古地図を読み解く

■古地図を読み解く

鷲塚泰光 

 地図はかなり古い時代から作られていたはずですが、現存するものとしては奈良時代のものが最古です。古代から中世にかけて、社寺の敷地を描いた地図、領地の範囲を確定するための地図、裁判の資料として作られた地図など、さまざまな目的によって地図は作られました。現在一般的である道路や地形を知るための地図は、中世以前にはむしろ少数派です。

 このように中世までの地図作成には現実的な目的があり、作成者の強い意図がはたらいていました。そのため、出来上がった地図からは、当時の人々の考え方や物に対する見方が読みとれます。地図を読むことにより、それが作られた時代の歴史的背景を知ることもできるのです。

■ 描かれた地形・・・古代の地図

野尻忠 

 荘園図のはじま人り 日本列島では、古くから地図がつくられました。ごぞんじのとおり、初めて精密な日本列島全体の地図をつくつたのは、江戸時代の伊能忠敬ですが、それより数百年前の鎌倉時代以前から、南北に長い日本列島をおおまかに形どった日本地図らしきものがつくられていました。日本地図のような大きな範囲ではなく、せまい地域を描いた地図ならば、さらに古く奈良時代(8世紀)のものが残っています。今から1200年以上前のことです。これだけ古い時代の地図が現在に伝えられているのはたいへんめずらしいことで、しかも8世紀の地図は20点以上が現存しており、これは世界中をさがしても他に例をみません。

 そのころの地図は、おもに「土地の範囲」を示すためにつくられました。ですから、目印となるような地形、山や川をはっきりと描いています。たとえば、越前国坂井郡高串村の地図(図3)もようでは、山に樹木(図1)、湖には波の模様と、かわいらしいお魚さん(図2)が描かれています。ここが陸地ではなく湖であることを示すために、水中を泳ぐ魚まで登場させたものと考えられます。

 地図のこまかい部分ではなく、全体を観察しましょう。地図(図4)をみてください。たくさんの線が縦・横に引かれ、まるで碁盤の目のようです。これは、今でいう「番地」を表示するための線で、実際の土地に黒い線が引かれているわけではありません。現在でも「番地」が家の住所をあらわす重要な数字であるのと同じように、古代にはこの碁盤目状の区画とそれに付けられた番号が、土地の所在地を示すための重要な道具だったのです。

 拡大してみると(図5)、それぞれのマス目の右肩に小さく「三行」「四行」などと書かれています。これが番地を示す数字です。このマス目は当時の役所が考え出したものです。それぞれの番地ごとに、その土地が誰によって、どのように使われているかを帳簿に登録しました。こうすることで他人の土地を勝手に耕作を規制できましたし、土地の範囲をめぐつて争いがおこったときには、裁判の材料として非常に便利だったと思われます。(図6)

 ところで、この地図は、東大寺が所有していた土地の範囲を示すため、天平宝字3年(759)につくられました。大和国(現在の奈良県)の東大寺は、当時、越中国(現在の富山県)に田んぼを持っており、この地図に描かれた範囲が、間違いなく東大寺の土地であることを、越中国の役人とともに確認しました。この地図はその確認作業のときにつくられた資料です。年月日を記した後には、僧侶三人と越中国の役人がそれぞれ署名し(図6)、さらに、地図の全面には朱印がおされています。万が一、もめごとがおこったときに、土地の所有権が自分たちにあることを証明する証拠文書として使えるように、役人の署名や印のある地図をつくつておいたわけです。

 図7は、越中国射水郡鳴戸村墾田図です。やはり今の富山県にあたる地域で、射水郡は、石粟村のあった砺波郡の隣です。

 地図の全体を見ますと、マス目は全面に引かれていますが、画面中央から右よりの一帯には文字の書きこまれているマスがまとまってあり、逆に左半分には全く文字のない領域がひろがっていることに気づきます。これはいったいどういうことでしょうか。それを考えるために、地図の中央やや右下の部分を拡大してみました(図8・拡大図)。文字がたくさん書かれている間を縫うように、色のついた線が何本か引かれています。よく注意してみると、線には赤色のものと茶色っぼいものの二種類があります。

 この色の違いには、重要な意味があります。茶色っぼくみえる線は、現地を流れている川(水路)をあらわし、現実の地形を描いたものです。しかし、赤色の線は、マス目を区画する黒線と同じく現実の土地にはないものです。この赤線は、ここまでが東大寺の土地で、その外は東大寺以外が所有する土地であることを示す、きょうかいせん境界線なのです。

 この地図は東大寺がつくつたものなので、赤線より内側の東大寺の土地には詳細な書きこみがありますが、赤線の外は東大寺と関係がないためマス目には何も書きこむ必要がなく、地図上に大きな空白帯ができているのです。

 鳴戸村の地図にあった二種類の線は、鹿田村の地図にもみられます図9・越中国射水郡鹿田村墾田図〔4〕図10)

 画面の中央を、左右にまっすぐのびる茶色の線が走っています。画面の右はしには、茶色の線の先に「法華寺溝」と書きこまれており(図10)、この線が溝を描いたものであることがわかります。近くに法華寺というお寺があり、そこから名前が付いたのでしょう。法華寺は、越中国の国分尼寺のことと思われます。

 の拡大写真(図11)をみてみましょう。上はしを左右方向にながれるのが法華寺溝、その中央付近から左下に向かって階投状に赤色の線がみえます。赤線は画面下方では左右方向に引かれています。これが東大寺の土地を区切る境界線で、赤線より右側が東大寺の領地、左側と下側がそれ以外の土地、ということになります。左下の「四小家田」という区画には、赤線より左に、「百姓口分」という書きこみがみられます。「百姓」とは、後には「ひゃくしょう」と読んで農業従事者を指すようになりますが、奈良時代には農業以外の仕事をする人も含めて一般の人々を指しました。「口分」は百姓が律令政府から支給され、耕作を義務づけられている土地のことです。

 この書きこみは、赤線(境界)の外側にありますから、東大寺の土地ではなく、一般の人々の口分田でした。東大寺領の外であることを示すために、このような書きこみがおこなわれたのです。

 同じ区画内でも赤線より右側は、境界の内にあたり、東大寺の土地です。ここには次のような文字が書いてあります。

物部石敷在家(もののべのいわしきざいけ)西北角

これは、物部石敷さんという人の家が、この区画の西北の角にあったことを意味します。この人物が何者であるかはよくわかりません。ここによく目立つ建物があり、それが境界付近の目印として、地図上に記されたものでしょうか。

 その右隣の区画には、「定七段」「荒一段」段(たん)や町(ちょう)・歩(ふ)などは面積の単位)といった土地の面積も記されています。「荒」は荒れ地、「定」は農地を意味すると思われます。別の区画には「榛林」(ハンノキの林)、「三宅所(みやけどころ)」(荘園の管理事務所)という文字もみえます。

▶︎ここでちょっと、まとめ

 東大寺は当時、北陸地方に多くの土地を持っておりそこでは大量の米が生産されていました。当時はお金がほとんど流通せず、物々交換が原則だった時代。米や布は重要な交換品でした。多くの土地を持ち、たくさんの収穫が上がれば、それがお寺の収入に直結しました。古くなつた建物を修理したり、新しい建物をつくつたり、仏教の行事に必要な道具をそろえたりすることも可能になります。

 このような土地を、「荘園」と言います。奈良時代には、大規模な荘園を持つお寺は数がかぎられていましたが、平安時代になると、多くのお寺や貴族たちが、荘園を持つようになります。それまで、基本的に国家の経済支援に支えられていたお寺や貴族は、荘園によって自力で生活できるようになり、しだいに強大な勢力を持つように、なっていきました。(図12 越前国足羽郡糞置村)開田地図(正倉院宝物)

▶︎お寺の敷地を描いた地図

 いくつかの地図をみてきましたが、このように奈良時代の東大寺は、北陸地方をはじめとして各地に農地を持っていました。それでは、東大寺というお寺の本体は、どのような姿をしていたのでしょうか。お寺の金堂や塔など、建物の配置を描いた地囲も、土地の範囲を示す地図と同じように、古代から現代まで、数多くつくられてきました。そのなかでもっとも古いものの一つは、やはり東大寺を描いた東大寺山堺四至図(正倉院宝物。図13)です。

 この地図は非常に大きく、縦が約三メートル、横が二メートル以上もあります。今回展示するのはこの原本を江戸時代に模写したもので(図 図13 東大寺山堺四至囲(原本)正倉院宝物1014)、紙に描かれていますが、原本は麻布に描かれています。

 これだけの巨大な布を用意し、東大寺の広大な敷地をていねいに描きこむというのは相当な大仕事で、かなりの労力がつぎこまれたはずです。その作成には相応の目的があったと思われます。この図の右下隅には、作成年月日のほか良弁(東大寺の僧侶)な五人の名前が書きこまれ「東大寺印」が八箇所におしてあります。五人のうち、東大寺のトップである良弁を除く四人は、すべて政府の主要な役職についている人物であり、このような人々の署名を受け、お寺の正式な印をおしてあることから、この地図は東大寺境内の範囲を確定するためにつくられたものであるとわかます。つまり、これまでみてきた土地の範囲を公的に認めてもらうための地図と、本図の作成目的は基本的に同じなのです。

 さて、以上のとおりこの地図は東大寺の寺地の範囲を確定するのに作成されたもので、奈良時代の半ば、聖武天皇が没して天平勝宝8歳(756)6月につくられました。東大寺は、現在でもそうであるように、奈良時代においても大仏殿を中心として数々の建物が立ちならんでいました。図15はその中心部分の建物群を拡大したものです。中央に大仏殿、それをとりまく廻廊、左に戒壇院、左右前方に東西の塔、そしてその一角をぐるりと囲む築地塀をあらわす赤色の帯。東方には羂索堂もみえます。

 大仏殿・廻廊・戒壇院は現在でもほぼ同じ位置にあり、羂索堂は法華堂または三月堂の名前で親しまれています。塔については、建物は現存しませんが、それを建てるために造成された基壇は残っており、現在の地形と地図とがよく合致していることがわかります(「お水取り」で知られる二月堂は、まだありません)。

 ところで、聖武天皇がその晩年に造立を進めた東大寺の大仏は、天平勝宝4年(752)4月に開眼の日を迎えました。この地図がつくられる4年前のことです。が、大急ぎの工事でようやく開眼にこぎつけたため、大仏殿はかろうじて立っていましたが、他はまだ建設途中の建物も多かったのです。地図には東西の塔が措かれていますが、天平勝宝8歳のとき、西塔は完成していたものの、東塔は建設中だったことが、当時の資料から判明します。そうしたものまで描きこんでいるのも、この地図の特徴です。

中心伽藍の南には、山階寺の松林が広がっています(図16)。ここは山階寺すなわち興福寺の持分で、東大寺の境内ではありません。そのさらに南には、現在も法灯を伝える新薬師寺が描かれています(図17)

 以上のような建物や林の描写を除く、画面右側の大半には、山が描かれています。この地図がつくられた当時は、現在の中心伽藍である大仏殿周辺からみて東方に広がる広大な山野も、東大寺の範囲とみなされていました。聖武天皇らによって東大寺として整備される以前、と考えられています。この地には山岳寺院があり、それが東大寺へと発展していった山野を広く敷地に含んでいるのも、そうした歴史的な経緯を反映してのことと思われます。それにしても、東大寺山堺四至図は、たくさんの情報が織りこまれた、魅力のつきない古代の地図です。(山中の香山堂・図13)

 奈良時代につくられた、お寺の敷地を描いた地図に、額田寺伽藍並条里図(ぬかたでらがらんならびにじょうりず・図19)があります。東大寺山堺四至図と同じく、麻布に描かれています。原本は、1200年以上の時をへて、かなり傷んでいますので、ここでは作成当時の姿を推定して復元したもの(図20)をみてみましょう。濃い緑色でぬられた池、赤色で描かれた建物群などが、あざやかによみがえっています。傷んでいる原本ですが、それが貴重な資料であることはかなり古くから知られており、江戸時代末以来たくさんの模写本がつくられています。今回展示するのは明治12年(1879)頃に、当時の奈良博覧会社が絵師につくらせた模写本です(図21)。地図には、現在大和郡山市にある額安寺の周辺が描かれています。奈良時代には、額田部という苗字をもつ人がこの一帯に多く住んでいたらしく、その中心に額田部一族が建てたお寺も、額田寺といいました。この図は、額田寺の境内と、周辺に持っていた土地の様子を描いたものです。

 赤色で描かれたお寺の中心建物群からみて右上の部分を拡大してみました(図22)。特徴ある「石柱」が二本たっています。石柱と石柱を結ぶラインの下には、「巨勢朝臣古万呂」という人の土地があり、同じラインの上には「寺岡二段八歩」とあります。「寺岡」はもちろん、額田寺が所有する岡を意味します。巨勢朝臣古万呂はおそらく額田寺とは関係のない人物です。つまり石柱と石柱を結ぶラインが、額田寺の土地とそれ以外の土地とを区分するための境界になっているのです。

 実際の土地では、地面に線が引かれているわけではないので、二つの石柱が境界の目印となります。模写本をみてもわかりませんが、復元複製(図20)をみると、石柱を結ぶ線がうっすらと描かれていることがわかります。これが境界線です。現地に立ったときに目標となるこのような物体を、特に強調して描き出すのも古地図の特色です。山であったり、川であったり、額田寺の地図のような石柱であったりしますが、これらはいずれも誰もが見聞違えようのない。