中宮寺菩薩像

■菩薩半跏像

 中宮寺新本堂に安置される菩薩像は、寺伝では如意輪観音とされるが、これは中世以降に新たに加えられた別称であって、本来は弥勒菩薩として造像されたものであることは、太秦広隆寺像などを代表例とする飛鳥時代の半伽思惟像がいずれも弥勤菩薩であることからも理解される。

 また欽明10年(638)斑鳩法起寺で聖徳太子のために弥勒像が造立されており、飛鳥時代には聖徳太子に関係した弥勤造像が行われていたことも、中宮寺像の造立背景を考える上で注目される。

 右手の指先を軽く頬にあて、場座と呼ばれる丸椅子状の台座に片足を踏み下げて坐る姿は、身体各部の均衡が自然のままに整えられ、飛鳥彫刻のうちで一段と進んだ造形を示している。特に上体を真直に起した伸びのある身の構えは、他の半伽像にはみられない独特の美しさを実現したものであり、いずれも前傾姿勢をとる渡来様式の表現に、際立った日本的洗練が加えられているさまが実感させられる。

体躯の柔軟なふくらみや衣の摺のたたみ方などは、目立って自然味を増した的確な表現となって、すでに飛鳥彫刻の図式的な象形からの発展がみられ、また眼球にふくらみをつけた伏し目の表現などは、白鳳彫刻への先駆をなしている。

 本体、光背、台座とも棒材から彫成され、肉身部を肌色に、着衣部には朱や緑青の彩色を施しているが、頭体部は類例のない特殊な木寄せが行われており、こうした技法面における独特の工夫も本像の進展した作風を物語るものと考えられる。

■中宮寺と上宮王家の人びと

 『上宮聖徳法王帝説」は、法隆寺に伝わった最古の聖徳太子伝。本文はそれぞれ成立時代の異なる部分から成るが、聖徳太子を中心とする上宮王家に関わる系譜は、その成立が飛鳥時代にまでさかのぼる可能性強い。太子は用明天皇と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)との間に生まれ、兄弟は七人であった。また太子は三人の王妃との間に、十四人の子があり、蘇我馬子の娘との間に生まれたのが斑鳩宮を継承した山背大兄王(やましろのおおえのおう)で、王には七人の子があった。

 太子は推古六年(598)4月15日に、推古天皇のために勝鬘経(この経典は、舎衛国波斯匿(はしのく)王の娘で在家の女性信者である勝鬘夫人が説いたものを釈迦が認めたとされ、一乗真実と如来蔵の法身が説かれている)の講義を行い、天皇より播磨国の土地を与えられ、その土地を法隆寺に納めた。法隆寺や兵庫・斑鳩寺には、この時の場面を描いた勝鬘経講讃図がある。そこには太子初講義を聴く山背大兄王や大臣の蘇我馬子、遣隋使として中国に行った小野妹子などの姿が見られる。

 太子は四天王寺・法隆寺・中宮寺・橘寺・蜂丘寺(太秦広隆寺)・池後寺(斑鳩法起寺)・葛木寺の七つの寺を建立した。

 太子創建の中宮寺は、三重塔と五間四間の二重金堂を南北に配した四天王寺式の伽藍で、その姿は、延久元年(1069)の「聖徳太子絵伝屏風」(東京国立博物館の法隆寺献納宝物)に描かれていをが、今は建物すべてが失われ、伽藍遺構を残すのみである。

 遺跡の発掘調査により、塔跡の心礎上面(塔の心柱(しんばしら)の礎石。 中心に柱を受ける座や孔のあるものが多く、奈良前期以前のものでは舎利(しゃり)を納める孔をもつものもある)から、金環二・金糸片血・金延枚小塊丁境拍東宝片二・ガラス挨玉片一・丸玉二・水晶角柱一が散らばった状態で発見された。

 また遺跡からは飛鳥・白鳳時代の瓦が出土している。創建時の瓦しては、軒丸瓦で飛鳥時代のものが三種あり、そのうち二種が推古朝未年のもの、他の一種は法隆寺若草伽藍と同笵品( 瓦に同じ鋳型を用いていること)で、七世紀中葉のものとされる。また白鳳時代の軒丸瓦は、法隆寺西院に使用されたタイプの複弁八弁蓮華文のものである。

 これら瓦の同笵関係は、中宮寺が聖徳太子にはじまる上宮王家の寺として、飛鳥時代に創建され、白鳳時代も法隆寺と同様の発展をしていたことを示している。

■紙の文殊と鎌倉再興

 創建以降の中宮寺は、平安時代末から退転(落ちぶれてよそに移ること)し、鎌倉時代に尼信如(中宮寺にはいり,同寺の復興につくす。文永11年(1274)に法隆寺でわが国最古の刺繍(ししゅう)天寿国曼荼羅(まんだら)繍帳を発見した)によって復興された。

 文永6年(1269)7月12日に信如が発顕造立した五髻(キツ・髪を頭の上で束ねたところ)文殊菩薩像は、他に類例のない紙製の仏像として注目される。この像は経巻類を束ねて頭・体部あるいは両腕の芯とし、これに紙を糊粘り厳て重ねて造形したもので、玉眼を嵌入(かんにゅう・穴などに長い物がはまりこむこと)し、切金をまじえた彩色で上げられている。胸部には、敏文を記した紙片に包まれた仏舎利納入されていた。聖徳太子の葦垣宮にある成福寺の聖徳太子孝養像は、袈裟紐を紙でつくるなど、紙製文殊像との関連をうかがわせる鎌倉彫刻である。

 信如による中宮寺再興は、弘安4年(1281)正月に落慶が行われた。『尼信如願文」は、落慶供養のために琴王である信如が用意したもので、ここでは中宮寺を問人皇后建立の霊場と述べている。木造扁額は、再興の堂に掲げられたもので、江戸時代には紫宸殿承明門等の額を新造するに際し、その手本とされた。また再興時の瓦も出土している。このほかに信如に関係する文書として、弘長2年(1262)の霊鷺山院年中行事、弘安5年に信如が加点をした奈良時代書写の瑜伽師地論二巻が遺されている。

 聖徳太子二歳像両界種子曼荼羅荘刺繍阿弥陀来迎図密教法具類など、いずれも鎌倉時代の中宮寺の美術工芸を物語るものである。

 信如によって再興を見た中宮寺は、延慶2年(1309)と応長元年(1311)の二度の火災で荒廃した。明応5年(1496)には朝廷よりの奉加があったものの経営は苦しく、大永2年(1522)4月の伽藍造営のための『中宮寺勧進状』が現存している。

■ 概 説 中宮寺菩薩と飛鳥美術

松浦 正昭 

 中宮寺は法隆寺や四天王寺とともに聖徳太子が創建した七寺の一として、『上宮聖徳法王帝説』や『法隆寺資財帳』(747年成立)に記され、聖徳太子に直結する寺として登場する。また旧伽藍跡の調査により、飛鳥時代創建の寺院であることはすでに確定している。しかしその後の変遷で、史料の多くが失われたために、本尊像についての文献上の記載は、いずれも鎌倉時代以降のものしか残されていない

 中宮寺本尊である半伽思惟像についての最古の史料は、建治元年(375)の『太子曼荼羅講式』で、本像を救世観音とし、それは四天王寺本尊と同じであると記している。また『聖誉抄』も四天王寺・中宮寺・橘寺の麹 本尊は、救世観音としており、平安時代の『別尊雑記』には、半跏思惟の四天王寺本尊の図像が掲載され、そこ  に「救世観音像」あるいは「如意輪」と注記している。すなわち平安・鎌倉時代には、半伽思惟像はいずれも観音と考えられていたのである。弘安四年(1281)の中宮寺再興時の『願文』は、中宮寺金堂本尊を「如意輪」としているから、中宮寺像を如意輪観音とする現在の寺伝は、鎌倉再興以来の伝承にもとづいていると考えられるのである。

 半伽思惟像を観音とするのは、寛弘4年(1007)の『四天王寺御手印縁起』で、四天王寺金堂本尊を「金銅救世観音像」と称しているのが最初であるから、それは平安後期に始まった伝承であることがわかる。しかし四天王寺金堂の半伽思惟像が、実は観音ではなく、飛鳥時代に弥勤として造られたことは、『御手印縁起』を200年さかのぼる延暦22年(803)の『資財帳』(『太子伝古今日録抄』に「大同縁起」として収める)が飛鳥の天智朝に造立した「弥勤菩薩像」であると明記しているのではっきりする。

 半伽思惟像を観音とする伝承は、11世紀に四天王寺で始まり、それが同じ聖徳太子創建の中宮寺や橘寺にも波及し、それらの寺の半跏思惟像が観音と称されるに至ったと考えられるのである。しかしそもそも観音説のもとになった四天王寺本尊が、本来は弥勤であることがすでに明らかなのであるから、中宮寺や橘寺の半伽思惟像も、観音ではなく弥勤が本来の尊名であると考えなくてはならない。

 つまり中宮寺の菩薩半伽像を如意輪観音とする寺伝は、鎌倉時代以来の歴史があり、半伽思惟の弥勤を観音とした四天王寺本尊についての信仰に支えられたものであるから、それは信仰史的には正しいものの、飛鳥時代までさかのぼる本来の尊名とはならない。飛鳥時代の天智朝に造られた四天王寺像が、本来の弥勒から観音に改められたことからも知られるように、中宮寺像も飛鳥時代には弥勤菩薩として造られたと考えるべきなのである。

 中宮寺像は太秦広隆寺の宝冠弥勤に対して、宝冠弥勤という別称で呼ばれることがあるが、飛鳥仏である中宮寺像の尊名としては、むしろこの方が妥当である。

 飛鳥時代の半伽思惟像が、弥勤菩薩として造られたことは、天智朝の四天王寺像について『四天王寺資財帳』に「弥勤菩薩像」と記されているのではっきりするが、太秦広隆寺に伝わる二体の国宝像も、寛平2年(890)の『広隆寺実録帳』がともに「弥勤菩薩像」と明記している。

 さらに天智5年(666)に造られた野中寺金銅像には、造像銘記として「弥勤御像」と刻み付けられているから、もはや飛鳥時代の半伽思惟像が弥勤であることは確実である。中宮寺の菩薩半伽像は、長い信仰の歴史から尊名に変遷はあったものの、正しくは弥勤菩薩として理解しなくてはならない

 弥勤は釈迦のあとに現れる未来の仏で、現在は菩薩として兜率天(とそつてん)にあるが、やがて釈迦入滅ののち56億70,000,000年してこの世界に降(くだ)り、仏となって衆生を救済する、と経典に説かれている。弥勤は、広く各派の仏教徒に信仰され、その像がつくられ始めたのも早く、時期的に釈迦像の成立とほとんど変わらないと考えられる。

 仏像は、紀元1世紀から2世紀にかけて、西北インドのガンダーラと中インドのマトウラーであい次いで成立したと考えられている。紀元2世紀のカニシカ王の貨幣には、弥勤の銘がある像が表され、同じ頃のマトゥラーのアヒチャトラー出土像にも台座に弥勤の銘文がある。これら初期の弥勤像は、いずれも水瓶を持物とすることで共通の特徴を示している。この水瓶を持つ姿の弥勤菩薩像は、ガンダーラで大流行し、やがて西域へ展開し、中国へは三国から五胡十六国時代に伝えられたことが、藤井有鄰館の古式金銅仏によって確認される。

 また両足を交叉させて腰かけた交脚スタイルの弥勤像もインドで成立し、これも西域から中国へ伝えられ敦煌や雲岡などの北魂時代の石窟には、交脚弥勤菩薩像が多くつくられている。

 『弥勤上生経(下図)という経典によると、弥勤菩薩の宝冠には化仏が現れると説かれている。実際マトウラーでは、宝冠に化仏を表し、左手に水瓶を待った弥勤菩薩像の例が確認されている。また交脚弥勤菩薩で、宝冠に化仏を表した像は、敦煌や雲岡などの中国石窟に例が多い

 そして半伽思惟の姿で、冠正面に化仏を表したマトウラーの菩薩像が、近年新たに紹介されて注目をあびている。米国のクロノスコレクション所蔵のこのマトウラー石像は、左足を踏み下げた半軌の姿勢で楊座に坐し、右手を頬に当て思惟のポーズを示す明らかな半伽思惟像で、また冠には禅定相の化仏が表されている。上半身を欠失しているが、この像と同じ特徴を示す半跏思惟像が、マトウラー博物館(下図右)に現存しており、これはマトウラーではかなり流布した形式であったと推測される。

 この像については、観音像の可能性を指摘する研究者もいるが、まず半伽思惟の観音像には確実な例が存在しないことを知るべきであろう。それに対し半跏思惟の弥勤像は、西域・中国・朝鮮・日本に広く流布し、その遺例は枚挙にいとまがないほどで、この像容の弥勤の原形は、必ずインドで成立し、インドからアジア各地に展開したと考えるべきであろう。

 また弥勤像は、クロノスコレクション像のように、ターバン冠飾を着けないとの指摘があるが、それは正しくなく、マトウラーの弥勒像には、頭飾にターバンを着け、水瓶(すいびょう)を持物とする例がかなりある。西域や中国では、水瓶を持物とする像も交脚像も、いずれも弥勤の頭飾はターバンである。

 宝冠の化仏(けぶつ)は、『弥勤上生経』の経説に合うものであり、現にマトウラーでは宝冠に化仏を表した弥勤像がすでに成立しているのである。クロノスコレクション像こそ、半伽思惟の弥勤菩薩が、インドで成立していたことを実証する、重要な適例ととらえるべきなのである。さらにこれと同じ宝冠に化仏を表した半軌思惟の弥勒像が、中国では雲岡10窟東壁に存在し、日本では兵庫慶雲寺に伝わる朝鮮百済様式が濃厚な金銅像が新たに注目されるに至った。クロノスコレクションの半伽思惟像は、明らかに弥勒菩薩として中国・日本での受容が確認されるのである。

 半跏思惟の弥勤像は、西域のキジル石窟あるいは中国の敦燈・雲岡の北魂石窟においては、交脚弥勤像の左右に表されているが、やがて東魏から北斉・北周の時代になると、独立した単独造像が行われるようになり、洗練された作風の弥勤菩薩半伽思惟像が制作されている。

 また朝鮮・日本の弥勤菩薩には交脚像は全くなく、もっぱら独尊(どくそん・すぐれて尊いとすること)形式の半蜘思惟像が行われた。そうした独尊形式の弥勤菩薩半伽思惟像の系譜の上でも、クロノスコレクションの単独像はその源流をなしているのである。半助思惟像は、二世紀のインド・マトウラーで成立し、中国へは三世紀・三国時代に伝播したと思われる。それは、半伽思惟像を表した四世紀・晋時代画文帯仏獣鏡が、すでに日本にまで到達しているからである。

 韓国には、三国時代の金銅仏を代表する二つの弥勤菩薩半伽思惟像がある。そのうち一方は、装飾をこらした宝冠を戴く像で、宝冠の形式や足裏の写実的な表現が、中国青州竜輿寺出土像と共通しているので、中国の北斉様式の影響を受けた造像と考えられる。もう一方は、三国新羅で成立した独自様式の造像で、その表現は日本の太秦広隆寺の宝冠弥勤像に直接に反映されている。

 なお中国の半助思惟像には、仏伝の釈迦太子として造られたものがあり、「太子思惟像」(北魂太和16年銘龕大阪市立美術館)と銘記されている。この釈迦太子半蜘思惟像は、日本では奈良時代の絵因果経には受容されているが、飛鳥時代の造像では、半伽思惟像はもっばら弥勤であり、釈迦太子像としての例は知られていない。

 中宮寺菩薩像は、まるいクッションを設けた櫂座(とうざ・クッション)に、右足を左膝の上にかけ、左足を踏み下げて坐る、半伽のかたちをとっている。左手は右足首に置き、右腕は肘を右膝の上につき、軽く曲げた指先を右頬に触れ、思惟の相を示す。双髻(そうけい・ 髪の結び目が二つあるもの)を頂く頭部を正面に向け、背筋を張った伸びのある上体の構えは、他の半伽思惟像には見られなかった独特の造形美を実現している。前傾姿勢を示す渡来系の表現形式に、新たな日本的洗練が加えられたのである懸布(けんふ)をかけた円形の櫂座は、広隆寺の宝冠弥勤像をはじめとする飛鳥の半伽思惟像に一般的な形式であるが、本像の櫂座ははるかに高大につくられている。そのため本体は一段と位置を高められ、同時にすそ広がりの安定感のある円錐形の構図のうちに見事に収められたのである。

 身体各部の均衡は、自然のままに整えられ、飛鳥前期の止利様式のような図式的で硬い造形からは、すでに完全に解放されている。また飛鳥後期の法隆寺百済観音像に見られるような、自然を離れた極端な長身からも脱け出して、造形が新たな段階に至っていることが理解される。

 ゆったりと構えた両腕の配置力強く交差する両脚部の構成には、十分な広がりと奥行が示され、その立体的造形は目覚ましい。また体躯の柔軟なふくらみや背筋のくびれなどにも、際立って自然味を増した的確な表現がなされている。衣の重なりは、微妙な質感と軽快な流動感を含み、写実と意匠性が一体となった豊かな表現が展開している。

 

 さらに、眼球にふくらみをつけ、下瞼(したまぶた)に刻線を入れない伏し目の表現などは、666年の野中寺像での表現を受けつぎ、その後の白鳳彫刻への先駆をなすものといえる。宝珠(ほうじゅ)形の光背に刻まれた周縁部の火焔文(かえんもん)や、光心部の蓮華葉文(れんげかようもん)は写実的で、とくに進んだ意匠といえる。

 こうしてみてくると、この像は、飛鳥彫刻としては最も発達した段階に達した写実表現と立体的造形が基調になっていて、それはすでに大きく白鳳彫刻へと接近するものである。

 一方、蕨手状(わらびてじょう)の垂髪(すいはつ)台座や光背の単弁蓮華文などには、なお飛鳥形式がわずかながら残されていて、この像が飛鳥彫刻から白鳳彫刻へと移行する過渡期の造像であることを物語っている。また双髻(そうけい・ 髪の結び目が二つあるもの)にしたヘアスタイルは、繍仏(しゅうぶつ刺繍で仏像や仏教的な主題等を表現したもの)の天人や玉虫厨子絵の薩錘(さった)太子と同じであるが、とくに双髻菩薩の髪形とした玉虫厨子絵との関連が注目され、同時に本像の造立背景を探る上で重要な手掛りとなる。

 現在は長年のお身拭い(おみぬぐい・寺の本尊の仏像を布で拭き清める行事)により表面が黒光りして見えるが、もともとは肉身部を肌色に、着衣部には朱・緑青・群青・丹などの彩色が行われ、金箔を細く切った切金もおかれていたことが確認される。

 また本体・台座・光背とも樟材(クスざい)から彫り出されているが、頭体部にはきわめて特異な寄木技法が行われている。頭部は前後を二材で、しかも頸部(けいぶ)で頭と体とを上下に接合している。

 これをエックス線撮影したところ、頭部の前後二材は、後頭部から面部に向かって打ち込まれた二本の大きな鉄釘で緊結(きんけつ・部材を留め具などで結合すること)されていた。頸部の結合は、上下にヤトイ柄(ほぞ)を仕組む方法がとられていることも判明した。

 両腕はそれぞれ別材を肩口に矧付け外側から鉄釘を打って固定している。右腕は指先まで一材で、肩の矧口に小さい材をはさんでいるが、これは指先を頬にあてる右腕の位置を調整するための工夫と考えられる。こうした微妙な調整のあとから判断すると、この寄木技法は、制作者が造形的な完成度を追求するあまり、独創的に考案したこの像限りの技術ではないかと思われる。

 この特異な技法は、そのまま継承されることはなかったが、前後二材を上下二本の鉄釘で打ち留める方法は、法隆寺六観音像が体部材を矧ぎ合せる際に行っていることが、同じくエックス線写真で判明する。つまり中宮寺像の造像技法が白鳳彫刻の技法に直結するものであったことが理解されるのである。

 

 中宮寺菩薩像は、その進んだ表現内容においても、また特異な造像技法においても、飛鳥彫刻と白鳳彫刻を結ぶ重要な位置にある作例として、注目されるのである。

 さて、菩薩の髪形を双髻(そうけい)に表すのは、玉虫厨子絵の薩錘太子像をはじめとして、いずれも法隆寺関係の造像に限られているから、同じく双髻の菩薩である中宮寺像は、法隆寺を中心とする斑鳩での造像であると考えられる。また鉄釘を使用して大きく材を矧ぎ合せる特異な技法が、六観音像などの法隆寺西院の白鳳造像に継承されていることも考え合せると、中宮寺菩薩像が、斑鳩文化圏において造られたことは問違いないと判断される。

 そして斑鳩の仏教文化を指導したのは、聖徳太子を中心とする上宮家の人々である。斑鳩には、その時代の飛鳥仏教の造像が現在にまで伝えられているが、厳密にいえば、聖徳太子自身が直接関与した仏像はほとんどなく、いずれも太子没後のものである。その意味では、斑鳩の造像文化は、いずれも太子信仰の所産であり、太子没後に上宮王家の人々によって始められたとして誤りではない

 すなわち天寿国繍帳は、太子往生の浄土のさまを図に表すために、太子妃が発願して、太子の没年(622)に制作したものである。また法隆寺金堂の釈迦三尊像も、太子の浄土往生を念じて、王后王子等が太子没年に発願し、その翌年に完成したことは、光背銘文に明らかである。

 聖徳太子は、菩薩として敬われ、『延暦僧録』では「上宮皇太子菩薩」、『聖徳太子伝暦』では「救世菩薩」と尊称されているが、このような太子菩薩信仰は、中国の梁武帝の例にならったもので、梁武帝は諸僧から「国主救世菩薩」(『善慧大士録』)あるいは「皇帝菩薩」(『続高僧伝』)と尊称されているのがわかる。また梁武帝は、自ら涅槃経の講義を行うなど、仏教皇帝として有名であるが、聖徳太子の勝鬘経講讃の事績について、「その儀、僧の如し」とする『上宮聖徳法王帝説』の書き方は、武帝の伝を踏まえたものである。このように見ると、聖徳太子信仰の成立には、南朝の梁仏教からの影響があったように思える。さらに造像では、法隆寺夢殿本尊が『東院資財帳』に「上宮王等身観世音菩薩」と記載されているが、この斑鳩宮安置の等身像という構想は、そのまま梁武帝大雲殿安置の等身像(『集神州三宝感通録』)の例にならったもので、造像における太子信仰も梁仏教との関連が指摘されるのである。

 太子信仰の動きを示す最初の遺例は、推古31年〈623)造立の法隆寺金堂釈迦三尊像で、その光背銘文に「釈像尺寸王身」とあり、王身すなわち聖徳太子の身丈に尺寸を合わせて造られた釈迦像であることを明記している。太子の身に合わせた王身像という構想は、北魏文成帝の「令如帝身」(『親書』釈老志)の考えをうけたものと思われる。法隆寺釈迦三尊像は太子の死とともに造立が開始されたものであるから、銘文にいう「尺寸王身」とは、まさに現実の聖徳太子の身丈をそのまま仏像に移したということになる。したがって、造像の基準寸法ともなる面長は、太子の顔の長さと同じはずで、ここでは釈迦像の面長18・8㎝(『六大寺大観』による)が、太子自身の面長となる。

 この数値は、太子信仰の造像における基準になったと思われ、夢殿の救世観音像の面長〈20.9㎝)がこれに近いのも、これが太子等身の観音として造像されたからである。

 さてここで、中宮寺菩薩像の面長を示すと、19.2㎝(『大和古寺大観』による)で、法隆寺釈迦像との差はわずか4㎜であるから、そのままこれは太子の面長を移したものと判断される。すなわちこの数値の一致から、中宮寺菩薩は、まさに釈迦銘文にいう「尺寸王身」の像と考えることができるのである。

 斑鳩における太子信仰の造像では、まず天寿国繍帳にはじまり、続いて法隆寺金堂の釈迦像があり、また夢殿の観音像もあるが、中宮寺像のような弥勤による太子信仰の造像は、行われたのであろうか。これについては、斑鳩法起寺塔露盤銘に、舒明10年(638)福亮僧正法起寺金堂を建て、「聖徳皇御分」として「弥勤像一躯」を敬造するとあることで、太子信仰による弥勤の造像が確認されるのである。

 まさに中宮寺菩薩像は、面長の数値を聖徳太子に合わせて造立された、尺寸王身の弥勤菩薩像であり、法隆寺金堂釈迦三尊像や夢殿救世観音像とならぶ斑鳩の太子信仰による造像としてあらためてその意義が注目されるのである。その髪型を双髻にして、特に玉虫厨子の薩錘太子の髪形にならったのは、天寿国繍帳の「太子」を受けて、先の法起寺露盤銘に「上宮太子聖徳皇」と同じく「太子」を称していることに関連があると考えられる。

 聖徳太子のあとを受けて、斑鳩の仏教文化を指導したのは山背大兄王で、まず推古31年に尺寸王身法隆寺金堂釈迦像を造立し、斑鳩宮には太子等身救世観音像を安置し、岡本宮(おかもとのみや)には欽明10年に太子御分の弥勤菩薩像を安置してこれを法起寺にあらため、斑鳩に太子信仰の造像を展開したのである。中宮寺とは、葦垣宮(あしがきのみや)岡本宮・斑鳩宮に対する中宮(ナカミヤ)を寺としたことによる名称であると伝えられており、ここはもと上宮王家の宮殿であった。

 聖徳太子から上宮王家を継承した山背大兄王は、皇極2年(643)に滅ぼされるが、山背大兄王によってはじめられた岡本宮の法起寺造営は、山背大兄王没後も継続され、天武13年(685)に堂塔が整った。中宮寺の造営もこれと同様の経過をたどったと思われ、平行して造営が進められた法起寺金堂本尊にならって、中宮寺において尺寸王身の弥勤像が造立されたのは、同じく太子信仰の弥勤像である四天王寺金堂本尊が造られた天智朝(662〜671)であろう。

 山背大兄王のあと、斑鳩の造像に関わったのは、『法隆寺資財帳』に灌頂幡(上図左右)納賜者として登場する片岡御祖命で、片岡御祖命は『上宮聖徳法王帝説』では片岡女王と出ている。片岡女王は聖徳太子14子の1人になる。中宮寺の弥勤菩薩像が造られた天智朝時代、斑鳩における宮王家の造像を指導していたのは、山背大兄王同母兄弟の片岡女王と考えられる。

(奈良国立博物館 仏教美術研究室長)