列島文化のあけぼの

■列島文化のあけぼの    

▶︎旧石器・縄文時代の環境と暮らし

▶︎旧石器時代のはじまり

  約400万年前、地質学でいう第3紀の終わり頃に人類は誕生し、続く第4紀に類人から原人、旧人、新人へと進化していった。第四紀更新世(洪積世)の氷河期には、海面が低下して日本列島は大陸と地続きとなり、北や南からマンモスやナウマン象などとともに人類も列島に移動してきたとみられる。約1万年前からの完新世(沖積世)になると、海面が上昇して日本列島の海岸線は今日のようになった。列島でみつかった更新世の化石人骨には、旧人段階の愛知県牛川人、新人段階の静岡県三ケ日人(みつかびじん)・沖縄県港川人などがある。

  これらの人骨は、身長が低くて顔が幅広く立体的な南方系の古モンゴロイドであり、その形質は縄文時代人に受け継がれる。弥生時代・古墳時代になると、朝鮮半島から多くの人々が渡来して混血を繰り返し、身長が高く面長の顔をもつ北方系の新モンゴロイドの特徴がみられるようになる。こうして次第に日本人の形質が形成されていった。

 人類が金属器を発明する以前の石器時代は、打製石器を用いた更新世の旧石器時代と磨製石器や土器を用いるようになる完新世の新石器時代とに分けられる。日本における旧石器文化は、かつては存在しないとされてきたが、岩宿遺跡(群馬県みどり市)の更新世の関東ローム層(赤土)中から相沢忠洋(あいざわただひろ)によって打製石器が発見されて、約3万5000年前までさかのぼるその存在が明らかになった。

図1東新世末期の日本列島(町田洋原図に加筆)図2 岩宿遺跡最初の発掘調査風景

 その後、旧石器時代遺跡の「発見」が東北地方で続き、一時は世界最古の年代にさかのぼる石器がみつ かったともされたが、これは捏造された遺跡・遺物であることが発覚し、再検証が行われた。旧石器時代には、黒曜石やサヌカイトなどの石材を用いたナイフ形石器・尖頭器・細石器などを槍先に付けて、ナウマン象やオオツノジカなどの大型獣の狩猟が行われた。人々は定住せずに小集団で食料を求めながら移動生活を行った。石器製作の場を示す石器・剥片(はくへん)・石材などが集中する石器ブロックが彼らの住居を示すとされ、それが環状に複数集まって旧石器時代の遺跡を構成している。

▶︎縄文時代のはじまり

 約200万年前から極寒の氷期と温暖な間氷期が繰り返してきた氷河時代が終わると、約一万年前に気候が温暖化し、海面が上昇して今日のような日本列島が形成された。

 環境変化とともに動植物相が変化し、縄文時代(約1万2000年前〜約2300年前)がはじまる。最近の国立歴史民俗博物館による放射性炭素(C年代測定(AMS法)による推定では、約15,000年前〜約2800年前という説も出されている。縄文文化の特徴は、中・小型獣を狩猟するための弓矢や食料煮炊き用の土器の使用、そして磨製石器の出現にある。縄文土器は、低温で焼いた褐色の土器で、縄をころがした文様をもち、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期に時期区分される。煮炊きができる土器の出現によって、食生活は格段と向上した。

 縄文時代の生業は、ニホンジカ・イノシシや小動物を対象とした弓矢による狩猟、サケなどの漁労、そしてドングリ・クリ・トチなどの植物食料採取であり、自然環境に即した生活をしていた。この時代には、産地の限られる黒曜石、ヒスイやサヌカイトなどの石材を用いた石器が広く各地に分布するなど、広域にわたる交換も展開していた。石材原産地としては、黒曜石を採掘した長野県八ケ岳山麓の星糞峠(ほしくそとうげ)黒曜石原産地遺跡(長和町・ながわ)や、奈良県二上山(にじょうさん)のサヌカイト原産地(葛城市)が知られ、また三内丸山遺跡(青森県青森市)では、600km離れた新潟県姫川産のヒスイ製品が運び込まれていた

 長者ケ原遺跡(新潟県糸魚川市)のように、中期に磨製石斧(ませいせきふ)を大量生産して広域に交易した遺跡も知られている。

▶︎縄文時代の暮らし

 縄文時代には、竪穴住居に数名の一世帯が住み、数世帯が集まって集落を営んだ。集落は台地や微高地上に立地し、中央の広場を竪穴住居群が円形に取り囲み、水場、土壙墓(どこうぼ)からなる墓地、貯蔵穴やゴミ捨て場などが付属した。集会所・作業場と推測される大規模な竪穴建物が存在することもあり、儀式・祭り・宴会などに用いられたと推測される。海進した当時の海岸付近に営まれた集落では、安定的な食料である魚貝などのゴミ捨て場が、貝塚遺跡として今日まで残っている。

 前期の大串貝塚(茨城県水戸市)、中期から晩期にかけての加曽利貝塚(千葉県千葉市)、晩期の里浜貝塚(宮城県東松島市)など多くの貝塚遺跡が知られる。貝塚のようなゴミ捨て場の遺跡からは、この時代の人々が、季節的にどのような食料を狩猟・漁労・採集して暮らしていたかを知ることができる。ドングリ・クリ・トチなどの木の実、シジミなどの貝類、サケ・マスや海・湖・川の魚類、シカ・イノシシなどの動物が食料であった。こうした動物や魚を獲得し調理する道具として、石匙・掻器、銘・釣針、石鋲・石斧、磨石・石皿などの石器・骨格器がそれぞれの環境条件に応じて用いられた。

 木の実やサケ・マス、月などの豊かな自然の恵みに適合した生活を重ねて、東北の三内丸山遺跡などでは、縄文前期から中期にかけての約1,500年にわたって集落が継続的に営まれたものと考えられている。

▶︎縄文時代の祈り

 狩猟・漁労・採集を中心とした生活は、自然条件に左右される不安定な生活段階であったことから、縄文人には自然に対する畏敬に応じた呪術的な信仰が広くみられる。この時代の遺跡・遺物には、呪術的な性格をもつものが多い。大湯(おおゆ)環状列石(秋田県鹿角(かずの)市)などの環状列石は、環状に並ぶそれぞれの組石群の下に土壙墓(どこうぼ)があり、環状集落に囲まれて存在する葬送祭祀・祖先崇拝の場とされる。チカモリ遺跡(石川県金沢市)・真脇(まわき)遺跡(同県能登町)のような環状に複数の巨柱を立てた環状木列の遺跡も、祭祀の場であろう。遺物としては、女性の生命生産力を象徴する土偶男性を象徴する石棒、装飾性に富んだ、縄文中期頃の新潟県信濃川流域の火焔型土器、縄文晩期の東北地方の亀ケ岡式土器などの土器や、装身具・土製仮面・岩版(がんばん)などが広く各地で出土している。

 その他、歯を加工する抜歯(ばっし)や叉状研歯(さじょうけんし)、そして死者埋葬の際の屈葬などの風習も呪術とかかわっている。自然の脅威に取り囲まれた縄文時代の人々が、豊穣・再生を祈り悪疫を避けるために、呪術に頼って生活していたことが知られるのである。

■弥生文化の広がり

▶︎農耕文化の伝播

 縄文時代の終末期には朝鮮半島から水田稲作農耕が北部北九州から伝わり金属器が使われ、布がおられるようになる。紀元前3世紀までには西日本で水耕稲作を基礎とする社会が成立し、急速に東北地方にまで農耕文化が広まった。その拡大の背景には、大陸で紀元前3世紀に秦・漢という強力な統一国家が生まれ、東アジアにその勢力が及んだことの影響もあったとみられる。農耕とともに鉄器・青銅器など金属器の使用も伝えられ、農耕生産を基盤とした弥生時代社会へと変化した。

 水田稲作の技術が長江流域から日本列島の北部九州へと伝わった伝播のルートとしては、長江下流地域から南西諸島を経由するルート、東シナ海を直接横切り朝鮮半島南部から列島に入るルート、そして中国東北部・朝鮮半島を経由して列島に入るルートなどが考えられている。そのうち、最後の北回りコースでの伝播の場合、水田稲作とともに青銅器や大陸系磨製石器などが一体として伝来したことになる。

▶︎弥生時代のはじまり

 弥生時代には、農耕生産がはじまるとともに、収穫を高床倉庫に収蔵するなど富の蓄が進んだ。共同体の中に階層差が生まれて、祭祀や生産を担うリーダーから支配の首長が成長した。そして、そうした首長の墳墓として墳丘墓が営まれるようになとともに、共同体間の戦争が展開するという社会的な変化が起こつた。

 

 弥生土器は、これまでの縄文土器よりも薄く堅く、文様をもたず赤色を呈しており、壷形土器が易い。また、水田耕作とともに金属器の使用がはじまった。世界では石器時代から青銅器時代を経て鉄器時代を迎えたが、弥生時代では、青銅器・鉄器の使用がともにはじまっている。

 これまで、紀元前3世紀頃から紀元3世紀頃までを弥生時代と称し、前期・中期・後期に区分しできた。最近の国立歴史民俗博物館による放射性炭素年代測定・AMS法(年輪年代法により補正)では、弥生時代のはじまりを紀元前10世紀、終わりを紀元3世紀と提案するが、いまだ定説とまではなつていない。

▶︎青銅器と鉄器の始まり

 青銅器には、弥生前期から中期にかけて朝鮮半島から銅剣・銅矛・銅戈(どうか)などが輸入され、実用された。列島で製作されるようになると、青銅器は銅剣・銅矛や銅鐸きのように祭器化していく。銅剣・銅矛、銅鐸とも、実用からかけ離れて、次第に祭器として修飾されたり大型化していった。また中期後半には中国の漢鏡の輸入がはじまって祭器・威信財とされた。鏡は、中国では化粧用の道具であるが、列島では祭器として用いられた。このように、水田稲作のはじまりとともに、豊作を祈り収穫を感謝するための弥生時代の祭りのあり方は、狩猟採集を中心とした縄文時代の土偶・石棒にみられるような祭りから大きく変容していった。


 鉄器には、鍬・鋤の刃先や鎌などの農具、剣・刀・矛・曳・鉄などの武器や斧、鐘などの工具がみられる。とくに弥生時代後期に農具の鉄器化が進むと、農業生産力は格段と向上した。鉄の素材は、『三国志』親書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)にみえるように、もっぱら朝鮮半島南部から輸入された

▶︎銅鐸と銅剣・銅矛の祭り

 青銅製祭器としての銅鐸と銅剣・銅矛については、かつては近畿中心の銅鐸文化圏九州北部中心の銅剣・銅矛・銅戈文化圏に二分する説があったが、荒神谷(こうじんだに)遺跡(島根県出雲市)や加茂岩倉(かもいわくら)遺跡(同県雲南市)で大量の銅剣・銅鐸や銅矛が共伴して出土したこと、さらに、九州北部でも銅鐸を製作していた遺跡がみつかったことなどから、青銅器祭祀の分布と変遷は再考されつつある。また、祭祀圏と政治圏は必ずしも一致するものではないと考えられる。

 銅鐸は、もともとは紐(ちゅう)でつり下げ、内面に舌(ぜつ)の棒が当たって神を招くための音を鳴らすものであったが、次第に紐が薄くなって装飾が増し、大型化していって音の出ない祭器となっていった。

 荒神谷遺跡では、人里離れた谷地形の斜面に、中期から後期にかけての銅剣三五人本が埋納され、すぐそばに銅鐸六口、銅矛一六本も埋納されていた。近くの山間に位置する加茂岩倉遺跡でも、中期の銅鐸三九口が一括して埋納されていた。銅鐸は、多く集落から離れた山間の斜面に一括して埋納されており、その埋納のあり方そのものが、祭祀の方法を示すものと考えられている。

 銅剣・鋼矛・銅戈、もともと朝鮮半島から伝えられた武器であり、それを模して列島でも製作されるようになった。列島では、青銅製武器は、装飾が加えられたり、脆弱なつくりになったり、大型化するなど、しだいに実用性を失って祭器化していった。これらの銅剣・銅矛・銅曳の祭器も、銅鐸と同様に埋糾された状態でみつかることが多く、時に銅鐸とともにていねいに埋められている。やはり埋納という祭祀形態をとる祭りと考えられる。

 こうした祭りを主宰したのは、カミマツリを行い呪術的な能力を身につけた弥生時代の共同体を代表する首長と考えられる。

▶︎ 弥生時代の展開

 弥生時代は、弥生二丁目遺跡(東京都文京区)で弥生土器がみつかってその認識がはじまった。ついで唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡(奈良県田原本町)では弥生土器と木製農具などが共伴して出土し、さらに登呂遺跡(静岡市)では弥生後期の竪穴建物(住居)群や高床倉庫からなる集落跡とともに、水田跡や木製農耕具がみつかって、水稲耕作を生業とした弥生時代集落像が明らかになった。

 その後、板付(いたづけ)遺跡(福岡市)では、環濠に囲まれた竪穴建物(住居)群・高床倉庫からなる集落と水甲水路の遺跡が、縄文晩期末の土器とともに併存したことが明らかになり、水稲耕作のはじまりがさかのぼることとなった。ついで菜畑(なばたけ)遺跡(佐賀県唐津市)では、さらに古い土器とともに水田跡・木製農具・稲・雑穀などがみつかり、水稲耕作の受容がさかのぼることが確実になった。

 こうして九州からはじまった水稲(すいとう)耕作は列島各地に広まっていき、狩猟・漁労・採集を中心とした縄文社会にかわって弥生社会が展開していった。東北地方においても、砂沢遺跡(青森県弘前市〉で前期の北九州弥生土器とともに水田遺構がみつかっており、前期のうちに水田稲作農耕が本州北端の青森県まで伝播したことが知られた。しかし、こののち北東北の人々は、水田稲作農耕を受容しない方向を選択したのである。

▶︎ 弥生時代の集落

 弥生時代には、竪穴建物(住居)数棟〜数十棟からなる定住的な集落が営まれ、農耕の収穫物を収める高床倉庫も建てられた。水田耕作の生産地や収穫物をめぐる争奪から集落間で戦いが起きるようになり、そうした戦いに備えて、濠に囲まれた環濠集落や高い丘陵上に位置する高地性集落も広く出現した。集落近くには共同墓地が営まれ、甕棺や石棺・木棺による埋葬が行われた。同じ共同墓地の地区にありながら、次第に有力な副葬品をもつ埋葬が発生し、共同体の祭祀や生産をつかさどる首長たちのための墓として、墳丘墓(方形周溝墓)が発達していった。

 大塚遺跡・歳勝土(さいかちど)遺跡(横浜市)では、台地上の環濠集落に隣接して方形周溝墓群の共同墓地がみつかっている。田和山道跡(島根県松江市)は、小高い丘陵上に環御で防御された集落または祭祀遺跡である。

 吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼市・吉野ヶ里町)では、弥生時代中期〜後期の大規模を環濠集落がみつかている。土塁・濠で囲まれ、外側にせり出した櫓建物で守られた内郭には、首長の居宅や祭殿とみトれる掘立社建物があり、その外側に大型の高床倉庫が建ち並ぶ地区もあった。環濠からは、土器・石器・鉄器や鏡片・銅剣片などが大量に出土している。

 共同墓地の墓域北端には中期に大型墳丘墓が営まれ、墳丘墓内の嚢棺からは細型銅剣やガラス製管玉などすぐれた副葬品が出土し、周辺の甕棺墓の副葬品のない甕棺との間に階層差が認められている

▶︎『漢書』『後漢書』と弥生時代の列島

 『漢書』地理志は、「それ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時を以来たり献見す」と、前漢(前202〜8)の武帝(在位前141〜前87年)が朝鮮半島に置いた楽浪都(前108〜313)に向けて、分立した倭の諸小国が遣使したことを記している。楽浪郡の中心は、郡治が置かれた平壌(ピョンヤン)地域であった。また、遅れて楽浪郡の南に置かれた帯方郡(たいほう・204〜313)も、朝鮮半島や倭と中国の後漢・魏などの間にあって大陸との交流の拠点となった。こうした交流の痕跡は、日本列島各地の弥生時代遺跡から出土する、漢製の鏡、王莽(おうもう・前45〜後23)の時代の「大泉五十」や「貨泉(かせん)」(14〜40年鋳造)などの銭貨、銅剣・銅矛などにみることができる。

 また『後漢書』東夷伝には、57年に倭の奴国が朝貢して後漢(25〜220)の光武帝(在位25~57年)から印綬を授けられたこと、107年には倭国王帥升(すいしょう)らが後漢に生口(せいこう)を献上したこと、そして2世紀半ば以降の「桓霊の間」(後漢の桓帝(在位147〜167年)・霊帝(在位168〜188年)の間)に、倭国が大いに乱れたことが記されている。光武帝が奴国王に与えた印綬は、博多湾の志賀島(放岡市)から江戸時代に出土した、「漢倭奴国王」の印文をもつ、封泥を封鍼するための金印である。

 こうした先進文物を人手し自らの地位を高めるため積極的に中国の王朝へ朝貢した倭の諸小国の様子は、弥生時代中期〜後期の環濠集落で舶来の遺物も出土する吉野ヶ里遺跡などにうかがうことができる。