平城京跡

■平城京跡

 和銅3年(710)、 奈良盆地の北端に造られた平城京が新しい都と定められました。元明天皇律令制にもとづいた政治をおこなう中心地として、飛鳥に近い藤原京から都を移したのです。

 中国・唐の長安城などを模範とした都をつくることは、当時の東アジアの中で国の威厳を示す意味もありました。その後、 聖武天皇は740年から745年まで、都を転身と移しますが、745年には再び平城京を都としました。そして、長岡京に都が移る784年までのあいだ、奈良の地が都として栄えたのです。この時期を奈良時代といいます。

 平城京のメインストリー卜は、 京の南門である羅城門から北にまっすぐにのびる幅約75mの朱雀大路です。 朱雀大路をはさんで酉側を右京、東側を左京といいます。左京には北の方で東にさらに張り出しがありました。平城京は大小の直線道路によって、碁盤の目のように整然と区画された宅地にわけられています。平城京の住民は4~5万人とも10万人ともいわれますが、天皇、 皇族や貴族はごく少数の百数人程度で、 大多数は下級役人や一般庶民たちでした。

  平城京・朱雀大路の北端には朱雀門がそびえていました。朱雀門をくぐるとほぼ1km四方の広がりをもっ平城宮です。平城宮の周囲には大垣がめぐり、 朱雀門をはじめ12の門がありました。

 平城宮の内部にはいくつかの区画があります。政治や国家的儀式の場である大極殿・朝堂院、天皇の住まいである内裏役所の日常的業務をおこなう曹司宴会をおこなう庭園などです。そのなかでも政治・儀式の場は、都が一時離れた時期を境にして、奈良時代の前半と後半で大きな変化がありました。奈良時代前半に、朱雀門の真北にあった大極殿(通称、第一次大極殿)が、 奈良時代後半になると東側の区画で新たに建てられたのです( 通称、 第二次大極殿)

 これに対して、内裏は、奈良時代を通じて同じ場所にありました。これらの事実は、50年以上におよぶ発掘調査によってわかってきたことです。このうち、ほぼ正方形と考えられてきた平城宮が、じつは東部に張り出し部分をもつことがわかったことや、その隅に奈良時代の庭園を発見したことなどは、発掘調査による大きな成果のひとつといえるでしょう。


▶︎出土品が語る人びとの営み

 平城宮の建設平城宮には数多くの建物がありましたが、 造営のためには莫大な資材が必要でした。発掘によって瓦、木材、 石材など、建設に使われたものがたくさん見つかっています。こうした出土品は、建物の姿を推定する手がかりになるだけでなく、どのように資材を調達したかを考える材料にもなるのです。

◉人々の生活

 天皇をはじめ、貴族や下級役人が都で暮らしていくためには、日々の生活に必要な物資を地方から税などとして運んでこなければなりませんでした。出土品の中には、土器などのように列島の各地からもってきたことがわかるものもあります。出土する荷札の木簡は、どの地方から何が都に運ばれたのかを知るかっこうの手がかりとなるのです。


◉役人の仕事

 律令制のもとでは、太政官以下の多くの役所がありました。役所では、現代と同様に書類によって自身の事務が処理されました。当時は紙だけでなく、木の札(木簡)に書類や帳簿を書きつけることも多く、 発掘調査の際にこうした木簡がたくさん出土します。

▶︎保存と調査のあゆみ

 物の研究と保存発掘された遺物を正しく理解するためには、 まず、 実測、 写真爆影などにより、 正確な記録を作ることが必要です。それとともに、科学的な方法をもちいて遺物の材質を調べたり、出土した木材の年輪幅から、その木の伐採された年代を判定したりする研究も進められています。また、 とくに木や金属できた遺物は壊れやすいので、薬品などを使って長く保存できるようにします。 このように、 科学の力を借りながら、出土遺物を研究して、奈良時代の歴史をあきらかにするとともに、これらを後の時代まで保存してし、く努力が続きます。