其処で、使者としてやって来た新羅の王の謁見を受けた、使者は倭軍が国境を越え新羅と戦闘を行っている窮状を訴え、高句麗に臣従を誓った。好太王はその忠誠心を善として、救援を許した。

400年、高句麗王は新羅を助けるために5万の兵を送った。新羅の首都を包囲していた倭軍は高句麗軍が着くと撤退を開始した。高句麗軍は倭軍を追って任那加羅にある從拔城を攻めると、城の兵民は高句麗に降伏し、攻め落とした。倭軍は塩城を囲んだが、兵民の大半は倭への降伏を拒んだ。倭と同盟を結ぶ安羅軍は新羅城を攻め落とした。

404年、倭の軍は突如帯方郡国境を超え侵攻した。高句麗王は平壌から兵を率いて進み、打ち破った。