日本古代史

■古代の社会と経済

■渡 来 人

中野高行 

▶︎帰化人と渡来人

 「帰化人」という用語の問題点 古代、朝鮮・中国から日本列島に渡来した人々とその子孫が渡来人であり、以前は帰化人と呼ばれていた。1960年代以降、帰化人という用語は適切ではなく、渡来人という語に変えるべきだという主張が徐々に受け入れられ、日本の教科書・学術論文の多くは渡来人の語を用いるようになっている。ところが、帰化人という用語の是非を論じた専論がほとんどないため、理由は意外にはっきりせず、帰化人といぅ用語を不適切とする理由は研究者により微妙に異なっている。

 帰化人の用語を適切ではないとする見解は以下の三点にまとめることができる。

①帰化人の内容が歴史的実態と合致しないとする見解

 帰化の本来の語義には、異国の人がその国の君主の徳を慕って来朝し、その臣民になるという、中華的・儒教的思想が含まれでいる。しかし帰化人は、必ずしもみずからの意志で来朝したものとはかぎらず、むしろ大陸のすぐれた文明を求める大和政権によって、半ば強制的に連れて来られた人が多かったと思われ、またみずからの意志で渡来した人々も、自己の社会的・経済的な目的のために渡来したものと思われる。そこで帰化人の呼称を避け、渡来人と呼ぶぺきだとする。

②帰化人という語が「帰化人史観」にもとづいているとする見解

 帰化とか投化の語には、異民族が天皇の徳に帰付してやてきたという意味がこめられているが、中華思想にもとづく律令体制が完成するのは8世紀初頭からである。ところが明治以来、「三韓の服属せし以来皇化を慕いいで来るもの多く」といった「帰化人史観」がさけばれ、戦後においても無批判にこの言葉が受けいれられてきた。

③帰化人という語を差別用語とする見解

 帰化人は、日本人とは異なる蔑視さるべき存在であったとする。近代以降の日本の朝鮮・中国に対する植民地支配・侵略とその思想的影響を受けて作られた、被支配民族への抑圧を歴史的に遡源させて根拠を求めるという誤った観念だとする。

 帰化人の語を適切でないとする見解について、①〜③のいずれを根拠としているのかを分類すると、研究者にょり帰化人用語を不適切とする理由がバラバラであり統一的な根拠は確立されていないようである。

▶︎「渡来人」という用語の問題点

 一方で「渡来人」という用語が適切なのかについては以下のような批判がある。 平野邦雄は、帰化も渡来も記紀での訓はともに「まうく」であり、内容的な相違はないとする(平野・黛・関1981)。黛弘道は訓の共通に加え、渡来人という言葉自体が日本の古典には絶無なので純粋に歴史用語としてどうかという問題は残ると指摘している(同前)。

  

 関晃は、渡来人という語には、日本に住みついて日本人の一部となった者という意味が含まれなくなるので適切な語とはいえない、と批判する(同前)。松尾光は、すべての表記を「渡来」とすると、7〜11世紀に日本が中国の律令・思想なとを学びとり、それなりに咀嚼して「小中華帝国」を自負したという歴史事実を消してしまう、と懸念している(松尾1988)。田中史生は、渡来人を古代日本に渡り来た者とし、外交使節や商人も含める。その上で、移動する身体としての(渡来人)、その身体を定着させた(渡来系移住民)、移動する文化としての(渡来文化)、渡来人を祖とし渡来文化を継承する(渡来系氏族)などと区分する(田中史生.2019)。

 

 帰化人用語を批判する見解にも、渡来人用語の妥当性にも問題がある。そもそも「帰化」とは中国律令の中で用いられる法律用語であり、これを排除してしまうと中国の法体系や支配イデオロギーを説明することがきわめて困難となる。これらの問題点を指摘した上で、現在の日本で定着している渡来人という用語を使用することとする。

■ 5世紀の渡来人

▶︎東漢氏 

 菜畑遺跡(佐賀県唐津市)からは、炭化米や石包丁・鍬・鎌なとの農業用具が出土し、現在日本最古(約2900年前)の水稲耕作遺跡とされている。これ以降、中国大陸や朝鮮半島から本格的な農耕民の移動・定住が進んだと思われる。このころ列島内外の往来は自由であり、列島外からの渡来者を渡来人と呼ぶことはできない。

 

 外来者を区別するような政治勢力が列島内にできるのはヤマト王権が成立する4世紀以降である。高句麗の広開土王長寿王南下して新羅・百済・倭と戦闘を繰り広げた5世紀には、戦乱を避けて列島に渡った避難民・亡命者が急増した。

 

 5世紀の渡来系氏族の第一は東(倭)漢氏(やまとのあやうじ)である。『日本書紀』(以下『書紀』)応神20年9月条に、「倭 漢直(やまとのあやのあたえ)の祖の阿智使主(あちのおみ)、その子の都加使主(つかのおみ)は、己の党費17県の人々を率いて来帰した」とある。『続日本紀』延暦4年(785)6月条では、阿智王は七姓(朱・李・多・皀(きゅう)郭・皀・段・高)の漢人とともに渡来したとする。

 『古事記』応神天皇の段にも、漢直の祖が渡来して来たとある。漢氏の祖先が渡来してから、一〜二代の間に文筆・財務・外交携わるようになりあとから渡来した手工業技術者を従えて、王権の中で一定の存在を占めるようになった。漢氏は新来の渡来人に実務を任せ、みずからは監督者におさまった(関 2009)。漢氏は、先祖を後漢霊帝とするが、「漢」は加耶諸国の一つである安羅(あら)の国名から転じたものと推測される(加藤 2002)。東漢氏の本宗家はのちに坂上氏(さかのうえし)に移り、坂上田村麻呂が桓武朝で活躍した。

 『養老令』学令の大学生条では、史姓の諸氏を「東西史部」と呼び、天平10年(738)頃に成立した大宝令の注釈書『古記』では、「倭(やまと)・川内(かわち)の文忌寸(ふみいみき)らを本となす東西の史ら、皆これなり」と説明している。束の文忌寸は天武朝以降には文直(ふみのあたい・書直)、西の文忌寸文首(ふみのおびと)書首)と称していた。東漢字氏の支族に東文氏がおり、西文氏とともに「東西文氏」と並称された。

 『書紀』応神15年7月条に、百済王が遣わした阿直岐(あちき)が太子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師となり、同16年2月、阿直岐より優れた博士として王仁(わに)が招かれ太子の師となったなどとある。『古事記』応神20年では、王仁和邇吉(わにき)師として登場し、『論語』十巻と『千字文』一巻、合わせて十一巻を献上した、と記されている。このエビソードは『懐風藻』や『日本霊異記』の序文にも引かれ、儒教・書籍の初伝として有名である。記紀いずれの記事でも、王仁は書首(文首、のちの西の文忌寸)らの始祖であると記されている。

▶︎秦 氏

 漢氏と双壁(優劣つけ難い二つ)をなす秦氏は渡来の経緯が不明である。『古事記』応神天皇の段に秦造(はたのみやつこ)の祖が渡来したとある。『書紀』応神14年条には弓月君(ゆづきのきみ)が帰化したとあるだけで、弓月君が秦氏の祖だとは書いていない。『新撰姓氏録』右京諸蕃太秦公(うずまさのきみ)宿禰の条に秦始皇帝の子孫である融通王が応神14年に来朝したとあり、王の別名が弓月君だとの注が付されている。この伝承は、漢氏への対抗意識の中から作り出されたものであり、秦氏の渡来は漢氏よりのちのことと考えられている(関2009)。秦氏に関しては不明な点が少なくないが、養蚕・機織りに従事しながらヤマト王権に奉仕したことはまちがいない。

 群馬県の剣崎長瀞西遺跡では、52軒の住居遺構のうち33軒がカマドを設置し、韓式系土器や大加耶系と考えられる金製垂飾付耳飾、加耶系の可能性のある轡(くつわ)が出土している。積石塚五基を含む古墳群の構築に関与している渡来人は馬飼い集団であると考えられる(黒田2000)。この遺跡や下芝谷ツ古墳(方墳積石塚)から出土している馬具・耳飾・軟質土器については、大加耶系であるとの指摘がある。

 5世紀第三四半期に半島南部からの渡来人により馬匹(ばひつ)生産が開始され、上毛野(かみつけの)西部地域で急激かつ広範囲に展開したことがわかる(右島2011)。

■六世紀の渡来人

▶︎船史系氏族

 欽明31年(570)、越国(こしのくに)に到着した高句麗使が提出した上表文を読み解ける者がいないなか、船史(ふひと)の祖の王辰爾(おうしんに)だけが読み解いた。船史は第16代百済王・辰斯(しんし)王の子である辰孫王の後裔とされるが、王姓を持つので中国系とする説もある。史姓の氏族は、ほぼすべて渡来系と考えられている。

 船史・白猪(しらい)史・津史なとがとなったのは6世紀後半で、高句麗使の上表の前のことである(関2009)。船史は船賦(ふねのみつぎ)を数え録すことで一定の地位を確保し、外交にも従事した。津史は港津(こうしん)の税を管理し、白猪史は屯倉(みやけ)を管理した。王辰爾後裔氏族は、儒学・外交・仏教に関連する記事が多い

▶︎上毛野国の渡来人

 上毛野全域に分布している平底瓶形土器百済・加耶に関わる可能性が高く、太田市金山(かなやま)丘陵の窯跡群なと現地で生産されたものがある。補強帯甕加耶地域の土器との関わりが考えられる。安中市簗瀬(やなせ)二子塚古墳(6世紀初頭)から出土した金鋼製垂飾付耳飾は長鎖式で加耶系の可能性がある(亀田2014)。高崎市綿貫観音山古墳(6世紀後半)や高崎市八幡観音塚古墳(6世紀末〜7世紀前半)の出土品や環頭大刀(かんとうたち)の特徴から、首長たちと半島との関わりの深さが理解できる。新羅系遺物が新羅と倭との国家間の交流でもたらされる(土生田2010)

 一方、百済・大加耶系遺物は王権を媒介にしたものだけでなく朝鮮半島との直接的関与によるものと考えられている(内山2011)。群馬県内における韓式系土器の分布は「榛名山東南麓を中心とした地域」と「高崎市東部の井野川流域」 の二カ所に集中している(黒田2000)。

 群馬県の榛名山ニッ岳は5世紀末〜6世紀初頭と、その30〜40年後の二度にわたり噴火した。渋川市の伊熊古墳と有瀬古墳一・二号墳(いずれも円墳)は6世紀前半(二度の噴火の中間期)の積石塚である(土生田2006)。これらの古墳や同市の中ノ峰古墳(自然石乱石積袖無型横穴式石室)の被葬者は、一度目の噴火後、原野と化していた地に進出し「地域開発の尖兵」として活躍した(梅沢1994)。

 金井東裏遺跡から出土した「甲(かぶと)を着た古墳人」は、40代男性で身長164㎝。面長で眼高が高く鼻が細い顔で、中国大陸や朝鮮半島から来た渡来人に近い顔だったとされている。「首飾りの古墳人」は30代前半の女性で、鼻幅が広くあごがしっかりする東日本の在地人の形質を持つ。二人は、母系は異なるが同じ場所で幼少期を過ごして移住してきたとみられ、長野県伊那谷地域で馬匹生産に従事していた人々の可能性が高い(田中良之2015)。

 

 榛名山噴火以前から榛名山ニッ岳南麓(剣崎西長瀞遺跡)・東麓(金井東裏遺跡)に、一度目と二度目の噴火の中間期に東北麓(白井遺跡)に馬匹生産に従事した朝鮮半島系渡来集団がいた。一度日の噴火で荒廃した地域や未開拓地の開発に「尖兵(先兵)」として活躍した渡来系の人々伊熊古墳、有瀬古墳一・二号墳、中ノ峯古墳、川額(かわはけ)形式軍原(いくさばら)Ⅰ遺跡八号墳?)がいた。二度目の噴火後、榛名山の東方から南方にかけて横穴式石室をもつ古墳(積石塚形式の王山古墳なと)が造営され、被葬者には渡来人が想定されている。

 金官国の滅亡(532年)皇宮国以外の加耶諸国の滅亡(562年)注目すると、榛名山ニッ岳噴火被災後の群馬県南部・東南部地域再開発事業の担い手には加耶諸国からの避難者・亡命者が多数含まれていた可能性が高い(中野2017)。

■七世紀の渡来人

▶︎鞍作氏

 7世紀の代表的な渡来氏族は、鞍作(くらのつくり)氏と新漢人(いまきのあやひと)である。鞍作氏の祖は「大唐漢人」司馬達等(しばたつと)で、継体16年に渡来して大和国高市郡の坂田原に草堂を結んで本尊を安置し帰依礼拝(きえらいはい)した(『扶桑略記」)。子の多須奈(たすな)は用明天皇の冥福を祈るために出家して徳斉法師と称し、高市郡の南淵(みなみぶち)の坂田寺と丈六仏・脇侍菩薩を造った。その子の鞍作鳥(くらつくりのとり)は止利仏師とも呼ばれ、諸工人を指揮して法輿寺(飛鳥寺)の丈六金銅釈迦像と繍像(しゅうぞう)を製作した。

 特殊技能を有する手工業者も多数渡来した。和薬使主(やまとのくすりのおみ)の祖である呉国人の智聡は、欽明朝に内外典・薬書・明堂図(鍼灸のつぼを示した図)なと164巻、仏像一体、伎楽調度一具を持って来朝した。子の善那使主(ぜんなのおみ)は孝徳天皇に牛乳を献上したので和薬使主の氏姓を賜ったと、『新撰姓氏録』に記されている医書専門家である。

 

 天智朝に水臬(水準器)を製造し書(きぶみ)本実の先祖は高句麗からの渡来人で、推古2 年(604)黄書画師(えかき)の姓を与えられている。同10年百済僧の観勒(かんろく)は暦法・天文・遁甲(とんこう・占星術の一種)を渡来人の子弟に伝授している。同20年に帰化し百済人の味摩之(みまし)に師事して伎楽の舞を習得した真野首弟子(まののおびとでし)・新漢(いまきのあや)斉文の子弟だった。推古朝以降、造寺・造仏工・易・暦・医博士・僧侶・楽人なとの技術者が多数渡来した(関2009)

  


▶︎新 漢 人

 遣隋使に従って中国に留学した渡来人たちは倭国の国家体制に大きな影響を与えた。隋に送られた留学生・留学僧としで、倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)・奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)・高向漢人玄理(たかむこのあやのひとげんり)・新漢人日文(にちもん)・南淵漢人請安(みなみぶちあやのひとしょうあん)・志賀漢人恵隠(えいん)・新漢人広斉(いまきのあやひとこうさい・『書紀』推古16年9月辛巳条)、恵斉(えさい)・恵光(えこう)・恵日(えにち)・福因(同31年7月条)、霊雲(りょううん)・僧晃・勝鳥養(うぐりのとりかい・『同』舒明4年8月条)、恵隠・恵雲(えうん・同11年9月条)が見える。

  

 彼らの名前を見ると、「東漢直」氏が一人、「漢人」を含む者が七人、そのうち「新漢人」を含む者が三人、それに奈羅訳語である。「新」は「今来(いまき)」で、新来という意味である。大和の高市郡は古く今来郡と呼ばれ(坂上氏系図・『書紀』欽明天皇の段)、飛鳥の法典寺の西側にあった有名な大槻を、新漢の槻(『書紀』雄略天皇の段)とか今木大槻(『書紀』孝徳天皇の段)と呼んだのは、新漢人(いまきあやのひと)が近くに集住していたためと考えられる(関2009)。

 東漢直氏は、5世紀末から6世紀にかけて多数の漢部(あやべ・漢人)を管理し、蘇我氏とむすぶ有力な豪族になっていた(井上1974)。隋の法制度・統治技術・仏教・思想なとを導入するために送られた留学生・留学僧は、朝鮮半島(主に加耶諸国) からの渡来人だった。彼らの多くが新来の漢人だったのは、もともと中国の先進文化の素養があるうえに、語学知識を身につけていたからと考えられる。彼らは渡来系氏族の中でも中・下級であり、中国での留学で身につけた知識を活用して官僚として活躍することが期待された。

 

 中華帝国の統治システムをモデルにした政治改革を志向していた天皇周辺の権力層は、彼らが中国(隋・唐)で取得した律令制度による支配体制を倭国で構築することを強く望んでいた。留学生・留学僧らが帰国した舒明天皇〜皇極天皇の治世では、国家体制を根本から変革する気運が急速に高まり、具体的な目標設定が行われた。

▶︎大化改新と渡来人

 『書紀』皇極三年正月一日条によれは、中大兄皇子(舒明・皇極夫妻の子)と中臣(藤原)鎌足は、「周孔の教え」を学びに南淵請安の所に通いながら、その往復の路上で相談をして蘇我氏打倒の計略を巡らせたと伝える。藤原氏初期の歴史が記された伝記である『藤氏家伝』上(「大織冠伝」たいしょくかんでん)には、鎌足が僧旻の堂で行われていた周易(しゅうえき)の講義に列席した時、が鎌足の人物に目をつけて自重を促したという話が掲載されている。これらの逸話の真偽の程は不明だが、のちに「大化改新」と呼ばれる大改革の契機となるクーデタ(乙巳の変)起こしたとされる二人が、への留学生・留学僧のもとで学んだとされるのは示唆的である。

 

 舒明12年(640)帰国した高向玄理と南淵請安は、太宗の治世半ばまで国家消滅〜生成の大事件を体験した。周辺諸国に及んだ武力の恐ろしさ、精緻な律令格式礼にもとづく中央集権国家のみごとな運営ぶりなどを目の当たりにした玄理と請安の報告倭国支配層に大きな衝撃を与えた(坂本一空八)。

 

 皇極4年(645)6月12日、乙巳の変で大臣蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされると、新政府には国博士といぅ役職が設けられ僧旻と高向玄理が任命された。『書紀』大化五年正月条に「博士高向玄理釈僧とに詔して八省百官を置かしむ」とあり、従来の部民制というヤマト王権の統治組織に替わり、中国王朝の中央官制のような支配システムが構築れた。倭国独自の律令は大宝律令として完成し(701年制定)、中華帝国の統治機構をモデルとした二宮八省という中央官制が機能しはじめた。

 渡来人が先進文化・技術を倭国にどのように伝え、どのような成果をあげたのかについて、文献上での考察がすすんだため、近年ではモノ(出土遺物)からの解明が進んでいる。日本高麗浪漫学会・積石塚渡来人研究会など渡来人文化の研究団体も設立され、成果を挙げている。