■広島の古代史・鉄の歴史
▶︎鉄の古代史‐ひろしまの鉄の歴史‐古代の製鉄技術
角 田 徳 幸(島根県立古代出雲歴史博物館)
1 はじめに
近代製鉄の確立以前、我が国の鉄需要は、たたら吹製鉄によって支えられてきた。その技術は、砂鉄を原料とすること、平面形が長方形をした箱形炉で製錬することによって特徴づけられる。製鉄開始期にあたる古墳時代後期の鉄生産は、円筒形をした製鉄炉で鉄鉱石が製錬されており、これとは全く異なるものであった。しかし間もなく、製鉄原料は鉄鉱石から資源として豊富な砂鉄に代わり、その効率的な製錬のために箱形炉が考案される。たたら吹製鉄へと発展する箱形炉による砂鉄製錬法が芽生えたのは、古代であった。本報告では、中国地方を中心に古代の製鉄技術を概観することで、たたら吹製鉄へと繋がる製鉄文化がどのように誕生したのか考えることとしたい。
2 鉄生産の始まり
(1)製鉄遺跡からみた鉄生産の始まり
弥生時代に遡るとされる製鉄遺跡には、広島県三原市小丸遺跡がある。SF1号炉は、円形で擂鉢(あたりばち・すり鉢)状の製鉄炉地下構造をもち、弥生時代後期の土器が出土したこと、炭素14年代測定・3世紀代を示すものがあったことなどから弥生時代の製鉄炉と報告された。しかし、出土した木炭の14C年代には8世紀初という結果が出たものも含まれており、弥生時代の遺構として共通認識となっているわけではない。
現在のところ、最古の製鉄遺跡と目されるのは、岡山県総社市千引カナクロ谷遺跡である。鉄滓(てっさい・スラッグ・ファイヤライト(Fe2SiO4)と珪酸系のガラス質から構成)捨場で出土した須恵器から6世紀後半に位置づけられるが、さらに遡る可能性も指摘されている。この他に出土遺物から時期が推定できる製鉄遺跡としては、岡山県津山市大蔵池南遺跡があり、作業面から出土した須恵器・土師器から操業年代は6世紀後半から7世紀初頭とされる。また、広島県三次市三良坂町白ケ迫遺跡では鉄滓捨場と製鉄炉に近い竪穴建物から須恵器と土師器、島根県邑南町今佐屋山遺跡でも製鉄炉に隣接する竪穴建物より須恵器が出土しており、ともに6世紀後半と考えられる。現在判明している発掘資料からすれば、最も古い製鉄遺跡は6世紀後半としか言えない。
原料は鉄鉱石と砂鉄があり、6世紀代に遡る可能性がある製鉄遺跡では前者が10遺跡、後者は14遺跡が確認できる。鉄鉱石を原料とする製鉄遺跡は、岡山県と広島県東部・滋賀県・福岡県に分布する。千引カナクロ谷遺跡では、最も先行する4号炉は鉄鉱石を原料とするのに対し、後出する1号炉は鉄鉱石と砂鉄を併用したと見られることから、鉄鉱石より砂鉄の使用が遅れるようである。砂鉄は、岡山県と広島県東部、福岡県・島根県・兵庫県・京都府など滋賀県を除く広い範囲で使われる。
大蔵池南遺跡・白ヶ迫遺跡・今佐屋山遺跡のように6世紀後半代の製鉄遺跡でも砂鉄の使用が認められ、早い段階から製鉄原料となっている。砂鉄製錬の成立過程については、当初の製鉄原料は朝鮮半島と同様に鉄鉱石であったが、やがて砂鉄との併用に進み、さらに砂鉄のみが使われるようになったという見方がある〔河瀬2004〕。
岡山県と広島県東部、滋賀県以外では、製錬の開始当初から砂鉄が原料となっており、前者すなわち吉備で確立された砂鉄製錬の技術が広がった可能性が考えられよう。
(2)鍛冶遺跡からみた鉄生産の始まり
製錬が6世紀後半代に本格化する状況は、鍛冶遺跡の展開からも窺える。弥生時代の鍛冶技術は、板状鉄素材を鍛冶炉で加熱し、鏨で必要な大きさに切断して用いる段階(Ⅰ段階)であった。古墳時代前期初めに、鍛冶炉への送風に鞴を用いる本格的な高温操業が始まり、低温素延べから高温鍛接作業を行う鍛錬鍛冶、鉄素材の除滓や炭素量調整を行う精錬鍛冶も可能な技術段階(Ⅱ段階)に達する。古墳時代後期には、砂鉄製錬が開始されたのに伴い砂鉄系鉄塊の除滓・炭素量調整を目的とした精錬鍛冶が出現し、製錬と精錬鍛冶・鍛錬鍛冶が一体となって行われる技術段階(Ⅲ段階)へと発展を遂げている。鍛冶素材は、砂鉄製錬が行われるⅢ段階以前は基本的には朝鮮半島から搬入された鉱石系鉄素材が使用されており、Ⅰ段階には鍛冶技術の問題から板状鉄素材、Ⅱ段階は板状鉄素材に加えて鉄塊も用いられたと見られる。
Ⅱ段階に高温操業が始まり、不純物を含む鉄塊の精錬鍛冶が行われたことは、この段階には製錬が始まっていた可能性を窺わせる。しかし、Ⅱ段階はⅢ段階のように鍛冶遺跡から製錬滓や炉壁が出土した例が報告されていない点などから、製錬の開始がⅡ段階にまで遡ると考えるに足る資料が十分であるとは言えない。
むしろ、鍛冶遺跡の様相は、製錬と精錬鍛冶・鍛錬鍛冶が一体となって行われるⅢ段階から製錬が始まったことをよく示しており、その状況は6世紀後半に分布を広げる製錬遺跡の状況と一致する。ただし、この段階には製錬遺跡・鍛冶遺跡とも相当数が営まれており、その時期がもう少し遡る可能性も否定できない。
3 古代の製鉄炉
(1)円筒形自立炉と箱形炉の成立
古墳時代後期の製鉄炉は、平面形が略円形・楕円形・隅丸方形で長幅比は1対1に近く、高さは底辺の2倍程度、側面には片側に2~3個、両側面に計4~6個の送風孔をもつ構造であったと推定される。これを円筒形自立炉と呼んでいるが、送風方法や自立炉であることなどは箱形炉と共通しており、古墳時代後期の円筒形自立炉こそが、たたら吹製鉄で 使われた箱形炉の原形と言える。我が国における初期の鉄生産は、朝鮮半島の製鉄技術を基礎としたものであり、当初は鉄鉱石の製錬が行われたが、早い段階からこれに加えて砂鉄も使用された。炉壁の側面に複数の送風孔を設ける円筒形自立炉の構造は、鉄鉱石よりも粒度が小さく通風性の低い砂鉄を製錬するのに適しており、資源として豊富な砂鉄を効率的に製錬するために考案されたと見られる。古墳時代後期の製鉄炉に伴う地下構造は、炉の規模に対応するように小さい。その平面形は、長方形・方形・円形・楕円形があり、土坑内に炭層を敷く防湿施設の有無などと併せて地域性も認められる。
7~8世紀代には、円筒形自立炉は製鉄炉の長さを伸ばして炉の容積を増やし、長方形をした箱形炉へと展開する。6世紀後半以降、鉄生産が展開した岡山県では小形箱形炉が展開するのに対し、その影響下で製鉄が導入されたと見られる滋賀県では大形箱形炉が出現する。中国地方の小形箱形炉は、内法で長さ60~80㎝・幅40㎝、長幅比は2対1程度のものが確認できる。製鉄炉地下構造は長方形を呈するが、炉の規模を大きく超えるものはない。一方、滋賀県では長さ250㎝・幅30~40㎝、長幅比6~8対1程度の長方形箱形炉が成立する。その地下構造は、長さが4~5mにも達し、炉の大形化に伴って防湿・保温施設の強化が図られたことも窺える。
古代の製鉄炉地下構造は、製鉄炉の長方形化が進んだことにより、古墳時代後期のように円形や楕円形ではなく、長方形をしたものとなった。その規模は、特に滋賀県で大形化が顕著で、炉床部の両端に排滓孔を備えた平面形が鉄アレイ形をしたものに定型化される。東北南部や関東・東海などで営まれた箱形炉はその系譜を引くもので、中央政府の関与の下、近江で国家標準型の製鉄炉として整えられた製鉄炉が日本列島各地に波及したことが指摘されている〔村上2007〕。
(2)円筒形自立炉・箱形炉の系譜
日本列島の箱形炉は、朝鮮半島に系譜が求められるという意見がある。その祖形と目されるのが韓国忠清北道石帳里遺跡A-4号炉で、方形竪穴の床面で細長長方形と楕円形をした炉状遺構2基が確認されている。これが箱形炉とされる理由は平面形が長方形という点にあるが、日本の箱形炉と比較すると両長辺からの送風が確認できず、炉壁に送風孔も認められないなど基本的な相違点があり、箱形炉として認定するのは難しい。
現段階で敢えて日本の箱形炉の原形を求めるとすれば、三国時代の円形炉のうち地上式円形炉とでも言うべき慶尚南道沙村遺跡の製鉄炉である。すなわち、日本の古墳時代後期には円筒形で炉体が地上に自立する円筒形自立炉が存在すること、この時期の遺跡が集中する岡山県から広島県東部では鉱石製錬が行われること、横口付炭窯が集中的に分布することなど、韓国との関係を窺うことができる要素があるからである。しかし、送風や排滓方法などに異なる要素が認められるのも事実であり、両者の系譜関係を論じるにはまだ資料不足の感も否めない。
日本の鉄生産は、基本的には三国時代の地上式円形炉の影響を受けて開始されたと考えられるが、韓国に比べ鉄鉱石に恵まれなかったため、原料を砂鉄に転換することで独自の展開を遂げることとなった。韓国では、高麗時代末以前は鉄鉱石のみを製鉄原料としており、円形炉に大形送風管1本を設置する製鉄炉で十分製錬することができた。鉄鉱石は、焙焼・破砕され粉鉱として用いられたが、炉内の通気性を確保し温度を維持するために粒度が異なる鉱石が併用されたと思われる。一方、日本で製鉄原料の主体となった砂鉄は粒度が均質で大きいものがないため、大形送風管1本では炉内の通風性を確保し製錬を十分に進めることが困難であった。そこで、両長辺に小さい送風孔を複数設けた円筒形自立炉が成立し、1基当たりの鉄生産量を増やすため箱形炉へ展開したと考えられる。
4 鉄生産地域の変化
(1)古代の鉄生産地域
古墳時代後期から平安時代前半頃までの製鉄遺跡は、南は九州の熊本県、北は東北の青森県まで359ヶ所の製鉄遺跡が確認されており、製鉄炉の数は1084基に及ぶ。遺跡数が最も多いのは、旧国別で見ると陸奥の83遺跡348基で、このうち福島県が60遺跡224基を占める。これに次ぐのが備前・備中・備後・美作に分割された吉備で54遺跡187基である。地域的には、北九州・中国・近畿・北陸・関東・東北に多数の製鉄遺跡が分布しており、南九州・四国・中部などではあまり知られていない。
鉄生産が始まった6世紀後半の製鉄遺跡が確認できるのは、近畿から中国・北九州である。北陸・関東・東北はこれらの地域より遅く、上野と福島県では7世紀後半から、北陸と関東(上野以外)は7世紀末から8世紀以降である。東北は北ほど製鉄の開始が遅く、宮城県は8世紀、岩手県は8世紀後半、青森県と秋田県は9世紀後半である。
中国で製鉄遺跡が特に集中するのは、備前・備中・美作と備後にまたがる吉備である。中国と播磨では、6世紀後半から11世紀頃の製鉄遺跡が管見に触れたものでも73遺跡あるが、吉備には54遺跡と73%が集中して営まれる。1遺跡あたりの製鉄炉の数は、岡山県総社市大ノ奥遺跡で25基、板井砂奥遺跡で22基、岡山市白壁奥遺跡で14基など、やはり吉備で多く営まれており、この時期に確認されている211基の製鉄炉のうち187基と88%を占める。製鉄炉1基当たりの生産量を増やすのではなく、小形の製鉄炉を多数操業して生産量を確保するのが6世紀後半から8世紀頃にかけての鉄生産方法の特色であり、こうした様相は吉備が鉄生産量において群を抜く存在であったことを窺わせる。
(2)古代末から中世の鉄生産地域
平安時代後半から室町時代の鉄生産地域は、南は九州の鹿児島県、北は東北の青森県まで161ヶ所の製鉄遺跡が確認されており、製鉄炉の数は298基を数える。遺跡数が多いのは出雲34遺跡40基と陸奥34遺跡85基で、これに石見12遺跡12基、出羽11遺跡17基、安芸10遺跡12基が続く。中国と東北に多くの製鉄遺跡があり、九州・近畿・北陸・中部・関東にもあるが少ない。このうち、製鉄遺跡が継続して営まれるのは中国と東北の平成27年度ひろしまの遺跡を語る(2016.1.23)鉄の古代史‐ひろしまの鉄の歴史‐
(14)みである。九州は肥後・筑前・豊後が14世紀代、豊前は13世紀代、北陸は越前・加賀が12世紀代、能登・越中・越後は13世紀代、関東では11世紀代まで製鉄遺跡が確認できるが、それ以降は見られない。
古墳時代後期から平安時代前半にかけての製鉄遺跡が多数あった吉備では、平安時代後半以降、備前と備中南部からは全く姿を消しており、原料であった鉄鉱石の枯渇が原因と指摘される。一方、安芸・石見・出雲には製鉄遺跡が多数分布するようになり、65遺跡のうち56遺跡と86%が集中する。これらの地域は、磁鉄鉱に富む山陰帯花崗岩類の分布にほぼ対応しており、平安時代後半に吉備から安芸・石見・出雲へと生産地域が移動する背景の1つには、原料の安定的な確保があったと考えられる
5 まとめ
我が国の鉄生産は、古代吉備において始まった。その技術は、朝鮮半島で培われた鉱石製錬を基礎としたものであったが、原料を砂鉄に転換したことで、これを効率的に製錬するために送風方法を改良した円筒形自立炉が考案された。
円筒形自立炉は、鉄の生産量を増やすため長さを延ばすことで炉の容積を拡大し、平面形が長方形をした箱形炉が成立する。吉備では小形の箱形炉が主流であったが、近江に移転された箱形炉の技術は長さ2mを超える大形炉を生み出し、これが東日本をはじめとした各地に波及した。しかし、その操業は安定しなかったようで、中国地方以外の地域では鉄生産が衰退したり、小形の竪形炉へ転換したりする。
古代において有力な鉄生産地であった吉備は、平安時代前半までには役割を終え、出雲・石見・安芸など後にたたら吹製鉄が盛行する中国山地に生産地が移動する。これらの地域では、たたら吹製鉄の地下構造(床釣)の原型となる本床状遺構・小舟状遺構が整備され大形箱形炉による安定操業が可能となり、精錬鍛冶専用炉が出現するなど、たたら吹製鉄へと繋がる様々な技術改良が進められた。
〔参考文献〕
穴澤義功2003「古代製鉄に関する考古学的考察」『近世たたら製鉄の歴史』丸善プラネット22-40頁
角田徳幸2014『たたら吹製鉄の成立と展開』清文堂出版
河瀬正利1995『たたら吹製鉄の技術と構造の考古学的研究』渓水社。
河瀬正利2004「前近代日本におけるたたら吹き製鉄の成立」『文化の多様性と比較考古学』考古学研究会50周年記念論文集 85-92頁
村上恭通2007『古代国家成立過程と鉄器生産』青木書店。平成27年度ひろしまの遺跡を語る(2016.1.23)鉄の古代史‐ひろしまの鉄の歴史‐
(15)図1 西日本における製鉄炉地下構造の変遷
▶︎平成27年度ひろしまの遺跡を語る(2016.1.23)
鉄の古代史‐ひろしまの鉄の歴史‐(16)
図2 箱形炉の炉底塊と送風孔付炉壁
図3 初期箱形炉の平面形 平成27年度ひろしまの遺跡を語(2016.1.23)
鉄の古代史‐ひろしまの鉄の歴史‐(17)
図4 韓国における製鉄炉の変遷 平成27年度ひろしまの遺跡を語る(2016.1.23)
鉄の古代史‐ひろしまの鉄の歴史‐(18)
表3 製鉄遺跡の消長
表1 古代の鉄生産地域
表2 古代末~中世の鉄生産地域
0100200300400肥後肥前筑前豊前伊予石見出雲伯耆吉備播磨丹後近江越前加賀能登越中越後尾張伊豆信濃相模武蔵下総常陸上野陸奥出羽遺跡数製鉄炉数010203040506070大隅日向肥前肥後筑前豊後豊前石見出雲伯耆安芸備後備中美作播磨越前加賀能登越中越後伊豆信濃武蔵常陸上野下野福島岩手青森秋田遺跡数製鉄炉数
平成27年度ひろしまの遺跡を語る(2016.1.23)
鉄の古代史‐ひろしまの鉄の歴史‐(19)
図5 製鉄遺跡分布の変遷 平成27年度ひろしまの遺跡を語る(2016.1.23)
鉄の古代史‐ひろしまの鉄の歴史‐(20)
古代の鍛冶技術
安間拓巳(比治山大学現代文化学部)
▶︎はじめに
鍛冶は、製鉄作業により生産された鉄塊から鉄器の素材や鉄器そのものを、鍛造により製作する工程である。鍛冶に関連する考古資料には、遺構では鍛冶炉があり、遺物では鍛冶作業に伴って排出される鉄滓【てっさい】、羽口【はぐち】(鍛冶炉内へ空気を送る送風装置である鞴【ふいご】から伸びる送風管の先につける円筒形の粘土製品)、小鉄片、小鉄塊、および鍛造剥片【たんぞうはくへん】や粒状滓【りゅうじょうさい】などの微細遺物がある。これらの資料を考古学的、理化学的に検討することにより、近代以前の鍛冶技術に関する様々なことを解明しようと研究が進められている。
鍛造による鉄器の生産は、わが国では約2000年前の弥生時代中期後半~末には行われていたと考えられている。その後、鍛冶技術は何度かの技術革新を経ながら、現代へと受け継がれてきた。今回は、古墳時代後期~平安時代初期頃(6世紀後半~9世紀初頭)の鍛冶技術に関わる諸問題について、おもに広島県や中国地方の遺跡を例にしながら述べてみたいと思う。
1.鉄器生産はいつ始まったのか-鉄器生産の開始と展開-
(1)鉄器生産のはじまりと鍛冶技術-弥生時代中期後半~後期-
わが国における鉄器生産は、出土鉄器の検討から、弥生時代中期初頭にははじめられたとする意見があるが、必ずしも共通の見解とはなっていない。
一方、鉄器生産の場である鍛冶遺構は、弥生時代中期後半~末には出現することが確認されており、遅くともこの時期には、鉄器の国内生産が開始されたことがわかる。弥生時代中期後半~後期の鍛冶遺構は、北部九州を中心とする西日本で検出例があり、中国地方でも広島県・島根県・岡山県などで確認されている。
弥生時代の鍛冶遺跡の特徴としては、次のようなことが知られている。
a.鍛冶具として石器を使用する
b.羽口がほとんど出土しない
c.鉄滓がほとんど出土しない
d.小さな不定形の鉄板が多く出土する
これらのことから、弥生時代の鍛冶技術は、古墳時代後期以降に国内に展開したような、高温での作業や複雑な工程を伴うようなものではなく、材料の鉄板を折り曲げたり、余分平成27年度ひろしまの遺跡を語る(2016.1.23)
▶︎鉄の古代史‐ひろしまの鉄の歴史‐(21)
な部分を鏨【たがね】で切断したりしながら鉄器を製作するようなものであったと考えられている。特異なものとしては、鋳造鉄器の破片を砥石で研ぐなどの再加工を施して利器としたものも知られている。このような鍛冶技術を、古墳時代以降のものと区別して「原始鍛冶」とも呼んでいる。ただし、北部九州や中国地方の一部では、より高温作業に適した鍛冶炉を構築して作業を行った遺跡も知られており、西日本の各地で共通の技術で鉄器生産が行われていたわけではく、地域による技術格差があったと考えられる。
なお、鉄器を製作する方法としては鍛造のほかに、高温で溶かした鉄を鋳型に流し込んで製作する鋳造の技術がある。東アジアで最初に鉄・鉄器生産を開始した中国では、鋳造技術が盛んに用いられ、朝鮮半島にも鍛造・鋳造それぞれの技術が確実に伝えられている。ところが、弥生時代の日本で確認できるのは鍛造技術のみであり、鋳造技術の存在はいまのところ明確でない。
(2)鍛冶技術の革新-弥生時代末~古墳時代中期-
弥生時代末~古墳時代初頭頃(3世紀)になると、鍛冶遺跡の様相に変化が見られるようになる。それは、断面形がかまぼこ形をした筒状の羽口と、ある程度の大きさの鉄滓が、まとまった量出土する遺跡が出現することである。このことは、それまでより高温での鍛冶作業が可能になったことを意味しており、わが国における鍛冶技術の第一の画期ともいえるものである。ただし、こうした技術は国内の広い範囲でみられるものではなく、福岡市博多地区や奈良県北部など、西日本の拠点的な遺跡でのみ確認されるもので、広範囲における技術の変革が起こったわけではないようである。
古墳時代前期末~中期(4世紀後半~5世紀)は、対外交渉が盛んに行われた時期であり、それに伴って様々な文物や技術が日本へもたらされた。その中には鍛冶技術も含まれ、この時期に大きな技術革新が認められる。その内容は、鍛冶遺跡からの出土遺物や鉄器の検討から、以下のようなものであったと考えられている。
a.高温を伴う鍛冶技術・・・羽口、大型の鉄滓の出土例が増加
b.鉄材と鉄材を接合する技術(鍛接)の出現
c.冷間鍛造や熱処理技術の導入・・・甲冑などの複雑な形状の鉄製品の製作
これらの技術は、当時の政治や経済、対外交渉などを主導した倭政権に関連した地域(畿内周辺地域)にまず導入され、しだいに各地に技術が伝播したものと考えられる。しかし、こうした高度な技術が、すぐに全国に広まったわけではない。実際、各地の鍛冶遺跡の出土資料には、土師器高杯の脚部を転用した羽口や石器をハンマーにしたのではないかと考えられるものがあり、古墳時代後期以降も鍛冶技術に地域格差が認められる。
また、鍛冶遺跡が中央あるいは地域の政権に関連するものか、一般的な集落内に営まれたものかによっても、遺跡として現れる状況や残された遺物、生産された鉄器などに違いがあると考えられることから、こうした視点からの研究も進められている。
古墳時代後期以降の鍛冶技術は、前期末~中期に起こった技術革新を、基本的に受け継ぐかたちで展開したと考えられている。
平成27年度ひろしまの遺跡を語る(2016.1.23)
鉄の古代史‐ひろしまの鉄の歴史‐(22)
2.どのような施設や道具を用いたのか-鍛冶工房と鍛冶具-
(1)鍛冶遺構-工房と鍛冶炉-
古代の鍛冶工房は竪穴建物であることが多く、鍛冶炉とともに竈【かまど】を備えたもの(Aタイプ)と竈をもたないもの(Bタイプ)がある。遺構の形状も、Aタイプは集落内で検出される竪穴建物と同様に整った方形であるのに対し、Bタイプは隅が丸くなった方形(隅丸方形)や長円形(小判形)であることが一般的である。これらのことから、Aタイプは日常生活を営む空間で鍛冶作業を一時的、または臨時的に行った遺構であり、Bタイプは鍛冶作業を専業的に行うための工房であったと考えられる。
また、建物遺構を伴わずに鍛冶炉だけが検出される場合も、多く知られている(Cタイプ)。わが国の気象条件を考えれば、鍛冶作業を長期間にわたって露天で行うことは困難であり、簡単な小屋掛け程度の上屋があったと考えられる。Cタイプの鍛冶遺構は、日常生活を営む場であったとは考えにくいため、鍛冶作業のための施設とみなすことができる。古代の鍛冶遺構の検出例は、BタイプとCタイプを合わせたものがAタイプを上回ることから、専業的に鍛冶作業を行う工房がかなり普及していたと考えることができる。
鍛冶炉跡は、地面を掘り窪めただけのもの(Ⅰ型)、地下構造をもつもの(Ⅱ型)、掘り込みをほとんどもたず、赤く焼けた面だけが確認されるもの(Ⅲ型)、の3タイプに分けられる。これらがさらに、炉の壁に粘土を貼るもの(a型)と貼らないもの(b型)に細分される。このうち、検出例が多いのはⅠ型で、Ⅲ型もある程度認められる。
以上のような鍛冶工房や鍛冶炉の形態の違いは、そこで行われた鍛冶作業の内容や操業期間などと関連しており、そのことから、鍛冶がどの程度社会生活の中に普及していたのか、あるいはどのような鍛冶作業が行われていたのかをうかがうことができると考えている。それによると、近世や近代には、村に少なくとも1~2軒の鍛冶屋があったといわれているが、古代ではそこまで普及していなかったようで、技術的にも地域差がある程度認められるようである。
ただし、これは国内全体の傾向であり、中国地方では他地域よりも普及しており(鍛冶遺構の検出数が多い)、技術的に高いものであったことがうかがえる。広島県内では、とくに備後北部地域においてこうした特徴が見受けられる。
工房内からは、鍛冶炉以外に、鍛冶炉の周辺から土坑(穴)が検出されることがある。ほとんどは用途不明であるが、鞴の設置と関連した遺構である可能性が考えられるものもある。そのほかに、職人が居る場所(作業する場所、立ち位置)に関連すると考えられ、そのように報告されている例もある。鍛冶職人の作業姿勢については、現在知られている職人は、基本的に床を掘り窪めた場所に立って作業を行っているが、中世の絵巻物を見ると、職人は床に座って作業をしている。古代の鍛冶遺構から土坑が検出される例は少ないので、基本的には座って作業をしていたのではないかと思われる。
平成27年度ひろしまの遺跡を語る(2016.1.23)
鉄の古代史‐ひろしまの鉄の歴史‐(23)
(2)鍛冶具
羽口を除けば、鍛冶具の中で最も出土例が多いのは鉗【かなはし】で、そのほかに鏨【タガネ】や鑢【ヤスリ】などがある。しかし、鍛冶遺跡の調査数に対して鍛冶具の出土例は少数であり、とくに金床(金敷・鉄砧)の出土例は知られていない。鍛冶具の出土例が少ないのは、鉄製の鍛冶具が壊れてしまった後は、鉄製品の素材として再利用されたためと考えられる。
平安時代前半(10世紀)に成立した辞書である『倭名類聚抄』(倭名抄)には、鍛冶具の項目があり、当時の様子をうかがうことができる。それによれば、鍛冶具の道具立ては、すでに近・現代のものと大きな違いがないことがわかる。したがって、ある程度近・現代と同様の鍛冶作業は行えたものと考えてよいであろう。ただし、注目したいのは送風装置である鞴に関する記載である。
『倭名抄』には、鞴は二種類が記載されており、一つは「踏鞴」と書かれ「太々良【タタラ】」と読みがつけられている。奈良時代後半~平安時代前期(8世紀後半~9世紀前半)には、東日本の一部で製鉄炉に送風するために踏鞴を使用したことが知られている。このことから、踏鞴は製鉄用の鞴であり、製鉄職人と鍛冶職人の区別は完全にはついていなかった可能性が考えられる。
もう一つの鞴は「鞴」と書かれ「布岐加波【フキカワ】」と読みがつけられている。これが、鍛冶作業用の鞴と考えられ、その読みからは、動物の皮を袋状にしたものを利用して送風した「皮鞴」であったことが推察される。近・現代の鍛冶屋で使われた鞴は木製の箱鞴であったが、当時はまだこうした構造ではなかったであろう。したがって、鞴の構造や送風量が現代のものとは異なっていた可能性が高い。送風技術は鍛冶作業の内容や効率性を考える上では重要な要素であることから、古代の鍛冶作業が必ずしも近・現代のものと一致したわけではないことが推定される。ちなみに、近・現代に見られるような箱鞴は、絵巻物の検討などから、鎌倉時代前期(13世紀頃)には発明されていたと推定される。
なお、もう一つ『倭名抄』の記載で注目できる点は、鍛冶具の中に鋳型が見えることである。このことは、当時はまだ製鉄職人と同様に、鍛冶職人と鋳物師との区分も明確ではなかったことをうかがうことができる。
3.どのような技術だったのか-遺構や遺物から見た古代の鍛冶技術-
古代の鍛冶技術を直接的に示す文字史料は残されていない。そのため、遺構や遺物から当時の鍛冶作業の内容や鉄器製作技術を推定・復元していくことになる。鍛冶遺構からは鉄器や鉄片以外にも、鉄滓や鍛造剥片・粒状滓などの鍛冶関連遺物が出土する。これらは、鍛冶の作業工程や内容によって成分や組織、大きさやなどが異なるため、こうした遺物に対する化学分析や観察をすることが重要となってくる。
鍛冶作業の工程は、鉄器製作のために鉄の性状(鉄に含まれる炭素量)を調整する工程
平成27年度ひろしまの遺跡を語る(2016.1.23)
鉄の古代史‐ひろしまの鉄の歴史‐(24)
(精錬)と鉄器を製作・成形・修理する工程(小鍛冶・火造り)の大きく二つに区分できる。広島県内や中国地方の鍛冶遺構から出土する遺物の検討結果を見ると、多くの遺跡で鍛冶に関するほぼ全ての工程を行うことができたと考えられる。すでに中国地方の古代の鍛冶技術は、高い水準に達していたものと推定される。
4.誰が何をつくったのか-文献史料や考古資料から見た生産組織と製品-
鍛冶遺跡において、その経営主体を推定することは困難な場合が多い。しかし、律令による政治体制が機能していた飛鳥時代後半~平安時代前半には、公の機関が経営主体となって営まれたと推定される鍛冶遺構が存在する。それは官営鍛冶工房と呼ばれ、大型の竪穴遺構に複数の鍛冶炉が整然と配置される特徴的なものである。これらは鍛冶作業を集中的・効率的に行うための工房であると考えられ、宮都(飛鳥京・平城京)や地方官衙(役所)である国府や郡家に付属したかたちで検出される。これまでは関東地方や東北地方などの東日本で検出されてきたが、近年は広島県福山市矢立遺跡、島根県雲南市鉄穴内遺跡、岡山県総社市鬼ノ城遺跡、愛媛県今治市別名寺谷Ⅰ遺跡など、中国・四国地方で官営鍛冶工房の可能性がある遺構が確認されており、注目している。また広島県三次市道ヶ曽根遺跡や島根県雲南市寺田Ⅰ遺跡の鍛冶工房は、いわゆる官営鍛冶工房のような形態ではないが、鍛冶炉の構造や遺跡出土遺物の様相から、官衙と関連した鍛冶工房ではないかと推定される。このような工房では、出土する鍛冶関連遺物の質や量から、精錬工程を含む複雑な鍛冶作業が行われていたと考えられる。
ところで文献史料からは、古代の官衙では、地域で必要な農工具を製作するように定められていたことがうかがえる。また、平安時代前期(10世紀前半)に成立した『延喜式』によれば、伯耆・美作・備中・備後・筑前といった国々は、調や庸として鉄や鍬を税として納めることが求められており、平城宮や飛鳥・藤原地域出土木簡から、8世紀以前についてもほぼ同様であったことが推定できる。このことから、とくに中国地方において、公の機関との関連がうかがわれる鍛冶工房では、調庸鉄・鍬の生産が行われていた可能性が高い。また、一部の官営鍛冶工房では、都から派遣された技術者から各地の技術者が鍛冶技術を習うという、技術の伝習が行われていたと考えられている。
一方、公の機関とは関連の薄い鍛冶作業(鉄器生産)を行っていたと推定される工房もある。そこでは、日常生活に必要な鉄器の製作や修理がおもに行われていたのであろう。工房や鍛冶炉の構造が簡易なもので、鍛冶関連遺物の出土量が少ない遺跡は、こうした工房であった可能性がある。
なお文献史料からは、奈良時代には鋳鉄製品の生産が行われていたことが推定され、考古資料からも、奈良時代末~平安時代前期には東日本で鋳鉄製品の生産が行われていたことが明らかになっている。中国地方での鋳鉄製品の生産については明らかではないが、三次市松ヶ迫遺跡から出土した鉄製の鋺は、この地域における鋳鉄製品の生産を考えるうえで注目される資料である。
平成27年度ひろしまの遺跡を語る(2016.1.23)
鉄の古代史‐ひろしまの鉄の歴史‐(25)
▶︎おわりに-課題と展望-