⓷高句麗の南下によって生まれた「倭国大乱」

■「倭国大乱」はなぜ起こったのか

 肥後弘幸氏など、宮津市史編さん委員会が編纂した『宮津市史』(宮津市役所、1996年)に「弥生時代から古墳時代」という節がある。そこに弥生集落の崩壊が全国で起きていたことが記されている。

弥生中期後半、紀元前100年から紀元100年に高度な玉つくりの技術を持っていた奈具岡遺跡、弥生前期紀元400年以前から環濠集落を営み続ける途中ケ丘遺跡、舞鶴市の志高遺跡(しだか)の集落は、いずれも弥生後期後半紀元300年頃に消滅している。後期から土器の出土量が極端に減る人口減少である。北丹波の福知山市興(おき)遺跡、綾部市の青野遺跡も同様である。

 丹後では、弥生後期の集落の様相が変わり、明らかな遺跡は少ないという。肥後弘幸氏は地域性豊かな特徴ある墳墓が出現して、新しい小国家ができていったという。

 これが、本章で取り上げる、1〜2世紀の「倭国大乱」の典型ではなかったろうかと考える。

 中国の史書は「倭国大乱」をどう記しているのか。『後漢書』「東夷列伝」第75と『三国志」「魏書」巻30「東夷伝」倭人条、いわゆる『魏志倭人伝』やその後の『梁書』、『隋書』の「東夷」倭条には、「桓帝、霊帝の時代(146年から189年)頃、倭国は長らく乱れ、何年も攻め合った、そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼」とほぼ同じ内容が書かれている。

 これ以外、文献ではほとんど何も書かれていない。どうも中国では何かが起きているかわからなかったようである。

 前漢は、紀元前1世紀には政治的に不安定になり、国家として弱体化し滅びる寸前で、東海岸で起き始めていた高句麗南下の情報は掴んでいなかった後漢や魏も同様である。松本清張は『邪馬台国の常識』で、三世紀に魏が公孫氏を滅ぼし、遼東半島を取り戻したときに初めて、或は高句麗の凄さがわかったのだと語っている。

 日本の歴史家はその原因について、倭国の王位継承争い説や地球寒冷化による土地収奪争いが起こったという説を提唱している。また、現実に吉野ヶ里遺跡や青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡の発掘現場から戦闘の跡がみられることで、小さな紛争だった、という説もある。一方で、伽耶地域の鉄資源や鉄器の輸入ルートの支配権を巡る争いとして畿内・瀬戸内連合と玄界灘の九州勢力との確執という見方もある。

 弥生人は鉄器を待った渡来人の墳墓づくりに、鉄を手に入れるかわりに参画した。これが「倭国大乱」を生んだと私は考える。「大乱」というほどの戦争状態ではなく、鉄の交易が生んだ日本社会の「突然変異」であったと考える。私はヨーロッパ社会で、古代から中世に至る間に起きたのと同じ現象「民族大移動」と同じ現象が、いち早くアジアで起きていたと考える。ローマ帝国が滅ぶきっかけになった有名なゲルマン民族大移動と同じ現象が、高句麗の南下で起きたと考える。ただ、東アジアの場合、歴代中国政権が朝鮮半島の東側や南の紛争の状況を捉えていないため、文献記録が不明瞭だ1世紀の高句麗の東進、南下が起こり、玉突き状態で日本に多くの鉄を持った難民が押し寄せ、争いではなく「鉄の爆発」というべき社会変革が起きたと考えた。これは一つの仮説である

 漢人が倭人という鉄を商う民族と出合い、朝鮮半島の南方、日本の状況の情報を得て感激し、同盟を結ぼうとした。倭人の方も2世紀頃、日本海沿岸で渡来人がやってきて拠点をつくり、トラブルが起き始めたため魏の力を借りたいと考えていた。「『魏志』にいわく、明帝の景初2年の6月、倭の女王、大夫難升米を遺し…」という卑弥呼の話につながった。

 それではゲルマンの民族大移動というのはどのような事件であったか?375年にフン族がゲルマンの一支族ゴート族を襲い、これをきっかけに、玉突き状態で各部族が西ローマ帝国内に侵入、混乱と、民族的同化、社会の変質化を引き起こした。これが一つの要因で476年、西ローマ帝国は滅んだ。

NHK特别篇】アイアンロード_知られざる古代文明の道

 高句麗侵攻が、「倭国大乱」に結びついたとするこの仮説が蓋然性を高めるためには、三つのことが証明されなければならない

第一に同じような現象が世界のどこでも起きること、
第二に当時の東アジア世界の歴史で、玉突きが起きたこと、日本の古代史にその傷跡がなくてはならない。
第三に文明の衝突、文化の融合、新しい社会モデルの登場がなくてはならない。なお、ここでは渡来人という表現を避け漂着難民という表現にした。

 第一の条件であるが、同じような現象は今も世界で起きている。1960年代から1976年まで続いたベトナム戦争や、現在起きているイスラム国、シリア内戦では多くの難民が生まれ、一部はボート・ピープルとして地中海に落ちのび、沿岸諸国にたどり着いている。古代史でも、少し時代は下るが、秦氏の民族移動がある。

 第二について、詳しくは 『魂志倭人伝』 にある。この有名な書は、『三国志』の中の『親書』 の中の第三〇巻「鳥丸鮮卑東夷伝倭人条」の略で、倭人だけを記している。「倭国大乱」は倭人だけでなく、東アジアの中の当時の他の民族の動向を注視する必要がある。すなわち、「東夷伝」には倭と朝鮮半島の前三韓の馬韓、弁韓、辰韓の他に、この時代高句麗と互角に戦っていた夫余(フヨ)、東海岸の弱小国である東沃阻(ヨクソ)、(ワイ)そして挹婁(ゆうろう)についての記述がある。朝鮮半島東海岸の国の動向に注意を払う必要がある。

 第三は『ローマ帝国衰亡史』のエドワードギボンが喝破したように文化的な融合、習慣も移動する。そこで、「大乱」が日本と朝鮮半島全体で起き、それが日本国内の鉄の路に大きな変化が起きた事実を示そうと思う。私は日本の「倭国大乱」が「鉄の路」に変化をつくり、前方後円墳築造の引金をつくったとする論を進めたいと考える。

▶︎朝鮮半島の地形「西船東馬」がつくった民族大移動

 釜山博物館で、ボランティアの姜(カン)さんが、朝鮮半島の地形について流暢な日本語で説明してくれた。朝鮮半島は南北約850キロ、東西約350キロで、地形、気象は極端である。川が多く、リアス式海岸がある西海岸、荒野が続く東海岸。西海岸は北から鴨緑江(ヤールージャン)、清川江(チョンチョンガン)、大同江(テドンガン)、漢江(ハンガン)、洛東江(ナクトンガン)などの多くの大河があり、その下流に肥沃な田園地帯と豊かなリアス式海岸が続いている。

 そして、半島中央に千メートルを超える峰が連なる太白山脈があり、その東側には季節風の関係で雨が少なく、耕地にならない荒地が続く。気候は亜寒帯、寒いので牧畜しか適さない。

 朝鮮半島西部は益山(イクサン)、光州(クワンジュ)、木浦(モッポ)、順天(スンチョン)から釜山と比較的温暖なリアス式海岸でむなかたかいじんぞくあり、宗像海人族に代表される倭人が育まれた九州北部と瓜二つである。幾筋もの河川が入り込み、内湾や潟で繋がり、外海と隔絶した穏やかな海が続く。そこには倭人が活躍する条件があった。

 古田武彦氏はこの陸の道を主唱されているが、『魏志倭人伝』の時代は、さらに漢の時代も含めて物資が安全に輸送できた道かどうかわからない。鉄は西海岸を忠清南道から全羅北(チョルラ)、南道を経て慶尚(きょんさん)南道に至る海岸線ルートが安全であった。

 朝鮮半島西海岸も日本と同じく舟が重要な交通手段であったことは変わりない。地誌学的には「西船東馬」の国であった。朝鮮半島を見ると西海岸は北から南まで船で交易が進んだ文明国家で、東側の荒野は機動力のあらぶる騎馬民族の天国であった。そして、高句麗の南下を防ぐ手立てはなかった。

 西側の国々は常に騎馬民族に襲われる宿命にあった。楽浪郡(現在の平壌)の場所は馬で山を越えれば、東から簡単に襲うことができ、漢も防ぎようがなかった。最初に起きた事件が高句麗の楽浪侵攻でこれが「倭国大乱」につながった。

▶︎「倭国大乱」の引金は高句麗の楽浪侵攻

 中韓の歴史で両国が隠し続ける不思議な事件が、高句麗の楽浪侵攻である。

 は楽浪郡の統治に手を焼き、二十余年で早くも占領した多くの地域を放棄、楽浪と玄菟(げんと)のみを残して滅びる新を経て後漢になってまもなくのこと、「倭国大乱」の引金となる事件が楽浪郡で起きた西暦37年楽浪郡は高句麗によって突然、襲撃を受け、占拠された後漢は、西暦44年水軍によって奪還、楽浪郡は元通りに再建されたとされ、中国の史書は大きくは扱っていない。

 この事件だけでなく、朝鮮半島の歴史は、中国と韓国・北朝鮮とではかなり見方が違っている『史書』の司馬遷に倣って、中国の歴史家、政治家は、朝鮮半島の歴史を内政問題として扱う

 漢、新、魏の時代まで四百年鮮半島は自国の領土として、取るに足らない問題としている。現在のウイグル自治区や南沙諸島と同じである。そして、高句麗については、もともと鴨緑江(ヤールジャン)の北に領土を持つ中国の辺境一国家であるから、外国からの侵略にあたらないとしている。後漢は、高句麗に接する地域の統治は出費が嵩むので放棄し、替わつて高句麗系の現地の濊(ワイ)族夫余貊(ハク)族地方豪族といった力を借りた間接支配に切り替えたという。要するに代表部を置いて半島から撤退したのだ。戦略的撤退と語っているが、このとき、完全に高句麗に揉爛(じゅうりん)され、大量の奪われた鉄が北や東に馬の背で運ばれた。後に2世紀に日本にやってくる素環頭鉄刀や銑鉄が大量に東海岸に移動したのである

 一方、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は、高句麗は自分達の国で、中国の外交部が置かれただけで、もともと占領されていないと主張、楽浪部などの湊の植民地はもともと存在しないという。博物館にも楽浪郡の記述は一切ない

 半島の国は誇り高い国で、「侵略されたことは認めたくないのだ」と片付けられているが、果たしてそうであろうか。実態はどうも楽浪郡の外交窓口を残して、半島全体を高句麗が後ろで支配していた二重統治がなされていたと考える。文献だけでは真実は見えないのだ。中国も韓国、北朝鮮もこの高句麗の楽浪郡侵攻を大事件として扱っていないし、北朝鮮は楽浪都の存在も認めていない。「倭国大乱」が見えにくい原因がここにある。朝鮮半島西海岸の大事件が日本に波及し「大変」を生んだのである。

▶︎ 地図から消えた朝鮮半島東部の中小国家

 楽浪郡を侵略した際高句麗返す刀朝鮮半島東海岸まで達している。この侵攻事件直後に、朝鮮半島の滅んだ国家もしくは難民となった民族を中国の歴史書から見てみよう。「東夷伝」には高句麗と互角に戦っていた夫余(フヨ)、このとき蹂躙(じゅうりん・ふみにじること)された東海岸の東沃沮(ヨクソ)、穢(ワイ)して挹婁(ユウロウ)の厳しい状況が東夷伝の行間から読み取れる

 夫余(扶餘)は中国から見れば長城の北の遊牧民で、現在の東北地方恰爾濱(ハルビン)斉斉恰爾(チチハル)付近の平原の国である。すでに王がおり、遊牧民らしく馬、午、豚、犬の官があり、四方の道を支配した。村には豪族がおり、下僕のように住民を使った。毛皮、玉を産し、遊牧と交易を行っていたの正月(十二月)に天を祭り、国中集まって飲んで食べて踊る。家々に鎧や武器を持っていざというときに戦った。すでに鉄を得て戦い、戦争のときはを殺して蹄(ひづめ)を見て吉凶を占った。

 早い時期から、夫余は高句麗・漢と激しい戟争を繰り返していた漢の時代は中国に朝貢していたが、王莽(おうもう)がを建国すると夫余は離反した。高句麗が楽浪郡を攻めたとき、挹婁(ユウロウ)、東沃阻など東夷諸国とともに後漢に助けを求めた。このとき高句麗は東海岸まで到達したとされる。

王莽(紀元前45年~紀元23年)とは、古代中国の政治家である。 漢王朝から禅譲を受けて「新」王朝の皇帝となったことで知られる。

東夷とよばれた民族・国家・・・後漢書東夷伝によると 江蘇省,山東省付近(太字は九夷)畎夷,于夷,方夷,黄夷,白夷,赤夷,玄夷,風夷,陽夷,嵎夷,藍夷,徐夷,淮夷,泗夷

中国東北部,朝鮮半島,日本列島・・・夫餘国,高句麗,東沃沮,北沃沮,粛慎氏(挹婁),濊,韓(三韓),倭人(倭国),百済国,加羅国,勿吉国(靺鞨),失韋国(室韋),豆莫婁国,地豆于国,庫莫奚国(奚),契丹国,烏洛侯国,裨離国,養雲国,寇莫汗国,一群国,新羅,琉求国(流求国),日本国,流鬼

 夫余の建武王は、高句麗侵略の12年後の紀元49年、朝貢の特使を送っている。倭の大夫(五位の官職)より8年早い。光武帝(こうぶてい、前6年 – 57年・後漢王朝の初代皇帝)はこれを厚くもてなした。しかし、安帝の紀元111年、夫余王は後漢を裏切り、7〜8000人を率いて、後漢の玄菟(げんと)郡を侵攻している。紀元120年、夫余と後漢は和睦安帝(後漢の第6代皇帝)は倭の奴国と同様、印綬・金綵(金の彩りをした織物)を賜った。このときも、大量の鉄器が略奪され、多くの工人が北方に拉致されたと考える

  そして、翌121年、高句麗が一方の兵を率いて後漢の玄菟(前漢の武帝が前108年朝鮮に設置した四郡の一)を囲むと、夫余は2万の兵を率い後漢に援軍を送り、高句麗を壊滅させた。やがて、夫余は遼東に移り、公孫氏(中国の氏の一つ。 公孫とはその字義通り、公(諸侯)の孫を指す言葉である)の支配下になったが、周辺東夷諸国も公孫氏に帰属した

 紀元1紀頃、後漢、高句麗、および夫余はアジアの三強で、絶えず戦いを繰り返していたが、そこに遼東半島の公孫氏が参戦したのである。夫余は公孫氏に与(くみ)したが、公孫氏が滅ぶと夫余は自然に高句麗に吸収された。3世紀、公孫氏が魏に滅ぼされると、夫余の村々は高句麗の略奪を受け、散り散りになった鉄をつくる中国の独占技術は2世紀には朝鮮半島全域に広がったと考えるべきであろう。

 挹婁(ゆうろう)現在のウラジオストク、アムール川の付近の河川の河口に位置し、南は沃沮(よくそ)に接していた。気候は寒く、冬は川が凍り弓矢で獣の狩りをして生き抜き、川が通れる春になると漁をし、さらにヴァイキングのように船で他国を襲うことを日常の生業としていた。夫余に従属していたが、その後夫余と運命をともにしたと考えられる。その過程で、放浪の民になったと考えられる。

 東沃沮は大河豆満江河口の羅先(ラソン)、清津(チョンジン)がある現在の北朝鮮の東海岸にあった国である。『魏書』の東沃阻の条によれば、この国は高句麗など大国の狭間でついに高句麗に臣属せざるを得なくなつた。1世紀に高句麗はこの地を押さえ、軍を置き、統治し重税を課した。毛皮、魚、塩.海産物を治めさせ、その地の美女狩りをおこない、都に送り、婢妾(ぬしょう)とし、最終的に住民をすべて奴隷の如くに扱った。

 東沃阻からも大量の難民が出た。沿海州の海岸から日本列島は近いのである。半島東側の沿岸集落は海洋民族もおり、日本海を漕ぎ進むことができた。しかし、夏になると北の挹婁(ユウロウ)の海賊に襲われるため、夏は山腹の洞窟に隠れ住み、冬は海が凍って船が出せなくなる季節に海岸集落に下ってきたという。この行動は瀬戸内海の高地遺跡の住民の行動とよく似ている。

 濊(ワイ)は、北朝鮮の日本海側の海の玄関元山(ウォンサン)から南北の国境38度線を越え東海付近に至る朝鮮半島東海岸に沿った国である。幾つもの山と小さな川があり、土地は痩せていた。麻布まわたを織り、蛋桑(かいこ)を飼って絹布を織り、緜(まわた)をつくつた。気候と星でその年の豊作・凶作を占い、高句麗と同じく常に十月に祭りをし、歌い踊った(舞天)。後に、新羅になる国である。

 高句麗の侵攻によって朝鮮半島の北半分は高句麗領になって、高句麗の圧政、残虐行為に耐えかね、これら国々の住民も難民として南に移動し始めたことは想像に難くない。最初は東沃沮(ヨクソ)、次に濊(ワイ)からの大勢の難民が南下を始め、一部は海に逃れボート・ピープルになった

 大河川を背後に持ち、舟運が発達した東沃沮(ヨクソ)や挹婁(ユウロウ)からも秘密裡に船をかき集め、筏をつくり部族ごと逃げ出したと考えられる。日本へのルートは石器時代の昔から黒曜石サヌカイトなどのルートが口伝えされていた

 星座で吉凶を占う、十月に盛大な祭りをおこなう。これは出雲の大祭と似ている濊は四世紀後半新羅に吸収される。平安時代、新羅の入寇(新羅から流民や帰化人による犯罪及び新羅王の勅命による国家規模の海賊行為等の総称)として海族がこの付近から日本に繰り返しやって来たのもこれで理解できる。

▶︎ 難民連はどのように日本海を渡ったか?

東沃沮の沿岸の民は縄文時代から海流に乗れば日本に来られることを知っていた。それはなぜか? 日本海には、暖流の対馬海流があることは知られているが、もう一つリマン海流という聞きなれない海流がある。そして、見落としてならない要素に隠岐の島の黒曜石があった。

 リマン海流はロシアの沿海州、北朝鮮、韓国東岸に沿って反時計周りに流れている寒流で、朝鮮半島東海岸からこれにのり、しばらくして、対馬海流にのりかえ東に流れて山陰から北陸のどこかに漂着する。これは隠岐の島の黒曜石が東に流れていると同じで、対馬海流にのって漂着する。

 高句麗の侵攻の結果、難民となった彼らは日本海に自由を求めた。極彩色の壁画で有名なキトラ古墳が、遊牧民の脳と行動様式を示しているのである。

 東西南北を示す青龍、白虎、朱雀、玄武の四神図と、宿星図が石室に措かれた円墳として発見された、このキトラ古墳は何を意味しているのか? この古墳の四神国と天井の宿星図は、この塚の主が黄泉の国(日本神話における死者の世界のこと)で数百、数千の家畜を連れて草原を施するために欠くことができない位置情報を示しているのである。放牧生活の中で、草原の塚夜の星空は、彼らが旅をする上で、自分の位置と進むべき道を教えている。家畜を追いながら、夕闇の同族の塚にたどり着き、客として村に迎え入れられ、歓待される。

 遊牧民の脳は彼らのテリトリー、すなわち彼らが行動する範囲を塚のネットワークとして把握していた。海でも同じであった。塚を墓形にする高句麗系遊牧民は日本海に出たとき、星を見て進むことができた。彼らの船旅の流儀は、遊牧のときと同じで、塚はないが海岸地漂着難民はリマン海流と対馬海流にのってやってきた形が塚となった。

 隠岐の島と出雲半島、丹後半島といった目立つ島・半島は日本海で見つけやすく、すぐにたどり着けた。

 リマン海流に乗って南に船を進め、北緯c 35度から36度の海域まできて、対馬海峡にのる。そのまま星を眺め東に進むと隠岐の島、出雲から丹後半島、北陸を結ぶ海岸線に行き着く。言い替えれば、北極星を55度から54度を眺めるところまで漕ぎ下ればだいたいのところに着く。大草原を星を見ながら旅をするのと同じ流儀である。

 前に述べた倭人の対馬海峡横断の流儀と漂着難民の航海には大きな違いがある。倭人は細身の舟で速度を上げて一日毎に航海する漂着難民は500㎞以上の距離を大きな船で潮と風で漂流する。日本海を渡るには、海の上で指の数以上の泊を重ね、海の夜の星で自分の位置確認しながら漂うように進んだ。夕暮れの太陽の位置、出始めた北斗星や他の星の位置と海岸地形で自分の場所を割り出さなければ、大海をさまよい海の藻屑と消えることとなる。運が良い難民船だけが陸地にたどり着けた

 出雲半島丹後半島が人気であったのは、海の中に出っ張っている地形が目印になり、多くの難民がこの二つの場所にたどり着きやすかったためだ。結果、この二つの半島は日本海沿岸の他の倭国と一味違う国になつた。

▶︎ 日本海を渡る知恵・・・準構造船の技術革新

 朝鮮半島から500から700㎞の日本海を漕ぎ抜くには、細身の倭人の丸木舟では不可能であった。だが、難民達はどうしたのであろうか?

 想像の域を出ないが最初は筏を組んだかもしれない。あるいは丸木舟を平行に複数結わいだかもしれない。幅広の舟で、漕ぐ人が代わりながら潮に乗ってゆっくり進む。櫓で進路を保持しながら、漂着難民の船の家族、部族の食糧、水を積み、10日以上掛かつて日本に着く。それがやがて、次の時代の準構造船になつていったと考える。準構造船とは造船用語で半構造船ともいう。木材を棚のように組んで波除板を設け、幅広の少し大型の外航船を指す。外洋を数日も連続して航行できる。

 私は紀元3世紀の倭人「倭国大乱」で準構造船という技術を得たのではないかと考える。帆走技術も得たかもしれない。対馬海峡を全力で漕ぎぬくだけでは大量の人や物資を運べない。どうも「倭国大乱」で半島東海岸から潮に乗ってゆつくり流れ着くよう航法が一般化したようだ。これによって馬が運ばれるようになった。

 5世紀初めからの古欝代中期、「倭の五王」の時代に、舷側板という波除板を継いだ幅の広い準構造船が一斉に登場する。これは全国の古墳の遺構や埴輪、例えば、宮崎県西都市・西都原古墳の重要文化財の船形埴輪、大阪府八尾市久宝寺遺跡、四条畷(しじょうなわて)市の船材遺構、京都府京丹後市ニゴレ古墳の埴輪、福井県穿市の古墳から出土した銅鐸の図柄からも窺える。だが、弥生時代のそれ以前の遺跡から準構造船は出土していないのが、「倭国大乱」のなせる業である。

 1989年、大阪市制百周年記念行事として、大阪市長原高廻り古墳から出土した船形埴輪と大阪府四条畷市蔀屋(しとみや)古墳で出土した大船の遺構から古代の準構造船を「なみはや」として復元、大阪南港から福岡経由で釜山まで実験航海をした。目的は「倭の五王」時代の航海の再現であった。

 しかし、主催者はその航海は失敗であったという。船体は不安定で、鈍重、ほとんど漕げず、大量のバラスト(船底に積んで、船を安定させるための重量物)を積み、夜間、タグボートで進み、75日掛かったという。この船では瀬戸内海は渡れるが潮の流れが速い対馬海峡は難しい。すなわち、準構造船は、日本海、瀬戸内海をゆっくりわたる。河内湖で浚渫土(しゅんせつど・海底や河川の底を掘削することにより発生する、土砂や堆積泥(へどろ)などのこと。)をゆっくり運ぶ、そんな船である。航海の流儀が違う、帆を使ったりしてもっとゆったりと進んだ小さな細身の手漕ぎの丸木舟の時代から、卑弥呼の時代からの準構造船、5世紀頃の応神天皇の帆船へと次第に大きな船に変化しながら鉄は運ばれたと考えるが、その系譜は未だよくわからない。技術の進歩といえば、それまでであるが、準構造船が突然古墳時代に出現し、ついで帆船がいつのまにか登場する

 紀元1世紀頃の遺跡に準構造船が現れてもよい筈であるが、実際には4世紀以降古墳時代に突然現れる。石井謙治氏は古代和船の構造船は腐食しゃすいから残っていないというが、それにしてもそれ以前に一隻も出土してないのは不思議である。朝鮮半島から渡来人が持ち込んだ造船技術があるかもしれない

 日本海には別の海洋民族がいたことも忘れてはならない。後に新羅人になる東海岸の濊や挹婁は、暖かい季節になると船で他国を襲うことを生業とし、日本に来るのは難しくなかった。

 西暦570年、『日本書紀』によれば、能登に漂着した高句麗船の使節は日本にはない大型船であったし、女真の船平安時代日本を度々襲っている。これらの文献と2、300年前の弥生後期の歴史を結びつけるには無理があるかも知れないが、倭人とは別に船を操る幾つかの東海岸の海洋民族の助けによって、高句麗が倭人ルートと別の日本海ルートの交易路を開いた可能性は否定できない。この東海岸の不思議な民族がこれから起こる「倭国大乱」や後の新羅冠(韓冠)の参加者になったと私は考える。

 赤羽正春氏(日本海で交錯する南と北の伝統造船技術」『神奈川大学国際常民文化研究機構年報第二号』2010年)によれば、時代はわからないが、沿海州には別の海洋文化があったという。冷たい水から乗り手を守るために凌波性に優れた船を造ったという。突然の準構造船の技術が日本に登場したのは「倭国大乱」の結果と考えても不思議ではない。