いろいろな地図

■いろいろな種類の地図

奈良国立博物館

 わたしたちの国では、荘園図やお寺の敷地図以外にも、本当にいろいろな種類の地図がたくさんつくられました。ここでは、そのなかでも一風かわったものを紹介していきましょう。

 下の写真は、神泉苑図とよばれるものです(下図右)中央付近には、緑色にぬられて渦巻く何やら不思議な物体がありますが、これは池です。

 神泉苑は、平安時代の初めにつくられた、天皇が遊覧するための場所で、平安京(現在の京都)の中心部にありました。周囲に塀をめぐらせた広大な敷地の中央に池を設け、池には中島を築き、周囲にいくつかの建物を整備して、天皇の休憩所としてふさわしい空間をつくりだしていました。

 弘法大師空海がこの場所で雨乞いの修法(しゅほう)をおこなって以来、雨乞いの霊験ゆたかな場所として知られるようになり、後には、つきと、他にはがいて、雨乞いの祈祷をおこなうと、竜が反応して雨を降らせる、という伝説が生まれるほどになりました。中世には、天皇遊覧の地としてよりも、祈雨修法の場所として知られていました。

 この地図は、延応2年(1240)に醍醐寺の僧が雨乞いの修法をおこなったときの様子を描いたものです(ただし、原本は失われ、本国はその39年後の1279年に写したもの)。他の水は激しく渦を巻いていますが、残念ながら竜の描写はありません。雨乞いの修法は、池の下に描かれる長方形の区画でおこなわれました。四周(ししゅう)に緑色の房のようなものを描く空間がありますが、これは仏教行事に用いられるとよばれる飾りです。このあたりを拡大した図が他の左上に描かれています(図上左)。屋根幕の上に幡を立て、幕の四周に二枚ずつの幡がつり下げられています

指図・・・平安時代には,このように工事現場でデザインの手直しをすることが多かったことを示している。同日記には指図(さしず)(差図とも書く。平面図)と木形(模型)を使って設計を進めたとも書かれているが,この時代の図は現存せず,実態は明らかでない

 このように、建物や空間をほとんど墨線のみで描く地図を指図(さしず)さて、左の図上は、平城旧址之図とよばれるものです。いちばん上のところに、大きく題名が書いてあります。中央付近が地図で、いちばん下に長い文章が書かれています。文章によると、この地図は江戸時代の末、文久元年(1861)に描かれたものということになりますが、この地図じたいは江戸時代の原本を明治時代に写したものと考えられます。くわしいことは次ページで説明しましょう。といいます。指図の類もわが国では数多くつくられてきましたが、特に仏教行事の場所や修法の様子を描くものはたくさん残っています。そのことは、仏教がわが国の人々によっていかに大切にされていたかということを、よく示しています。

  江戸時代の末、ある偉大な学者が奈良にいました。北浦定政といいます。奈良生まれの定政は、近郊の古市の奉行所で働くかたわら、かつてこの地に栄えた平城京の跡を歩き、また文献史料の調査もおこなって、平城京が栄えていた頃の姿を復元しょうと試みました。彼の研究の集大成とも言えるものが、平城旧址之図(17ページ図乃こと平城宮大内裏跡坪割之図(上図右)です。

 平城宮大内裏跡坪割之図(だいだいりつぼわりのず)は、現状を描いた地図の上に、調査研究によって判明した平城京の条坊道路の跡を直線で書きこんだ時代の地図です。地形や家並をこまかく描写していますが、文字による注記は少なめで、現在奈良女子大学のある場所に、「御役屋敷(ごやくやしき)」と書いてあるのが目立つ程度です。定政の平城京復元の研究は、当時の人々にも知られ、どちらの地図もいくつか複製がつくられました。また、彼自身も、調査が進むごとに絵師に命じて書き直しをおこなっていたようで、少しずつ内容の異なる地図がいくつか存在します。今回展示する(上図)平城宮大内裏跡坪割之図写は、明治28年(1895)の模写です。欄外には、彼の調査結果がぎっしりと文字で書きこまれています。定政の時代から百数十年たった現在、平城京の復元研究は大きく進歩しましたが、基本的な枠組みは彼のつくつた復元図とあまり変わっておらず、彼の研究レベルの高さをうかがえます。

 一方の平城旧址之図は、復元した平城京の範囲より外側の地域まで含めて描いた地図で、東大寺や奈良町を越えて、春日山の山上までもが描かれています。東が上を向いているので、現在、奈良国立博物館のある場所は、地図では平城京の上方になります。もちろん博物館はまだない時代の地図です。

 定政の平城京復元の研究は、当時の人々にも知られ、どちらの地図もいくつか複製がつくられました。また、彼自身も、調査が進むごとに絵師に命じて書き直しをおこなっていたようで、少しずつ内容の異なる地図がいくつか存在します。今回展示する図の平城宮大内裏跡坪割之図写は、明治28年(1895)の模写本ですが、現在も北浦家が所蔵する原本(図27)とは微妙に内容が異なつていますから、それとは別の本から写したものです。平城旧址之図もよく似た写本が多数ありますが、それぞれが微妙に内容を異にし、どれがどれを写したものなのか、前後関係もはっきりしないのです。

 しかし、次のことははつきりしています。北浦定政がつくつた地図は、当時、多くの人々の関心を引きつけた、ということです。それはつまり、平城京の復元という作業に、興味を持っている人が多かったことを示します。ここから、当時の世相をさぐることも可能です。

 江戸時代後半、『古事記伝』をあらわした本居宣長らの活躍により、「国学」とよばれる学問が発達し、それとともにこの国の古い時代のことを深く知ろうとする流れが生まれました。当時からみても千年以上のむかしに栄え、そして土に埋もれていった平城京は、そうした風潮に関心を寄せる人々にとっては重要なテーマだったことでしょう。北浦定政の研究がおこなわれ、それを受け入れるだけの素地ができていたものと考えられます。

▶︎荘園と地図

 下の図28をご覧ください。鎌倉時代の地図です。中央に大きな湖があり、そこから下のほうへ向かって太い川が流れだし、画面のいちばん下にある海にそそいでいます。湖の周囲には田や畑がひろがっており、それを囲むように山がみえます。この地図は、伯耆国(ほうきのくに・現在の鳥取県西部)にあった「東郷荘」という荘園の様子を描いたもので、正嘉2年(しょうか・1258)につくられました。

 この地図で面白いのは、図のなかに馬と人物を描いていることです。湖の左下付近から海にかけての陸地には山を駆ける12頭の馬がいます。全部みつけられるでしょうか。特に、海沿の山にいる5頭の馬は躍動的です(図30)。もちろん、この馬の絵は山に対して大きすぎますから、本当に走っている馬を写生したものではなく、この周辺に牧場があったことを示すために、象徴的に描きこまれたものです。そして、湖の真ん中に浮かぶ船には2人の人物が描かれています(図31)

 海を航海する3隻の帆掛船も目につきますし、画面上方にあるこんもりと樹木のしげった山も丁寧に描かれています。家や神社などの建物も非常にこまかい描写がなされています。この地図はいったい何のためにつくられたのでしょうか。

 それを知る手がかりとなるのが、上方の山並を縦方向にスパッと切る赤い線と、線をはさんで左右対称の位置に大きく書かれている「領家分」「地頭分」という文字です(図29)  。この地図は、「領家」と「地頭」とが土地を分割したときに、境界をはっきりさせるためにつくつたものです。「領家」は荘園の本来の持ち主で、「地頭」は鎌倉幕府が荘園を監督するために任命したです。両者は土地の利権をめぐつてしばしば対立し、この地図にみられるような「下地中分(したじちゅうぶん)」とよばれる土地の分割をおこなうこともありました。

 領家分(西分)と地頭分(東分)との境界を示す赤い線は、湖の上方だけでなく、右下や左下にもみられ、湖を囲むように存在する田畑を均等に分配していることがわかります。また、湖の左下の一帯は「馬野」という地名で、馬の放牧地だったようですが、境界を示す赤線をはさんで上・下どちら側にも馬がいるように、じょうず上手にふりわけて描かれています。なお、赤線の両はしに、線をはさむように二つならんで書かれているサインは、この下地申分を認めた鎌倉幕府の役人の署名です。

 鎌倉時代には、荘園の地図がたくさんつくられました。下地中分図もその一種ですが、他にもさまざまなタイプのものがあります。以下ではそのいくつかを紹介していきましょう。

▶︎租税取り立ての台帳

 大和国乙木荘条里坪付図(おとぎのしょうつぼつけず・図32)は、現在の天理市乙木町周辺にかつてあった荘園の地図です。鎌倉時代につくられました。

 図の中ほどから右よりにある二つの鳥居が目立ちます。今でもこの近くに夜都支(やつぎ)神社という神社がありますが、当時も同じ場所に神社(名前は今と違いました)があり、これはそこへ向かう参道沿いに二つの鳥居があったことを示しています。右側の鳥居の付近を拡大してみましょう(図33)。太線で囲われた正方形の区画が四つあり、さらにそれぞれの区画が縦長な10の列に分けられています。それぞれ区画の中央付近に、「三段田(さんたんだ)」(拡大図右上)「木殿之脇」(左下)のように記されるのが地名で、縦長の列には耕作者の名と租税の額が書きこまれています。「木殿之脇」と記された坪のなかに目を向けましょう。縦長の列のいちばん右には、ここが「増教」という人物の耕作する土地で、納めるべき税額が米「一斗」であることが記されます。同じように、その左隣の列は「良仏」が耕す土地で、一斗の米を納めていたことがわかります。その左は「二反」すなわち二列まとめて地方に多くみられるかたちでした。

 さて、この地図は条里の坪付を示す碁盤目状のマス目を引いたベースマップの上に、土地の面積や耕作者の名前が書きこまれているわけですが、もっとも重要なのは税額が書きこまれていることです。つまり、この地図は、領主が現地の耕作者から租税を徴収するためにつくられた台帳のようなものだったのです。

 領主たちが、荘園をきっちりと管理しようとしていたことが、こうした地図から浮かび上がってきます。「庄司」の分で、負担は二斗でした。「下司名」の左にならぶ 「三反」(三列)は、「他領」とあるように、この地図をつくつた荘園領主ではない他の人が持っている土地でした。鳥居の下方の坪にみられる「白毫寺(びゃくごうじ)領」、「新薬師領」、「内山領」なども別の領主が所有する土地です。このように、いろいろな領主の土地が複雑に混在しているのも中世の荘園の特徴で、特に近畿地方に多く見られるかたちでした。

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▶︎お寺とその周辺の土地を描いた地図

 上の地図(図35)は、現在も奈良市虚空蔵町の虚空蔵山(高樋山・たかひやま)に伽藍をかまえる弘仁寺を描いた、鎌倉時代の地図です。

 画面中央にあるひときわ高い山の上に「虚空蔵寺」があり、山のふもとをめぐるように、画面上方には右から左へ流れる「和迩河(わにがわ)」があり、左方から下方にかけては黄色い線で表された「大道」「山道」があります。

 この黄色い線は虚空蔵寺と「他領」とをわける境界線でもありました。画面右下付近(図34)をみると、黄線の下に四行にわたる罫書があり、道より南では、山は膳部寺(かしわででら)」の領地、谷にひろがる田地は「諸人」の領地であることが記されています。画面左方の黄色い線より外側に「願輿寺(がんこうじ)」、画面上はしには「椙崎寺」という別のお寺がありますが、ともに草葺きの質素な建物として描かれ、立派な屋根を持つ「虚空蔵寺」とは明らかに格差があります。

 また、山中の谷間らしき箇所にはところどころ田畑の描写がみられますが、さきほどもみた画面右下付近には、近隣に住む「願珍」という僧が開発した田んぼがあったりしますので、この地図は、虚空蔵寺領とそれ以外の土地とを区別し、範囲を確定するために作成されたものと思われます。奈良時代の東大寺山堺四至図や、額田寺伽藍並条里図などと、作成の目的は一緒です。

図36 大和国西大寺敷地図(弘安三年)〔13〕

下の図36は奈良の西大寺周辺を描いた地図で、鎌倉時代につくられました。弘安3年(1280)のことです。これも、やはり土地の範囲を確定することを目的として作成されました。

 西大寺は、はじめ奈良時代(8世紀)に称徳(しょうとく)天皇によって建てら国からの援助がなくなった平安時代以降はしだいに衰退していきました。そこに現れたのが、叡尊というお坊さんです。彼は、弘安元年(1278)、布教活動の拠点を西大寺に構えました。

叡尊(えいそん、えいぞん、建仁元年〈1201年〉 – 正応3年8月25日〈1290年9月29日〉)は、鎌倉時代中期の日本の人物で、真言律宗の僧。字は思円(しえん)。諡号は興正菩薩(こうしょうぼさつ)。興福寺の学僧・慶玄の子で、大和国添上郡箕田里(現・奈良県大和郡山市内)の生まれ。廃れかけていた戒律を復興し、衰退していた勝宝山西大寺(南都西大寺)を再興したことで知られる。

 もともと西大寺は、たくさんの土地を持っていました。お寺の本体の周辺にも広い土地を持っていましたし、日本各地に荘園を持っていたこともあります。西大寺領諸荘園現存日記(図37)は、鎌倉時代の初め、建久2年(1191)につくられた文書(もんじょ) ですが、これには「大和国(やまとのくに)」以下、「備前国」までの五箇国に存在する荘園が書き上げられています

 しかし、同時に、これらの荘園は一部が公有地や他人の土地となり、面積が半分または三分の一になっているところが多い、ということも書かれており、かつての繁栄と現状の衰退ぶりとをこの文書から読みとることができます。

 叡尊が西大寺を運営するようになったとき、全国にあったはずの荘園はもちろん、お寺の周辺の土地までもが失われかけていました。寺辺には「福益名(ふくますみょう)」とよばれる土地があったのですが、当時、この土地は鎌倉幕府に没収されていました。福益名の位置と図38〔13〕部分面積を確認するためにつくられたのがこの地図です。

 拡大図(図38)をご覧ください。画面の上はし、中央付近を切り取ったものです。四つある区画(坪)のうち「八」の坪には、右側の縦線にそって「福益名五段半」と書かれています。これは、この「八」坪の範囲内に、西大寺の土地があったことを示すものです。同様に「」坪と 「北辺三坊一坪」にも福益名の田地がありました

 (当時は、租税を納める人物が同じであれば離ればなれの土地でも同じ名がつけられました)。

 この土地が西大寺領であったことは、西大寺寺本検注并目録取帳案(ほんけんちゅうならびにもくろくとりちょうあん・図39)にも記されています。

 史料の一行目に、「一条北辺二坊三坪」とありますが、そこから左へ四行ほどいくと「七坪」という文字がみえ、さらに三行はど後に「八坪」があると思います。みつかりましたか?

 一条北辺二坊の八坪というのは、さきほど西大寺敷地図でみた、真ん中に赤字で 「八」と書きこまれた坪のことです。地図ではここに「福益名」のあることが記されていましたが、この文書でも、「八坪」と記された次の行に、三反(名田二郎・名田シキ事給)とあります。ここに出てくる「名田」という言葉が、まさに、この土地が福益名の一部であったことを示すものです。文書をよくみると、「名田」はあちこちに出てきます。文書は建長3年(1251)の作成で、地図より三〇年くらい前のものですから、記載された面積までは一致しませんが、福益名の位置は基本的に変わっていないことがわかります。この土地にかかわる史料をもう一点紹介しましょう。西大寺四王金堂供田配分状案(しおうこんどうくでんはいぶんじょうあん・図40)は、西大寺敷地図の二年後、弘安5年(1282)につくられた文書です。

浄行・・〘仏〙 仏の教えに従った行為。戒律を守ること。また、淫事を行わないこと。

 これは、浄行衆(じょうぎょうしゅう)という役職についている六人の僧に、土地を配分するという内容をもつ文書です。三行目に出てくる「実算(じっさん)」という僧は、次行にあるとおり面積二段の土地を支給されていました。次の僧「鏡俊(きょうしゅん)」も支給面積は二段で、そのうち一段が「一条北辺二坊七坪」 に所在しました。

 この坪は、図38で示した敷地図では、赤字で「」と書きこまれた区画にあたります。この七坪を、さらに図39の文書でさがしてみましょう。そこには、赤字で小さく「四王堂檀供田」と書きこまれているのがみえるはずです。よーくさがしてください。みつかりましたか? 鏡俊というお坊さんは、浄行衆という役職を務めるかわりに、この土地から得られる収入を与えられていたのです。

▶︎裁判の資料としてつくられた地図

 そもそも荘園とは、寺院・神社や貴族たちがもっていた土地のことをいいます。すべての土地はもともと国有だったのですが、しだいにその原則がくずれ、財力のある人々が個人的に所有する土地がひろがっていきました。前にお話ししたとおり、荘園の歴史は奈良時代にはじまります。平安時代には日本中に荘園がたくさんできて、鎌倉時代に入ると荘園の利権をめぐる争いが各地でおこるようになりました。

 大和国西大寺与秋篠寺堺相論絵図(図41)は、そのような利権争いをはっきりと物語る地図です。当時、西大寺と秋篠寺は、田に引く水の利用権をめぐつて対立していました。ついには法廷で裁かれることになり、秋篠寺が裁判の資料として提出したの図41がこの地図です。

 論争になっている用水と、その水源である「今池(いまいけ)」や「赤皮田池(あかはたいけ)」を描いた周辺には、「もとは秋篠寺用水権をもっていたのに、今は西大寺によってふさがれている」といった内容の書きこみがあったり、西大寺・秋篠寺両方の証言を記した札が貼られたりしています

 生きるために収入を確保することは、いつの時代にも最重要の事がらでした。このような、非常にきれいに描かれた地図の背後には、厳しい現実を生きる当時の人々の姿が隠されているのです。

▶︎信仰のためにつくられた地図

 下の写真(図42)は、奈良の春日大社と興福寺を描いた図です。室町時代につくられました。画面上部に、御蓋山(みかさやま)と春日社の景色を描き、山の上には春日社にまつられる神の本体と考えられていた五体の仏(本地仏・ほんちぶつ)が配されています。画面中央付近、山のふもとにある東西に並ぶ二つの塔までが春日社の範囲で、さらに下方には興福寺の建物が大きく描かれています。下はしには猿沢弛もみえます。

 

 仏のすがたが描かれることからもわかるように、この図には山示きょ・つ数的な意味がこめられています。春日社興福寺を描いたこのような図のことを、春日社寺曼茶羅といいます。

 こうした曼荼羅は、社寺の現地へ行かなくても、居ながらにして神や仏を礼拝できるようにと作成されました。神仏への礼拝が目的ですから、地形や風景までを丁寧に措く必要はないはずですが、この囲のように描写のこまかい曼荼羅は数多く存在します0なぜそのような図がつくられたのでしょうか。

 この図をつくつた作者の意図はわかりませんが、景色が正確に清かれていることで、これをみた人々は、まるで現地で神仏を拝んでいるかのような臨場感を味わうことができたことでしょう。

 次に、(上図43)も景観をきれいに描いた曼荼羅です。滋賀県に日吉山王社を描いたもので、山王宮曼荼羅とよばれます。

 この囲も、春日社寺曼荼羅と同じように、現地へ行かずに神仏を礼拝するためにつくられました。宗教行事のとき、この図を壁などにかけて、本物の日吉山王社のかわりに礼拝したのでしょう。図の中央、上半分に描かれる大きな山が、御神体である八王子山で、その山頂にはいくつかの建物が立っています。山のふもとにひろがる建物群も、一つ一つの社殿が詳細に記されていますし、そのほか山並や樹木などもふくめ、日吉山王社の景観を実に写実てき的に描いています。また、図の上部には、景観を措いた画面の外になりますが、日吉山王社の本地仏が描かれています。

 日本列島では、古くから神仏に対するあつい信仰がおこなわれてきました。しかし、古い時代には、深い信仰心を持っていても、実際に春日社や日吉山王社を参拝する機会はかぎられていました。現地へ行かずとも礼拝したい人々は、こうした曼荼羅を拝することで、その代わりとしたのです。中世の人々が神仏に寄せた、あつい信仰心が生み出した地図と言えます。