ミッシェル・タピエとアンフォルメル

■ミッシェル・タピエとアンフォルメル

 戦後のパリでミシェル・タピエがまず注目したのは、ジャン・デュビュッフェ(フランス)であった。デュビュッフェは、既成の西欧美術の概念にとらわれない子どもや知的障害者などの作品を「アール・ブリュット(生の芸術)と呼んで称賛し、自らも絵具に砂などをまぜた厚塗りの画面にいたずら書きのような線で描いた絵画を発表した。

 このデュビュッフェと、彼の活動拠点であるドルーアン画廊に集うヴォルス(ドイツ)、ジャン・フォートリエ(フランス)らの作品から、タピエは戦前とは異なる新しい抽象美術が興っていることを直感し、欧州全域やアメリカにも視野を広げで、その体系化を志すようになる。

 

 1951(昭和26)年3月、タピエはパリのニナ・ドッセ画廊でジュゼッぺ・カポグロッシ(イタリア)、アンス・アルトゥング(フランス)、ジョルジュ・マチュー(フランス)、ジャン;ポール・リオベル(カナダ)、ヴォルス、ジャクソン・ポロック(アメリカ)、ウィレム・デ・クーニング(アメリカ)らの作品を集めで「激情の対決」展を企画。同年11月にはステエディオ・ファケツティで、デュビュッフェ、フォートリエ、マチュー、リオペルらの作品を集めで「シニフィアン・ド・ランフォルメル」展を企画する。そしで1952(昭和27)年に刊行した著書『別の芸術』で、アンフォルメルを基礎概念とする独自の芸術論を完成させた。

 1955(昭和30)年、パリのセー川左岸にスタドラー画廊が開廊すると、タピエは顧問となり、以後、同画廊ではほぼ毎月のように、タピエが選抜した美術家の個展が開催されるようになる。タピエがパリに留学していた日本人美術家の今井俊満を知ったのはこの頃で、翌年1956(昭和31)年には、タピエのコレクションから今井が選抜したカレル・アペル(オランダ)、カポグロツシ、デュビュッフユ、フォートリエ、サム・フランシス(アメリカ)、フォンタナ、アルトゥング、マチエー、リオベ/hマーク・トピー(アメリカ)らの作品17点が東京、大阪、京都、福岡で開催された「世界・今日の美術展」に展示され、いわゆるアンフォルメル旋風を巻き起こす。

 これを機に、タピエは自らの芸術論の国際的な有効性を立証するべく日本に目を向け、1957(昭和32)年9月に訪日して、10月に東京のブリヂストン美術館で開催された「世界・現代芸術展」で、アンフォルメルに初めて日本人美術家を組み入れた(福島秀子、鴫本昭三、白髪一雄、田中敦子、吉原治良、勅使河原蒼風、今井俊満、堂本尚郎、大西茂、小野忠弘)。そして、これらの間、図版や実作で紹介されたアンフォルメルの作品群が、その後の日本人美術家たちのモデルとなった。

 初来日をピークに日本の美術評論家や美術ジャーナリズムのアンフォルメルヘの関心が急激に低下した後も、タピエは吉原が率いる具体美術協会勅使河原と交流を続け、彼らの作品をスタドラー画廊や欧米での自身の企画展で紹介する一方、1958(昭和33)年4月には、吉原との共同企画による全国巡回展「新しい絵画世界展−アンフォルメルと具体−」、1960(昭和35)年には大阪難波の高島屋での国際スカイフェスティバル(アドバルーンに作品を吊り下げ空中で展示する)を実現させた。

 1960(昭和35)年3月、タピエトリノ国際美学研究所を開設し(マークのデザインは堂本印象)、トリノをパリと並ぶ第二の活動拠点とする。タピエの芸術論の国際的な影響力は、前衛美術の中心軸のニューヨークへの移動とその後の新しい美術運動の台頭により、この時すでに失効しつつあったが、タピエ1960年代前半にこの研究所からアンフォルメル関連の叢書を刊行し最終的には1970年代後半まで展覧会の企画や著作活動を続けた

■アンフォルメル活動作家作品と活動歴紹介

▶︎ジョルジュ・マチュー

 1921年生まれ。1947年にパリへと拠点を移す。「叙情的抽象(アブストラクション・リリック)」の先駆者を自負し、記号システムの創始者を名乗る。己のうちに潜む暴力性を自発的に表現する幻想的エクリチュール(文体)。「絵画は即興性を伴うべき」との持論から、描くという行為はキャンバスとのぶつかり合いであり、観衆を目の前にして、激しい色彩と苦悩に満ちた画風の作品を制作するパフォーマンスをしばしば行った。彼独自の絵画的倫理において不可欠とされる、エキシビジョニスム(露出癖)的要素である。マチューは多様な基材(ポスター、家具、金銀細工)を実験的に使用し制作活動を行った。

▶︎アンス・アルトウング(1904−1989)

 HARTUNG′ Hans 1904(明治37)年ドイツ、ライプツィヒに生まれる。ライブツイヒ大学で哲学と美術史を学んだ後、同地とドレスデンの美術学校に通う1932(昭和7)年パリに移住し、第二次世界大戦が勃発すると外国人部隊に入ってドイツ軍と戦う。1946(昭和21)年フランス国籍を取得、まもなく流動的な線を主体にした抽象絵画で注目を集める。1951(昭和216年)ミシェル・タビュが企画した「激情の対決」展に出品し、アンフォルメルを代表する美術家となる。1960(昭和40)年第30回ヴェネツィア・ビエンナーレで国際絵画賞を受賞。1977(昭和52)年フランス学士院のアカデミー・ボザール会員となる。

▶︎ボール・ジェンキンス(1923−2012)JENKINS.Paul

 1923(大正12)年アメリカ、カンザス・シティに生まれる1948(昭和23)年から52(昭和27)年にかけてニューヨークのアートスチューデンツ・リーグ国吉康雄に学ぶ1953(昭和28)年渡欧し、パリでミシェル・タピエと出会い、アンフォルメルの美術家となる。スティニング(染み込み)の技法で生み出された、時に鳥の羽根のように見える形態が重なり合った抽象絵画で知られ、ゲーテの色彩論の影響から、それらには「現象」という作品名がつけられた。1960年代以降はアクリル絵具を使用し、カラフルで洗練された画風に変化した。2012(平成24)年ニューヨークで亡くなる。

▶︎ルーチヨ・フォンタナ(1899−1968)FONTANA,Lucio

 1899(明治3ヱ)年アルゼンチン、ロサリオ・デ・サンタ・フェに生まれる。イタリア、ミラノのプレラ国立美術アカデミーで彫刻を学び、1930(昭和5)年に卒業。その後、抽象彫刻や陶芸作品を制作する。第二次大戦中にアルゼンチンに戻り、同地の若い前衛美術家たちと接触。1夕47(昭和22)年ミラノで「空問主義の第一宣言」を発表。1949(昭和24)年頃からキャンバスに穴をあける表現に着手し始め、1957(昭和5ヱ)年にはキャンバスに「カット」を施した「空間概念、期待」シリーズを制作、代表作となる。19‘6(昭和41)年第33回ヴェネツィア・ビエンナーレの絵画部門で大賞を受賞。1968(昭和43)年イタリア、ヴァレーゼで亡くなる。

▶︎カレル・アペル(1921−2006)APPEL.Karel

 1921(大正10)年ナチス・ドイツ占領下のオランダ、アムステルダムに生まれる。1940(昭和15)年から43(昭和18)年までアムステルダムの王立美術学校に学ぶ。1948(昭和23)年、クリスチャン・ドートルモン(ベルギー)、コルネイユ(オランダ)、アスガー・ヨルン(デンマーク)らとコブラを結成する。「コブラ(CoBrA)」とは、メンバーの本拠地の頭文字を取ったもの(コペンハーゲン、ブリュッセル、アムステルダム)。そこで鮮やかな色彩と激しい筆づかい、大胆にデフォルメされた人物像を描き、国際的な名声を待た。1951(昭和26)年ミシェル・タピエと出会い、アンフォルメルの美術家として認められた。2006(平成18)年スイス、チューリッヒで亡くなる。

▶︎フランコ・ガレツリ(1909−1973)GARELLI. Franco

 1909(明治42)年イタリア北西部、ディアーノ・ダルバに生まれる。薬学と外科医学を学び脳外科医として働く一方、1951(昭和26)年から63(昭和38)年にかけてトリノの美術アカデミーで解剖学を教授する1954(昭和29)年からブロンズを曲げたり折ったり伸ばしたりして造形した彫刻を制作するようになり、ミシェル・タピエに認められた1959(昭和34)年には東京、京都、大阪での個展のため来日し、一カ月問滞在しで鉄工所等で制作を行った。1973(昭和48)年イタリア、トリノで亡くなる。

▶︎マーク・トビー(1890−1976)TOBEY.Mark

 1890(明治23)年アメリカ、ウィスコンシン州に生まれる。1906(明治39)年から2年間シカゴ・アートインスティテュートで学ぶ。1930(昭和5)年頃から東洋への興味が深まり、1934(昭和9)年には京都へ旅行し、禅寺で修行に励み書を学んだ。この時の経験から線による表現の可能性を追求するようになり、下地の上に白色で細くオートマチックな描線を施す「ホワイトライティング」を用い、神秘的な絵画を制作した。1958(昭和33)年には第29回ヴェネツィア・ビエンナーレで国際大賞を受賞する。1976(昭和51)年スイス、バーゼルで亡くなる。

▶︎サム・フランシス(1923−1994)FRANCIS.Sam

 1923(昭和8)年アメリカ、カリフォルニア州に生まれる。1941(昭和16)年カリフォルニア大学バークレー校に入学し医学と心理学を学ぶが、第二次世界大戦のため大学を離れ、陸軍航空隊に入隊試験飛行中の事故による入院生活で絵画制作に目覚める。その後同大学に復学し絵画と美術史を専攻、1950(昭和25)年に修士号を取得する。同年パリに渡り、1953(昭和28)年にミシェル・タピエ企画の「別の美術」展に出品、タッチの反復の広がりや余白を特徴とする抽象絵画により、アンフォルメルの美術家として認められる。1983(昭和58)年フランス政府より芸術文化勲章コマンドールを授与される。1994(平成6)年アメリカ、カリフォルニア州で亡くなる。

▶︎ジャン=ポール・リオぺル(1923−2002)RIOPELLE Jean−Paul

 1923(大正12)年カナダ、モントリオールに生まれる。ポール=エミール・ポルデュアスのもとでシュルレアリスム運動に参加、1947(昭和22)年からパリに住む。1951(昭和26)年ミシェル・タピエが企画した「激情の対決」展に出品。1952(昭和27)年頃から、ペインティング・ナイフで形作った細かな方形の色面で画面を埋め尽くすモザイク状の抽象絵画を発表する。1962(昭和37)年の第31回ヴェネツィア・ビエンナーレでユネスコ章を受章。1970(昭和45)年頃カナダに活動の拠点を移し、以後亡くなるまで同国を代表する美術家として活動した。

▶︎ジャン・デュビュッフェ(1901~1985)DUBUFFET,Jean

 1901(明治34)年フランス、ル・アーブルに生まれる。1918(大正7)年パリのアカデミー・ジュリアンに学ぶ。一度は家業であるワイン卸売業を継ぐも絵画制作を続け、1942(昭和17)年芸術に身を捧げる決心をする。1946(昭和21)年の約半年間マチエールの研究に没頭した後、「ミロポリエス、マカダム商会、厚塗り」と達した展覧会を開き、砂、コールタール、石膏、紐、ガラス片などの材料を指、ナイフなどで荒々しく描いた絵画を発表する。これらの作品は、後にミシェル・タピエによってアンフォルメルの先駆と位置づけられた。また子どもや知的障害者ら西欧美術の伝統に捕らわれない人々の作品をアール・ブリュット(生の美術)と名付け、高く評価した。1985(昭和60)年パリで亡くなる。

▶︎ジャン・フォートリエ(1898−1964)FAUTORIER, Jean

 1898(明治31)年フランス、パリに生まれる。1912(大正元)年ロンドンのロイヤル・アカデミーに入学するも、1915(大正4)年に退学し、美術館に通いながら独学で絵画を制作する。1922(大正11)年サロン・ドートンヌに初出品し、以後も同展で発表を続ける。第二次世界大戦中の1943(昭和18)年、「人質」シリーズの制作を開始。淡い色彩をパレットナイフで厚く塗り重ね、マチエールの変化によって人間を表現する。1952(昭和27)年、ミシェル・タピエの著書『別の芸術』でアンフォルメルの先駆者としで位置づけられる。1960(昭和35)年の第50回ヴェネツィア・ビエンナーレで賞を受賞する。1964(昭和39)年フランス、シャトネ=マラブリーで亡くなる。