第2編・第2章・統一新羅と渤海

■第2編・第2章・統一新羅と渤海

■ 南北国時代が始まる

▶︎南北国の関係・・・新羅と唐が高句麗を滅ぼしたため、潮海ははじめのうちはこれらの国と敵対しつつ突蕨や日本と親しく交流した。しかし、徐々に対外政策を変化させ、唐の文化を受け入れ続一新羅とも交流した。統一新羅と渤海は、互いに競争するように発展し、中国の唐とともに東アジアの繁栄の中心になった。新羅と渤海の2つの南北国は、ともに韓国人の先祖が建てた国家で、その制度に共通点が多かった。新羅が5小京をおいたのに対し、渤海が5京をおいたのはその一つの例である。また、南北国は政治の運営で貴族の合議を何よりも重視した点でも一致していた。新羅は和白会議で、潮海は政堂省会議で、国家の重要事項を決定した。こうした合議政治体制は、高麗の都兵馬使司や都評議使司、朝鮮の備辺使へと継承された。

▶︎統一新羅 (統一・676~935・滅亡)

 

 統一後、新羅は全国を9州5小京に分け、州の下に郡と県をおき、地方官を派遣して治めた そして百済と高句麗の遺民を新羅人と同じように待遇し、民族融合に努めると同時に、3国の文化を統合して統一文化として発展させた。元暁(ウォニョ・がんぎょう)和諍思想は異なる文化を1つの文化に融合する基礎になったこ和静思想は特定の敦説や思想にかたよらずに、一心にその本質を把握して対立や闘いを和解させることで、調和と融合を目指した思想である。

▶︎海東盛国渤海

 高句麗が滅亡した後、韓半島の北吉にと中国東北地方には震国(チングク)がおこった。震国はのちに国名を潮海に改めて新しい発展に励んだ。高句麗を受け継いだ国として、日本に送った国書には自らを「高麗」と書き、日本も渤海をそのように呼んだ。床暖房のオンドルの設備や横穴式石室墓、瓦や石燈のような遺物や遺跡を見ても、高句麗の文化的な要素を受け継いでいることがよく分かる。唐ははじめ震国を認めなかったが、国家体制が整備されると、渤海と呼んで正式に国交を結んだこ新羅は渤海を「北国」と呼んで、同根(どうこん・根元が同じ)から生まれた国家と認識していた。こうして韓国の歴史は、統一新羅と潮海が並び立つ南北国の状態になった。

■南北国の社会と経済が発展する

▶︎社会構成

 高句麗と百済の遺民が新羅と力をあわせて唐を追い出す過程で、3国は1つの民族であり、1つの統一国家となって暮らさなければならないという「三韓統一意識」が高まった。新羅が韓半島を統一すると、1つの民族という意識はさらに高まった。統一新羅は、百済・高句麗の支配層に新羅の官職などを与えて支配層の身分を維持させるとともに、拡大した国土の全域を一元的な行改組織に改編し、百済、高句麗の百姓も差別されずに暮らせるようにした。

※真骨・・新羅の王京人を対象にした血縁的身分制。聖骨,真骨の骨階層(王族)と,六頭品,五頭品,四頭品などの頭品階層(一般貴族)とによって構成される

 統一新羅は、王族である根元が同じ真骨(しんこつ)最高の支配身分であり、真骨ではない支配層には官職の階層を基準に頭品を分ける骨品制を実施したこ国家のすべての官職はそれぞれに相当する階層を定めて、頭品層がいくら昇進しても真骨が独占する高位の官職に就くことはできないようにした。

 渤海は句麗の王族出身の旧貴族が中心になって支配層を形成し、現地人である靺鞨人被支配層となる社会であった。渤海が外国に派遣した使者の氏姓に高句麗の王族である高氏が多い事実からそのことが分かる

▶︎経済生活

 統一新羅は領土が広くなると、全国の土地を測量して、百姓の経済状態を調査した後、等級別に税を納めさせ、貧富の差を調整した。6世紀頃から新羅は、田租を徴収することを1つの権利(収租権)として、貴族官僚にこれを禄邑(ろくゆう)として分け与え報酬とした。禄邑国王中心集権的官僚国家体制を維持する政治・経済の中枢であり、統一後、一時は全国の土地を一律に把握するために、これを廃止して禄俸に改めて支給したこともあった。1つの土地に対して所有権と収税権併存し、調和・対立した点が韓国中世の土地所有関係の大きな特徴である。

※禄邑・・・朝鮮,新羅の俸禄制度の一種。689年から757年までの間,一時的に廃止されたほかは,新羅の全時期を通じて行われていた。一時廃止されるまでの禄邑は,食邑(領地)と同様に,特定の地域に対する一定の支配権を,貴族官僚に与え俸禄としたものであり,旧首長層の領域支配に由来するものと思われる。これに対して復活後の禄邑は,官庁ごとに特定の村落を禄邑に指定し,俸禄等の経費にあてたものであり,官僚個人による固定的な村落支配は許されなかった。

■南北国の文化が発展する

▶︎仏国寺と石窟庵 

 今日まで伝わる新羅の寺院仏国寺(プルグクサ)石窟庵(ソクラム・本来の名前は石仏寺)がある。仏国寺は仏教的な理想世界を建築で表現した寺院であり、石窟庵阿弥陀仏の住む世界を造形した石窟寺院であるこ ここには国家が平安な世の中になるように願う新羅人の思いがこめらゴtている。

 

 仏国寺の境内には、3層石塔と多宝塔をはじめとする多くの国宝級の建築物が残っている。そして、石窟庵の石窟は、新羅の造形芸術の結晶として世界に広く知られ、仏国寺とともに世界文化遺産に指定されている。

▶︎郷歌

 三国時代の人々は、歌が神秘的で呪術的な力を持っていると信じていた。新羅にも巫女と覡(かんなぎ)が祈りを捧げる内容を歌の調べにのせて謡(うた)う伝統があった。このような神歌は仏教を受け入れて以降、固有の定型詩歌である郷歌(ヒヤンガ)へと発展した。郷歌の歌詞を文字に書きあらわす時には、昔から伝えられてきた独自の漢字表記法で書いたので、誰でも簡単に歌うことができた。郷歌の作り手は主に僧侶や花郎(ファラン)などの識字層であったが、一般民衆の情緒と調和していたので階層を問わず広く愛唱された。

▶︎感恩寺と大王岩

 新羅仏教は、国王の神聖な権威が裏づけとなって国家の平安と繁栄を願う護国信仰の件格が強かった。各地に大規模な護国寺院が建てられたが、そのなかでも感恩寺は仏教の力で日本の侵略を退けるために建てられた寺であった。この寺には、東海に住む大きな龍になって死後もなお新羅を守るという文武王の意志が込められている。文武王は感恩寺趾(かんおんじし)近くの海から見える大王岩に埋葬された。感恩寺址に立つ2基の3層石塔

▶︎教宗と禅宗

 新羅における仏教ははじめ王室と支配層を中心に受け入れられたが、統一後には徐々に一般民衆にまで広く信仰されるようになった。こうして上は国王から下は一般民衆にいたるまで、すべての新羅人に信仰される宗教として、大きな社会的役割をになった。

 統一後、仏教に対する理解が深くなると、新羅の僧侶は数字と教理をめぐって活発な論議を展開し、それを著述に残した元暁や義湘(ウィサン)などが代表的な著述家であり、彼らの著述は中国や日本に伝えられて影響を及ぼした。

 

 8世紀末になると、新羅の仏教界には新しい潮流があらわれた。経典と教学を重視してきたそれまでの教宗とは異なり、複雑な数理よりも心性を磨くことを重視する新しい禅宗が、新羅末期に地方豪族の支援を受けて盛んになった。

※禅宗で他の宗派を教宗とか教家という(教義説明をしている宗の意。禅宗では教義説明を重んじない)

 

▶︎渤海の文化

 渤海の文化は、高句麗文化を基礎にして、唐の文化を受け入れてできあがった。渤海第3代の文王の2人の娘である貞恵公主と貞孝公主の墓が発見されたが、高句麗と唐の墓制をあわせた様式でつくられていた。渤海は人材養成のために、唐に多くの留学生と留学僧を送ったので上流階級は唐の文化的影響を強く受けていたと考えられる。しかし、地方社会では高句麗と靺鞨の土着の文化が強く残っていた。

 仏教文化は渤海でも盛んであった。渤海の首都からは多くの寺院址が発見され、仏像、石燈、獅子村象、瓦など仏教関係の遺物が大量に出土しているごこれらの遺跡や遺物からも健全で素朴な高句麗の芸術様式が基本になっていることを確認できる。

▶︎仏塔と伽藍配置

 おおむね、中国では磚塔が、韓国では石塔が、日本では木塔が主流である。三国時代には、9層・5層・3層の石塔が建てられ、新羅の統一後には、3層石塔に定式化された。仏塔は仏像を安置する金堂その他の建物と調和して1つの寺院を形成している。金堂と仏塔の配置をみると、初期には金堂の前に大きな塔を1つだけ建てた伽藍配置が見られるが、統一後には仏塔の規模が小さくなり、2塔式へと移行する。これは仏教の主たる信仰対象塔から仏像へと移り変わったことに伴う変化である

  

韓国の塔は石塔が多い。石が豊富にあるためである。木塔は高句麗や百済では盛んに作られたが、6世紀から百済で、木塔を真似た石塔が造られ始めた。弥勒寺や定林寺に残っている。一方中国では磚塔が多かった。新羅では、それを真似て芬皇寺に見られるような模磚石塔が作られた。その後、百済の石塔の技法と合わさり、感恩寺(감은사:カムンサ)や仏国寺(불국사:プルグクサ)で見られる石塔へと変わった。磚塔はその後あまり作られることはなかったが、なぜか新羅末期に慶州から60キロほど離れた安東で盛んに作られた時期がある。

■海外で活発に活動する

▶︎唐で活動した高句麗と百済の遺民

 高句麗と百済が滅亡した後、その道民のなかにはに行って活動した人々が多かった。黒歯常之は百済の遺民で、国家の滅亡後、復興運をしていたが、官軍に投降て唐に渡った。その後、彼は唐の将軍となって西域攻略に参加して功績を挙げて唐の高位にのぼった高仙芝(コソンジ)高句麗の遺民の子孫である。彼はパミール高原を越えて西域のサラセン帝国に3回も遠征した。第2次遠征の時(751)に中国の製紙技術が西洋に伝えられた。

 

 李正己安禄山の乱がおきて唐の政局が混乱すると、節度使の地位を利用して現在の山東省一帯を領有して、独立して中央政府に対抗した。彼は唐の首都である長安に通じる大運河を掌握して国力を高め、その子孫の代まで55年間山東地域を統治した(765〜819)

浮石寺 慶尚北道栄州市浮石面の鳳風山中腹にある新羅時代の寺。676年義湘が王命を受けて建てた華厳宗の寺院である。

▶︎義湘と慧超

 新羅は、3国統一後、多くの求法憎を唐に派遣したが、そのなかでも代表的な僧侶が義湘であった。義湘は唐で中国華厳宗を学んで帰国した後、浮石寺など多くの寺院を建立し、弟子を育成し、新羅華厳宗の発展に寄与した。義湘は中国の僧侶からも尊敬され、「華厳一乗法系図」を著して中国華厳宗の発展にも少なからず影響を及ぼした。

 

 新羅の僧侶のなかには、遠くインドまで行った者も多かったこそのなかでも慧超(ヘチョ・えちょう)が有名である。慧超は唐を経て海路でインドに入り、仏教聖地を巡礼して、陸路で西域を越えて再び唐に戻り多くの著作を残した。彼が書いた「往五天竺国伝』は、東西交渉史やインド史を研究する貴重な史料となっている。

▶︎金喬覚 

 新羅の王子であった僧侶金喬覚(キムギョカク)は、死ぬまで唐に滞在し布教活動を行った。彼は中国仏教の四大仏教名山の一つである九華山地域を中心に活動して、心のこもった貧民救済を通じて仏教を広く伝えた。これに感化された中国人は今も彼を地蔵王菩薩と呼んで深く信奉している。

 

▶︎張保皐

 張保皐(チャンポゴ)は若くして唐に渡り、武官として活躍したが、海賊に捕まり奴隷にされた。新羅の人々の悲惨な境遇をみて憤慨し、官職をやめて帰国した。彼は海路の要衝である清海(現在の荒島)を根拠地にして、中国と日本に通じる海路を掌握し、海賊を掃討して貿易活動を行い、「海上王」という称号を得た。また、張保皐は中国に法華院という寺を建てて、新羅僧侶の求法活動を支援するとともに、現地の新羅人社会の精神的なよりどころとなって活躍した。日本の僧侶である円仁も、張保皐たちの助けによって法華院に滞在し唐での巡礼を果たした。

 

▶︎崔致遠

 新羅は唐の発達した学問を学ぶために多くの留学生を派遣した。彼らのなかには唐で実施された官吏採用試験に合格して、文名をとどろかせた者も少なくなかった崔致遠(チェチュオン)はその代表的な人物である。彼が中国の官吏だった時、乱をおこした黄巣を討伐するために書いた討黄巣轍文」は、唐の文人に広く賞賛された名文として有名である。

統一新羅期の海外活動 統一新羅の蒔期は、現代を除けば、韓国人の海外活動が最も活発だった焉期である 韓民族は当苛の困難な状況を棄り越えて、中国はもちろん、由央アジア、インドにまで進出して活動し、現地で才知を発揮してその名をタ毒したこ また、この時期にはアラビア商人が新羅と往来して、活発な貿易活動を行っていた。

■新羅が後三国に分裂し潮海が滅亡する

後三匡の歴史的意義 後三国時代は、9せ紀夫から10世皐引まじめまで、40余年笥続いた=この時其引ま、中国でも唐が滅亡L、武臣がそれぞれ国を建てて対立する五代十司の内喜J真弓であった‥ 新羅が後三国の県±としヽう這舌」状況を収められすに滅亡したのには、唐中心の国際秩序が崩壊したことも影響Lていた_ 後三国巨喜代は、国王の≡親族士ノこ\の支配体制か崩れて、胡方勢力まてを含む貴族宮ノ崇を中心とする新しし、文治穣亭を′乍りあけるきった\けとなった‥ また、支萱≡層に民ノこ\の重要主に気ノ寸かせ、真の社会権渾身‡墳遣を三文善する政策を考え了せる転機にもなった∧ これらの点で後三司時代は大きな意義を持つ時期であった

契丹 契丹は、5世紀頃に遼河上流のシラムレン川の流士割こ出現した民族である。その族的系統は諸説あるが、古朝鮮の戸三成に加わった東夷族の一部が、国の滅びた後に北方に移り住んで暮らし、モンゴル旗と混血したことによって形成された民族と考えられる= 907年に唐が滅亡すると、急激に勢力を乍引まして916年に遼を建国した。

▶︎新羅末期の社会混乱

 8世紀後半になって貴族の数が多くなると、貴族の間で1つの民族としての同質性が弱まり、互いに牽制して争うようになった。下級官僚層は出世のために力のある貴族のもとに集まり、貴族は彼らを集めて王位に挑戦した。王位争奪戦争や謀反事件が絶えずおこり、新羅社会は混乱に陥った。

 9世紀に入ると地方勢力までも巻き込むようになり、王位争奪戦争で都を追われた貴族のなかには、地方に下って強大な経済力と人材を基礎に独自の軍事力を持つ者もあらわれた。社会が混乱し、凶作まで重なると、多くの全国の農民が盗賊集団に変わり、略奪行為を働くようになり、人命をも奪った。国家はこれに強力に対応したが、かえって陥らは勢力を増し、組織力を整えながら農民軍へと発展した。

▶︎後三国

 社会が混乱すると、地方から納められる税が大幅に減少し、9世紀末には新羅の国政運営が非常に困難になった。そこで有力な地方勢力は、農民軍の略奪と中央政府の過酷な収奪から自らを守るために、私兵組織を強化して、あたかも独立勢力のように振る舞うようになった。独立した地方勢力と農民軍の指導者は、城主や将軍を自称し、豪族として君臨した。

 豪族は互いに闘いと統合を繰り返して大豪族に成長したこ そのなかで萱(キョヌオン)後百済を(892)、弓裔(クンイェ)が後高句麗901、後に国号を素封と改めた)を建てて独立したこ こうして韓国の歴史は再び3国が鼎立(ていりつ)する形になったこ これを後三国という

▶︎渤海の滅亡

 渤海は第15代の王・諲譔(デインソン)を最後に契丹に滅ぼされた(926)。建国して229年目のことだった。

 渤海は、高句麗系の支配層と靺鞨族がうまく融合できなかっただけでなく、火山の噴火や地震などの自然災害が重なって社会が混乱してしまったために、契丹の侵攻に有効に対処できなかった。渤海が滅亡した後、契丹軍がすぐに撤退したので、その中心地域は一時期そのまま放置されていた。

■高麗が後三国を再統一して渤海遺民を受け入れる

▶︎高麗の建国

 甄萱(キョヌオン)と弓裔(クンイェ)はそれぞれ百済・高句麗の怨恨(えんこん)を晴らすことを名目にして建国した。しかし、これは各地の農民の新羅に対する反感を直接に表現しただけで、新羅社会の矛盾を克服して、民族的力量を結集する新しい理念を示したものではなく、時代錯誤的な主張にすぎなかった。とりわけ弓裔専制君主として振る舞い、性格が横暴で部下の支持を得ることができなかった。弓裔の暴政が日に日にひどくなると、部下は弓裔を追い出して王建を新しい主に推戴した。王建は高麗(こりょ)の建国を宣言して王位に就いた(918)

王建陵、開城市の中心街から3.5km離れた松岳山の山麓にある。王建と神恵三后柳氏を一緒に埋葬している

▶︎民族の再統一

 新羅の権力が有名無実化して、後三国の覇権は王建と萱の対決になった。甄萱急速に新羅と西南海地方で戦線を拡大して豪族を武力で制圧しようとした。一方、王建は新羅に友好的な態度をとって、各地域の豪族勢力を抱き込んで甄萱の後百済を包囲していった。王建は自ら謙遜な態度をとり相手を褒め称えたので、多くの豪族の支持を得た。

 この時、潮海が滅亡して、多くの遺民が高麗に帰順すると、高麗は高句麗を受け継いだ国家として、彼らを受け入れて優遇した。王建は有力豪族と婚姻関係を結んで信義を得て、ついに新羅の投降を導き出し、虚脱感と危機感に満ちていた後百済を滅ぼして後三国を統一した(936)。こうして高麗は韓民族すべてを統一した国家となった。

▶︎「高麗」という国号にこめられた歴史意識

 高麗とは高句麗を受け継いだ国という意識をこめた国号である。高麗を建国した勢力がすでに滅亡した高句麗を蘇らせようとしたのは、高句麗文化を正しく継承することによって、新羅社会が抱えていたさまざまな矛盾と弊害を乗り越えられると信じていたからである。彼らは、新羅が狭い領土に安住して、自主的で進取的な気質を失い、しだいに唐の文化の影響に深く染まっていき自らの歴史的伝続を忘れてしまったという危機感を抱いていた。高麗が粘り強く北進政策を推進したのはそのためである。

 しかし、高句麗を受けつぐという歴史意識は、3国の対立的な分派意識から脱却することができず、民族全体の均等な発展を追求するにはまだ限界があった。韓民族が3国の対立的な分派意識を克服して均衡な発展をめざすには、3国共通の母胎である古朝鮮に注目し、その継承意識を持った朝鮮王朝の成立を待たなければなかった。