■第三部 弥生時代後期・邪馬台国
1. 弥生時代後期(Ⅴ期)(50年~200年)
a. 邪馬台(ヤマト)国成立前史
『古事記』と『日本書紀』の内容としては、創作された物語である神話部分(神代)と史実に基づいて記されたという天皇の時代(人代)とに分けることができる。下記のように、神武天皇からの人代の始まる時期は、『三国史記』「新羅本記」の新羅王家系図から類推すると、弥生時代後期の始め(1世紀半ば)とほぼ一致する。文献的には後期は、『後漢書』「東夷伝」によれば、「57年、倭の奴国王が後漢の光武帝に使いを送り金印を賜る」との事積から始まる。また、「107年、倭国王師升が朝貢し、生口)160人を献上した」とある。さらに、「桓帝・霊帝の治世の間(146 – 189年)、倭国は大いに乱れ、互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。」とある。『魏志倭人伝』には、「女王国ではもともと男子を王としていたが70~80年を経て倭国が相争う状況となった。争乱は長く続いたが、邪馬台国の一人の女子を王とすることで国中が服した。名を卑弥呼という。」とある。
大国主は、弥生時代中期後葉には出雲を中心し西日本全域にわたる、玉、銅と鉄の青銅器を祭器とする国々のネットワークを構築していた。紀元前後に辰韓(新羅の前身)出自の素戔嗚尊(スサノオ、須佐乃袁)が出雲に侵攻した。この時銅鐸「聞く銅鐸」などの祭器の大量埋納があった(加茂岩倉・荒神谷遺跡)。スサノオに敗れた大国主はこのネットワークの拠点を出雲より近江に遷す。スサノオは筑紫に戻り伊都国を拠点にして、九州一円を支配したと思われる。帥升(スイショウ)はスサノオの後継者か。紀元前1世紀の近江には大国主のネットワークを構成する支国として浦安の国があった。紀元1世紀末頃には、近畿・東海一円を束ねる大国主の国、玉牆の内国(たまがきのうちつくに)が建てられた。玉牆の内国は、『魏志倭人伝』に「もともと男子を王としていたが70~80年を経て倭国が相争う状況となった」とある「男子を王とする国」で、その国都は近江の伊勢遺跡と考えられ、巨大な「見る銅鐸」を祭器にしたと思われる。玉牆の内国は2世紀末まで続くが倭国大乱での大国主の敗退により瓦解した。この瓦解により多数の「見る銅鐸」が三上山麓の大岩山中腹に埋納された。
前漢の楽浪郡の設置に伴い、紀元前1世紀頃には、弁韓、辰韓、筑紫、出雲と丹波を覆う、広大な経済ネットワークが成立していた。高麗が編纂した『三国史記』「新羅本紀」や『三国遺事』によれば、倭人の瓠公(ここう)が新羅の3王統(朴氏、昔氏と金氏)の全ての始祖伝に関わったとされる。新羅の始祖王は、朴氏の赫居世居西干(BC57-AD4)であり、第2代南海次次雄(スサング、AD4-24年)がスサノオに当たるとすると、赫居世居西干が伊邪那岐(イザナギ)に当たる。朴氏の起源地は弁韓(任那の前身)の伊西国とされる。伊西は古来イソと発音され、伊都イトとも訛る。従って、紀元1世紀中頃にスサノオ(イソタケルともいう)が筑紫に侵攻することにより、伊西国に因んで伊都国が建てられたか。第4代脱解尼師今(57-80年)がスサノオの孫(天孫)、すなわち、邇邇藝(ニニギ)や火明(ホアカリ、天火明、彦火明)に当たる。脱解尼師今(脱解王)は倭の多婆那国(丹後を含む丹波?)で生まれたとあり丹後の出身で、ホアカリであろう。さらに、第8代阿達羅尼師今(154-184年)の皇子の延烏郎が天日槍(アメノヒボコ)に当たる。その来倭の時期(157年)はちょうど倭国大乱(146-189年)の真最中である。尚、神功皇后はアメノヒボコの7世孫で、アメノヒボコが倭国大乱の頃来倭したと考えると系図上妥当である。また、後漢「中平」(184-190年)と紀年銘の鉄剣が和珥(和邇)氏にわたる。卑弥呼は大国主の血筋を引く和邇氏の巫女で倭国大乱を鎮めた。尚、倭国大乱の前に、スサノオ(あるいはその子孫)が支配する伊都国が奴国を圧倒したと思われ、奴国の嫡流の和邇氏は丹後(あるいは若狭)から近江に移ったと思われる。
『海部氏勘注系図』によると、ホアカリの3世孫の倭宿禰が大和進出を果たしたとある。天皇系図と勘注系図を比較すると、天皇系図の第4代懿徳天皇から第8孝元天皇までの系図とホアカリの3世孫倭宿禰から7世孫建諸隅命までの系図がお互いに対応付けられる。従って、ホアカリは天皇系図第1代神武天皇に当たる。新羅本紀第4代脱解王を彦火明とすると第8代阿達羅尼師今の皇子(アメノヒボコ、第9代)は第6代孝安天皇の御代に来倭したと思われる。孝安天皇の同母兄に和邇氏祖の天足彦国押人命がいる。
b. 倭国大乱と邪馬台国(虚空見つ倭国(そらみつやまとのくに))の成立
2世紀半ば、本州の近畿・中国・四国の東部地域を巻き込む倭国大乱が起った。この争いは南韓(南朝鮮)との鉄・銅・玉の交易により力を蓄えた、玉牆の内国を構成する近畿と中部地方西部の国々と吉備を中心とする瀬戸内海沿岸の国々との間の大規模な内乱である。前者は大国主が率い少彦名(スクナヒコナ)(丹後のホアカリか)が加勢し、後者は吉備出自の饒速日(ニギハヤヒ、スサノオの傍流)が瀬戸内海勢力を率い、天日槍(アメノヒボコ)が加勢した。アメノヒボコは、新羅より来倭して伯耆・因幡を侵し、但馬に達した。その後、当時吉備勢力の支配下にあったと思われる播磨を南下し、新たな日本海から瀬戸内に至る「鉄の道」を構築し、淡路島の五斗長垣内遺跡を中心に、鉄製の武器・武具をニギハヤヒに供給した。また、新羅王家からのアメノヒボコの将来物(珠、比礼や鏡など)をニギハヤヒに預けた。
ニギハヤヒとアメノヒボコは瀬戸内海を東征し、摂津から大和川添いを遡り、大和の桜井に至ったと思われる。大和侵攻では和邇氏も協働したと考える。その後、木津川・宇治川を経由し、近江に至った。ニギハヤヒと大国主は、近江の伊勢遺跡にいた和邇氏の巫女の卑弥呼を共立し、纏向遺跡に遷した。ここに大和を核とし中国西部・近畿に広がる邪馬台国が成立した。この邪馬台国はニギハヤヒの称した「虚空見つ倭国」のことであろう。倭国大乱での敗退の結果、大国主は近江東部より北部に後退したが、近江北部・美濃・尾張を中心とする玉牆の内国の後継国、狗奴国を建てた。スクナヒコナはこの大乱で敗死したと思われる。大和を掌握したニギハヤヒは第7代孝霊天皇と同一人格と思われ、卑弥呼はニギハヤヒの養女となり、倭迹迹日百襲姫命と呼ばれるようになった。また、ニギハヤヒは物部氏の祖であり、古来の武器・武具庫である石上神宮を造営した。アメノヒボコは大乱の後、近江を経由して最終的に但馬に落ち着いた。
2. 邪馬台国 (2世紀末~3世紀末)
邪馬台国の実権はニギハヤヒ(孝霊天皇か)が握り、卑弥呼(倭迹迹日百襲姫命)が巫女として大型の銅鏡を用いた祭祀を執り行った。孝元天皇(孝霊天皇皇子で卑弥呼の異母兄)が実際の政務を担当した。『魏志倭人伝』に帯方郡から邪馬台国への旅程が記されている。筑紫の不弥国までのルートは確定している。「倭人伝」の南方に向かうのを東方に向かうとすると水行20日で投馬国(出雲国(出雲東部か))に着く。次の水行10日で若狭(小浜湾)に着く。その後、小浜市神宮寺の「お水送り」のルートを取って琵琶湖経由で宇治川・木津川を経て、大和・纏向に向かう。このルートが水上交通が一般的であった当時としては一番蓋然性がある。本ルートは和邇氏が大和に進出したルートと思われ、その中継地は野洲川河口の下長遺跡であろう。
邪馬台国の都の纏向(遺跡)は、後世の藤原京に匹敵する広がりを見せる。この遺跡は、玉牆の内国の都で交通の要衝であった伊勢遺跡に比肩しうる要衝の地に位置する。従って、纏向は邪馬台国時代の政治の中核であるのみならず、当時の経済拠点の一つでもあった。その証しは、各地から運び込まれた外来系土器の量の多さに示される。外来系土器の出土数は全体の15~30%に達する。また、大和では産しない染料として使われる紅花が出土する。尚、ニギハヤヒが率いる吉備勢力が邪馬台国成立に重要な役割を果たしたことは次のことから推察出来る。吉備型甕が発展した庄内式土器(纏向の卑弥呼の時代の標識土器、九州北部まで拡散)が纏向遺跡から出土すること、吉備の楯築や宮山の弥生墳丘墓から出土する特殊基台が纏向遺跡の古墳から出土すること、さらにこれらの弥生墳丘墓から出土する弧帯文石(毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれた石)の文様が纏向遺跡から出土する弧文円板のものに酷似していることなどが上げられる。また、「孝霊伝承」と云われる孝霊天皇とその皇子(吉備津彦)を主人公とした一群の伝承があり、吉備国から南北に延ばした線上に沿って分布している。尚、倭迹迹日百襲姫命は吉備津彦の同母姉とされている。さらに、天羽々斬剣(十握剣)(スサノオが八岐大蛇を退治した剣)は吉備の石上布都魂神社にあったが、後に物部氏の石上神宮に遷され、布都斯魂剣と呼ばれ祭られている。
邪馬台国は、狭義の邪馬台国と広義の邪馬台国とに分けられる。狭義の邪馬台国はニギハヤヒの建てた虚空見つ倭国で、瀬戸内海沿岸諸国、伯耆、因幡、播磨、摂津、山城および大和および紀伊を含む。大国主は、狗奴国(近江北部から美濃さらに東山道、東海道や北陸道に広がり、大和、葛城や紀伊に残存勢力)を建てる。尚、広義の邪馬台国は、狭義の邪馬台国と任那・伊都国連合とから成る。任那・伊都国連合とは任那(伽耶諸国)と伊都国を中心とする九州北部諸国とを併せて成立していた国家連合である。(任那は対馬に起こり、南韓の倭人居住域を領した。) 狭義の邪馬台国が成立後、ニギハヤヒ勢力は中・四国全域を支配下におき、さらに任那・伊都国連合を勢力下においた。伊都国は穴門を支配し、瀬戸内海への出入りを監視していた。邪馬台国は、伊都国に一大率を常駐させ、北部九州と南韓を行政的・外交的に支配していた。
大国主の玉牆の内国では、巨大な「見る銅鐸」を祭祀にしていた。近江の伊勢遺跡の近くの三上山の山麓の大岩山古墳群(野洲市)から24個の大型銅鐸が出土した。これらは弥生時代から邪馬台国建国時、すなわち倭国大乱の終焉時に、近江の東部にニギハヤヒ勢力が侵入し、伊勢遺跡が滅ぼされたときに埋納されたと思われる。邪馬台国は銅鐸に代わって、鏡を祭器にした。2世紀前半までの漢鏡(内行花文昭明鏡など)の出土数が、九州に圧倒的に多いのに対し、2世紀後半からは九州で衰退し、九州より東での出土数と分布域が急速に拡大する。また、卑弥呼は魏と交流する前の3世紀初め、公孫氏から独占的に入手した画文帯神獣鏡を各地の首長に分配したが、その分布は畿内に集中していた。北部九州の玄界灘沿岸や、狗奴国に属すると想定される濃尾平野にはほとんど分布していない。卑弥呼は魏から銅鏡(三角縁神獣鏡か)100枚を賜り、威信材として邪馬台国を構成する国々に配布した。その後、この鏡を倭国内で生産するようになり、さらにヤマト王権が安定するにつれ、三角縁神獣鏡の分布範囲は列島全域に飛躍的に拡大した。
邪馬台国の中核の大和では箸墓古墳に至る前方後円墳の発展がみられた。前方後円墳には、三角縁神獣鏡が副葬されることが多い。一方、狗奴国では近江北部を発祥の地と思われる前方後方墳が広がった。また、S字甕が近江北部をふくむ狗奴国全域に広がっている。最近(2016年)、滋賀県の彦根市で纏向遺跡に次ぐ規模の邪馬台国時代の稲部遺跡が発掘された。稲部遺跡が狗奴国の都である可能性が高い。
3.邪馬台国の終焉
『魏志倭人伝』に「卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬された」とある。卑弥呼(倭迹迹日百襲姫命)が死去したのは249年の若干前と『梁書』は伝える。宮内庁が箸墓に倭迹迹日百襲姫が葬られたとしているように、卑弥呼が箸墓古墳に埋葬されたのであろう。『倭人伝』には「男王(開化天王か)が立つが国中は不服で、交々相誅殺し、千余人が亡くなった。卑弥呼の宗女の臺(台)与を女王とすると国が収まる」とある。台与は、大国主系の狗奴国の近江の豊郷の出身と思われ、日子(彦)座王(開化天皇皇子)の妻となった息長水依姫であろう。台与は掖邪狗(和邇日子押人命か)らを魏に送る。また、台与は西晋(晋)に使いを送る(266年)。
崇神東征(神武東征譚の主要部分)は、開化天皇の御代にあったと思われる。大彦が物部氏と和邇氏と結託して、崇神天皇が率いる任那・伊都国勢力を大和に引き入れるクーデターであったと思われる。この闘いで、邪馬台国の始祖ニギハヤヒに帰順していた大和の大国主の子孫、ナガスネヒコが葬られる。このクーデターにより邪馬台国は終焉を迎え、ヤマト王権の三輪王朝が始まる。その後、瀬戸内海勢力の崇神天皇らと日本海勢力を束ねる日子座王との間に政権抗争が起ったが、垂仁朝に瀬戸内海勢力が政権を掌握したと思われる。狗奴国は景行朝の折、最後の砦の伊吹山で日本武尊を敗死させたが、成務朝に滅びたと推察する。