東アジアにおける鉄及び鉄生産
関 清・富山県埋蔵文化財センター
▶︎はじめに
鉄は,他の金属には見られない堅さと靱性を持っていることから,古代国家成立と深く関わってきた。したがって,我が国の古代鉄生産の歴史を考えるうえで,中国大陸や朝鮮半島の製鉄技術史の理解が不可欠であることは言うまでもない。我が国では,弥生時代に鉄器や鉄素材が中国大陸や朝鮮半島から持ち込まれ,古墳時代には,製鉄技術の移入により列島内でも鉄生産が開始される。
その後,列島内で独自の技術発展を成し遂げたかにも見受けられるが,当時の国家体制いわゆる律令体制の導入と密接な関係にあると考えられることから,東アジア全体の流れの中で鉄生産の様相を検討する必要がある。ここでのテーマは,7世紀から9世紀を中心とした東アジア鉄生産技術交流の解明であるが,中国大陸及び朝鮮半島における当該時期の事情が必ずしも明確ではない。したがって,その前後における鉄生産の様相を概観し,併せて我が国の鉄生産の実情を見ていくことで,東アジアにおける鉄生産技術交流の様相を浮彫にしたい。
1.東アジアにおける鉄及び鉄生産研究の概要
(1) 中国大陸における鉄生産
東アジアの最古の鉄器は,中国の殷・周代にみられ,河北省台西村の殷中期の墳墓から出土した青銅製の鉞(えつ・まさかり)の刃部に鉄が使用された鉄刃銅鉞(てつじんどうえつ)である。
これは分析の結果,ニッケルを含有する隕鉄(いんてつ・鉄‐ニッケル合金)であり,同様な例は,北京市劉家河村出土の殷代の鉄刃銅鉞・河南省衛輝府出土の周初の鉄援銅戈(てつえんどうか=ほこ)・鉄刃銅鉞などがある。人工鉄が確認されるのは,現在のところ紀元前5,6世紀の春秋末から戦国早期に限られる。江蘇省程橋鎭1号墓・2号墓では,前者から白銑鉄の鉄塊1個,後者から海綿鉄鍛造の鉄棒1条が出土しており,銑鉄と錬鉄両者が存在する。
しかしこの時代の鉄器は,鋳造製の農具・工具が主流であり,鍛造製のものはごくわずかである。それは錬鉄を硬化させる浸炭技術がなかったことに起因する。中国大陸で製鉄遺跡が確認されるのは,戦国時代晩期の河南省酒店製鉄遺跡が初見である。前述したように春秋末には鉄器が存在していることから,さらに鉄生産の開始時期が遡ることを示唆している。
浸炭(しんたん、滲炭)とは、金属(特に低炭素鋼)の加工において、表面層の硬化を目的として炭素を添加する処理のことである。主に耐摩耗性を向上させるために行われる。
漢代には鉄官が置かれ,その管理の下で大規模な鉄生産が行われる。紀元前5世紀には焼き鈍し技術による可鍛鋳鉄が生産され,紀元前3世紀には棒状及び板状の鋳鉄脱炭鋼製品が大量に作られる。また,紀元前1世紀には鉱石粉や鍛造薄片とともに酸素を直接送り込み脱炭する炒鋼法が開発される。河南省古榮鎮製鉄遺跡や鞏県鉄生溝などが代表的な遺跡である。
隋・唐時代及び宋代の製鉄遺跡は,20遺跡ほど報告例があるが,明確な炉跡などの詳細は不明である。この時期における製鉄技術の特徴は,大型鋳造品を生産したことと石炭を使用したことがあげられる。 前者の例としては,953年に製作された河北省滄州鉄獅子が中国最大の鼠銑鉄鋳造品として有名である。また,嘉祐6年(1061)銘を持つ河北省当陽鉄塔などがあり,仏教の影響下で様々な鉄製仏具が生産される。これらの鋳造品は,珪素の含有量が増加する傾向が指摘される反面,送風技術の発展等により,さらに高温状態での操業が可能になった。
後者については,12・13世紀とされる鉄製品の分析結果から硫黄が増加することが指摘されており,石炭燃料使用がその原因であるとされる。石炭が製鉄燃料として使用開始される時期については,宋代には確実であり,この背景には木炭の高騰があるとされている。『宋史』によれば,983年,鄙陽一帯で木炭1称(約9Kg)13文であったものが,1012年には1称200文に高騰した記事がある。また,北魏の躑道元が著した『水経注』に「人,此の山の石炭をとりて,此の山の鉄を冶す」とあり,さらに,唐・宋代とされる江蘇省徐州利国駅製鉄遺跡から炭坑跡が発見されている。このようなことから,韓汝竕は,唐・宋代から石炭が使用されたと考えている。
中国大陸における製鉄遺跡の研究は,1956年に楊寛が著した『中国古代冶鉄技術的発明和発展』が草分けであろう。同書は文献資料に基づく研究が主な内容となっているものの,冶金技術の発達史として体系的に検討がなされている。1982年,揚寛は瓦房庄製鉄遺跡や鞏県鉄生溝遺跡などの資料を加え前掲載書の改訂版とも言うべき『中国古代冶鉄技術発展史』を著し,中国の製鉄遺跡の研究の礎を築いたと言ってよい。1970年代以降は,現在の河南省文物研究所と北京鋼鉄学院(現北京科技大学)との共同研究が活発になり,1978年,北京鋼鉄学院から『中国古代冶金』が出版される。その特徴は,鉄生産技術のみならず非鉄金属の技術史にも及んでいることと,化学分析データーが掲載されていることであ
その後,この研究は,1986年に論文集である『中国冶金史』に集約される。その後,過去の発掘資料が再検討されるなど,考古学的研究に加えて自然科学的な検討が加えられ,飛躍的な成果をあげている。我が国では潮見浩が早くから中国製鉄遺跡の研究に着手し,1982年に『東アジア東アジアにおける日本列島の鉄生産、初期鉄器文化』を著している。また,川越哲史,橋口達也,東潮,村上恭通らも日本列島における初期鉄器の流通という観点から,広く東アジアの鉄器文化にっいて解析している。さらに,大澤正己は,日本列島のみならず中国大陸や朝鮮半島から出土した鉄器の金属学的分析を行い,東アジアにおける鉄生産技術を検証していることは,新たな視点からのアプローチとして看過できない研究である。
(2) 韓国における鉄生産
韓国における製鉄遺跡研究は,1989年の慶州市隍城洞遺跡の発掘調査が契機となり,急速に進展しつつある。角田徳幸は,韓国における調査成果と自らの調査を踏まえ,「韓国における製鉄遺跡研究の現状と課題」と題した論考を著していることから,詳細は,それに委ねることとするが,同論考に基づき概要を次に記す。
韓国における鉄器の使用開始は,紀元前3世紀頃に中国東北部から搬入された鋳造鉄器が初見である。鉄器の生産は,紀元前2世紀後半とされる莱城遺跡から鍛冶関連の以降と遺物が確認されている。しかし,この遺跡では,焼土や鉄板などが検出されているものの,鉄滓(てっさい)や羽口(はぐち・溶鉱炉などの送風口)などが未検出であることから,鉄板を加熱し,鏨(たがね)切り程度の簡単な作業が行われたと考えられている。
本格的な鍛冶遺構が確認できるのは,原三国時代で,京畿道馬場里遺跡から羽口様の送風口付き土製品や鉄滓が出土し,慶尚南道茶戸里遺跡から鉄鎚(てってい・ハンマー)が出土していることから,鍛接や炭素量調整などの鍛冶技術が確立したと見られている。
製鉄の開始は,現在のところ3世紀末とされる忠清北道石帳里遺跡がもっとも古い。製鉄炉の他にも鉄鉱石の焙焼施設,鋳鉄溶解炉,鍛冶炉が発見されており,大規模かっ一貫した生産が開始されていたことが判明している。6世紀前半から7世紀前半にかけて操業された慶尚南道沙村遺跡からは,製鉄炉や送風管などが発見されており,我が国の製鉄遺跡を考える上で極めて重要な意味を持つ。砂鉄製錬が確認されるのは,現在のところ16~17世紀とされる光州広域市金谷洞遺跡が初現である。ちなみに,三国時代の始発原料は,鉄鉱石を粉砕し粒状にして使用される。
(3)日本列島における鉄生産
我が国での鉄器の出土は,福岡県曲り田遺跡出土の板状鉄斧や熊本県斉藤山遺跡から出土した鉄斧の刃部が初現である。稲作開始時期と同時期であり,その流入経路も稲作と同様に江南から山東半島へ,そして朝鮮西南部地域を経て日本列島にもたらされたと考えられている。しかし,我が国に搬入された鉄器には,戦国時代から漢代にかけて中国東北部・西北朝鮮が製作地と比定される二条凸帯鋳造鉄斧が出土することや,漢代とされる楽浪土城出土の鉄器が大澤正己により金属学的分析が行われ,可鍛鋳鉄の焼き鈍し技術が存在することが明らかにされていることから,中国東北部から朝鮮半島を経由する鉄器や素材の搬入経路があることは,確実といえる。
鍛冶の始まりについては,橋口達也が弥生前期に遡るという考え方を示しており,鍛冶遺構の最も古いものとして,中期後半の福岡県赤井手遺跡をあげている。橋口の考えは,東アジア全体の鉄生産のなかで矛盾するものではないが,簡単な加熱と鏨切りの行程を示すものを「鍛冶」としたことに問題が残る。因みに「鍛冶」の概念は,不純物を取り除き鍛接するいわゆる「沸し」と炭素量を下げていく「下げ」の工程を繰り返すことにより,様々な鉄器を製作する行為と考えており,これら作業に必要な金鉗(かなばさみ)や金鎚(かなづち)などの存在が前提となる。いずれにしても,簡単な加工までも「鍛冶」とするには技術認識の共有化が必要と考える。大澤正己は,このような簡単な加工作業を「原始鍛冶」として区別している。現在のところ確実な鍛冶遺構1は,古墳時代初頭とされる博多遺跡群第59・65次調査地点が最古の例であろう。
また,東潮は紀元前4世紀から7世紀までを6段階に分類し,それぞれの製鉄・鍛冶技術の発展段階を明らかにしている。東が第4段階とした時期は,4世紀後半から5世紀前半で,鋳造鍬(耒)が流入するとともに,輸入素材(鉄钁)による鍛冶生産が発達するという。筆者もこの時期に鍛冶技術が確立したと考えたい。製鉄の開始は,5世紀初めに須恵器生産と同様に朝鮮半島から移入されたと考えている。大澤正己は,福岡県閏崎遺跡出土鉄滓の分析から,製鉄の開始時期が5世紀中頃と考えている。我が国における須恵器生産が,鉄生産と同様な動きをすることから,かなり妥当性があると考えられる。岡山県大蔵池南遺跡や京都府遠所遺跡は,6世紀代に操業された製鉄遺跡である。いずれも砂鉄を始発原料とするが,我が国最古と認められる総社市千引カナクロ谷遺跡では,鉄鉱石を始発原料とする。鉄鉱石を始発原料として操業しているのは,山陽地域と近畿に多く見られる。中国大陸や朝鮮半島には,現在のところ,この時期の砂鉄製錬が確認されておらず,課題の一つとなっている。8世紀には砂鉄製錬が全国に展開するが,これらは律令体制の確立とともにその経済的基盤を支えた重要な要素となる。鋳造技術は9世紀に確立すると考えており,この背景には,仏教の浸透に伴う仏具の需要生産の必要性と銑鉄を作ることのできる炉の改良があると考えている。
2.横口付炭焼窯について
製鉄遺跡の技術交流を考えるとき,看過できないのが横口付炭焼窯である。横口付炭焼窯とは,窯体を丘陵の等高線と平行に築き,谷側に広い作業場を設け,その作業場から窯体に複数の横口を作るものである。傾斜はほとんど無く,窯体が酸化炎で赤色を呈することなどが特徴としてあげられる。
この横口付炭焼窯の分布を見ると,日本では中国地方に多く分布しており,北部九州,近畿,北陸そして東北南部にも散見できる。中国地方では6世紀後半から7世紀代のものが殆どで,他の形状の炭焼窯が存在しない。北陸と東北南部のそれは,いずれも9世紀代のものであり,横口の数も少なくなる。なお,9世紀代の横口付炭窯は,中国地方との系譜が認められないことから,課題の一つとなっている。韓国では,近年の調査により16遺跡で60基余りが確認されている。年代も4世紀から5世紀を中心に展開し,我が国の同型式の炭窯に強い影響を与えたことが肯ける。安間拓巳は「横口付炭窯は日本国内には朝鮮半島から本格的な製鉄技術とともに伝えられ,その初期の製鉄技術を直接,あるいは間接的に受け入れた地域で使用された」とし,筆者も同様に考えている。
ただし,現在のところ中国大陸では炭焼窯が未だ発見されていない。漢代の製鉄遺跡を実見したときに,木炭の痕跡を炉壁や鉄滓に確認していることから,木炭を使用していることは間違いなく,その窯の形状が判明すれば,製鉄技術の系譜に大きく寄与することは確実である。
3.日本律令体制下における鉄生産
日本列島における製鉄炉を表2で概観すると,いくつかの画期と特徴を指摘できる。西日本では箱形炉、竪形炉が多い傾向が見て取れる。また,関東地方を除けば,9世紀初頭まで箱形炉による操業が行われ,それ以降は竪形炉に推移していく。
箱形炉は,除湿機能としての地下構造を作り,その形状が西洋のバスタブに似ていることに由来するが,上部構造については,必ずしも方形ではない場合も考えられる。中国大陸の古榮鎮製鉄遺跡,鞏県鉄生溝製鉄遺跡では,円形と長方形の炉が確認されている。また,朝鮮半島における箱形炉の出現は,今のところ14世紀のものが最古であり,すぐには列島との系譜がたどれない。現時点で確認できる最古の炉は,前述の6世紀半ばと考えられている総社市千引カナクロ谷遺跡の炉で,箱形炉による鉱石製錬である。
我が国の初現期の炉が箱形であるが,製鉄東アジアにおける日本列島の鉄生産317という高度な技術が独自に確立したとは理解しがたい。近い将来,朝鮮半島から日本列島に伝えられた製鉄炉が発見され,その関係が明らかにされるものと思われる。
(1)受容期
6世紀から7世紀にかけての始発原料は,鉄鉱石が圧倒的に多く,九州と近畿地方に多く分布する。このことは,中国及び韓国における製鉄始発原料も鉄鉱石が使用されていることや,列島内の他地域での鉄生産が本格化する以前であることなどを考慮すると,中国あるいは韓国からの直接的技術流入の実態を見て取ることができる。
645年に班田収受法が施行され,口分田開墾に係る多量の鉄需要が考えられるが,製鉄遺跡が全国に波及していないことを考慮すれば,班田収受の制度もまた全国的な広がりが無かったものと考えられる。
(2)普及期
次に,7世紀末に入ると,全国規模で鉄生産が展開される。関東地方を除けば9世紀初頭まで箱形炉による操業である。701年には,本格的な律令である大宝律令が施行される。743年には永年私財法が施行され,律令体制の基盤を揺るがすような事態も発生するが,墾田地系荘園が存続する9世紀中頃までは製鉄遺跡の普及時期とみてよい。また,この時期の鉄生産体制を支えたのは,郡衙と考えている。製鉄用炭窯の作り方にそれぞれの地域の特徴があること,山林原野の領有形態に須恵器生産との競合を避ける現象が見られることなどから,一定の規制に従い生産されたと考える。おそらく,郡の徭丁(令制で、雑徭としての労役に従事する正丁(せいてい))のうち「採松丁」や「炭焼丁」などが中心となったと考えられる。図3鉄生産体制のイメージ
(3)地域化の進行期
9世紀に入ると東日本を中心に,竪形炉を中心とした操業が活発化するとともに,鋳造技術が普及する。竪形炉は,炉床下部に木炭を充填する箱形炉に似た構造を継承しているものや地山を直接掘り窪めたものなど多様な形態を示す。このことは,始発原料である砂鉄の品質の善し悪しに左右されず,ひたすら操業効率を追求した結果と考えられる。また,鋳造技術が普及するのは,その鋳型の多くが香炉の獣脚であり,梵鐘であることを考えれば,仏教の定着に深く関わっていると言える。この時期は,寄進地系荘園を中心とした社会であり,荘官による直接経営による生産体制が地域化の進行を促進したものと見ることができる。
表2日本古代の製鉄遺跡編年
おわりに
以上,中国大陸,朝鮮半島そして日本列島の製鉄技術の変遷を概観した。課題である7世紀から9世紀を中心とした東アジア鉄生産技術交流の解明は,不十分と言わざるを得ないが,その輪郭を明らかにできたと考えている。つまり,
(1) 日本の製鉄技術のうち本格的な鍛冶技術は,4世紀後半から5世紀前半頃に朝鮮半島から輸入された素材をもとに確立したと考えられること。
(2) 鉄生産は,閏崎遺跡の鉄滓分析から5世紀中頃に開始されたと考えられ,初現期の製鉄遺跡では,始発原料に砂鉄以外に鉄鉱石が多く見られることから,中国や朝鮮半島からの技術移入があったことは否定できないこと。
(3) 7世紀末から日本列島では,ほぼ全国で製鉄が開始され,8世紀には盛行期を迎える。製鉄炉の形状も箱形炉が主流であるが,関東地方では竪形炉が普及する。朝鮮半島における箱形炉の出現は,今のところ14世紀のものが最古であり,列島との系譜はたどれない。このことは,鉄鉱石などの原料を還元して鉄を得るという基本的な技術をべースにしながらも,砂鉄を始発原料とする独自の製鉄技術が確立したと考えられること。
(4) さらに,9世紀からは,砂鉄を始発原料とした鋳造が開始される。中国大陸と異なる点は,燃料に木炭を使用しつづけたことで,その背景には山林原野の領有形態に一定の自己規制が働き,計画的な鉄生産が行われたと考えられることなどである。
東アジアにおける鉄生産技術の研究は,緒についたばかりと言える。とりわけ,7世紀から9世紀の鉄生産のあり方は,日本での研究が進んでいるものの,韓国や中国では,詳細が不明である。鉄は,冒頭に述べたように,古代国家形成に大きな影響を及ぼしたばかりでなく,都城造営や律令体制の維持など,当時の経済的基盤を支えたものであり,古代史の解明に欠かせない研究素材であると言える。いずれにしても,古代東アジア社会の解明のために,東アジアの研究者による情報の共有化とさらなる共同研究が肝要であろう。
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