ボルタンスキー1990年代~現在

▶︎1990年代

 1990年代のあいだ、ボルタンスキーは象徴的でエモーショナルな意味を強くはらんだ、美術館とは異なる空間への関心を高めていった。彼の作品は喪失、運命、記憶、罪、死といった重い主題を探求するものであった。1995年には、サンティアゴ・デ・コンポステーラにある教会で展覧会を開いた。そこでは、スイスの日刊紙の死亡記事から切り取った小さなスナップ写真を貼りつけたビスケット缶を大きな壁を作るように積み上げた《保存室(死んだスイス人)下図右》が展示された。また、そこには《シーツ》、《洗濯物》、《墓》、《洋服掛け》といった新旧のいずれも感情に強く訴えかける作品が含まれていた。同年には、イングランド北部のハリファックスにあるヘンリー・ムーア・スタジオからの招待で、現地の使われなくなった工場の従業員の名前全てを列挙した《1877−1982年、ハリファックスの労働者たち〉(fig.12)を制作した。この作品は「リスト」を作成することを目的とした作品群に属している。

 その最初のものは1991年にカーネギー・インターナショナルでの展覧会に際して実現され、ボルタンスキーの最もコンセプチュアルな作品のうちの一つである。こういった作品はいくつかあり、その一つは1995年ヴェネツィア・ビエンナーレでイタリア館の外壁に刻まれたもので、ボルタンスキーはこの作品で1895年以降にビエンナーレに参加した芸術家の名前全てをリスト化したのである。その他の近年の作例としては、2007年のものがあり、これ〔ウステイカの記憶のための美術館〕は、地中海で墜落した飛行機の乗客の所持品を基にしている。

ボローニャのウスチカ記念博物館でのリスチャンボルタンスキーの常設展示は、1980年6月27日にパレルモ空港に向かって撮影されたDC9の残骸を囲んでいます。ボローニャに戻ってから1年後、旅客機の残骸は、フランスの芸術家がこの都市のためにおしみなく特別に作成した、刺激的で刺激的な設定で示されています。虐殺の81人の犠牲者は、呼吸のリズムで博物館の天井から点滅する多くのライトを通して記憶されています。再構築された航空機の周囲には、バルコニーを歩く人の画像を81個の黒い鏡が映し出し、それぞれの背後に81個のスピーカーが悲鳴のランダムさと必然性を強調するために、ささやいたフレーズ、一般的かつ普遍的な考えを発します。

 自身を「感傷的なミニマリスト」と呼ぶボルタンスキーは、これらの作品において、匿名性から、また換言すれば歴史と出来事によって親定された集合の中に埋没させられているという事態から、これら個々人を引き上げることを願っている。これは彼がいうところの「仲間に名前をつけること」であり、シリーズ全ての作品を育む息の長いプロジェクトである。ボルタンスキーは「今日、私たちは一種のポスト・ヒューマン的世界に入ろうとしている。これに抗(あらが・抵抗する)うために、私たちは全ての人間が存在し、名前を持っているということをいつも忘れてはならない」と説明する。

 

 1991年のアーティストブック『サン=スーシ』(上図左)では、ナチス党員の家族生活を写した写真アルバム(ドイツのフリーマーケットで見つけた)が中心に据えられており、ボルタンスキーの作品における一貫したジレンマを示している。そのジレンマとは、善悪の区別は曖昧であること、および、私たちに遺ざれた何千もの匿名の顔を前にすると死刑執行人と犠牲者を区別することが不可能になるということである。

 2014年に出版された『シグナル(上図右)では、レンチキュラー印刷〔見る角度に応じて絵柄が変化したり、立体的に見える印刷技術〕によって、1940年から45年のあいだに出版されたナチスのプロパガンダ雑誌『シグナル』に見られる戦争のイメージと「普通の生活」のイメージが併置された。

 1995年、ニューヨークのパブリックアート基金の招待で、マンハッタンの数箇所でインスタレーションを手がけた。そのうちの一つであるグランド・セントラル駅では、展示期間中機能する巨大なファウンド・オブジェの保管庫を開設した。この作品は、ボルタンスキーが多様な文脈において実現したインスタレーションのための基本的な概念を規定しており、作家自身が「規則の作品」と呼ぶものに合致している。

 また1995年に、ボルタンスキーはハンス・ウルリッヒ・オブリストと共に、ロンドンのサーペンタイン・ギャラリーのために「持っていって、私はあなたのもの」展を企画した。このグループ展において意図されたのは、観客が参加アーティストのアイディアとプロジェクトに触れ、展示されているものを使用し、持ち帰ることであった。この展覧会は2014年にはモネ・ド・パリ(フランス国立造幣局)、そして2016年にはニューヨークのユダヤ博物館でも再び開催されており、ボルタンスキーが「自分の精神的な息子」と見なすフェリックス・ゴンザレス=トレス(1957−96年)の作品が含まれていた。

 1996年52歳、オランダのテイルブルフにあるデ・ボント美術館で行われた展覧会では、《メンシュリッヒ(人間)》が展示された。これは、1994年にドイツのアーへンにあるルートヴィヒ・フォーラムで開催された同名の展覧会で公開され、その後いくつかの段階を経て巨大な写真のインスタレーションとなっていった。複数の壁を写真で埋めるこの最終版では、ボルタンスキーの作品(〈1955年のミッキーマウス・クラブの62人のメンバー≫と〈プリム祭》、犯罪雑誌の『探偵』、『エル・カソ』からの写真、スイスの死亡記事写真、『サン=スーシ』からのナチス、など)における写真素材がそろって使われた。

▶︎1990年代末から2000年まで

 1990年代の終わり、パリのイヴオン・ランベール画廊で、ボルタンスキーの視覚言語において大きな変化を見せた二つの重要な展覧会が開催された。一つ目は1996年に開催され、この時彼は<洋服掛け〉と〈譲歩〉という、二つの新しいシリーズを制作した。〈洋服掛け〉のシリーズは、大きな顔を印刷した白い布を金属のカーテンレールに掛けたもので、その布を通してイメージはお化けの影のように視界をかすめる。《譲歩〉は壁を使ったインスタレーションで、近くに置かれた扇風機の軽い風ではためくヴェールによって、非常に暴力的なイメージを完全に覆ったものである。

 恐怖を覆うヴェールを持ち上げるという危険を犯すかどうかを決めるのは観客である。二つ目の展覧会は1999年に開かれた「風景」展で、《防水シート≫と《装置〉が出品された。暗い色が支配するこの展覧会では、出品作の印象深い静寂感が強調されていた。

 〈防水シート》は新聞から切り取られた犯罪の場面を転写した大きな布からできた作品である。それは、不穏な空虚さが満ちる匿名で空っぽな場所を作り上げる。《装置〉は分厚い黒い布で覆われた、高さが不規則な可動式の塔を集めたもので、まるで墓場のように展示室の空間に立つ。ボルタンスキーは《装置》を、再び2017年にアムステルダムの旧教会での壮大なインスタレーションに登場させた(fig.13)

 訪問者は、教会の下に埋められた人々の名前を囁(ささや)くサウンドトラックを聞きながら、荘厳な埋葬場所に作り上げられた迷路のなかを歩く。他の迷路のような作品としては、2015年にパリのマリアン・グッドマン画廊で再び展示されたボルタンスキーの画期的な作品の一つである《人生の旅路〉を挙げることができる。ボルタンスキーは1971年の《D家のアルバム、1939年から1964年まで》で使用した写真を、被写体の時間が経つにつれて消えてしまう印象を与えるために、拡大してヴェールに印刷した。こうすることによって、来場者は個人と集団の記憶のはぎまについて探求しながら、誰もが自分を重ねられるようなイメージを通して彷復うことになったのだ。

 1990年代後半、ボルタンスキーの芸術は新しい局面を迎え、写真の役割の重要性が次第に薄れる一方で、黒が支配的になり、名前、ベッド、コートなどが人間の存在を表す新しい代替物として用いられるようになった。1998年にパリ市立近代美術館で、ボルタンスキーは「最後の年月」と題する展覧会を開催した。この重要な展示は彼の仕事のなかでも、病気と死という概念にとらわれた、かつてないほどに劇的な空間を創り出す転換点となった。ボルタンスキーは《寝台》、《聖遺物箱》、そして《黒い鏡》といった新しい作品と《メンシュリッヒ(人間)》を展示した。美術館の外では広告用ボード上に掲出した《眼差し》を街のあちこちに展示した。それは目の部分を切り取った、実際の顔よりも大きな白黒写真である。

 作品制作や展覧会活動と並行して、1990年の終わりからボルタンスキーは(空間デザインやオペラの制作、観客参加型の作品といった)舞台演出とパフオーミング・アーツの領域へと自身の活動を広げていった。フランス、そしてヨーロッパ中で展開されたこうしたプロジェクトは、照明デザイナーのジャン・カルマンとミュージシャンのフランク・クラウジックと共同で進められた。1993年にオペラ・コミック座で上演されたシューベルトの歌曲集「冬の旅」をテーマにしたスペクタクルに最初に関わったのを皮切りに、3人が制作するスペクタクル兼作品は、時に非常に珍しい舞台セットのなかで展開される、その場限りの生きたインスタレーションである。そこには、役者や光と吉の効果といったボルタンスキーの表現によく用いられる要素が織り交ぜられていた。このようなプロジェクトは建築会社ポワン・Pの使用されなくなった建物や、シャトレ劇場の舞台裏にあたる一画(共にパリ)、リヨンのスイミングプールでも行われた(fig.14)。そして、2006年にはボルタンスキーはカルマンと舞台監督のアンドレア・プレッツと共に、ルール地方のかつてコークス製造工場だった場所でオペラを共同制作した。

 2008年に、ボルタンスキー、カルマン、クラウジックは音楽と光のインスタレーション《おやすみ≫(fig.15)をパリのユダヤ芸術歴史博物館のために制作し、2016年には再びオペラ・コミック座で《満月》を上演した。改修された劇場で音楽と視覚的な要素が一緒になって展開されたのである。ボルタンスキーの造形作品の発展かつ延長であるこのようなスペクタルの制作と時期を同じくして、彼が手がける展覧会は次第に物語的で演劇的になり、時間、記憶、人間、死といった特定の主題を中心とした一つの総合芸術へと結実した。こうして、個人を見つめることによって、ボルタンスキーの作品は普遍的になるのである。

▶︎2000年から現在

 2000年、パリ市立近代美術館で開かれたグループ展「ほら」にべルトラン・ラヴィエと参加するにあたり、ボルタンスキーは地球に住む全ての人の名前を挙げるということを思いついた。この計画は不可能だと諦めることになったが、その後制作した作品でこの考えを発展させた。記録と時の経過をテーマとしたこの展覧会のために、人手可能な全ての国から膨大な量の電話帳を集め、《電話加入者〉(fig.16)と題して来場者が自由に手に取れるようにしたのである。こうして「自分たちの仲間を数えること」は、その後の一連の作品へとつながる長期的な計画になった。

 2oo3年にイヴオン・ランベール画廊で開催された「合間に」展、2005年にパリのマリアン・グッドマン画廊での「発言する」展で展示された作品が示すように、2000年以降、音響と動くイメージそして「機械的な技術を少し取り入れる」ことで、ボルタンスキーは自叙伝、セルフポートレート、時間、そして消滅といった主題を扱う作品を制作するようになる。複数の貴から構成される書物を思わせるようなマリアン・グッドマン画廊の展覧会では、ランプで顔を示し、コートを着せた人形のオブジェが「私は」で始まる短いフレーズを来場者に話しかけるというインスタレーションを初めて発表した

この個展ではごくありふれた電球が、ボルタンスキーの心臓吉と呼応しながら点滅する作品も出品された。

  ボルタンスキーが何度か語っているように、彼の最近の作品は一般的な意味の死についてではなく、自分自身の避けられない死を扱っている。この自伝的な変化は《クリスチャン・ボルタンスキーの不可能な人生》(2001年、fig.17)においても見られる。この作品では写真と個人的な文書を含むアーカイヴが、20の壁付された展示ケースに収められているが、ケースの内側には金網が張られているので、その中身ははとんど判読できない。同じ主題は《我が死者たち》(2002年)、子ども時代から現在まで変化する顔の特徴を示す映像インスタレーション《合間に》(2003年)、《9月6日〉においても繰り返されている。

 2006年、ボルタンスキーは視覚芸術の分野で権威ある国際的な賞の一つ、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した。彼の作品は現在、十分に伝説になりうる寓話の形式に根ざした、人間主義的なプロジェクトとなっている。彼は世界中全ての人の心臓普を録音するという目的で、ある一つのプロジェクトを展開させた。ボルタンスキー自身のものも含む何千もの心臓音は展覧会や様々な機会において集められている。それは録音された後、ラベルが付けられ、分類されて、2010年以降は瀬戸内海にある豊島に常設された《心臓音のアーカイブ〉へと集約されている。2018年1月1日の時点で、そこには12万人以上の心臓音が集まっており、文化的な観光地というだけでなく、「精神的な」巡礼地にもなっている。ボルタンスキーは、来場者がクリスチャン・ボルタンスキーという名の芸術家の作品を見つけに行くよりも、この図書館が心臓音を永遠に保存し、亡くなった親戚の心臓書を聞くことができるという象徴的な魅力を感じてこの場所を訪れることを望んでいる。したがって、《心臓音のアーカイブ〉は、物語の語り手の存在を強調するために、作り手としての芸術家という存在を消す試みの始まりなのである(fig.18−19)

 2009年、ボルタンスキーはザルツブルク大聖堂の下にある地下礼拝堂に、時間を永遠に刻む喋る時計を設置した。こうした「寓話的」意図を持つ作品の更なる展開としては、アトリエでの作家の行動全てを編集せずに収める映像の記録が挙げられる。ボルタンスキーは数年前に、終身年金としてタスマニアのコレクターに「人生を売った」のである。2010年から「彼の人生を一つの箱に入れた」《C・Bの人生》と題するこの作品は、ホバートのミュージアム・オブ・オールド・アンド・ニュー・アート(MONA)で展示されている。これはボルタンスキーが「悪魔とのゲーム」と呼んでいるものである。

 2010年、「モニュメンタ」展の一環として、パリのグラン・バレ内の身廊全てを《ペルソンヌ〉で覆い、ヴィトリー=シェル=セ一列こあるMAC/VAL(ヴァル=ド=マルヌ県現代美術館)では〈その後》と題するインスタレーションを展示した。2010年代の壮大なインスタレーションはその場限りではあるが再制作可能なものとして構想され、様々な建築と文脈に応じて構成することができる。《ペルソンヌ》は、2010年にはニューヨーク、ミラノで展示され、2012年には日本の越後妻有アートトリエンナーレの際に屋外で発表されるなど、様々な機会で「再制作」されている。各地において中心的な要素となったのは、膨大な服の山である。この山の上部に設置された巨大なクレーンが服をつかんだり離したりすることで、人生が計画外の無作為に訪れる出来事に支配されることが象徴的に示さゎた。2015年にべルギーのグラン=オルニュで開催された「首つりの部屋」展に出品された《その後〉は、現地のぼた山に似せて作られたインスタレーションで、《ペルソンヌ》と同じ構造を持つ。この一連のインスタレーションはアーティストにとって重要な「楽譜の原理」に基づいている。それぞれの展示は作家がいない場合、他者によっても再現が可能であり、過去に制作された作品を再構成、再解釈することになる。

 ボルタンスキーは「偶然性、時間の経過、神の法則、そして死」についての探究を続け、2011年に開催された第54回ヴェネツィア・ビエンナーレではフランス館で「チャンス」のインスタレーションを行った(fig・20)。この作品は2012年にはロッテルダムとリオ・デ・ジャネイロで、また2014年にはシドニーでも展示された。インスタレーションの核となるのは、印刷機のような荘厳とも言える工業用の機械で、何百もの赤ん坊の顔が印刷された1枚の長い帯が見る者の注意を引く0時折小さいベルが鳴るたびに、帯が止まり、偶然によって暫定的に選びだされた顔の一つが数秒間スクリーンに映し出される。

 ボルタンスキーは風変わりな会場で展示を行うことを好み、2012年にはブエノスアイレスの街全体を使った展覧会を実現した。ウントレフ大学の博物館、テクノポリス、移民のホテル、かつて国立図書館だった場所で同時に展示を行った。この旧国立図書館では、ボルヘスへの敬意を示すインスタレーションを発表した。作家はその場所で見つけた素材のみを用い、展覧会が終了するとインスタレーションを破壊するという原則を繰り返した。ボルタンスキーはまた、美術館の空間にその場限りの経験(始まり、展開、終わり)を持ち込むために、展覧会をより演劇的にしたいという願望を強くした。2014年にラテンアメリカではチリのサンティアゴとサンパウロで、何万もの新聞紙から作られた巨大な街のようなインスタレーションを発表した。それは展示中次第に破壊されるものとして構想された。ボルタンスキーはチリのアタカマ砂漠で新たに「伝説的」作品も制作した《アニミタス(チリ)》は、「星の苦楽と漂う魂の声」を思わせる、たくさんの小さい風鈴で構成される。その光景を実際に目撃した人はほとんどいなかったが、それにもかかわらずこの作品は現代における寓話になることが定められていた。

 この風鈴はボルタンスキーの誕生日である1944年9月6日の夜空に浮かんでいた星座を正確に再現するように配置されている。実際に足を運ぶことは不可能で、最終的には壊されることになるこの場所を写したビデオプロジェクションは12時間にわたる映像をループ再生し、スクリーンの前には時間が経過するにつれて萎れるドライフラワー、花びら、草が広げられた。この作品は2011年に第54回ヴェネツィア・ビエンナーレ、2015年にクラクフにあるクリコテカ=タデウシュ・カントール芸術記録センター、2016年に東京都庭園美術館、メキシコのモンテレイ現代美術館、そして2018年にはパリのフォンダシオン・ルイ・ヴィトンでも展示された。2017年にはチリの建築家、マウリシオ・ペソとソフィア・フォン・エルリッヒスハウゼンと共に、ボルタンスキーは《パノラマーベル・パヴィリオン、アニミタス》というMAC/VALの庭に建つ礼拝堂をデザインした。この瞑想を誘うような空間で映像はループ再生され、観客は地球の反対側へと近づくことができる。

 ボルタンスキーは2012年の1月以降、特設サイトに月に10本の映像を投稿することで自身の生活を「記録」する〈ストレージ・メモリー(記憶装置)〉プロジェクトを展開している(www.christian−boltanski.com)。それは記憶と過ぎ行く時間、そして「私は生きている」ともう一度肯定することを主題とした、新たな非物質的手法を用いたプロジェクトである。このヴァーチャルな作品はまた、2010年から2018年における映像媒体の重要性を示している。

 近年、画廊で複数の展覧会が開かれているが、そのうちの一つは、2013年にハンブルガ一通りプロジェクトが行われた場所の近くに位置するベルリンのケーヴェニク画廊が企画したものだった。ドイツではその同年、1994年に制作した壮大なインスタレーション《メンシュリッヒ(人間)》をヴォルフスブルク美術館において再び展示した。ヴオルフスブルクでは、《メンシェリッヒ(人間)》に用いられた数百もの顔によって構成された新たな作品《スピリッツ〉が展示された。長方形のチュールに印刷された人間の肖像写真が空間を漂い、新旧の作品が対話を生み出していた。

 2016年から2018年にかけて、バレンシア項代美術館、ボローニヤ近代美術館、上海のパワー・ステーション・オブ・アート、そしてエルサレムのイスラエル博物館で回顧展が開かゎた。ボルタンスキーは、2016年に日本の豊島で〈ささやきの森》を、2017年の「マニフ・ダール8」に合わせて《アニミタス(白)》(下・映像)をケベックのオルレアン島で制作しており、このイスラエル博物館での展示に向けて、そうした作品に続くものとして死海の浜辺で《アニミタス》を制作した。

 これらの到達不可能で、ほとんど追跡不可能な作品によって、ボルタンスキーは自身の神話的表現方法を発展させた。彼にとって「神話的」物語を口述で伝えていくことはあらゆる物質を介した伝達よりも非常に重要で、そして人間が常に心を奪われてきた形而上学的な主題に取り組む方法の一つとなった。その最近の取り組みは象徴的である。「ビエナルスール2017」の開催に向けて、ボルタンスキーは大西洋の端に位置する北パタゴニアの人里離れた場所に《ミステリオス》というインスタレーション作品を制作することを思いついた。

 音響技師と協働してデザインされた三つの巨大な金属管は、地上から3メートルの高さに設置され、細長い銅片によって飾られた。風が吹くと金属管が「鳴り」、この自然保護地区の近くに休みにやって来るクジラの鳴き声に似た音を作り出す。この場所を選んだのは偶然だったわけではない。というのも、クジラは世界の始まりからずっと存在し、そして多くの神話において永遠の知識の象徴である。ボルタンスキーは「私はいつか誰もが自分を忘れてしまった時に、クジラと会話することを試みたある男について人々が話すことを望んでいる」と言い、生き物および自然との対話について語っている。太陽が昇り、暮れるまでの間、固定カメラで金属管を撮影した12時間にわたる映像も制作した。

 ボルタンスキーは自分自身が地球の住民のうちの一人であり、2020年代の幕開けには自らの作品が消えてしまうこと記憶、そして人生の意味について深く考察するものになると考えている。悲観的な意味合いを帯びて見えるかもしれないが、実はこの考え方は知識と物語の伝達、人間の不変の特性、時間についての研ぎ澄まされた感覚、そして暗示的で、普遍的な芸術の力ヘとつながる、より人間主義的な視点へと結びついているのだ。

1)この年譜はボルタンスキーの依頼により、1968年以降の個展とグループ展の一覧ではなく、その代わりに作品と経歴の主要な出来事を重要視して作成された。ボルタンスキーの流動的な活動は何年にもわたって同じ主題を繰り返し扱い、「再演」するものであるために、あえて約10年ごとに区切っている。この年譜を作成するにあたり、カトリーヌ・グルニエがクリスチャン・ボルタンスキーへインタヴューを行い、アーティストが自身の人生と美術の世界での道のりを回顧した『クリスチャン・ボルタンスキーの可能な人生』(パリ、スイユ、2007年、邦訳、佐藤京子訳、水声社、2010年)には大いに助けられ、この本から多くを引用している。この年譜の以前のバージョンは英語とフランス語で『クリスチャン・ボルタンスキー』(パリ、フラマリオン、2010年、カトリーヌ・グルニエとダニエル・メンデルゾンのテキストとともに)に収録されている。

(2)「戦争と自分がユダヤ人であるという事実は、私の人生において最も重要なことだ。]ホロコーストは間違いなく自分の人生を左右するきっかけとなった出来事である。」                       

翻訳:小野寺奈津