金剛重光

■ 金剛重光こんごうしげみつ (生没年不詳)

■創建1400年超の最古の建築会社——-

鶴見佳子

▶︎大阪に現存する「金剛組」の知恵と技術の承継

 社寺建築の歴史を紐解こう。日本に仏教が伝えられたばかりの6世紀、百済の国から、金剛(こんごう)、早水(はやみ)、永路(ながみち)という3人の工匠が招かれた。当時の日本には、本格的な寺院を建てられる技術者がいなかったため、いわば仏教建築の先進国から派遣してもらったわけだ。

 

 その1人、金剛重光(こんごうしげみつ)は、聖徳太子から、日本で最初の官寺、四天王寺の建立を命じられる。主要部が完成するだけで十数年、ほかの伽藍が完成するまでさらに時間を要した。

 この金剛重光を初代として、578年に創建された宮大工集団が金剛組だ。この金剛組は、今も大阪市天王寺区に本社を構える、日本で最古の社寺専門の建築会社である。古代の資料が残っておらず、詳細な資料は最近400年ほどしか整っていないためギネスへの登録申請はしなかったが、おそらく世界でも最古の建築会社と思われる。

 日本で最古の官寺「四天王寺」は、593(推古元)年、金剛家の初代、金剛重光が建築した。これは明治・大正時代の四天王寺金堂と五重塔

▶︎6世紀から四天王寺の正大工職を務め、技術を磨き続ける

 日本では6世紀に仏教建築が始まり、8世紀に遣唐使を通じて中国様式が入ってくる。9世紀末に遣唐使が廃止されてから鎌倉時代までは、大陸文化の影響を受けず、日本の国土や習慣に合わせた独自の様式「和様」が発達する。

 13世紀に中国から「大仏様」「禅宗様」という建築様式が入り、14世紀、鎌倉後期から室町にかけて、和様と禅宗様のハイブリッドな「折衷様」も生まれる。

 各時代の宮大工たちは、さまざまな工夫をしながら、建築技術の向上と伝承に挑んできた。材料を継いで長くする「継手」(つぎて)も、直角に交差する「仕口」(しぐち)も、独特の技法を生み出し、その技を磨いてきた。

 金剛家の当主は代々、四天王寺の「正大工職」(しょうだいくしょく)を拝命してきた。四天王寺のお抱え大工であり、会社の歴史の9割近くの時期を、四天王寺のために働いてきた。現在の四天王寺は、3万3,000坪(約11万m2)、甲子園球場の3倍の広さを有しているが、かつては今の5〜6倍の広さがあったという。それだけの大きさの寺院の建築や改修を、金剛組は一手に引き受けてきた。

 金剛組の棟梁(正大工職)は、初代の重光から39代目の利隆まで「金剛」の姓だが、すべてが直系ではない血縁男子であっても能力がなければ外され、棟梁として優秀な人を養子として迎えた。

 「創業時代から現在に至るまでずっと四天王寺さんの正大工職を拝命しておりますが、明治の初めの神仏分離令までは、仕事のほとんどが四天王寺さんだけでした。その間、大変な努力をしたのだ。技術がなかったら続かなかった。実力主義を貫き、血縁男子を優先せず養子も女性棟梁も厭わなかったのは、宮大工をはじめとする職方をまとめあげる能力そのものを重視する教訓があった。

 刀根健一金剛組代表取締役社長。1954年生まれ。73年髙松建設入社、2001年同社取締役、04年青木あすなろ建設常務執行役員大阪建築本店長、05年青木マリーン取締役、11年金剛組専務執行役員を経て、12年から現職金剛組の危機を救ったのは38代目の女性棟梁 。(右写真)刀根健一金剛組代表取締役社長。1954年生まれ。73年髙松建設入社、2001年同社取締役、04年青木あすなろ建設常務執行役員大阪建築本店長、05年青木マリーン取締役、11年金剛組専務執行役員を経て、12年から現職

 そして、仏様と神様の家をつくっているという自負は、時代を超えて大きかったと思います」と現在の金剛組トップ、刀根健一社長は話す。金剛組が生き続けてきたのは、四天王寺を護るために常に仕事をしてきたからであり、その間に1400年を超えて生き残るだけの技術を培い、承継してきたからといえる。

 

日本の社寺建築の歴史には、危機と再生が織りこまれている。まずは、日本史上のいくつもの戦争や天災のたびに、社寺建築は焼失したり、崩壊したり、傷んだりした。1868(明治元)年、新政府が神道国教化の方針から神仏分離令を出すと、神仏習合の風習が否定され、廃仏毀釈運動が起きた。これによって、全国の多くの寺院が廃寺となり、価値の高い建築物や仏像が大きな被害を受けた。明治時代以降、四天王寺は寺領を失い、金剛組は四天王寺からの禄を減らした。その後、四天王寺をベースにしつつも、四天王寺以外の社寺建築に進出せざるをえなくなった

さらに大きな危機が1932(昭和7)年に訪れた。37代、金剛治一棟梁は職人気質が強かった上、昭和恐慌の煽りも受けて、経営を極度な困窮にさらしてしまう。これを先祖に詫びるため、墓の前で自殺した。あとを継いだのは妻のよしゑさんで、初めての女性棟梁となって金剛組を取り仕切り、四天王寺で培った技術を全国に売り込みに行く。営業に秀でた「なにわの女棟梁」が、老舗の立て直しに奔走する。1934年室戸台風で崩壊した四天王寺五重塔の再建を引き受けたことが、会社の危機を脱する突破口となった。

 第2次世界大戦中は、神社関係の仕事はあっても、寺院関係の仕事は途絶え、経営は不安定となった。戦時下は政策的に企業統合が行われ、金剛組も他社と併合される危機に直面したが、よしゑ棟梁は軍事用の木箱を製造することで、かろうじて会社の命脈を保つ。

 1955(昭和30)年に法人化株式会社金剛組となり、よしゑ棟梁は、代表取締役社長となる。営業活動によって顧客は徐々に広がってきたし、戦争や台風、地震などの災害に傷んだ建築物を復興する過程で、防火・防災・経済性に優れた鉄筋コンクリート工法による建築技法にも着手した。

 大きな転換点となるのは、よしゑさんの三女と結婚し、金剛家に入った利隆氏が39代を継いだ1967(昭和42)年以降だ。それまで社寺専門だった金剛組が一般建築にも携わるようになり、東京にも進出。しかし、一般建築では大手ゼネコンとのコスト競争に勝てず、売上高はピーク時の130億円から75億円へ下がる。事業の幅を広げ過ぎたことが敗因だった。

 そこへ「金剛組を潰すのは大阪の同業の恥」と支援の手を差し伸べたのが髙松建設で、利隆さんは著書「創業1400年」で「金剛組は、大阪という街が育んだ企業の義理と人情で救われた」と書いている。2006年、髙松建設が全額出資した新しい金剛組に、従来の金剛組から営業権を譲渡させ、従業員の大半を移籍させ、新生・金剛組として再出発した。2008年には親会社の持ち株会社移行に伴い、金剛組は株式会社髙松コンストラクショングループの一員となった。

 2006年以降、社寺専門の建築会社という本来の姿に戻った金剛組は、宗教法人からの発注と、国などから発注される文化財関係の事業を営んでいる。金剛組の宮大工は、金剛組に「専属」している技術者だが、社員ではない。加藤組、土居組・・など関西に6組、関東に2組に分かれ、8組総勢で100人ほどが属している。8組は「匠会」という組織を作り、木内組の棟梁が匠会の会長を務めている。

西国33か所第1番の和歌山県の那智山青岸渡寺の三重宝塔の建築(左)、国指定重要文化財の総本山四天王寺五智光院の保存修理(右上)、コンクリート造で再建した四天王寺和宗総本山四天王寺金堂(右下)、すべて金剛組によって手がけられた西国33か所第1番の和歌山県の那智山青岸渡寺の三重宝塔の建築(左)、国指定重要文化財の総本山四天王寺五智光院の保存修理(右上)、コンクリート造で再建した四天王寺和宗総本山四天王寺金堂(右下)、すべて金剛組によって手がけられた

■参考資料(興福寺五重塔の変遷)