3編・統一国家の安定と文化の発展

■高麗の発展と繁栄

■いっそう強化された集権的官僚国家に成長する

▶︎新しい体制の整備 

 高麗は貴族官僚を中心にした中央集権的政治体制を整えた国家であった。高麗は当初、豪族の連合政権として出発し、後三国を統一した後、各地方に勢力基盤を持っていた大豪族を王権の下で中央貴族層に改編し、小豪族を地方に住まわせて王権を代行する郷吏・戸長層に編成した。唐・宋の制度を参考にしながらも、高麗固有の中央組織をつくり、中央集権的な統治組織を整備する一方、豪族功臣勢力を追放した。そして、王権の強化とともに地方の統治体制も整備して、国王が地方の州・府・郡・県に官吏を派遣して直接百姓を支配する集権体制をいっそう強化した。

戸長(こちょう)は、高麗時代の郷職の首長、副戸長といっしょに地方の末端実務を総括した職である。地方統治制度。郡と県の2段階で地域が区画され、中央から派遣された官吏によってその統治がおこなわれた。

 

高麗の五道両界・・・高麗は全国を楊広道、西海道、交州道、全羅道、慶尚道の五道と北界・東界の両界に分けて、五道には察使を、両界には兵馬使を派遣した。三京ははじめは首都の聞京と西京(平壌)、東京(慶州)であったが、後期には東京に代わって南京(ソウル)が含まれた。

按察使(あんさつし・あぜち)は、地方行政を監督する令外官の官職。数ヶ国の国守の内から1人を選任し、その管内における国司の行政の監察を行った。朝鮮,高麗時代に設けられた軍事機関名,役職名。都兵馬使の前身は「兵馬使」といわれ,成宗8 (989) 年に北境警備の軍事機関,あるいは官職名として成立した。兵馬使が実際にその機能を発揮したのは同 11年,契丹軍侵入のときからである。

▶︎二元的国家体制 

 高麗政治と宗教を分離して官僚体制と教団体制に二分し、儒教と仏教をそれぞれの精神的支柱として政局と社会を主導した。これは太祖王建が後代の王に伝えた訓要十条によく示されている。

訓要十条・・・高麗の太祖が後代の王に私的に伝えた施政方針で全10条からなる仏教と儒教、風水地理思想に対する太祖の考えと、帝王として備えるべき態度、伝統文化に対する自負とともに、高句麗を継承する意識などが示ざれている。

 高麗の支配層は儒教を学んで科挙にょって文武の官僚となるか、あるいは山家して仏教を学んで僧科にょって敦宗もしくは禅宗教団の高僧となって支配身分を維持するなどして、宗教的・文化的指導者として活動することもあった= 国王はこうした官僚全体と教団全体を統合する国家秩序の最高位に君臨する政治・宗教両面の首長であり、政府様情の官僚の任命権者であると同時に教団の寺院主持(住掛 の任命権者でもあった。

 

■契丹を退け女真と争う

▶︎東北アジアの新たな情勢 

 高麗の建国と初期の発展期は日本の平安時代にあたる。この時代の日本は貴族政治の全盛期で、平和を享受して独自の日本文化を発展させていた。これとは対照的に、中国大陸では10世紀はじめから五代十国の時代といわれる大混乱が続いていた。この混乱は宋が登場して中国全土を統一することによって収まった。宋は以後約300余年間中国を支配したが、中国東北地方に相次いで出現 した契丹と女真の軍事的圧迫に常に苦しみ、中国史の中心舞台である黄河流域の中原地方を明け渡して、揚子江流域に移らざるを得なかった(1127)。韓半島と中国大陸の諸国家は、北方民族が相次いで勃興したために、その南侵で圧迫を受けるようになり、危機を感じながら独自の生き残り策を模索していった。

▶︎契丹との戦い 

 契丹族が建てた遼は993年から1019年まで高麗に3回も侵略戦争を行った。1次侵略の時、高麗は徐幣の外交活動で戦わずに侵略軍を退けた。その後、2回の侵略戦争では開京まで占領されたが、熾烈な戦闘に勝利して国難を乗りきった=戟争が終わった後、高麗は北方民族の南侵に備えるために韓半島の北部に千里の長城(上図)を築いた。

▶︎女真との対立

 中国東北地方の中部を原任地として半牧・半農の生活をしていた東夷系の女真族は、契丹族が建てたが衰退すると、1125年に金を建てて遼を倒し、中国東北地方を支配するようになった。

 これ以前、高麗は北進政策によって、豆満江の南側で韓半島の東北部に住んでいた女真族を退け、その地方に東北9城を築いた。しかし全が勢力を増すと、高麗に東北九城の返還を要求し、事大関係を取るように圧力を加えてきた‥高麗では反対の声が強かったが、当時高麗の実権を握っていた李資謙(イジャギョム)が政権椎持のために、9つの城を返還して金の事大要求を受け人れることを決断した。こうして高麗は金との武力衝突を避けることができた。しかし、国威を傷つけたこの決定は、後に妙清(ミョチョン)が反金、自主を掲げて反乱をおこす原因にもなった。妙清西京への遷都と金との戦争を主張して西京で反乱をおこしたが失敗した。

■門閥が貴族社会を築く

宰相之宗・・・高麗には王室と婚姻できる15の家門があったこれらを「宰相之宗_ といった二 本文に記した門間の他に、鉄原在民、平壌担氏、是安イ壬氏、清州李氏、黄騙間氏などがあった。

▶︎門閥貴族

 高麗初期の貴族は、王室と婚姻関係を持つか地方豪族としての基盤を持って国政運営に参加した人々であった。しかし、徐々に儒教的教養を身につけ科挙試験に合格して中央官職に進出する新しい貴族があらわれた。このうち高位官僚層はその政治的地位と経済的基盤を制度的に世襲する特権を保障された。彼らの子孫は科挙試験を受けなくても蔭叙によって官職に就き、数代にわたって中央の高位官職に就き、決まった範囲の家門だけで婚姻関係を結び、影響力を伸ばして門閥を形成した。慶源李氏、慶州金氏、披平伊氏、海州崔氏、安山金氏などが代表的な門閥家門である。そのなかで王室と婚姻関係を結び外戚となり、その地位を利用して政治と経済をほぼ独占して政局を主導した門閥も出てきた。

蔭位の制・・・唐の官吏任用制度での貴族優遇策。官吏登用にあたり、父祖の官位によって子の最初の官位が決まる門閥貴族に対する優遇制度。唐では五品以上の高官の子孫は自動的に官吏に登用された。

▶︎蔭叙制度と功蔭田柴

 高麗は官職を文班と武班に分け、従9品から正1品まで18等級の品階を設けた政治制度を整備した。このうち文武5品以上の官吏の子孫は、科挙試験を受けずに官吏に採用される蔭叙の恩恵を受け、官職によって支給される田地と柴地の一部を功薩田として相続できる権利を持った。しかし、蔭叙出身者の40%以上が科挙試験に合格していることは、科挙に合格することが官吏生活を送るには有利だったといえる

高麗時代の主要な田制。景宗1 (976) 年から始り,文宗 30 (1076) 年に完成した田制。国家が田地 (畑) と柴地 (山林) を中央,地方の官僚,軍人,閑人 (未仕官者) などに支給する制度。ただし,畑や山林の支給とは土地そのものではなく,そこから生じる租を支給することである。

▶︎外戚門閥の叛乱

 慶源李氏は、今の仁川地方の豪族であり、李子淵が3人の娘を文宗の妃に送り込み、当代最高の門閥へ成長した。その孫である李資諌は、次女を春宗の妃とし、生まれた元子を仁宗として即位させるのに決定的な役割を担い、三女と四女を仁宗の妃にした。そして、王室の外戚として強大な権力をふるい、ついに王位さえも見下すようになった。しかし、混乱の渦中で仁宗の真意を察した臣下と他の門閥が、協力して電撃的に李資謙を排除したために、慶源李氏は没落した

■国を挙げて八関会と燃灯会を催す

▶︎仏教書責礼の社会的機能 

 高麗の太祖は後三国を統一した後、社会を統合するために、全国各地で人々の心に定着していた仏教を利用して新しい文化意識を生み出そうとした。とりわけ仏教の儀礼的側面に注目 したが、それは仏教が伝統文化と結びついた儀礼によって百姓を動かす力を持っていると考えていたからである。太祖は、後代の王に遺した訓要十条で、春には燃灯会、秋には八関会を国家的な行事として毎年大々的に開催することを伝えた。

▶︎八関会     

 太祖王建は、建国後最初の国家行事として八関会(はっかんえ)を開催した。八関会は本来は慰霊祭や厄除けの性格を持つ仏教儀礼であった。そうした八関会を高句麗の祭大行事である東盟と結びつけ、秋の収穫感謝祭としての季節の行事として開催したものだが、これによって高麗が高句麗を継承する国家であることを表明することができた。八関会は11月の満月前後に3日間、開京で開催されたが、最も重要な儀式は国王が毯庭中央の百官と全国から集まった官員から朝賀を受けて、一緒に音楽を鑑賞して歌舞や百戯を楽しむことだった。八開会が開かれる期間は、公休日とされ、宮殿が開放され、通行禁止も解除されて催し物が行われたので、人々は夜を徹して都城を巡り見物を楽しんだ。

 

▶︎燃灯会(ヨンドゥンフェ)

 燃灯会は宮殿を灯火で照らし、酒や茶菓を用意して、王と家臣が一緒にさまぎまな文化行事を楽しむ仏教行事である。同時に仏や天地の神々も楽しむことによって、国家と王室の泰平を祈願する意味が込められていた。そのため、この時に太祖に対する祭祀を行い、国家意 識を鼓吹することが重要な儀礼となった。燃灯会は、八関会とともに新羅の時代に始まり、高麗時代になって国家行事として位置づけられるようになった。高麗初期には中国と同じく1月15日上元に催されたが、高麗の気候にあわせて主に2月15日に催されるようになった。燃灯会は、開京だけでなく、全国の村々でも開催され、1年の農作業の始まりとともに、すべての国民が灯火をともして豊作を祈願する祭礼であった点で、秋の収穫感謝祭の性格が強い八関会とは異なっている。

▶︎高麗の八関会は万国博覧会だった  

 八関会の朝賀には外国人が王に祝賀を伝える儀式があった。この時、モンゴルを除いて、宋・女真・契丹・日本、遠くはアラビアの商人も来訪して祝賀した。開京の外港である碧爛渡は彼らが乗ってきた船でにぎわい、貿易も活発に行われた。彼らは開京にある外国人専用の客館に滞在して八関会に花を添えた。     

▶︎毬庭  

 撃毬を行うために宮殿の前につくられた広場のことをいうが、大規模な国家行事や軍隊の訓練場所としても利用された

■高麗が世界に知られる

▶︎corea・・・高麗は国際的な交易を活発に展開した。開京(ケギョン)に近い礼成江の河口の碧瀾渡(ピョンナンド)が国際交易港の役目をはたした。開京には宋の商人をはじめとしたいろいろな国の商人が行き交ったが、そのなかにはアラビア商人もいた。彼らは高麗が八関会という仏教行事を開催する時、外交使節と一緒に訪れてきて土産品を献上して交易を行った。アラビア商人が主に持ってきた物品は、香料・象牙・孔雀など高麗では入手が困難な貴重な品々だった。この時、アラビア商人によって高麗という国名が西欧にまで伝えられて、‘Corea’と呼ばれた。韓国が西洋にはじめて知られたのは、インドに仏教を学びに行った新羅の僧侶を通じてであった。すでに8世掛こもアラビア商人が新羅に来ており、彼らは海図に韓国の南海岸の島々を‘Sila’と表記した。そして10世紀からCory,と表記されるようになったが、アラブ人の海図を基礎にしてつくったスペインの地図などに、このような海図の一部が残っている。‘Cory’は後に‘Corea’、‘Coree’に統一され、19世紀後半になってKoreaという英文表記が使われはじめると、しだいにこれがおもな表記として定着していった。

▶︎中国との交易

 高麗では、宋・遼・金とは使節が往来した時に行う使行貿易と民間貿易によって交易を行った。とりわけ宋との交易が活発だったが、これは宋が財政支出の増加を補うために商人の活動を保護、奨励したためであった。高麗が輸出した品物のなかではは中国全域に流通したが、品質が良いので人気があった。しかし、宋が金の圧力で南に移動した(南宋)後は、交易が少なくなった。遼・金には穀物や農機具などを輸出し、毛皮と馬などを輸入した。中国東北地方で政権交代が起きて社会が混乱した時には、高麗米が高い価格で取り引きされた

▶︎日本との交易

 高麗は日本と公式の外交関係を結ぶ前から民間レベルでの交易を行っていたが、11世紀中葉、日本の外交使節が高麗に来たことをきっかけに交易はさらに拡大した。 日本との交易では対馬が中心的な手法を担った。高麗は対馬島主に官職を与えて特別に待遇し、金州〔キムジュ・今の慶尚南道金海<キメ>市)の客館で貿易をさせた。しかし、日本の荘園貴族が貿易によって富を蓄える目的で積極的に多くの商人を高麗に派遣するようになると、高麗は進奉船を1年に1回2隻までとするなど制限を加えた。日本との交易は武人政権の時代も続いたが、高麗末期に倭寇が侵入しはじめるとほとんど途絶えてしまった。

荷札木簡・・・荷物につける木の荷札(タク)で、日本の東福寺(貨物の主人)、陳皮・松(貨物の内容)などの文字から推測すると、日本に送った買物だったことが分かる。この木簡は、韓国の新安沖で沈んだ寧波(中国)から博多に向かう貿易船から発見された。

女真文字銘銅鏡・・・女真の文字28字が刻まれた銅毒嘉。文字の意味は明らかにされていないが、高麗と女真の交流が分かる遺物の1つである。

▶︎高麗の首都開京と碧浦波

 開京(現在の開城)は高麗の首都である。太祖王建が即位した翌年に首都を鉄原からこの地に移した。北の栓岳山から南の漢江下流の平野に続く背山臨水の地形で、一国の首都として理想的な地勢を備えていた。王京である開京のほかに、西京(現在の平壌)、東京(現在の慶州)をおき、これを三京と呼んだ。

 

 碧瀾渡は閉京から約10km離れた港で、流れが速く場所だったが、水深が深かったので船舶の運行に際交易港へと成長した。もとは礼成港と呼ば所にあった碧瀾亭にちなんで碧瀾渡と呼ば高麗中期には、宋、日本だけでなく、出入りし、活発な貿易活動を行った。

高麗時代の海上の要衝地であった礼成江下流の岩淵濾・・・開京から30里離れていたが、水深が深く、国際港として成長する条件を備えていた。なお、韓国の10里は日本の1里にあたる。

■武臣が政変をおこして実権を握る

▶︎武臣の政変

 高麗の武臣は、文臣に比べて制度的にも差別的な待遇を受けていた。軍事行政と軍隊の指揮権を文臣が握っており、武臣は昇進に限界があって宰相になることもできなかった。外敵の侵入を何度も防ぎ、内部の政変を鎮圧して、彼らの地位がしだいに高くなると、それまでの処遇を深刻に受け止め門閥貴族に対する不満を募らせていった。一方、門閥貴族の横暴は日を追ってひどくなり、文班5品官吏武班3品の大将軍の頬をなぐるという事件さえもおこった。この事件をきっかけに、王に仕えていた武臣がついに軍事クーデターをおこし王を殺害して政権を掌握した(1170)

▶︎政変後の混乱

 武臣は政変をおこして政権を握ったが、門閥貴族はそれまでに持っていた特権を我がものにして、個人的な権力機構を強化して政権を維持することに終始して、社会的問題を改善しようとしなかった。そのため政権を執った武臣のあいだで政権争いがおこり、26年間に4度も政権が交替するという混乱した情勢が続いた。そのなかで重税に苦しむ農民や不当な身分差別に抵抗する賎民が立ち上がり、全国に民衆の反乱が広がった。

▶︎高麗と日本の武人政権 

 高麗の武人政権は、1170年にはじまり、江華島でモンゴルと激しい闘いを繰り広けた後に滅びる1270年まで、100年間続いた。一方、日本の武士政権は、1192珪に源頼朝が権力を握った時にはじまり、政治構造や行政担当者の変化はあった力く、1867年に徳川幕府が滅びるまで、675年とし長期間続いた。こうした歴史の流れの違いは、両国の文化が大きく異なる背景となった。

▶︎崔氏政権の登場 

 こうした混乱は、強大な私兵を率いていた崔忠献(チェチュンホン)が実権を握ったことで収拾し、政局も安定した。崔忠献は自らが門閥である高位の武臣出身で、それまでの身分の低い下級武臣出身者とは違っていた。彼は新しい政治機構をつくり、国政を掌握し、抵抗勢力と民衆の反乱を容赦なく鎮圧して、国土までも自分の意志で廃位したり擁立したりした。以後、崔氏政権は1258年まで4代62年崔瑀・チェウ、崔沆・チェハン、崔竩・チェウィ)の長きにわたって続くこととなるのである。

武臣政権とは・・・文臣に比べて劣悪な待遇に不満を持った武臣が1170年、文臣を皆殺しにする反乱を起こした。チョン・ジュンブ(鄭仲夫)やイ・ウィバン(李義方)ら武臣は、武力を背景に王の廃位・擁立までも行い、文臣に代わって自ら政権の運営に乗り出したが、武臣間での内部対立で執権者がたびたび入れ替わり、社会は混乱を極めた。1196年に政権を握ったチェ・チュンホン(崔忠献)は、自身の私兵集団を組織して都房(トバン)を設置し、強固な権力基盤を築くことに成功した。以後、4代にわたって世襲による崔(チェ)氏政権が成立するが、1258年に崔氏の家僕だったキム・ジュン(金俊)によって倒され、その後1270年に武臣政権自体も崩壊した。

▶︎萬積の乱・・・崔忠献が実権を握った後、その一族の奴婢であった萬積が‘将軍や宰相の氏が「どうして元から決まっているだろうか。時が来れば誰でも奴婢の身分から逃れることができる。各自自分の主人を殺して証文を焼いて、この国を奴嫁のいない国にしよう」といって、他の奴婢を煽動して反乱を企てるという事件がおこった。この企ては密告によって失敗に終わったが、武臣の政変後、下剋上の風潮が広がった高麗社会の一面があらわれている

■モンゴルの侵入に果敢に闘う

▶︎モンゴルの侵略

 12世紀はじめから14世紀中盤までの2世紀は、アジアだけでなくヨーロッパまでを揺るがす強力な政治勢力が活動した時期であった。それは強力な騎馬部隊を中心にして世界的な大帝国を築いたモンゴル族であった。モンゴルは西南アジアを制圧し、さらに2度にわたってヨーロッパ遠征を行った後、国号を元に改めて北京に遷都して東アジアへの侵略を積極的に進めたこ高麗は、1219年に契丹族を平定するために共同作戦を提案したことをきっかけにして、モンゴルと関係を持った。その後、モンゴルが軍事的に支援したことを理由に、高麗に重い貢ぎ物を要求した。これに高麗が不快感を示したためにモンゴルとの間に不和が生まれた。

 

▶︎江華島遷都

 両国の関係が緊張している時に、モンゴルの外交使節が国に帰る途中、鴨緑江岸辺で殺害されるという事件がおこった。モンゴルはこれを高麗の仕業だとして、1231年に高麗に攻め込み首都開京を越えて南下し残虐な略奪行為を行った。官民は心を1つにし、草賊までも力を合わせてモンゴル軍の攻撃を迎え撃ったが、高麗は大きな被害を受けた。崔氏政権の実権を握っていた崔瑀・チェウは、海戦に弱いモンゴルの騎兵に山城や島で対抗することにし、1232年7月漢江・ハンガン河口江華島・カンファド遷都して長期戦の態勢を整えた。

  

▶︎貴重な文化財の喪失

 江華島へ遷都した後、本土では中央政府の支援のないまま、郷吏や農民、僧侶が多くの戦闘を主導した。そのため、劣勢の闘いは壮絶で被害は深刻だった。多くの人々が殺害され、ひどい略奪を受けて国土は荒廃し、貴重な文化財が数多く火災によって失われた。1019年に宋に次いで2番目につくられた大部の符印寺の『初離大蔵経]が、1232年に焼失し、1238年には新羅の善徳女王が三国統一を駆って都の慶州の真ん中に建立した皇龍寺9層木塔が焼け落ちた。皇龍寺9層木塔を失ったことは、新羅最大の寺院である皇龍寺全体がなくなったことを意味すると同時に、千年の古都である慶州が甚だしく蹂躙されたことを象徴する事件であった。

▶︎金允侯と高麗の僧軍

 

 僧侶の金允侯は、1232 年に処仁部曲(現在の京・畿道龍仁)で撒礼塔が率いるモンゴル軍と対決し、住民とともに戦った。櫨が放った弓矢が当たり、撒礼塔は戦死した。将軍を失ったモンゴル軍はあわてて撤退した。高麗の僧侶は、百姓を動員して戦闘を指揮する能力を持っており、卓越した戦闘能力を持った僧軍もあった。高麗が女真に備えて編成した別武班にも「降魔軍」という僧軍師団があった。

▶︎江華島・・・江華島は、韓国では4番目に大きな島であり、漢江や臨津江、礼成江が合流する河口に、陸地から結1km離れた西側にある島である。江華島は先史時代の支石墓や檀君が 天に祈るために築いたという塹星壇、開港期に日本と条約を締結した場所であり、フランス軍とアメリカ軍の侵略を受けて戦った激戦地でもあり、多くの遺跡が韓国の歴史を生々しく証言している島である高麗王朝は28年間、ここを首都にしてモンゴルに抗戦した。

■40年間モンゴルと戦争をした末に元と講和する

▶︎40年の戦争

 モンゴル軍は40年間に6回も攻撃してきたが、潮の流れが早いので、狭い海峡を越えられず、対岸に見える江華島に侵入できずにいた>。そのためモンゴル軍は韓半島全域を荒らして悪事の限りを尽くした。それにもかかわらず、崔氏政権が平常時と同じように各種の税金を取り立てたので、抵抗していた国民の苦難は日増しに大きくなった。長い戦乱によって次第に疲弊した民心は、モンゴルの6回目の侵入の時に抗戟を止めて、モンゴルと講和しようという動きがおこった。1258年、それまでモンゴルとの戦いを主導してきた崔氏政権が崩壊すると、高麗の朝廷は戦争の終結を急ぎ、翌年、モンゴルと講和した。そして、ついに1270年に王政が復古して、開京への還都が行われた。

▶︎三別抄の抗争遺跡である缸坡頭里(ハンパドゥリ)城(北清州郡涯月邑古城里)

 海抜190〜215mの地点にある缶Ⅰ城頭里土城は、三別抄が1271年9月に清州島に入って軍事力を再整備する時に築城したものである。高さ5m、幅3.4m、周囲6kmにおよぶ外城を築き、内部に再び石城で800mの内城を築く二重の城郭で、防禦施設だけではなく宮殿と官街まで揃えた要塞であった。

▶︎三別抄の抗戦 

 崔氏政権によって組織され、武臣政権の親衛部隊として活動していた三別抄(サムピョルチョ)軍は、政府の講和政策に強く反対し、新しい国王を立てて全羅道の南海岸の珍島を根拠地にして、モンゴル軍とモンゴルに屈した政府に抗戦した。日本遠征の準備中だった元の国王フビライは、モンゴル軍と高麗軍を動員して、三別抄軍を討伐しようとした。劣勢になった三別抄軍は、本拠地を海を越えて済州(チェジュ)島に移し、さらに3年間抗戦したが、結局平定されてしまった。

▶︎元の日本侵攻

▶︎元の日本侵攻が失敗した要因

 日本侵攻の失敗は、当時日本の政権を握っていた鎌倉幕府の実力者北条氏の頑強な抵抗と折よく日本を通過した台風にその直接的な要因があったが、高麗韓廷のあいまいな態度と戦争に動員された高麗の人々の非協力的な態度にも大きな原因があった。しかし、日本は侵攻に加わった高麗を遠ぎけて、長らく交渉を避けた。 

 高麗と講和した後モンゴルの重要な外交問題日本に対する措置だった。モンゴルは日本を懐柔するために、高麗に協力を要請した。1266年から何回か懐柔を試みたが日本は応じなかった。そこでモンゴルは日本侵攻を計画し、高麗に兵士と艦船、軍程米などの軍事物資の調達を強要した。こうして高麗軍はモンゴル軍にしたがって1274年と1281年の2度、日本を侵攻したが、結局失敗した(日本での文永・弘安の役、)。2度の戦争で高麗は膨大な人命を失い、経済的な損失を被った。日本侵攻のためにモンゴルが設置した臨時行政機構(征東行省・チョンドンヘンソンは、その後しばらくの間存続して高麗に大きな被害をもたらした。

■社会が動揺するなか新進士大夫が登場する

▶︎元の干渉

 40年にわたる戦いの末に元と講和した高麗は、元に征服された他の国々とは違い、独立国家としての地位を保った。しかし、その後約90年の間、高麗は皇太子を元の首都である北京に住まわせて王位に就く時に帰国させるようになり国王と関連する称号や官制を格下げされ政治機構も縮小しなければならない屈辱を味わった。 また、韓半島の東北地方の一部と済洲島を元の直轄領として差し出し、金・銀・人参・薬剤・虎皮・陶磁器などの特産物を毎年元に送らなければならないという苦痛に耐えなければならなかった。

▶︎社会の変化

 元の干渉が続くなかで高麗社会は内部から大きく変化したこ その1つが親元派の権門勢力が登場したことだった。元の王室や有力者と関係を結ぶ一族や元の役になる人、通訳官など新しい勢力が権勢を振るった。また、王室をはじめとして社会の上流層の間にはモンゴルの服飾や生活風俗が流行した。

 一方、権門勢力は手段を選ばず所有地を拡大した。その結果、国家の土地所有制度が崩壊してしまった。土地制度は集権的官僚組織の経済基盤であると同時に百姓の生活と国家財政の基本であったので、その混乱はただちに官僚制や国家経済の破綻につながった。そして、支配層の行き過ぎた収奪は百姓の生活と身分を奴婢と変わらないものに追いやった。

▶︎高麗様  モンゴル風が高麗で涜行することもあったが、反対に高麗の食べ物や服 飾・文様・装飾・彩色などがモンゴルでの「高麗様」と呼ばれて流行した。

▶︎恭愍王(きょうびん)と魯国公主

 魯国公主はモンゴルの公主だったが、恭愍王反元自主国家運動を全面的に支援して、恭慰王を見守った生涯の後援者だった公主が難産の末に若くして亡くなると、恭愍王は自ら描いた公主の肖像画を前に悲しみ、食事も摂らなかった。のちに美しい陵国と影殿を建てて公主を追慕した。

 

▶︎恭愍王の自主国家運動

 隆盛を誇ったも、14世紀後半になると、各地で漢族の反乱が相次いで起き、衰退しはじめた。東アジア情勢が不安定になると、高麗の恭愍王はこのような国際情勢を利用して反元自主国家運動を推進した。親元勢力を粛清して、国土を回復し、格下げ縮小された統治機構称号を回復した。権門勢力を打倒するために、彼らの経済基盤であった不法な大土地所有を改革する一方、教育と科挙制度の改革によって新しい政治勢力を育てる努力をした。しかし、このような果敢な自主独立国家運動は、恭慰王が反対派によって殺害されると挫折してしまった。

天山大猟図、高麗の恭愍王が描いたと伝えられる。元代の画風がみられる。

▶︎新進士大夫の登場 

 高麗末期には新進士大夫(シンジンサデブ)が新しい政治勢力として登場した。彼らは地方の中小地主層の出身であり、元によって新たに導入された朱子学を学んで科挙に合格して中央政界に進出した学者・官僚勢力であった。新進土大夫は恭愍王自主国家運動を支持して、さまぎまな改革を提案して政治に参加した。だが、政治・経済の運営方針や道徳・思想に対する見解の違いによって、高麗を守ろうとする勢力と新しい王朝を建てて改革しょぅという勢力に分かれてしまった。結局、新しい国を建てようとする勢力が勝利して朝鮮を建国すると、彼らは高麗の忠臣と朝鮮の功臣に分かれてしまった。新進士大夫勢力は、国内の社会的混乱、国外の紅巾賊倭恵の侵入という、民族史の危機を克服するために重要な役割をはたした。

○近年、このように権勢のある連中が自分勝手に土地を占有して肥沃な土地をすべて自分たちの所有にし高い山と大きな河川を境界にした。そして各家から各地に派遣された非常に絞滑な監督が農民から勝手に収奪したので、その弊害がいろいろなところであらわれ、民衆は生活することができなくなり、国の根本も危うくなりました。(「高麗史」食貨志 黄順常の上疏文)1388年

○私たち臣下は、太祖がお示しになった土地を公平に分ける法を守り、後世の人々が勝手に与えたり接収したりする弊害をなくすことを願います。戦費や軍人や国役を引き受けた者でなければ土地を与えず、受けた者も自分で耕作をやめてそれを私的に貸したりできないようにする厳格な規定を立ててください。また民とともにもう一度国費を豊かにし、民生を豊かにして、朝廷の臣下を優遇して兵士を豊かに待遇してください。(「高麗史」食貨志 趙凌の上疏文)1388

■貴族文化が栄えて仏教文化が花開く

護国仏教と大蔵経・・・高麗では仏教は国家的な保護を受け、社会全般に深く横づいて発展した。高麗仏教は教宗と禅宗を統合して発展し、国家仏教、祈福仏教としての特徴を帯びていた。国家は八関会をはじめ 多くの仏教行事をよく開き、信者は香徒と呼ばれる信仰組織に加入して心の安定を求めた。そのため、全国各地に寺院が建立され仏教芸術が発展した。特に3回もつくられた大蔵経の彫板は、以後アジア各国に影響をおよぼし、現在も世界的文化財として注目されている。

▶︎八万大蔵経

 大蔵経(テジャンギョン)とは釈迦如来とその弟子の説経、戒律、論説と注釈を含んだすべての経典を集大成したものである。これを一切経ともいう。大蔵経の彫板・刊行は宋ではじまり、その後、仏教を信仰する多くの国で大蔵経が彫板・刊行された。高麗大蔵経の彫版は、「初雕大蔵経』、『続蔵経』、そしてこれら2つの大蔵経がモンゴル軍の兵火のために消失した後に、再びつくられたいわゆる『八万大蔵経」と、3回板刻・刊行された。「八万大蔵経」は印刷するのに使った経板が全部で8万1258枚であったことからつけられた名前で、現在木版は海印寺に大切に収蔵され、文化財として管理されている。八万大蔵経は、当時のすべての経典を網羅しており、校勘(同種の書籍を比較して違いを見つけて正すこと)が徹底されており、誤字がなく正確である。そのため、1942年に日本で大正新修大蔵経」が刊行される際、底本として用いられた。八万大蔵経は字体も美しく、世界的にその名前が知られ、2007年にはユネスコ世界記録遺産に登録された。

海印寺経板殿内部(慶尚南道院)   ・・・古代インドでは数え切れないほど多いという意味を8万4千という数字で表し、仏の教えを8万4千法文とも言った。「八万大蔵経」はこうした意味を込めて両面に経典を刻んだ約8万枚の経板である。

▶︎美術と工芸

 高麗の建築と芸術は主に仏教の信仰生活に密接に関わりながら発達し、貴族生活を背景に、儒学や漢文学はもちろん、工芸、書画なども盛んになった。木器には螺細技術、金属器には入綜技術、陶磁器工芸には象散技術が利用され、美しい工芸作品が数多く残され、優れた技法によって作製された仏像や仏画は文化財としての価値が高いとりわけ、現存する高麗仏画は日本に多く残っているが、表現の赦密性と流麗な文様で奥深い精神世界と神秘的な美の世界を生み出していると称賛されている。なかでも東京の浅草寺に所蔵されている「水月観音図」(一名・水滴光背)と京都の知恩院に所蔵されている「弥勤下生経変相図」が有名である。

高麗青磁の色・・・中国人は青磁の色を秘色と呼んだが、高麗ノしは自分たちの青磁の色を∃妄色と呼んで区別した。宋の太平老人は ア袖中錦二のなかで白磁は中国の定窯、青磁は高麗の召募色を天下一とした。

▶︎高麗青磁


 

 高麗は新羅土器と激海の磁器、宋の陶芸技術を総合して、半透明の淡い茹翠色の青磁を開発した。高麗青磁は繊細で柔らかい曲線の造形美を持った器の模様と、単色地の優雅な色合い、象蕨処理された柄などで、当代一番という称賛を受けた。高麗は南部海岸各地の窯で格調高い青磁を焼いて海外のいろいろな国に輸出した。現在でも高麗青磁は世界的な名品として評価されている。

▶︎建 築 

 高麗は建築技術が発達し、周辺の自然とよく調和し、洗練された美しさを持ち、簡素ながらも荘厳な建築を多く残したしかし、それらのうちで現在に伝わるものはまれである満月台(黄海通関城)の宮廷跡に部分的に残っている遺跡を通して宮殿建築の雄大な姿をうかがうことができるし、鳳停寺柿楽殴(慶尚 アンドン 7ソフサストク北道安東)浮石寺無量寿殿(慶尚北道栄川)、修徳寺大雄殿(忠清南道礼山)などによって、木造寺院建築の荘厳な美しさを味わうことができるのみである。石塔を中心とする石造建築は比較的たくさん残っている。仏国寺3層石塔を発展させた5層塔の系列と、多宝塔を発展させた多角多層塔の系列に大きく分けられる。現在、国立中央博物館(ソウル市龍山区)に移設されている開城の敬天寺10層石塔は元の文化の影響を受けたものである。

■科学と技術が発達する

○高麗の科学技術・・・高麗は伝統的な科学技術を受け継ぎ、中国やイスラムの科学技術を受け入れ、印刷術、象韻技術、火薬および武器製造術、天文学、医学などで目覚ましい発展をとげた。これは国子監で、律学、書学、算学などを教育し、科挙の試験科目に雑科をおいて各分野の技術官僚を積極的に採用して優遇した結果である。

▶︎金属活字と印刷術

 高麗では木版印刷術が非常に発達した。建国当初から開京と西京に図書館を設置し、数万冊もの珍しい本を収集・保管したので、宋からも本を見に来るほどだったこ また、学問の発展によって各種の書籍の需要が増えると、中央の大学である国子監に書籍鋪という出版所をおいて、多くの本を新たに刊行した。

国子監(こくしかん)とは、中国における隋代以降、近代以前の最高学府。 各王朝の都(長安・洛陽・開封・南京)など)に設けられた。 明代には南京と北京の二都に設けられた。

無垢清光大陀羅経・・・1966年10月、仏国寺石塔の解体修理時に舎利函のなかから発見された木版の印刷経文
木版印刷と活版印刷の違い・・・鋳造した活字を禾」侍した活版印刷は、既存の木版印刷に比べて、版をつくる要用と時間を大きく節約できるようになった点で、印刷術に画期的な進展をもたらした。また、活版印刷は木版印刷と違い、活字を再び利用して漣時、必要な本を刷ることができるという長所かあつたこ そのため、高麗後期以降、木版印刷はほとんど行われなくなった。

 12世紀末、高麗では青銅鋳造技術と製紙術が発達し、印刷に適した墨汁の開発に力を注ぎ、世界で最初に金属活字印刷術を発明して実用化した。1234年に金属活字で 「詳定古今礼文」50冊を印刷して刊行したという記録がある。しかし、この本は今日に伝わっていない:その代わりに1377年に清州の興徳寺で鋳造活字によって刊行された「白雲和尚抄録仏祖・直指心体要節」が世界最古の金属活字の印刷本として広く認められている。フランスのパリで発見されたこの本は、西洋最古の金属活字本とされるドイツのグーテンベルクの印刷物よりも約70年前に刊行されたものだった

▶︎象嵌技術

 象嵌は陶土や金属、木材などの表面にさまざまな模様を彫り、そのなかに金・銀・宝石・貝殻・骨、あるいは色彩を持った土など、いろいろな材料を打ちこむ工芸技法である。

 高麗は古代ヨーロッパではじめて開発された象蕨技術を、中国を通して受け入れた後、真珠や光輝く貝殻を象嵌材料に利用した螺細漆器や青磁に白土や磁土で模様を入れた象嵌青磁を開発して独自の様式に発展させた

▶︎天文学と医学

 高麗は司天台(書雲観)を設置して天文を観測して、暦法を研究した。高麗人が残した日食、彗星、太陽の黒点などに関する観測記録は、その内容も非常に豊かで、当時この分野で最も進んでいたイスラム文明の記録と比較できるほど優れたものとして評価されている。また、後期には元がイスラムの暦法を受け入れてつくった授時暦採用して、その理論と計算法を十分に活用した。医学の発展も著しかった。高麗は太医監で医学教育を行って、科挙試験に医科をおいて医学の発展を促した。こうして高麗は実情にあった自主的な医薬体系を樹立して、国産の薬剤を利用した独自の処方を盛り込んだ「郷葉救急方」など多くの医書を編纂した。

▶︎火薬と火砲

 高麗末、韓半島の海岸地帯には倭冠が出没して、民衆から略奪を繰り返した。そこで高麗は倭冠を掃討する対策として、火薬を製造していろいろ火砲を作った。火薬を最初に使ったのは中国だった。その製造技術は極秘事項だったので、秘密の方法を知るのは非常に難しかった。崔茂宣(チェムソン)は高麗に出入りする中国人から少しずつ聞いて、自ら独自に研究をしてついに火薬を製造した。彼は政府に建議して火樋都監を設置し火薬と各種の火砲を開発した。砲は倭冠を撃退するのに大きな効果を発揮し、倭冠掃討の決定的なきっかけになった全羅道珍浦の戦闘でも、火砲が倭船を撃破するのに重要な役割をはたした。

▶︎農業技術と綿布

 韓民族は、早くは三国時代から全国各地に貯水池をつくり、牛耕による深耕法を普及させ、農業生産額を増大させていた。高麗時代に入っても農業技術の発達は続いた。とくに高麗後期には施肥法と潅漑法が一段と発達して、地力の消耗によって数年に1度は農業を休まなければならなかった休耕田が大きく減少した。また、中国から綿花を取り入れて木綿栽培に成功し、糸を紡ぐ技術や反物を織る技術が新しく開発されて、庶民の生活に大きな変化をもたらした。寒い冬にも苧(からむし)の服や麻の服を着ていた庶民が、綿を入れた暖かい木綿の服を着るようになったことは、衣生活の革命的な変化だった。綿布は船の帆をつくるのにも活用され、海運業を大きく発展させるきっかけになった。

■侵入する倭冠を駆逐し武将勢力が成長する

倭寇・・・倭寇は、13世紀から16世紀にかけて、我が国と中国の沿岸を略奪した日本人の海賊の総称である。2度の麗蒙連合軍による日本侵攻と57年にわたる日本の南北朝の戦乱によって、中央政権の統治権が地方に及ばない時期に、地方の没落武士・農民が盗賊集団となって、略奪を生業にするようになって発生した。はじめは物資が不足して飢饉に陥った対馬島、隠岐、松浦などの人々が中心だった。しだいに生計のための海賊から海賊を仕事とする軍団に発展し、地方領主層の保護と統制のもとで活動する専門的な略奪集団になった。

▶︎倭冠の侵入

 倭冠が頻繁に出没するようになったのは14世紀中盤頃からだった。以後、侵略は頻繁で激しくなったこ恭愍王(きょうびんおう)9年(1360)には開京に近い江華島まで侵入し、全国の海岸はもちろん、河川を遡って内陸深くまで入って来て略奪を行った。禑(ウ)王(1374〜1388)の時には侵略回数が1年平均27回に達するほどその被害は激しかった。侵入した倭冠は、放火や殺人を繰り返したが、最も重要な略奪の対象米穀と人であった。米穀を略奪するため、租税の米穀を積んだ漕運胎を襲撃し、漕倉を攻撃し、捕虜として捕らえた人々を奴隷市場に売り払った。高麗末期の10数年におよぶ倭冠の侵入は深刻な被害をもたらし、国家財政が破綻する主な原因の1つになり、島々や沿岸地帯は人が住める場所ではなくなった。倭冠の侵入は朝鮮が建国した後も続いたが、世宗の時代に李従茂将軍が対馬を討ち、日本の国内情勢が安定したことで減少しはじめた。

 

▶︎新興武将勢力の台頭

 倭冠と紅巾賊の侵入のために、高麗政府が推進した反元政策と内政改革はなかなか進まなかったが、その反面、これらを撃退する過程で新しい武将勢力がにわかに台頭した。崔宝と李成桂(イソンゲ)がその代表的な人物である。崔宝は貧しい弱小家門の出身だったが、抜きん出た武芸で反乱勢力を制圧し、恭愍王(きょうびんおう)を助けて宰相の地位にまで昇りつめた李成桂もやはり新興武将で、紅巾賊が開京に侵入した際に恭愍王を救うために部隊を率いて一番早く到着した。恭愍王の晩年、新進士大夫出身の李桔(イセク)と並んで宰相となり、倭冠との戦闘で連戦連勝して、全国に李成桂の名前を轟かせた。彼は新興の士大夫の支持を受けて、高麗社会の変化を主導するリーダーになった

荒山(ファサン)大捷・・・高麗の禑(ウ)6年(1380)に500隻の大船団を率いて侵入した倭蓮は、錦江河口の鎮浦を経て全羅道の西南海岸を揉潤し、内陸部に上陸して略奪行為をはたらいた。高麗軍は、彼らが乗ってきた船を攻撃しことごとく焼き払ったが、退路を絶たれた倭冠はむしろ大きな勢力になって抗戦を続けた。そこで李成桂は大討伐作戦を立てて南原に近い荒山で大勝利を収めた。倭冠はわずかに70人だけ生き残って逃げ去ったという。

紅巾賊・・・紅巾賊は、元の末期に中国の河北省一帯でおこつた漢族反乱軍の一つであり、高麗に2度侵入した。倭寇のように長期にわたつて全国的に侵入することはなかつたが、その被害は大きかった。開京の宮殿は全焼し、恭愍王(きょうびんおう)は2年間安東に避難した。