磐井の乱と朝鮮半島情勢

▶︎磐井の乱と朝鮮半島情勢

篠川 賢  

▶︎新羅・百済と伽耶諸国

 継体の即位事情や、即位した正確な年代は不明であっても、継体が6世紀初め頃の大王であったことは間違いない。その頃、中国は南北朝時代であり、北朝は北魏(439〜534年)、南朝は斉(479〜502年)にかわって梁(502〜557)が成立した時代であった。また朝鮮半島では、新羅と百済が、南下策をとる高句麗に対抗しっつ、それぞれに伽耶地域への進出をはかっていた。

 『三国史記』(朝鮮の現存最古の歴史書。高麗の金富軾(きんぷくしょ)らの撰。1145年成立)によれば、新羅では、500年に智証王(ちしょうおう)が即位し、異斯夫(いしふ)を軍主に任じて領土を広げ、514年には智証王が死去して、その子の法輿(ほうこう)王が即位したとされる。

 

 新羅は、この法輿王(在位514~540年)の時代に、国内体制を整え、さらに領土の拡張を進めた。522年には、伽耶国の王が、新羅に婚姻関係を求めてきたのに対し、法興王は、伊湌(いさん・新羅の官位17階の第2位)の比助夫の妹を送ってそれに応じたという。この伽耶国王は、北部伽耶地域に成立した大伽耶連盟の盟主であった加羅(から・大伽耶)国の王とみられる。この婚姻は、百済の圧迫を受けた大伽耶連盟が新羅と結ぼうとし、新羅がそれを伽耶地域進出の好機ととらえて成立した婚姻といえよう。その後新羅は、もっぱら南部伽耶地域への領土拡張を進めていくことになる。

 一方百済は、501年に武寧王が即位し、北は高句麗と戦いその南下を防ぎ、東は北部伽耶地仙南は南部伽耶地域への侵攻を積極的に進めていた。その際百済は、と結ぶ方針をとったのであり、『日本書記』に記す百済への「任那四県の割譲」や、己汶(こもん)・帯沙(たさ)の百済への「下賜」は、百済が伽耶地域に領土を拡張していったことを、「日本書紀」編者の立場から述べたものである。

 「日本書紀』においては、当時、「任那」(伽耶諸国)は日本(倭)の支配下にあったとされるのであり、新羅や百済も日本に従属していた国と位置づけられている。倭が伽耶地域(とくに南部伽耶地域)と密接な関係を有していたことは事実でぁるが、このような位置づけは一方的なものであり、事実とみることはできない

日本の学者が『日本書紀』を引用して、倭が朝鮮半島南部を支配したという任那日本府説を主張すると、韓国の学界はそれは受け入れることができないと拒否するのは、明白な矛盾であり、こうしたダブルスタンダードを平気で発生させる韓国側のスタンスが原因で、日本の学界が韓国の学界を軽く見ているのではないか、と指摘している

▶︎「任那四県の割譲」

 継体紀6年(512)12月条にの割譲は、百済が使者を遣わして、「上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の四県の割譲」を求めてきたとの記事がある。それによれば、百済の要求を認めた方がよいとする「哆唎国穂積臣押山(ほずみのおみおしやま)の意見に、大伴金村が同意し、割譲が決定したとされる。

継体6年(512)記事:継体6年に穂積臣押山が百済に遣わされた。そして任那4県を百済に譲渡することを大伴金村大連に提案したとされている。その後金村・押山ともに百済から賄賂を受けたとして糾弾された。

上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の四県」は、朝鮮半島の南西端、ほぼ現在の全羅南道に相当する区域である。百済による「四県割譲」の要求記事は、日本側の伝えだけではなく、「白済本記』にも基づいた記事と推定され、その信憑性は高いと考えられる。穂積臣押山は、『百済本記』には「意斯移麻岐彌(おしやまきみ)」とあり(継体紀七年六月条)、当時この人物が、倭政権によって哆唎地域に派遣されていたことも事実とみてよいであろう。

 近年、全羅南道の地域から、前方後円墳があいついで発見されているが、このことは、この地域に倭人が派遣され、この地で亡くなつた人物もいたことを示している。

 なお、『百済本記』というのは、『百済記』『百済新撰とともに、百済三書と総称される百済の歴史書であり、いずれも「日本書紀』に引用されることによってのみ伝えられる書である。

 したがってその成立過程は明らかではないが、百済滅亡後に倭に亡命してきた百済人が、その持参した史料に基づいて編纂し、倭(日本)政府に提出した歴史書とする説が有力である。『百済本記』は、継体紀・欽明紀の分注に、しばしばその文章が直接引用されており、また継体紀・欽明紀の本文も、『百済本記』に基づいて書かれたと考えられる記事が多い。

▶︎「己茨・蒜沙の下賜」

 「任那四県の割譲」記事に続いて、翌年の継体紀7年6月条には、百済が使いを遣わして、五経博士(儒教の博士)段楊爾(だんように)を貢上(推薦)するとともに、伴跛(はへ)国に奪われた己汶(こもん)の地の返還を求めてきたとの記事がある。また同年十一月条には、己汶(こもん)・帯沙(たいさ)を百済に下賜(かし・身分の高い人からくださること)する勅(天子のおおせ)が伝えられたと記されている。百済が五経博士を倭に送ってきたのは、百済の伽耶地域への領土拡張を、倭が支持し承認したことに対する見返りとしての意味を待ったものと考えられる。

「伴跛(はへ)国」は慶尚北道の高霊(コリョン)の地で、5世紀初頭までの「加耶」は、慶尚南道の金海が中心であったが、後半以降は「伴跛国」を「大加耶」と呼んで、北道を中心に連盟した。

 己汶(こもん)・帯沙(たいさ)は、「任那四県」の東側、蟾津江(せんしんこう)中流とその河口の地域であり、伴跛(はへ)国は、北部伽耶仙域にあった有力国である。『日本書紀』には、この後、百済と倭が結び伴跛国との間に、己汶・帯沙をめぐっての戦闘があったと伝えるが、結局は百済が領有するところとなつた。伴跛国は、大伽耶連盟の盟主の加羅(大伽耶)国と同一とみるのが妥当であろう。

 先に述べた 522年新羅の女性と加羅(大伽耶)王との婚姻は、百済の侵攻を受けた加羅王が、新羅との同盟をはかって申し込んだものと考えられる。百済では、523年に武寧王が死去し、その子の聖明王(聖王)が即位したが、聖明王(在位523〜554年)も、と結ぶ方針を継承し、さらに領土の拡張を目指していった。

▶︎磐井の乱の勃発

 その頃、倭国内においては、磐井の乱という大事件がおきた。乱の経過についでは、継体紀21年( 527)6月条から22年12月条にかけて、詳しい記事が載せられている。また、『古事記』、『筑後国風土記』(『釈日本紀』に引用されたその逸文)、『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』(平安時代の初め頃に、物部氏系の人物によって編纂されたと考えられている歴史書)の巻」「国造本紀(こくぞうほんぎ)」などにも関連記事がみえ、いずれも継体朝の事件と伝えている。

 一つの事件について、これだけ多くの文献に記事があるというのは古代においてはめずらしく、磐井の乱が、8世紀以降の人々にも大きな事件として認識されていたことが知られる。

 継体紀に記す磐井の乱の経過を要約すれば、およそ次のとおりである。

継体天皇二十一年六月、近江毛野臣(おうみのけののおみ)が軍兵六万を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅(ありひしのから)・喙己呑(とくことん)を復興して任那に合わせようとした。筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井は、かねて反逆を企て、機をはかっていたが、それを知った新羅は、磐井に賄賂をおくって毛野臣の軍を防ぐように勧めた。そこで磐井は、火(ひ)・豊(とよ)の二国にも勢力を張り、朝廷の命をうけず、海路を遮断して高句麗・百済・新羅・任那からの朝貢の船を誘致し、野臣の軍をさえぎった。そのため毛野臣の軍は前進できず 中途にとどまったままであった。継体天皇は、大伴金村らとはかり物部麁鹿火を将軍とすることに定め、同年八月、物部麁鹿火磐井の征討を命じた。翌年の十一月、物部麁鹿火はみずから磐井と筑紫の御井郡(みい・福岡県三井郡)で戦い、激戦のすえ、ついに磐井を斬って反乱を鎮圧し、境を定めた。同年十二月、磐井の子の筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は、父に連坐して殺されるのを恐れ、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献上して死罪をあがなうことを請うた。

 これによれば、磐井の乱は、新羅に破られた南加羅と喙己呑(とくことん)を復興するために「任那」に派遣さぁた近江毛野の軍を、磐井がさえぎつたことによって始まったとされる。南加羅は、南部伽耶地域の中心国の一つである金官国(洛東江下流域、現在の金海(きんへ)付近にあった国)のことであり、喙己呑も、南部伽耶地域にあった一国とみてよい。

磐井(いわい、生年不明 – 継体天皇22年(528年?))または筑紫 磐井(つくし の いわい)は、6世紀前半(古墳時代後期)の豪族。カバネは君。『日本書紀』では「磐井」、『古事記』では「竺紫君石井(ちくしのきみ いわい)」、『筑後国風土記』逸文では「筑紫君磐井」と表記される。『日本書紀』では筑紫国造とするが、これは後世の潤色とされるヤマト王権との間で起こった磐井の乱で知られるほか、この時代では珍しく墓の特定が可能な人物として知られる。

 乱勃発についてのこの記述の信憑性については、継体紀23年条にも新羅の南加羅侵攻の記事があるため、疑問であるとの説がある。また、乱の勃発年次を、継体24年(530)に引き下げて考える説も出されている。しかし、新羅の南加羅への侵攻は何回にもわたって行われたとする説に従うならば、とくにその信憑性を疑う必要はないであろう。

 また、新羅が磐井に賄賂を送って、近江毛野の軍を妨害するように勧めたということも、当時の朝鮮半島情勢からすれば、事実を反映した記述である可能性が高い。「国造本紀」の伊吉嶋造(いきしまのみやつこ)条にも磐井の従者であった新羅の「海辺人」を斬った人物が、伊吉鴨造の祖であると伝えている。

▶︎岩戸山古墳と石人・石馬

 磐井が新羅と結んだのが事実であるならば、磐井の勢力は、新羅からも高く評価されていたことになる。右の記事によれば、磐井は筑紫(のちの筑前・筑後国。現雲福岡県)だけではなく、火国(のちの肥前・肥後国。現在の佐賀・長崎・熊本県)と亀国(のちの豊前・豊後国。現在の福岡県東部と大分県)にもその勢力を伸ばしていたという。磐井の墓と推定される岩戸山古墳の規模や、そこに数多く樹立されている石人・石馬などの石造物の分布ないからすれば、これも事実を反映した記述とみてよいであろう。

 磐井の墓については、『筑後国風土記』に詳しい記事があり、そこには、墳丘親模や墓域についでの記述のほかに、東北隅(ぐう)に「衙頭[がとう・政所(まつりごとどころ)]」と呼ばれる別区があること、そこで裁判が行われていたこと、その別区と墳丘の周囲には多くの石造物が立て並べられていたことなどが記されている。これに該当するのが、福岡県八女(やめ)市の岩戸山古墳である。

 岩戸山古墳は、6世紀前半の築造と制定される全長約140m前方後円墳であり、十数基の前方後円墳と300基ほどの円墳から構成される八女古墳群中の最大規模の古墳である。また北九州地域全体の中でも最大であり、この時期の古墳としては、畿内地域の最大級の古墳に比べてもひけをとらない規模である。墳丘の東北部には方形の平坦部(造り出し)があり、『筑後国風土記』にいう「街頭」に相当する。その平坦部や墳丘から、石人・右馬・石軟などの石造物が多数発見されていることも、『筑後国風土記』の記述と対応している。そしてそのような石造物は、八女古墳群中の石人山古墳(5世紀代の築造と推定される全長約130mの前方後円墳)や岩戸山古墳を中心に、福岡・大分・佐賀。本・宮崎などの各県の古墳に分布するのである。八女古墳群の造営集団は、岩戸山古墳の段階におては、ひろく九州北部にその勢力を広げていたと考えて間違いないであろう。

▶︎乱の制圧とその後

 『日本書紀』によれば、磐井の乱を鎮圧したのは物部麁鹿火(もののべのあらかび)であり、筑紫の御井郡(みいぐん・福岡県)の戦いで、麁鹿火自らが磐井を斬ったとされている。しかし『古事記』では、物部麁鹿火大伴金村の二人が乱の鎮圧に派遣されたとあり、『筑後国風土記』では、磐井は豊前国(ぶぜんのくに・福岡県)の上勝県(かみつみけのあがせた・福岡県築上郡)に逃れてそこで死んだとされる。実際の経過は不明とせざるを得ないが、磐井が倭政権との戦いに敗れたことは事実とみてよいであろう。

 磐井の乱の性格については、倭政権に対する反乱ではなく、日本列島における国土統一戦争であったとする見方もある。たしかに、大王を中心とした中央政権が、国造制・屯倉制などの制度をとおってこの地域を支配するようになったのは、磐井の乱後のことと考えられる。

 国造制の成立が国造の国(クニ)の画定をともなったものであったとするならば、継体紀に、磐井を斬って「果たして疆場(さかい・「国のさかい。辺境。国 境」)を定む」と書かれていることは注意される。

 また、乱後、磐井の子の葛子(磐井(筑紫君磐井)の子である)糟屋屯倉献上したとあるのも注意されるところである。糟屋は律令制下の筑前国糟屋郡に相当する地名であり、糟屋屯倉は、博多湾岸に所在した屯倉と考えられる。磐井の本拠地は、岩戸山古墳(八女古墳群)の営まれた筑後川流域にあったと考えられるから、糟屋屯倉は磐井の本拠地から離れたところに置かれていたことになる。磐井が博多湾岸に勢力を伸ばし、そこに設置した外交上の拠点が、糟屋屯倉(その前身施設)であったとみてよいであろう。

 宣化紀元年(536)5月朔条には、那津官家(なのつのみやけ)を設置して各地の屯倉の穀を運ばせたという記事がみえる。この那津宮家は、倭政権が外交上の拠点として設置した施設である。糟屋屯倉と那津宮家との関係ははっきりしないが、那津宮家も博多湾岸に所在したのであり、倭政権による北九州を窓口しした外交権の掌握は、糟屋屯倉の献上によって達成されたと考えられる。

 また、葛子による屯倉献上の記事は、磐井が討たれたのちも、磐井の一族が滅亡したのではなかったことを示している。おそらく葛子は、その後は筑紫国造に任じられ、倭政権の一員に加わったのであろう。磐井が継体紀に「筑紫国造磐井」と記されるのは、のちに一族が筑紫国造職を世襲したことによる追記と考えられる。

 なお、継体紀によれば、磐井の乱後、近江毛野臣の軍は朝鮮半島に渡ったが、新羅に敗れ、毛野よる外交交渉も失敗に終わったとされる。結局、南加羅(金官国)は、532年、新羅に降伏するなとになった。


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 3−欽明朝と蘇我氏の登場


取掛恩嘗継体の死と「辛亥の変」継体紀二十五年(五三一)二月丁未条には、継体はこの時に磐余玉穂宮で崩じ、享八二であったと記している。そして、同年十二月庚子条の分注には、戎本では継体継体二十八年(甲寅年=五三四年)に崩じたとするが、ここに継体二十五年(辛亥年五三一年)に崩じたとしたのは、『百済本記』 に、「辛亥年に日本の天皇と太子・皇子がともに亡くったと問いた」と書かれているからである、と記している。 安閑紀によれば、継体は臨終の際に安閑に譲位したとされ、安閑元年の干支は甲寅(五三四年)あるとしている。したがって、右の分注にいう戎本の伝えが、本来の日本側の伝えであったことがかる。『日本書紀』編者は、『百済本記』 の記載によって本来の伝えを訂正したが、安閑元年の干支そのままにしたため、継体から安閑への継承は、臨終の際の譲位としながらも、二年の空位があるいう矛盾が生じてしまったのである。一方、『古事記』によれば、継体の崩年干支は丁未とあり、これは五二七年に相当する。また、体の享年は四三としており、『日本書紀』 のいずれの所伝とも異なつている。 継体の死をめぐつては不明な点が多いが、『百済本記』に、「辛亥年に日本の天皇と太子・皇子がもに亡くなつたと聞いた」とあるのが事実の伝えであったならば、それは尋常なことではない。こを「辛亥の変」と名づけ、継体の死にあたっては、何らかの政変があったとする説がある。それにし、『百済本記』の伝えは誤伝であり、政変は存在しなかったとする説もある。この議論は、継体死後、二朝が併立したとする説や、内乱状態にあったとする説と、直接関係する議論である。