■「倭国大乱」はなぜ起こったのか
肥後弘幸氏など、宮津市史編さん委員会が編纂した『宮津市史』(宮津市役所、1996年)に「弥生時代から古墳時代」という節がある。そこに弥生集落の崩壊が全国で起きていたことが記されている。
弥生中期後半、紀元前100年から紀元100年に高度な玉つくりの技術を持っていた奈具岡遺跡、弥生前期紀元400年以前から環濠集落を営み続ける途中ケ丘遺跡、舞鶴市の志高遺跡(しだか)の集落は、いずれも弥生後期後半紀元300年頃に消滅している。後期から土器の出土量が極端に減る。人口減少である。北丹波の福知山市興(おき)遺跡、綾部市の青野遺跡も同様である。
丹後では、弥生後期の集落の様相が変わり、明らかな遺跡は少ないという。肥後弘幸氏は地域性豊かな特徴ある墳墓が出現して、新しい小国家ができていったという。
これが、本章で取り上げる、1〜2世紀の「倭国大乱」の典型ではなかったろうかと考える。