⓵-鉄を運ぶために生まれてきた海洋民族「倭人」

鉄を巡る争いは漢の武帝の朝撃侵略より始まった

▶︎鉄を巡る争いは漢の武帝の朝撃侵略より始まった

 大昔、朝鮮半島には、遊牧民族、農耕民族と一握りの海洋民族が静かに暮らしていた。鉄が朝鮮半島でつくられ始め、隣の大国中国が侵略したのをきっかけに、ここの民族は存亡をかけた大きな戦いの渦に巻き込まれた。それが千年近く続き、日本まで巻き込まれた。どうもそれが日中韓の歴史の出発点になって、今もって仲が良くない。

 紀元前3世紀、周代の「戦国の七雄」の一つであるが朝鮮半島周辺を治めている時代、朝鮮半島で鉄がつくられ始め、日本に少しずつ流れていた。紀元前194年、中国人(燕・斉の亡命者)と原住民の連合政権で衛氏(えいし)朝鮮(紀元前195年? – 紀元前108年)が建国された。王険城、現在の平壌を首都とした。

 一方、中国はといえば、朝鮮半島の鉄やこの国には興味がなかった。始皇帝をはじめ、それまでの中国の歴代の帝王は、万里の長城が海に落ちる山海関から東、現在の中国の東北地方や朝鮮半島には、領土的野心はおろか関心もなかった。鉄であろうと、金や玉であろうと、とても運べるものではなかった。だから、1,000㎞以上離れた朝鮮半島から、寒風吹きすさぶ道なき荒野をどう都まで運ぶか、知恵を巡らすこともなかった。

 興味が生まれ、欲が出てきたきっかけは、朝鮮半島へ渤海湾から船で渡れるようになったことであるどうやら資源が自分のものになるという判断ができてからであった。漢の武帝(在位紀元前141年から紀元前87年)の時代、西方の匈奴(きょうど)討伐の結果中国と西方の通商路が開け、西欧やインドから多くの知識・文物がシルクロードを経て伝わった。その中には帆船の技術もあった。

 中国と朝鮮半島の間の渤海湾がにわかに注目を浴び始める。それまで中韓の間に横たわる渤海湾は、中国にとって、万里の長城が海に落ちる東の果ての山海関まで建設資材や軍隊を運ぶためだけの海であった。天津から山海関の秦皇島まで、軍事用航路で結ばれていた。

 シルクロードを渡ってきた帆船の技術は、山東半島の煙台から遼東半島の先端の大連までの100㎞余りを廟島諸島を繋いで渡ることを可能にした。その後、遼東半島の南岸を繋ぐことで朝鮮半島に到着した。

 武帝は一生の間、親征(皇帝、天皇、王などの君主が、自ら軍の指揮を執り戦争に出ることを広く指す)はしていない。常に机上で謀(はかりごと)を考え、周到に準備してことを始めた。紀元前109年、彼は水軍を編成、陸と海から侵攻を開始した。そして海からの攻撃を予期していなかった衛氏朝鮮を瞬く間に滅亡させて鉄資源を支配、中国に鉄を輸送する巨大プロジェクトを完成させたと考えられる。

 司馬遷の『史記』には、「山東から攻め入った水軍が敗北し、遼東島から攻めた部下の逃亡があった。将軍同士がいがみあって、征服には時間が掛かり、翌年の夏にようやく終わつた。それからも紛争は続いた」と書いている。だが、司馬遷がこのように言うから正しいというものではない。

 寒冷地の遼東半島、朝鮮半島北部満州国境の戦闘は夏場だけに限られる。王険城陥落で、幾冬を過ごしたとは考えづらい。逆に、遼東半島と北部の複雑な地形を考えれば、二年は短いともいえる。その後も紛争は続いたと考えられるが、戦争自体はすぐに終結したとみるべきであろう。

 この漢の武帝の軍が朝鮮に侵攻したときから東アジアの鉄を巡るドラマが始まるのである。司馬遷は『史記』「朝鮮列伝」の中で、武帝の朝鮮出征を次のように正当化している。「朝鮮王の満(衛満ともいう)なる者はもともと燕人で、漢の高祖の時代(紀元前195年)に千人程無頼の徒を集め現在の平壌に亡命、やがて朝鮮王になった。朝鮮の王位は漢が承認したが、三代目・満王の孫の右渠(うきょ)が漢に背いた。だから成敗した」

 つまり、『史記』では、王位を与えた天子が王位を与えられた者を成敗する国内の戦争と位置付け、攻撃の正当性を主張している。ただ、司馬遷は朝鮮に非がないのに天子は攻撃した、罪のない人を罪人にする行為であったとこの戦争を断じている。要するに中国の資源目当ての侵略であることを暗にほのめかしているのである。

 この戦争を契機に歴代の朝鮮半島の王は、中国に承認されなければならないしきたりが生まれ、実に清の時代まで二千年以上続く。司馬遷は「武帝は鉄を得るため攻撃した」とは書いてはいないが、その後の朝鮮半島における漢人のふるまいから、この戦争が何の目的であったか明らかである。この戦争以降、中国は周辺諸国にとって常に侵略をおこなう恐ろしい国となり、それは現在のウイグルや南沙諸島でも続いている。

 武帝は朝鮮半島に楽浪と玄兎(げんと)真蕃(しんぱん)と臨屯(りんとん)の漢四郡をつくって、漢人の郡太守県令を送り、植民地政策を始めた。侵略した漢人達は土着の住民達を奴隷のように使って半島の地下に眠る鉄鉱石を掘り出し燕や衛氏朝鮮の古い製錬・鍛造施設使い何ら投資することなく鉄生産を始めた。

 東アジアの古代鉄研究の第一人者である愛媛大学の村上恭通(やすゆき)氏も、この時代は朝鮮半島遺跡から農工具の聖品が少なく、武器が多かったと指摘、その生産の実態を裏付けている。

▶︎朝鮮半島の鉄・海は倭船、陸は高句麓の馬が運んだ

 当初、朝鮮半島で生産された鉄は、漢が国家統制した。もっぱら中国国内には専売品として輸出、周辺の友好国には恭順(きょうじゅん・つつしみの態度で従うこと)させるための贈答品として送られた。長剣と短剣がつくられ、威力のある長剣は遠くの倭や辰韓に、短剣は高句麗など周辺部族に配られたらしい。

 下賜(かし・身分の高い人からくださること)された長剣は弥生中期後半の紀元前100年から紀元100年頃、倭人を通して海を渡り九州、西日本沿岸の国々に送られた。これらは、朝鮮半島南部もしくは九州で手斧、ナイフなど鉄器加工され、西日本に拡散した。

 北部九州では、福岡県糸島市井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡、佐賀県唐津市の桜馬(さくらのばば)遺跡など、昔の伊都国を中心に鍛冶技術が発展した。鉄器を一からつくる技術がなくとも、戦闘で破損し捨てられた鉄剣や、あるいはもっと小さな鉄クズを輸入・加工して、別の道具に仕立てることは広く行われた。多くの甕棺墓から鉄器が出土している。

 輸入された一部の質の良い鉄剣は、権力の象徴として豪族の墳墓の副葬品として残った。柄頭(つかがしら)に丸い穴がある素環頭(そかんとう)鉄刀がそれらしい。 

 当然、東日本よりも九州、西日本の墳墓の方が、刀剣が多いと考えるのが常識と考えられる。

 しかし、野島永氏によれば、弥生後半から弥生末期、紀元200年から400年までの墳墓出土刀剣を比較したとき、筑前、豊後、豊前より丹後、播磨、越前、但馬、上野の方が同等か多い状態にある(『初期国家形成過程の鉄器文化』雄山閣出版、2009年)。これはなにを意味するか? 私は倭人以外が関わる「鉄の路」がこの時代からすでに存在していたと考える。

 いったいそれはどういうことか? その謎を解くカギが高句麗にある。最初の数10年、楽浪郡では、鉄の交易を管理・統制し、製鉄技術を秘匿していたが、周辺異民族に楽浪郡や支配地が繰り返し襲われ、その度に鉄の鋳造・鍛造技術は四方に拡散していった。

 村上恭通(やすゆき)氏は「世界では鉄は川を移動したが、朝鮮半島では不思議なことに、平原を西から東に移動した」という。この意味するところは、高句麗の遊牧民が略奪した武器を、中央の太白山脈を通って馬で運んだことだ。『親書』「東夷伝」高句麗条によれば「その馬みな小、登山をよくす」とある。

 

 西海岸は大河が多く、島も多いリアス式海岸が続き、舟での移動は容易であるが、馬は難しい(「朝鮮半島の地形『西船東馬』」上図)。一方、東海岸は川が少なく平原が続き馬で移動できた。どうもこの地形が朝鮮半島の倭人と高句麗の歴史をつくったといえる。ここには、二つの「鉄の路」があったのだ。

 中国人は西海岸の動静は把握し、朝鮮半島西海岸の沿岸部の鉄は倭人が運んだと思われる書き物が残っている。

 1世紀頃に王充(おうじゅう)が書いた後漢の思想書『論衡』(大滝一雄訳、平凡社東洋文庫)によれば、「周の時、倭人来たりて薬草を献ず。倭は燕に属す」とある。また、春秋戦国時代から秦、漢の時代の地理書『山海経』にも倭は燕に属していたと記されている。当時が支配していた遼東半島は日露戦争のときの激戦地・旅順や大連がある半島であり、海岸に沿って舟で運んでいたと思われる。小さい手漕ぎの舟で沿岸を運んでいたのであろう。

 遼東半島とはずいぶん遠いところから倭人が鉄を運んでいたと思われるが、一度にそこから運ばれたわけではなく、朝鮮半島北部から少しずつ普及していき、その鉄器の一部が朝鮮半島の南部から対馬海峡を越えて九州に着いたのだろう。「海路は先達の路に倣う」のが鉄則である。これら武帝の侵攻ルートと『論衡』の記述から、後の卑弥呼の特使、難升米(なとめ・邪馬台国の卑弥呼が魏に使わした大夫)は遼東半島周辺の海路を辿ったと考えて間違いないであろう。

 卑弥呼の時代になって、半島南部で鉄生産が始まり、金海から対馬・厳原、壱岐・原の辻、唐津・松浦潟に運ばれた。中国の歴史書は、西海岸については以上のように記述しているが、朝鮮半島東海岸については記述が見当たらない。

倭国大乱(わこくたいらん)は、弥生時代後期の2世紀後半に倭国で起こったとされる争乱。中国の複数の史書に記述が見られる。倭国の地域は特定されていないが、列島規模であったとする見方もあり、日本史上初の大規模な戦争(内戦)だとする意見もある。(wikipediaより)

 歴代中国王朝は、朝鮮半島東側でこれから起きる騒動について十分に把握していなかったのだろう。ゆえに、中国中心の文献学に依存している日本の古代史では「倭国大乱」がまったくわかっていないのである。

▶︎日本への鉄は小舟で対馬海峡から運ばれた

 では、朝鮮半島から日本列島に鉄が初めて運ばれ始めた紀元前3世紀頃、どんな手段で運ばれ続けたのであろうか?

 海を越えて運ばれる鉄は姿・形によって輸送手段が違う。長崎県壱岐市の原の辻遺跡、唐神遺跡からは、鍬(くわ)先、鋤(すき)先、鎌などの農耕具、槍鉋(やりがんな)など木工具、刀などの武器、鉄、鈷、釣針など狩猟漁撈用道具と鉄の塊が出土している。いずれも大きなものではない。これらは北部九州で普及した鉄器と同じである。

 紀元前後までは、海峡周辺の倭人によって小さな手漕ぎの丸木舟で対馬海峡を渡って運ばれたと考えてよい。卑弥呼の時代の前まで毎年、勾玉、翡翠(ひすい)、黒曜石などを持ち寄った倭人は、船で集まり、数十隻あるいは百隻以上の船団で、年に数度の弁韓への冒険旅行を挙行した。対馬海峡には二カ所、50㎞の距離を帆走もしくは手漕ぎで進まねばならぬところがある。

 

 卑弥呼の時代から半島南部で鉄生産が始まり、その遺跡からその時代の海路を考えてみよう。金海市にある伽耶の浜からまず西に向かい勤島遺跡がある慶尚南道潤川市の島々を繋ぎ、そこから対馬までの60㎞の海峡を対馬海流に乗って一気に漕ぎ進み、対馬の西海岸に流れ着く。基本的には対馬海流に流される。

 そして、中央の船越を東海岸に渡り、厳原に着く。そこから、壱岐の北岸に向けて50㎞を漕ぎ進み、島を回り、南端の原の辻に着く。そこから、福岡(那の津)に向けて岬の鼻や島をつなぎながら60㎞を漕ぎ、最終的に鉄は糸島、唐津(松浦潟)付近の鉄加工の工業地帯に運ばれた。

 朝鮮半島に向かうコースは海流に乗って糸島半島から直接対馬に漕ぎ進み、厳原に着く。

 そこから西海岸の和多都美神社に出て、そこから風を選んで漕ぎ進み、金海に着く。多くは金海より東の釜山の方向に漂着する。

 元農林官僚で稲の渡来の研究をされてきた池橋宏氏も、『稲作渡来民』(講談社選書メチエ、2008年)の中で遣唐使と紀貫之『土佐日記』の航海を分析した上で、弥生時代の外洋航海について「弥生時代の舟は大勢の人が擢で船を漕ぎ進める。船尾で操舵擢というべき、舵の代わりになる大きな擢を持った人が、方向を調整し進んだ」という。

 一見すると原始的であるが、遣唐便船や紀貫之の航海の帆船が非効率的であったことを考えると、擢で漕ぎ進む方が案外速かったのだろう、と述べている。その微妙な距離により簡便な方法が選ばれたといえる。

 残っている倭人の記録の中に、弁韓の鉄市場で鉄を豪快に買っている有名な記述があるが、これはすでに朝鮮半島南部で鉄がつくられ始めた弥生後期の紀元200年代のことで、最初に定期的な交易が始まった時期とは300~400年ほどの差があり、船のカタチも大きさも変わっていったと考えられる。その変わり方に歴史のヒントが隠されている。

 この卑弥呼の時代は準構造船、五世紀頃には応神天皇が使った帆船と、次第に大きな船に変化しながら鉄は運ばれたが、その船の系譜は謎である。

▶︎ 対馬海峡を渡る流儀・・・季節・船・天候

 前節で述べた、対馬海峡の50㎞の微妙な距離を帆走もしくは手漕ぎで進まねばならぬところとは、壱岐から対馬の厳原と、そして対馬の北端から朝鮮半島の金海である。

 ここを渡るには三つの要素が大切である。舟と季節と天候である。舟については、この海での大切な「流儀」がある。前節で紹介したようにこの二か所については帆を頼りに風を何日も待つより、天気と汐の流れを読み、一気に一日で50㎞を漕ぎぬいたらしい。そのためには速力が出る細身の船と天気を読むスキル持続して漕ぎぬく腕力がある若者が必要であった。

 その名残が、毛利水軍や村上水軍、松浦衆(まつらしゅう)に引き継がれる。現在、倭人の記憶として残っているのが、美保神社の「諸手船(もろたぶね)」、沖縄のサバニ、「松浦衆の早船など伝統的な細身の高速艇である。沖縄のサバニは帆走できる高速艇として残っている。

 倭国が渡来した季節はいつだったか。『三国史記』を見ると、後年の倭が新羅を襲撃する時期は、旧暦の4月〜6月に集中しており、9月〜1月の間はまったく見られないという。寒い冬場は外洋を漕ぎ進んでの交易はできない。また、天候を選ばねば対馬海峡、日本海沿岸は航走できない。卑弥呼は、天気を占い、船を選び、組織で「海峡を渡る」指導力がある巫女であったと考えている。天候を選ぶ重要性が卜骨(ぼつこつ)の神頼み、祈祷につながった。

▶︎ 地域格差がはなはだしい鉄の加工技術

 紀元前には鉄は東に運ばれ始めていた。森浩一氏は作家松本清張が編集した『邪馬台国の常識』(毎日新聞社、1974年)の中で、鉄の伝播・生産に基づいた時代区分を提唱している。第一段階は鉄の使用段階二番目は鉄器を製作(鍛造)した段階三番目は鉄器を鋳造した段階という。弥生前期(紀元前4世紀から紀元前2世紀)のころ、北部九州では鉄器を使用する第一段階で、問題の卑弥呼の弥生時代の3世紀には北部九州では鉄器は普及、石器は使われなくなり、鉄器製作の段階に入っていた。よそはどうかといえば、弥生中期になっても、鉄は全国に一巡していなかった。大和にも運ばれていないという。

 森浩一氏の40年前の発見によると、紀元前の弥生時代、鉄は大変貴重で、九州では倭人が運んで来た刀を潰して山陰地方で木製の柄の先に袋状に巻き付けた斧の板状鉄斧に変えて交易をしていた。九州でつくつた袋状の刃を持った斧は本来そのまま東に伝わるはずであったが、途中に板状鉄斧に加工された。それは何を意味するのか?

 野島永氏らによれば、当時鉄は貴重で、九州から鉄器が東進するにつれさらに加工が細かくなり、素環頭鉄刀の環の部分、袋状鉄斧の耳の部分や、さらに小さな破片なども鍛造加工され、小さな刃物銑鉄(やじり)に化けていった(『初期国家形成過程の鉄器文化』)。

 河合孝行氏らがとりまとめた『海を渡った鏡と鉄』(鳥取県埋蔵文化財センター、2012年)によると、妻木晩田、青谷上寺地は、これまでそれぞれ400点以上の鉄器が出土した鳥取県最大の遺跡で、朝鮮半島との交易があり、この地で鉄器を生産したことがわかってきた。

 まず、鳥取県で一番古い鉄器は前期後葉(紀元前400年前後)に遼東半島でつくられた鉄器が運ばれたという。これはかなり早いという印象だ。これら古い鉄器は、日本海沿岸の西高江、茶畑など、海岸線に沿って点々と出土している。倭人の舟による鉄の日本海交易を物語る遺構で、東西の鉄の流れの痕跡と考えてよい。

 伯耆(ほうき・鳥取県中部・西部)地方からは、九州にしかない筈の素環頭鉄刀、大柄の板状石斧が大量に出土している。これは、直接朝鮮半島から別の流れがあったと考えられる。

 前掲書『海を渡った鏡と鉄』によれば、紀元前100年から紀元100年くらいの間に、九州から鉄の加工品朝鮮半島からは素環頭鉄刀、大柄の板状石斧や、紀元前150年から紀元50年頃に中国で作られた星雲文鏡や内行花紋鏡がどっと入ってきたという。鍛冶跡から数多くの鉄工所ができ、ここで板状鉄斧などに加工し国内版売を行った。ここでは袋部を30潰し、斧の刃先部分を板状斧として出荷した。

 しかし、この地の鉄の技術力は低かった。前掲書によれば、素材の鉄は良質な朝鮮半島の鉄であったが、加工技術は低く、質は九州の製品より悪かったという。

 一方、紀元前一世頃に大規模な玉つくり工場があった京都府京丹後市奈具同遺跡では、玉石に穴を空けるための針のような鉄製品を自らつくる高度な技術があった。その技術は倭人の日本海交易でもたらされたものではなく、突然変異的な技術である。ここの鉄器も謎が多い。

 すなわち、「九州から日本海沿岸に倭人が鉄を加工して運んだ」形跡はあるが、伝わった鉄器技術に差がありすぎるのである。この技術の不均衡については野島永氏も疑問に感じておられるが、原因を説明されていない。偶然の漂着民による鉄の持ち込みで、個々の地点での渡来人の技術力の格差になったと考えられる。

▶︎ 倭人とはどこの地域、どこの国の人間を指すのか?

 「倭国」は「和国」、すなわち日本だ、と思われがちだが、実は定かではない。『論衡』や『山海経』に書かれた遼東半島の倭と『後漢書』の楽浪郡(平壌)を挟んで反対側で活動する倭は距離が離れすぎている。しかし、中国から見れば一緒である。紀元前から1世紀頃の中国人の倭に対する認識は、遼東半島以遠の、鉄の交易と漁業に従事していた人種としか見ていない

 ただ、港津を繋ぎ交易をする倭という民族が、朝鮮半島に存在した事実はこれら文献より見て取れる。ここで倭とは一つの民族かどうか疑いがもたれるところである。

 考古学的に見ると、朝鮮半島の影響を強く受けた曽畑式(そばたしき)土器が、彼ら倭人の生活圏と一致していた。倭人は九州、西日本の島喚部、朝鮮半島西部海域から遼東半島付近まで活躍していた海洋民族だったのである。

 九州の鉄の遺跡で見ると、糸島平野の三雲南小路井原鑓溝(やりみぞ)遺跡平原(ひらばる)遺跡などが鉄製品の交易の出発点であるといえる。

 私はこの倭人は、どうも同じ人種ではなく、日本海を渡る知恵と技能を身に着けた仲間たちで、海で助け合いをすることが宿命づけられることから生まれた〝海洋民族″ではないかと考える。

▶︎ 倭人はなぜ中国に朝貢し続けたのか?

 古代、倭人達は何の目的で中国の皇帝に朝貢したのか。中国の多くの史書には「朝貢した」とあるだけで、なぜ来たか理由が書かれていない。時代背景から推測すると、倭人が鉄の交易で莫大な利益を生むために、中国にその交易の利権を守ってもらう・・・別な表現でいえば航路の権利、商売をする権利を認知してもらうことがその目的であった。

 朝鮮半島で鉄づくりが始まってから約300年が経った紀元57年に、有名な「倭の奴国(現在の博多)の王の金印」が授けられたことが、『後漢書』「東夷伝」に記されている。奴国使者大夫(たいふ・たゆう)が朝貢した折、後漢の光武帝は彼に金印を授けた。その金印は江戸時代に志賀島にて発見された。

 大夫はどんな時代に訪中し、金印の意味するところは何であったのか? 紀元25年に後漢が建国されて約三十年、楽浪郡が高句麗の襲撃を受けてから十年後で、高句麗はこの時期、さらに力を増強しつつあった。光武帝は奴国を味方につけたかったが故に厚遇したと考える。倭国だけではなく、東夷の遊牧民の雄、夫余にも礼を尽くしている。

 大夫の次に倭人としての記録が現れるのは、同じく『後漢書』「東夷伝」の107年の記述である。「倭国王・帥升(すいしょう)らが後漢の安帝160人の生口(せいこう・奴隷)を洛陽まで運んだ」という。

 日本の博多から160人もの生口を当時の細身の船で運ぶには、かなりの数の船が要った。おそらく、博多からは運んでいない。当時立ち寄った朝鮮半島西海岸の幾つかの河口の港町で生口は簡単に手に入ったと考えられる。そして、人数集めた上、楽浪郡からは洛陽まで漢の帆船で向かったと考える

 倭人は燕の時代から後漢の時代まで、渤海湾から楽浪部、九州までの鉄の交易を幅広く行つていたが、なぜ、この帥升の朝貢だけが『後漢書』に記録されたのか?単に大勢の生口を貰っての感謝ではあるまい。

 この時代も高句麗から圧力を掛けられて多くの船で帝都洛陽に来た倭人の交易ネットワークの強靭さに驚いたのではないだろうか

 卑弥呼の特使・難升米(なしめ)のケースはどうか?『三国志』『親書』巻30「東夷伝」倭人条俗称『魂志倭人伝』中に、卑弥呼の使いとして難升米が登場する。景初2年(238年)6月、卑弥呼は帯方郡に大夫の難升米を遣わし太守の劉夏に皇帝への拝謁を願い出た。

 劉夏はこれを許し、役人と兵士をつけて彼らを都まで送った。難升米は皇帝に謁見、男女の生口10人、それに班布2匹2丈を献じた。皇帝は遠い土地から海を越えて倭人が朝貢に来たことを悦び、ねぎらい、卑弥呼親魏倭王と為し、金印紫綬を与え、献上物の代償として錦、毛織物、縮、金、刀、銅鏡百枚など莫大な下賜品を与えた。難升米がどんな目的で訪中したかは書いていないが、鉄の交易を保護してもらうことを目的とした資源外交であったことには異論がないであろう。そして、『日本書紀』が示すようにこの卑弥呼が神功皇后であったとするなら、彼女の三韓征伐の大航海は「鉄の路」で検証されなければならない。

 難升米が持参したのは男女の生口10人、布などだけで、それほどたいそうなものは持って行かなかった。しかし、当時の3世紀初めの朝鮮半島の厳しい情勢が、彼女の特使派遣の目的を教えてくれた。

 瀬戸内海は 5世紀まで鉄が通っていなかった。鉄のために朝貢しているにもかかわらず、鉄が通っていない瀬戸内海の行き止まりのヤマトに卑弥呼がいたというのは無理があるようだ。当時、魏は高句麗の力を借りて公孫氏の遼東地域を征服その南の楽浪・帯方二郡を百年ぶりに奪還中国の支配下としていた。公孫氏の時代でも倭国は交易をしていたが、魏の時代になって新領主に改めてその交易の庇護を求めたと考える。当然、魂への慶賀の挨拶も兼ねていた

 「朝鮮半島で鉄の交易をさせていただく」中国への挨拶は、帥升、卑弥呼、「倭の五王」と倭国の為政者が変わっても、中国の政権が変わる度に欠くことができない儀式であった。

 卑弥呼の時代には、「倭国大乱」の余波が続いており、日本海の交易路に新規参入者やライバルが現れ、より複雑になっていった。背後には巨大な高句麗の姿が見え隠れし、5世紀にはとうとう倭国と高句麗の百年戦争が始まり、大変な状態になっていくのである。