第四章・人々 「シマの人々と生活」

■ 第四章 人々 「シマの人々と生活」

▶︎ 第一節 暮らし

上江洲 均

住まい 戦前の那覇の町を知る人は、赤瓦屋根の美しさを語る。

 その赤瓦の屋根には、魔物を祓う漆喰製または焼物の屋根獅子(HO.140・141)が置かれた。瓦葺きが普及するのは十人世紀以後のことであり、地方においては、明治中期、家屋の制限令が解かれた後のことであるから、その歴史も想像できよう。しかし、村の守り神となる石獅子は古くからあり、また獅子舞は、伝統芸能であると同時に邪悪なモノから村を守護するという役目を帯びて、早くから庶民の間に流行した。

 家屋内の守り神といえば「火の神」であるC火の神の神名「赤口ガナシ」は、炎からの連想であるが、家庭内で年中行事や人生儀礼などの節目に優先して拝まれ、たえず尊崇されてきた。祭祀者はその家の主婦であり、信仰の古さを窺わせる。服飾 衣服は、身を守り飾るという目的の他に、性差や権威の象徴であった。支配層の権威的な服飾はその表れであり、また高度な製作技術の結晶であることは言うまでもない。

 沖縄の島々では、織物の産地形成が行われ、苧麻や木綿、蚕糸などを用いた布が生産されてきた〇庶民の着物の主流は芭蕉布であった。琉球の織物の特徴といえば、「餅」(m雌・哲である。これこそ東南アジアや中国から「海のシルクロード」を運ばれてきたもので、染物の紅型(如20など)とともに琉球において花開いた「染織文化」である。

 衣服は、上下衣からなる二部式が古く、後に小袖系の二部式の着物になるが、古いようすが窺えるのは、神衣装や舞踊衣装である。神女の着る神衣装は、胴衣(丸103・104)と下裳(\。.105)からなり、その上へ大衣装をはおることもある。奄美に伝わる神女の服飾には、蝶をかたどった三角布を用いたものがある。味は増瑠伝える聖なる生き物と考えられていた。

 女性の髪は頭上に丸く結うもので、単にカラジという暫であり、それに啓を挿した。成女のしるしとして手の甲に針突(入墨)をしたが、今日では消えた習俗である。

 食文化 稲作のできない島が多いという事情を反映して、農耕儀礼も麦粟と稲作の二本立てとなっていた。十七世紀の  かんL初め甘藷がもたらされ、食料事情にも変化が生じた。

 養豚が行われ始めたのは十四、五世紀であるが、豚肉料理が定着するのは、十七、人世紀以後である。豚肉・昆布・豆腐は、祝儀や不祝儀を問わず琉球料理の主流の座を占めた。

 神に捧げる酒は、若い女性に噛ませて醸した。「まみき」や「しげち」と古謡にうたわれた酒は、ドプ酒や清酒に近いもなんのであった。そこへ登場したのが強い蒸留酒で、東南アジアや中国の酒であった。そのことは、現存するこれらの国の「南  あわも㌧り蛮壷」の数から、かつての貿易の痕跡を推し量ることができる。これが後に黒麹菌を培養した米原科の泡盛へと発展してい はんつっけったのである(N。53・54)。

 沖縄の年中行事は、農耕儀礼関連のものを除けば、人生儀礼と祖先祭祀が際立つ。ワヘー‥ン祝い」であり、特に数え年の一三歳、六一歳、七三歳、八五歳の人を大きく祝った。前者は、正月初めに干支で行う「生年八月には「米寿」、九月に九七歳の「カジマヤ一視い」を祝う。

 祖先祭祀の一つ「清明祭」は、墓参行事である。古くからの正月の「↑六日墓参」を、中国にならって清明節の墓参に切替えたもので、一人世紀以後一般化した。中国の「三牲」という供物は、午主・豚であるが、沖縄の墓前料理は、それおさんみらを簡略化した豚肉・鶏・魚になり、さらに昆布や豆腐なども加えた重箱料理となり、「御三昧」と呼ばれた。


▶︎ 第二節 多彩なまつり・芸能

 中国の三絃が琉球にもたらされて「三線」とよばれ、後に日本の「三味線」になったといわれる。この楽器の伝来によって、従来の小鼓による叙事詩的な神歌から三線を伴奏楽器とする定型の抒情的な「琉歌」がうたわれるようになる。独特な琉球音階による音楽は、三線とともにブームになり、また、かつて盆行事の中で行われた「エイサー」は、地域行事の中で年中演じられるようになった。

 さて、年中行事の中で夏はいろいろな催しがある。初夏の海を彩る爬龍船競漕は、漁村で最もにぎわう行事である。もともと、中国南部の少数民族の稲作行事であったといわれ、当初は那覇港で行われたが、いつしか漁村の行事として定着し、離島へも広まった。その日を「四日の日」といい、端午の節供の前日で、子供にとっては玩具(恥143)が買ってもらえる楽しい日であった。

 稲の収穫の陰暦六月から八月十五夜までの間、各地で綱引きが行われる。神への豊作の感謝であり、来期の予祝行事でもあった。村や組を象徴する「旗頭」(恥117〜哲を先頭に、法螺や鉦鼓の行列が賑々しい。雌雄の大綱を結合して引き合う綱ぷ引きに、村人は燃える。

 かつて琉球国ではノロ制度が布かれた。ノロは女性神職で、辞令書(恥世の他に郁郭(恥101)由お郵∴加筆淋おうき神扇といった祭具が発給され、祭りの場では「おもろ」などの神歌がうたわれ、荘重な舞踊が奉納された。神は御嶽という村の聖地に鎮座して村を守護すると考えられており、また他方では、ニライ・カナイという海上彼方の楽土からやってくる神がいるとも考えた。

▶︎ 第三節 葬墓制                                                              ふうそう 沖縄の墓の形や大きさは、日本の他の地方には見られない。かつて土葬と風葬というのが支配的な葬法であった。「風葬」とは、薮や洞穴などに遺体を一定期間おいて晒すことをいう。後に「洗骨」儀礼をへて骨を窯に納め、墓室の奥深く安置する。洗骨とは、文字通りお骨を水で洗い清めることで、二次葬(複葬)である。戦後、風葬から洗骨への習俗は、火葬によつて姿を消した。洗骨習俗は日本の中では、琉球列島だけの特殊葬法であるが、かつて、朝鮮半島の一部や華南、東南アジアにも広く分布する葬法であった。

 墓型も”洞穴墓″から、横穴の”掘り込み墓″や石積みの”積みまわし墓“の後に、華南から”亀甲畢がはふう一内部をアーチ状にする石組みの技術を利用したもので、表が亀の甲羅の形と切妻屋根の〝破風草が、ほか多いが、かつては共同墓である「村墓」があった。父系の親族で組織する「門中墓」は、現在も見られる。

 洗骨習俗に関連する葬具の一種に「厨子嚢」(恥145〜畑)と呼ばれるものがある。材質的世紀以後は陶製が一般的となる。その陶製にも御殿∴土宮をかたどった御殿型(家の姿が消えたのが惜しまれる。

(久米島・自然文化センター館長)