東国の兵乱

■馬と鉄と北の世界

福田豊彦

▶︎「つわもの」とその時代

 「武士」術芸能の一の「武芸」の語は8世紀初頭からみえ、そこでは、明経(みょうぎょう)・文章(もんじょう)・算術・医術・和琴師などと並ぶ学術芸能の一つである、武芸によって立つ人々を指している(「続日本紀』養老五年正月甲成条)。しかしその内容は時代によって変化し、この律令初期の武士の姿は、古墳出土の短甲(たんこう)か中国風の綿襖甲(めんおうこう)に身を固め、歩兵の軍団を指揮する武将たち、絵画像としては「豪古襲来絵詞(えことば)」に書かれた元軍の陣営の将軍たちがもっとも近いであろう。

綿襖甲(めんおうこう、満州語:yohan uksin)とは、中国を中心とする東アジアにおいて、最も広く使われた鎧の形式の一つ。 綿襖冑、綿甲、綿甲冑、綿冑とも呼ばれる。 二枚の布の間に綿などを挟み込んだ鎧で、世界中で使用されているキルティングアーマーの一種と言える。

経(みょうぎょう)とは、律令制において式部省が行った秀才に次ぐ第二の官吏登用試験。 明経試(みょうぎょうし)とも。 律令制における大学寮には算生(算道の学生)が若干いるのを例外とすれば、原則として後世明経道と呼ばれた儒教を学ぶ学科のみが存在した(音道・書道はこれらとはまた別扱いである)。

文章博士(もんじょうはかせ)は、大学寮紀伝道の教官(令外官)。文章生に対して及び中国正史などの歴史学を教授した。唐名は翰林学士(かんりんがくし)。

 しかし中世武士のイメージは、その絵巻の竹崎季長(スえなが)のように、日本独自の大鐙(おおよろい)鍬型(くわがた)の兜を付け、馬に乗り、元軍より遥かに大きな弓をもっている。そして近世の武士というと、二本の刀をさして町中を歩き、切捨御免などと威張りちらし、すぐにチャンバラを始める、テレビ時代劇の姿が思い浮かぶ。

 

 その社会生活にもかなりの違いがあって、中世の武士は「一所懸命」の所領を持つ在地領主であったのに対して、近世武士は固定した家禄を与えられているが、実態はサラリーマンに近い。それに対して、都では貴族に仕え、家に帰ると大農場主であった「芋粥」の藤原利仁の姿は、石母田正氏が提起した「私営田領主」の類型に属する。「兵」と呼ばれる10、11世紀の武士はこれで、経済生活としては古代豪族に属しながら、中世武士の社会的諸条件がその中で育てられた、という意味で注目される。

在地領主(ざいちりょうしゅ)とは、中世日本の荘園公領制の下、荘園・公領(国衙領)の在地(現地)において所領を実際に支配していた支配者層(領主、豪族、軍事貴族、武士)のこと。

私営田領主(しえいでんりょうしゅ)とは、平安時代に在地の富豪層(有力農民や豪族)によって経営された営田である私営田を経営する領主に与えられた概念。

毛抜形太刀の直接的な起源は、古墳時代、東北地方の蝦夷が用いてきた蕨手刀である。朝廷の律令軍によって東北地方が制圧支配されると、蝦夷の文化・戦術(武人を含め)などが内国に伝わり、蕨手刀が段階的に改良発展された結果として、日本刀の原型とされる毛抜形太刀へと至る。

 例えば、古代の直刀から攣刀(わんとう)である日本刀への変化もそうであるが、大陸的国際的な武装から日本的武装への転換を象徴する大鎧も、この時代に生まれて中世武士にうけ継がれる。そしてこの日本刀も大鎧も、馬上での弓射に適合した武具であったが、中世武士の日常の嗜みとなる犬追物(いぬおうもの)や笠懸
(かさがけ)は、やはりこの「つわもの」の生活の中で育てられた。その意味では、中世武士の社会生活はこの「兵」の中にすでに整っている。

 これらの武装の素材には鉄が使われたが、この10、11世紀には、考古学の発掘成果で明らかなように、関東地方でも各地で盛んに鉄が作られていた。日本は火山国であり、砂鉄は全国いたるところにあるので、鉄を作ろうとすればどこででも作れる。しかし質には大きな違いがあり、経済的に有利な鉄資源は中国地方や近江などに限られるため、中世に流通経済が発展して地方の市場が成立すと、関東などの鉄生産は、むしろ後退することも明らかになってきた。

 この過渡期の時代の馬と武士のつながりを、まずは古代の官牧との関連でみていくことにしよう。

「武士」を「武芸によって立つ者」とするのは普遍的な定義であるが、その「武芸」の内容は時代によって大きく変化する。中世の武芸は馬を走らせながら弓を射る技術が中心で、近世以降の剣術・弓術・馬術などとはかなり違う。中世のこの弓射騎兵の武芸の起こりを訪ねるのが本稿の課題である。八世紀律令初期の武術がどのようなものかはよくわからない。戦闘の主力が歩兵の軍団兵であったことや、鼓・鉦(かね)・角(ラッパ)軍幡(ぐんばん)などを私家に置くことが令で禁止されていた事実などから推察すると、鼓やラッパを鳴らして集団を指揮する技術が中心だったのではなかろうか。のちに八幡太郎義家に結びつけられた「野に伏兵あらば雁がね列を乱す(鳥起者伏也・‥孫子)」などの教えも、もとは武芸の家に伝えられていた格言であろう。ここにも古代と近代には通じるものがある。

▶︎馬牧と馬の飼い方

 令には厩牧令(きゅうぼくりょう)があり、厩(うまや)や牧での馬の飼い方が詳細に規定されている。その要点を並べると、

厩牧令(くもくりょう)は、令の篇目の1つ。 養老令では第23番目に位置している。 官の家畜に関する規定が中心で、28条からなる。

①諸国に置かれた牧には、管理人である「」と書記である「」が任命された。その牧長は、実例としては郡司級の地方豪族であったが、国司が勤務評定する下級の宮人である。

②牧には、牧長・牧帳の他に、1群100疋を単位として二人の「牧子」を配置する。つまり牧は、そはう100疋(ひき)の馬をたった二人で面倒をみるという粗放な経営であった。

③牧では、5歳以上の牝馬(ひんば・雌の馬)100疋に付き60疋の駒を生産することを基準とし、それ以上に生産した場合は、駒2疋について稲20束(一束は米にして現在の約二升)を褒賞として与え、牧長・帳にも全年を通計して賞与を与える。つまり、「責課(せきか・強制的にとりたてること)」と言われる成年牝馬の数に応じ、生産基準が定められていた。

④牧では、毎年100疋について10疋の死耗(しもう・死んだ数)は認めるが、疫病などのためにそれ以上の割合で死んだ場合には、近隣の牧の事例を調べて判断する。死馬の認定には、恒例の法定免除と特別免除の二つの道が開かれていた事になる。いずれの場合も死馬の皮は貢上される。そして特別免除も認められない死亡や行方不明の場合は、時価で計算し、牧子と牧長・帳に弁償させる。

⑤牧では、毎年九月、国司立ち会いのもとに野鳥追を行い、二歳になった駒に焼き印を押し、一々の馬の毛並みの色を書きとめた報告書(馬帳)を二通作り、国と太政官に提出させる。毎年、春先には野焼をする。また病馬には、国司に申請すれば薬を与える

⑥牧で生産された馬のうち、乗馬になるものは軍団に配置し、駅馬や伝馬などにもあてる。

⑦いっぽう厩(うまや)では、良い馬には一疋に一人、質の悪い駑馬(どば)でも三疋に一人の「」を配置し、他に一疋に一人の「穫丁(かくてい・律令制で、官馬に与える飼料用の青草を刈るために置かれた雑戸)」を配置し飼料の草を調達させる。ここでは、牧とはまったく違って、手厚く馬の面倒が見られていることになる(この厩の規定は都の左右馬寮の規定と見られているが、地方にもこのような厩は存在したはずである。)

 以上、厩牧令の規定の主要なものを紹介した。律令制下の牧は、軍馬など国家が必要とする馬を生産することを目的とし、そこにいる馬は国家の馬、いわば「公馬」であるが、その生産方法はかなり粗放で、現在の競走馬を飼育する牧場とは違い、一年中放牧して自然に増殖させる野馬生産であった。

 ここでついでに、つぎの五点を指摘しておく。

(イ)このような牧場経営の方式は、現在ではほとんど見られなくなったが、下総と安房にあった江戸幕府の牧は同様の野馬生産の牧であり、その関係史料が参考になる(高々井町史史料集』など)。

(ロ)このような駒(及び債)の生産を目的とした牧の他に、現代の牧場に近い放飼の牧も『延書式』などにみえている。摂津の鳥飼牧・豊島牧や播磨の垂水牧など、きんとのまき都の近くにある「近都牧」がそれである。

(ハ)馬の社会は牡馬を中心に、複数の牝馬と子馬によるハーレムであり、若い牡馬を適当に隔離することは牧を維持する不可欠の条件である。この牡馬が貢上されて軍馬などに宛てられた。

(ニ)律令の駒生産を目的とした牧の経営は粗放で、土地生産性は低いが労働生産性は高いのである。

(ホ)こうして生産された馬は人に馴れていない野馬であり、その調教には人手がかかる。厩舎(きゅうしゃ)の規定はそれに対応している。

中村城公園から騎馬武者が集まり、大きな3つの妙見神を神輿で招いて催される祭である。起源は、鎌倉開府前に、中村相馬氏の遠祖である平将門が、領内の下総国相馬郡小金原(現在:千葉県の松戸)に野生馬を放し、敵兵に見立てて軍事訓練をした事に始まると言われている。鎌倉幕府成立後はこういった軍事訓練が一切取り締まられたが、この相馬野馬追はあくまで神事という名目でまかり通ったため、脈々と続けられた。
1868年の戊辰戦争で中村藩が明治政府に敗北して消滅すると、1872年に旧中村藩内の野馬がすべて狩り獲られてしまい、野馬追も消滅した。しかし、原町の相馬太田神社が中心となって野馬追祭の再興を図り、1878年には内務省の許可が得られて野馬追が復活した。祭りのハイライトの甲冑競馬および神旗争奪戦は、戊辰戦争後の祭事である。

 ところで『延書式』の中の『兵部式』には、「諸国馬牛牧」39牧が挙げられ、『左右馬寮(さうめりょう)式』に「御牧」32牧の名が見えている。この前者は兵部省の管轄下に18カ国に分布する「官牧」であるが、後者はいわゆる「勅旨牧」で、平安時代の記録類の駒牽行事にしばしばみえている。一般に『延書式』の規定は、9世紀後期の実状にもっともよく対応しているが、とくに前者は、令制の牧を直接的に継承するものと考えられている。

 そしてこの官牧は、『兵部式』に「牧の牝馬牛の廿歳己上は責課の限りにあらず」とみえ、前掲③の条項はやや緩和されたが、基本的には令の規定により運営されていたことがわかる。

高井牧(たかいのまき)

現在の高山村荒井原から須坂市の本郷にかけての一帯に、古墳時代の遺跡があります。
千曲川に注ぐ松川の扇状地は「高井牧」と呼ばれる牧場地帯で、これらの古墳の被葬者は朝鮮半島系の渡来人で、牧場の経営に携わった人たちと推定されています。
あがた塚出土品

県塚(荒井原)や新保塚(堀之内)、須坂市本郷の大塚古墳からは太刀や轡などの馬具が発掘されています。県塚からの出土品(『写真が語る高井の歴史』より)信濃国北部の千曲川右岸一帯が高井郡であり、高井の郡名を冠していることから、当時の政治的中心地が「高井」で、郡役所が置かれていたと推定されます。

信濃国北部の千曲川右岸一帯が高井郡であり、高井の郡名を冠していることから、当時の政治的中心地が「高井」で、郡役所が置かれていたと推定されます。

「高井村」
 上高井郡開闢の地は高井村とす、健御名方神の御子高杜神の開拓統治に属し、その子孫或は縣主となり或は郡領となりて居を同村荒井原に占めたり、その処を今縣屋敷と曰う。 されば日本地理志料には「按古郡家高井村にあり郡名因って起る」とし、 信濃地名考は「郡の中央に高井野村あり、郡造に及びて一郡の名となれるなるべし」と記せり。 而して高位縣主の墳墓を縣塚と呼びて荒井原字大星にあり、大塚又男塚と称し直径約八間、 天明中道路改修の為発掘したるに石棺現れ金環・玉類・古鈴等を出し勝山神官宅に保管す、 高杜神はこれより南大宮の地に鎮座し延喜式たり。
『上高井歴史』より

藤原宮から発掘された木簡

持統8年(694年)に遷都された藤原宮(現・奈良県橿原市)の遺跡から、「高井郡大黄」「十五斤」と書かれた木簡が発掘されています。これは、京の薬を扱う役所へ高井郡から薬草を送ったときの荷札と考えられています。

 国家の牧の分布を見ると、勅旨牧はみな馬牧で、甲斐・武蔵・信濃・上野の東国四カ国に限られているが、官牧は、駿河以東の八カ国に14枚(馬枚10+牛牧3+馬牛牧1)と、九州・四国を中心に備前・伯習以西に分布した23牧(鳥牧12+牛牧8+馬牛牧20不明1)である。前述の労働生産性は高いが土地生産性は低いという性格により、牧は、耕地の拡大につれてしだいに辺境に追いやられるし、放飼用の「近都牧」との分化も進んだ、と考えられる。なお、馬牧が東国に、牛牧が西国に多いことは重要であるが、今はその間題に立ち入る余裕がない。

 『延喜式』の牧の立地条件を調べると、海に囲まれた島川の中州や張り出した湾曲部、半島上の地形に位置するものが多く、それは名称からも知られる。これらは、耕地と牧を分離する土塁や柵や堀の構築に手間が省けるためで、江戸時代の幕府の牧でも、土塁や柵の維持が最大の課題であった。

* 「土地生産性」は単位面積の土地が生み出す富、「労働生産性」は一人の人間が生み出す富の高低をいう。共にしだいにより高い方に移るのが通常の経済法則で、一般的にはそれが生産力や文明の尺度にも関連する。条件が許せば、山林より牧、牧より島地、島より宅地へと転換されるのは、土地生産性の問題として理解できる。また、異常な土地高騰の際に見られたような、空地のまま放置するような現象は、政治などによる人為的なゆがみとして捉えられる

ことになる。