反復・集合・覆われる画面
■反復・集合・覆われる画面
戦後欧米で同時多発的に現れた抽象絵画の一部には、画面構造に大きな特徴があった。サム・フランシスやジュゼッペ・カポグロッシ、ジャン=ポール・リオペルらの作品における均一的なモチーフの反復や集合、明確な輪郭を持たない形態ないしは色面の全面的な展開である。それは戦前の欧米の抽象絵画には見られなかった画面構造であり、さらにいうならば、ルネサンス以降のヨーロッパ絵画の伝統であった透視図法(線遠近法)による架空の奥行や地と図、上下左右の関係性を、根本的に覆すものでもあった。
タピエは、自論においてこの画面構造の革新性に直接言及はしなかったが、彼が古典主義と絶縁した「別の芸術」を論じるにあたり、こうした画面構造を重要な特徴として念頭に置いていたことは、集合を基本要素とする位相幾何学の概念を援用した点からも想像がつく。実際、タピエがアクションや物質が特に顕在化しているわけではない正延正俊や向井修二の作品や、ワッペン状の形態を規則的に配列した磯辺行久の作品を高く評価したのは、それらの画面がまさに流動的な線や記号、均一的なモチーフの集合によっで形作られていたからにほからならなかった。
ほぼ同時期、アメリカでは美術評論家のクレメントグリーンバーグが同じくこの画面構造に着目し、彼の場合はそれを形式的な観点から論じて、自国美術家のジャクソン・ポロックやウイレム・デ・クーニングらの作品をセザンヌ以降の画面構造の革新の発展的継承としで位置付け、大戦後の前衛美術の拠点のフランスからアメリカへの移動に正当性を与えようとしたこともよく知られている。
だが日本では、アンフォルメルはもっばらアクションや物質の観点から議論され、画面構造の問題が積極的に主題に上ることはなかった。それは、タピエやグリーンバーグのような欧米人が特別視するほどの革新性を、日本人がそこに認めなかったからかもしれない。そもそもユークリッド幾何学に基づく物の捉え方、世界の見方が前提として存在しなかった日本においで、アンフォルメル絵画の一部に見られた中心がなくどこを取っても均質な画面構造や平板な画面空間は、少なくとも日本画ではすでに自明のものであったからだ。
それゆえ、こうした画面構造は、洋画においでも麻生三郎の作品のような作例が早くから散発的に見られるが、アンフォルメル上陸を受け、その絵画的語法を意識的に取り込んだと思われる作品がさまざまな分野から一斉に出現することは興味深い。
画面の茫漠とした広がりが南画の伝統にも通じる深い精神性や叙情性、幻想性を湛える赤穴宏、工藤甲人、児玉希望、本野東一の作品や、同一形態の反復・集合がある種の情念や大量生産品のような無機的なイメージを喚起する針生鎮郎、高瀬善明、佐藤敬、伊藤隆康の作品など、意図する世界はさまざまであるが、この時異な画面構造の流行もまた、アンフォルメルの受容の在りようを示すものとして記憶されるべきであろう。
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