北川民次

■北川民次の絵画・・・メキシコ時代を中心に

村田真宏 

 画家、北川民次(1894−1989)にとって、ニューヨークで劇場の背景を制作する職人として働きながら画学生として過ごしたアメリカ時代、そしてトラルパムやタスコの野外美術学校で児童美術教育の実践に携わりながら、自らの作風の確立に取り組んだメキシコ時代は、彼の制作活動の基盤を形成し、またその絵画の独自性を獲得した重要な時代と考えられる。そこで本稿では、今回の展覧会に向けての調査活動を通じて明らかになったことを織りまぜながら、この時代の北川の制作活動を中心に検討を進める。そのうえで、帰国後の制作の展開とその特徴、また、彼の画業の評価についても紙幅の許される範囲で言及することとしたい。

後期印象派やフォーヴィスムの影響を受けた作品を発表していた期間とも重なっている。そして彼が日本を離れる半年ほど前の1914年3月には、斎藤佳三、山田耕作がドイツのシュトゥルム画廊から委託を受けて日本に持ち帰った未来派、キュビスム、表現主義の版画作品を紹介する展覧会が開催され若き美術家たちの注目を集めた。北川は、このような二十世紀初頭の新しい美術動向が紹介され、またそれに刺激を受けた日本の美術家たちの作品が発表されるような環境のなかで東京での数年間(1910年から1914年)を過ごしたのである

■東京時代

 北川民次は、それまで在学していた早稲田大学予科を中退し、1914年20歳に実兄を頼ってアメリカに渡った。渡米以前、彼が日本でのどのような美術動向に関心を寄せていたのか、あるいは実際にどのような制作をしていたのか、それを明らかにすることばかなり困難なことである。ただ、そのことを推測できる手がかりとして、早稲田予科在学当時の彼の写真がある(下図左)。

 この写真には帽子を被り、詰め襟服を着てタバコを手にする、いささか気取った若き北川の姿が記録されている。ここで注目しておきたいのは、彼の背後に掲げられている二点の作品である。一つはキュビスムや未来派の影響を推測させる素描作品で、その相貌の特徴から北川を描いたもの、あるいは自画像とも思われるものである。今一つはやはり人物を描いたもので、これはフォーヴィスム、あるいは表現主義の影響を受けたような特徴を示している。今となっては、この二点の作品が北川自身の筆になるものか、あるいは他の老の筆になるものかを特定することはできない。しかし、この小さな手がかりから、彼が当時の日本の美術界としては最も新しい動向を示す前衛的な傾向の美術と身近に接していたことを確認することができる。挿図1早稲田予科在学中の北川 北川は、この東京時代に椿貞雄に会ったことがあるようで、それが事実であれば、この頃、椿が熱心であった後期印象派の絵画について話を聞かされたことであろう。また、北川が東京にいた時期は、フユウザン会が

▶︎アメリカ時代・・・アートステユーデンツ・リーグに学ぶ

 

 北川民次の画家としての経歴の初期の重要な事項として「アートステユーデンツ・リーグでジョン・スローンに学んだ」ということが必ず触れられてきた。しかしながら、このことに関する画家自身の記述はかなり曖昧なものであり、これまでは、その事実の確認すら行われず、ただ漠然とその経歴に加えてきた。一例を示すと「(前略)それから十年間、ニューヨークでヤスオ・クニヨシ(国吉康雄)などと同じ学校で絵を勉強し、当時のルノワール派であった彼とセザンヌ崇拝の私とはたびたび激論を交わしたりしたが、まだ私は画家の卵にもなっていない。(後略)」とあるように、正確な在籍期間などの詳細については不明であった。

 ただ、このような記述から、彼はかなり長期にわたって同校に通っていたと考えられていたにすぎなかった。現在、北川民次に関する資料でアートステユーデンツ・リーグに保管されているのは、受講料の納付カードである。この残された二枚のカードによって、彼の同校在籍期間と受講していた科目について正確に把握することができる(上図右)。同校は、北川が通った当時から画塾として運営されており、受講者は、年ごとに開講される科目を選択して、その受講料のみを払い込むシステムとなっていた。つまり、同校は一定期間の在籍と成績を条件に卒業を認定するという学校の制度はもっていなかった。従って、在籍についてはきわめて自由な画塾であり、学籍簿や成績記録といったものも存在しない。この受講料納付カードが各受講生について同校が保管している統一的な唯一の記録である。

 北川民次の受講料納付カードは二枚保管されている。第一は1918年24歳から1919年25歳にかけてのもの、第二は1919年25歳から1920年26歳にかけてのものである。これも授業内容の詳細は不明であるが、〈Life〉とは人をモデルにすることを意味しており、人体デッサンを実習しながら、絵画の構図についても教授するという絵画制作の基礎的な内容のものであったと推定できる。彼自身も「主として私が学校で教わったのは教師はジョン・スローン先生で、裸体とコンポジションをやったが、其の他、ブリッジマン氏という其の道の老大家からアナトミー(解剖学)も学んだ」と語っており、人体デッサンを主としたものであった。また、ここでブリッジマンの解剖学に触れているが、これは同受講案内書によればジョージ・カッジマン(George B. Bridgman)による美術解剖学の講義で北川が在籍した両シーズンともに開講されており、彼はこの科目を聴講していたのであろう。

  このように過ごしたニューヨーク時代は、それでは後の画家、北川民次にとってどのような意味をもったのであろうか。ここに、その幾つかを指摘しておくことにしたいcまず、第一は、アート・ステユーデンツ・リーグの師であつたジョン・スローンをはじめ、同校の受講料納付カードで、北川と在籍期間が重なってし、国吉康雄や清水登之といった当時交友した日本人の画学生仲間から受け取ったものである。ジョン・スローンのアメリカ美術史上での位置づけは、それ以前のアメリカ絵画が描こうとしてこなかった都市の情景や、そこで生活する民衆の姿を積極的に掛1た画家の一人であるということである。スローンがその一員であったグループ『ジ・エイト』の美術家たちは、絵画を現実に近いものに、つまりそれまでは描くに値しないものとされてきた都市や民衆などを積極的に描いて、いわば絵画を純粋に造形的な美術の世界から、社会の中に引きずり込んでしまった。彼らが、街角の余りにもありふれた取るに足りない情景を描いたことから、当時の人々は、「ジ・エイト」の美術家たちを〈ゴミバケツ派〉とあだ名したほどであった。北川がニューヨーク時代に身につけたことの第一はスローンからの影響や、労働者としての自身の生活体験、あるいは国吉や清水たち画学生仲間との議論などを通して、社会や民衆の側に立つという視点を形成し、美術を社会との関係においてとらえ、それをつねに意識しながら制作を展開していくという姿勢である。

 

◉樹木の描写にみられるセザンヌ的な筆触の効果と、教会の正面にあたる光とその拡散の様子を描くことを目ざして制作した作品であろう。教会とその前の樹木、そして点景としての幾人かの人物という限られたモティーフによる簡明な構成の作品であり、画家が素直にこの課題に取り組んでいたことがわかる。この作品も《やしの木のある風景≫と同じくルーレ家の一族から世に出されたものである。竹田鎮三郎氏によれば、署名等の記載のない作品ではあるが、北川の作品であるということがルーレ家内ではっきりと伝えられていたとのことである。 作品の制作時期は、従来1923年頃とされてきたが、この時期の基準となる作例の確認ができないこともあり、彼がメキシコ市に落ち着いて本格的に制作をはじめた1923年から1924年頃と考えるのが妥当と思われる。

 つぎに、北川自身も語っているとおり、この時期にアメリカに紹介されたヨーロッパ美術の動向、またアメリカの新しい美術動向を目の当たりにしたことである。彼はこの時代に、セザンヌの絵画から強い刺激を受けたことを語っている(上図左右) 事実、メキシコ時代の比較的初期には、その筆触の効果を意識した作品などを残している。しかし、メキシコ時代の作品を検討すると、彼が制作のうえで意識していたのはセザンヌのみにとどまらず、色面によって画面を構成するというゴーギャンの影響なども指摘することができる。おそらく彼は、後期印象派はもちろんのこと、二十世紀初頭のヨーロッパとアメリカの美術動向に、かなり強い関心と理解をこのニューヨーク時代に培っていったと思われる。北川がニューヨークで生活していた時期は、ジョン・スローン等の活動はもちろん、アメリカ現代美術成立の発端となったとされる〈アーモリー・ショー〉も1913年に既に開催されていた

 この展覧会ではフォーヴィスムやキュビスムなど当時のヨーロッパとアメリカの新しい美術が大量に紹介され、これを一つのエポックとしてアメリカの美術界は大きな変革期を迎えていたのである。国吉康雄や清水登之は、そのようなアメリカの新しい美術状況のなかで画家としての活動を展開していこうとしていた。北川自身もそのような空気を肌で感じていたはずである。そして、それは渡米以前に彼が日本で接していたであろう美術状況とも連続性をもつものであった。

 今一つ重要なことは、彼はこの時代にフロイトの心理学を読書を主として学び、また同時に、後年メキシコで実際に指導することになる児童画にも接していたことである。これは彼がメキシコに渡ってからの野外美術学校での教育実践の基本的な土壌となったと思われる。彼の野外美術学校での教育法は、彼自身の考え方や技術的なことを一方的に押しつけるのではなく、生徒たちに自由に制作させるなかで、彼らの心理状態までを洞察しながら適切な助言をすることを特徴としていた。それは、彼がニューヨーク時代に、ただ絵画だけを学んだだけでなく、フロイトを通じて研究した心理学、また、すでにこの頃、児童画を研究している友人から作品を見せられ説明を受けていたことなどが役だっていたように思われるのである。

 最後にもう一つ忘れてはならないことは、彼が二十歳代の多感な青春時代を長期にわたってアメリカで、とりわけニューヨークで過ごしたということそのものである。当時のニューヨークは、世界でも最も近代化の進んだ都市の一つであり、彼はそこで、この二十世紀初頭の近代社会そのものを実感していた。つまり、彼は、日本での渡米以前の環境も含めて、近代的な知識人として人格を形成し、その後にメキシコに渡ったのである。この北川が身につけた近代性、また労働組合活動などを通じて培った民主主義的な考え方や姿勢は、メキシコでの彼の活動に、また帰国後の彼の美術家としての生き方に少なからぬ影を落としたということができる。一例をあげれば、彼のメキシコ時代、トラルパムやタスコの野外美術学校で農民をはじめとする一般民衆の子供たちに絵を教える一方で、アメリカ人とも盛んに交流をもち、自らも1930年にはニューヨークで個展を開くなど、つねにこの近代的な都市文明への窓を開けつづけていた。そしてメキシコ時代の最後の時期には、自らの作品でも社会の近代化のなかで引き起こされる伝統との葛藤を主題とした作品を残している。彼がこのような視点をもつに至った重要な背景として、彼にはつねにアメリカが意識されていたということを指摘することができる。彼はアメリカでの生活を通じて、近代的な知識人として自己を形成していったのである

■メキシコ時代

▶︎メキシコ美術界のなかで

 北川民次のメキシコ時代の活動について、トラルパムとタスコの野外美術学校での美術教育の実践については本人の著述や、当時の生徒たちの証言などによって、かなり具体的にとらえることが従来から可能であった。しかし、画家としての活動については、幾度かの個展開催の事実や、残された当時の断片的な作品からその活動内容を推定するにとどまっていた。特に、当時のメキシコ美術界で彼がどのような位置を得ていたのかということについては、かなり曖昧なかたちでしか捉えられなかった。今回の展覧会に向けての調査で、1928年から1929年にかけて北川が『30−30!』という美術グループに参加し、継続してこのグループの展覧会に出品していたことを確認することができた。これは彼が参加していた野外美術学校に関係した美術家たちが中心になって結成したグループである。この事実などが手がかりとなって、彼の当時のメキシコ美術界での立場をある程度具体的に把握できるようになった。また近年の関係者の努力によってメキシコ時代の作品が次々と確認され、彼が本格的に制作を始めた1925年頃から後のメキシコでの制作をかなり詳細に具体的な作例によってあとづけることが可能となった。ここでは、彼のメキシコ美術界での立場にも言及しながら、その制作活動の展開について検討を進めていくことにしたい。

 

 1910年に始まったメキシコ革命の展開のなかで、美術の分野でもメキシコ固有の民族主義を形成するための運動が繰り広げられた。それを代表するのは1921年からオロスコ、リベラ、シケイロスらによって展開された壁画運動である。それは美術家たちが、メキシコに新しい真の意味での国民意識を形成するために、民族主義的な立場からの発言とその啓蒙の場を壁画に見いだし、圧倒的なスケールとエネルギーで具体化してみせた美術運動であった。

 それは革命の思想を反映させた運動というにとどまらず、むしろ革命そのものを推し進めた文化的、精神的な運動であった。なお、この時代のメキシコ美術界の状況については、このカタログ所収の「北川民次メキシコ滞在期の改革派の美術家たち」を参照していただきたい。

 この革命後の民族主義的な立場からの美術の分野における活動のなかで壁画運動とは別の教育実践活動が展開された。それが北川民次が参加した野外美術学校運動であった。この野外美術学校運動の主導者は、アルフレド・ラモス・マルティネスであった。彼は革命期の国立美術学校(通称:サン・カルロス)で保守的な教師陣に対して不満をもつ学生の側に立ち、改革派教師の代表として革命直後の1911年に同校副校長、1913年には校長となった人物である。彼は校長となった1913年に、教育改革の試みとして、同校の学生を中心としてサンタ・アニタ・イスタパラパに初めての野外美術学校を開いた

 これが野外美術学校運動の始まりであった。その後、彼の手による野外美術学校はチマリスタック、コヨアカンへと移って拡大発展させられ、1924年にはチエルブスコ旧僧院へと移されていた。北川民次が国立美術学校での短い在学期間の後に、約一年ほど画学生として生活しながら本格的に制作に取り組んだのが、このチュルブスコ旧僧院「芸術家の家」と呼ばれた野外美術学校であった。国立美術学校校長が自らの手で、美術学校のカリキュラムに束縛されないで画学生たちが自由に学ぶことのできる場として開設したのが野外美術学校であった。この先駆的な事業を、より民衆の側に立って、農民をはじめとする一般民衆の子供たちに美術教育を受ける機会を提供し、民族主義的な意識を形成するための民衆啓蒙的な運動として展開させたのが、北川自身も参加した1925年からの第二段階の野外美術学校運動であった。

 このラモス・マルティネスに支えられた新しい野外美術学校運動に、その初期段階でかかわった主要な人物たちとは、やがて北川民次を助手として呼ぶこととなるトラルパム野外美術学校校長となったフランシスコ・ディアス・デ・レオンをはじめ、フェルミン・レプエルタス、ラフアユル・ベラ・デ・コルドバ、ガブリエル・フェルナンデス・レデスマ、フエルナンド・レアル等であった。彼らに共通するのは、野外美術学校の初期の段階、具体的にはコヨアカンの野外美術学校に関係した経歴をもち、ラモス・マルティネスに教えを受けたことがあり、かつ彼に近い者たちであったこと。そして彼らは革命の思想に共鳴し、シケイロスたちが1922年に結成した「革命的技能労働者、画家、版画家、彫刻家組合」に参加していた。ただし、世代的には壁画派の主要メンバーとはかなり隔たっており、壁画派の美術家たちが〈革命を生み出した世代〉であるとすれば、彼らは〈革命から生まれた世代〉であつた。つまり、大きくとらえれば改革派に属した美術家たちであり、彼らがもう一つの民族主義的な立場からの民衆啓蒙の実践として野外美術学校運動を展開していったのである。

 

 北川民次の当時の野外美術学校派での立場と美術家としての具体的な活動を物語るのが、彼のトラルパム時代である1928年に結成された美術家グループ『i30−30!』への参加の仕方である。このグループは先にあげた野外美術学校派の北川の先輩たちが中心となって結成したもので、自らを〈メキシコ革命芸術家〉と称して、革命に反対する勢力に対してポスター等を通じて盛んに抗議の意思表示を行い、また、美術を大衆化する試みとして版画に着目して、1928年から1930年にかけて現在確認できる範囲ではメキシコ各地で都合八回の展覧会を開催している。北川はその展覧会のうち四回に版画作品を出品している。

 「メキシコにおいて革命的芸術家とは何かそれは民衆の権利回復のための運動に積極的に参加しながら、“芸術活動を通じで’この運動に役立とうと努めている者である。どのような類の芸術作品が、民衆の闘争に、彼らの権利回復のために、役だっているものと評価されうるのであろうか。革命的芸術家とは、民衆のものの考え方を隷属的にさせる傾向のある植民地主義的な教育から、人々の審美眼を解放するために美的に貢献する者であり、またさらに、この役割を果すことによって、大衆に直接語りかけるような類の作品を蘇らせ、そして、倫理的に大衆の闘争を鼓舞し、民衆が待ち望む新しい秩序を弁証法的に描き出すことによって大衆の組織に奉任する者である。」

 これは自分たち〈革命的芸術家〉がいかなる者であるかを表明し、その思想に基づいて野外美術学校運動を展開していることの正当性を主張していると受け取ってよいものであるが、この引用した文を掲載したポスターには北川自身も同盟者としてその名を連ねている。

 ところで、このグループにおける北川自身の立場であるが、それは決して中心的な存在ではなかった。それは現在確認できるこのグループのポスター(宣言文や抗議文)に、先にあげた結成メンバーたちは多くの木版画などを提供し、具体的に目に見えるかたちで活動に参加しているが、彼はこのグループに対してそのような関わり方はしていない。また、自身がこれまでメキシコでの活動を語った時に、このグループへの参加については全く触れていないことなどが暗に物語っているように、彼はこのグループでは一般的な同盟者の一人として、野外美術学校派の美術家たちに加わって展覧会に出品していたのである。それは、とりもなおさず彼の野外美術学校派のなかでの、ひいてはメキシコ美術界での位置を浮き彫りにしている。

 当時の彼の状況を考えるうえで、もう一つ参考となる資料がある。それはこの野外美術学校派のなかでも指導的な役割を果したレデスマによって1926年に創刊、主宰されていた美術文化雑誌『フォルマ』である。この雑誌の第7号(1928年刊)で「メキシコの日本人画家」というタイトルのもとに、北川民次が八点の作品図版とディアス・デ・レオンの紹介文に略歴を添えて紹介されている。この事実は、1925年にトラルパム野外美術学校にディアス・デ・レオンの助手として呼ばれて数年を経た1928年頃になって、彼はようやく野外美術学校派の一員として、また一人のメキシコの美術家として認知されたということを推測させる。つまりこの時期、彼はその存在を野外美術学校派を中心とするメキシコの美術家たちに認められたのである。翌1929年には、国立芸術宮殿のギャラリーでメキシコでの二回目の個展を開催している。これは1923年に開いた一回目の個展とは全く異なって、文部大臣、大学総長や日本公使も列席するという本格的な扱いを受けた個展であり、彼は1928年34歳・前後の時期に、メキシコにおける日本人画家として認められ、本格的な活動を展開しはじめたということができる。

 

■ 独自のリアリズム絵画へ

 北川はこの1927年から1928年 34歳頃、その作風にも大きな変化を見せた。これは、北川の絵画を知るうえで最も重要なことと思われる。そこでまず、彼のこの時期以前の作品を見ておくことにしたい。彼は1921年にメキシコに入って1923年までの初めの数年間は、メキシコ市で給仕として働いたり、聖画商人としてメキシコ各地を放浪したりして過ごしていた。そして1923年にメキシコ市に戻ると、当地で初めての個展を開催している。残念ながらこの時の個展の内容や、あるいはこの時期の基準作例が確認できず、当時の彼の制作を明らかにすることはできない。この時期の北川は、1921年にアメリカからメキシコに渡る途中で立ち寄ったキューバでの制作と推定できる《やしの木のある風景》(cat.no.1)に見られるような、ゴーギャンの色面の効果、あるいはセザンヌの筆触といった後期印象派の絵画から断片的な影響を受けたような作品を描いていたと思われる。

 

◉やしの木のある風景 1921(大正10)年頃個人蔵・・・・北川の作品として確認できる最も初期のものと考えられる。竹田鎮三郎氏によれば、この作品は、北川民次が1924年頃に住み込んで給仕として働いていたルーレ家の一族が所有していたとのことである。北川はチエルブスコ旧僧院「芸術家の家」で画学生として過ごす以前に、ルーレ家の長男パンチョの部屋に壁画を描いたことが記録されている。また、《チュルブスコのコンペント回廊≫教会≫という初期の作品も、もとはこの一族が所有していたもので、この作品の来歴としては信頼にたるものである。

 作品は、確認時には枠から離されてカンヴァスが折り畳まれていたとのことで、保存状態に問題があり既に裏打を含めた修復がなされている。裏打の布を透して確認可能な作品裏面の記載は「CERRO DEL AUE.」それは「AUEの丘」ということであるが、現時点では「AUE」の意味を明らかにすることはできない。また、併せて漢字で「北川」の文字を確認することができる。

 この作品の制作時期であるが、北川の自著『メキシコの青春』にキューバでの制作を回想して「私は海岸にちかい街に、気にいった画題を見つけて、毎日そこへ描きにかよった。そのへんは南国ふうの、はでなペンキぬりの家が雑然としていて、高い椰子の木がしげり、その樹聞から紺碧の海がのぞいているという、いわばおあつらえむきの南方風景であった。」と記述しており、その内容はこの風景画に描かれた光景と符合するようである。この作品に描かれたような海岸部の風景を描く可能性は、彼が聖画商人としてメキシコ各地を訪れた時にもあるが、この時期の作品を発表したと思われる1923年29歳のメキシコ市での初めての個展の内容がまったく不明であり、比較検討する作例もないので現時点ではキューバでの制作と推定しておく。

 この作品では、後期印象派の画家たちの影響を指摘することができる。椰子の木の向こうに広がる遠景部分などにはゴーギャンを想わせるような色面による処理を見せ、また、手前の土の部分や画面左寄りの樹木の表現などにはセザンヌ的な筆触や形態把握の試みを指摘することができる。おそらく北川はニューヨーク時代に接したセザンヌやゴーギャンなどの後期印象派の近代的な造形を、初歩的ではあるとしても自分なりに制作に活かそうとしていたと思われる。

 1923年29歳以降メキシコ市に落ち着いて、国立美術学校への短期間の在学から、チュルブスコを経てトラルパム時代のはじめ頃(1924年30歳から1926年32歳頃)の制作と推定できる作品群からは、いくつかの傾向を見いだすことができる。まず一つは《チエルブスコのコンペント回廊》《教会》に見られるような、線遠近法的な奥行きのある空間の再現や、あるいは光の拡散の様子などを、穏健な写実によって描こうとしたものである。このような傾向がどこから出てきたのか不明ではあるが、あるいは北川が短期間在学した国立美術学校のなかで、改革派に属する教授たちが去った後に残された古いタイプの絵画を教える教授の指導を受けたことにその背景があったのかも知れない。また、それが一つの要因となって、つまり国立美術学校では自分の求める新しい絵画を学ぶことができないことが、彼をチュルブスコ旧僧院へ向かわせたのかも知れない。そしてこの時期からトラルパム時代のはじめ頃、即ち1925年から1926年頃には、既に《教会》の樹木の表現に見られたように、そして《メキシコ風景(トラルパムヘの道)》や《インディオの老婦人≫(下図左)のような、セザンヌ的な筆触の効果を意識したいくつかの作品を見いだすことができる。しかしこれらの作品は、セザンヌからの直接的な影響を示すものではなく、むしろセザンヌの絵画などを参考にしながらも、彼が何か自分自身のオリジナルな表現を模索していたことを物語っているように思われる。やがて彼は新しい絵画表現の開拓に、その課題をはっきりと意識して取り組むようになった。そのことを象徴的に物語る一つの作品がある。それは野外美術学校の生徒であったフエルナンド・レエスが描いた《女の像(下図右)である。

 北川はこの作品のカンヴァス裏面に「此画墨国少年フエルナンド・レエスノ描ク所 我家ニテー生の手本トナス」と書き込み、この作品を生涯自分のアトリエに掲げつづけた。その書き込みの日付は「1927年4月1日」つまり1927年4月1日とされている。北川は、この時期に〈一生ノ手本〉と書き込むほどの何かをこの作品に見いだし、それをその後の絵画制作の原点としたのである。それはおそらくこの作品にも端的に見られるような、描く対象を単に視覚を中心として感覚的に観察し捉えるのではなく、むしろ自分の経験をもとに〈知ったものを描く〉という児童画がもつ一つの特質にヒントを見いだしたということであろう。それは、対象(描くもの)についての画家の〈認識〉をもとに、これを絵画表現として定着させようとすることであった。ここで認識とは、単に視覚や触覚といった感覚でとらえられるものだけにとどまらず、その事物に対する描く側の経験にもとづく感情や価値観などをも含めたものという意味である。この取り組みは、単純に児童画のようなプリミティヴな絵画へ向かうということではなく、画家がもっている認識をもとに描くということを、いかにして当代の新しい絵画表現として確立させるかということへの挑戦であった。彼が掲げた課題は、後期印象派の後を受けて新しいリアリズム表現とは何かという問題に取り組み、その可能性を切り拓こうとした今世紀前半の具象絵画における美術史上の課題とも正しく重なるものであった。彼は自身の制作の目標をここに見定めた。確かにこの時期に北川の絵画表現は大きく変貌をとげている。

 

 とりわけ《ロバ≫は、その傾向がはっきりと示された作品ということができる。ここに描かれたロバは、目でみて観察された描くための対象ではなく、北川が日常的に接して知っている、メキシコの人々の生活や労働のパートナーとして生きている動物としてとらえられている。この《ロバ≫は、先に紹介した『フォルマ』の北川に関する記事の扉に掲載された作品でもある。また、この時期の彼の絵画には、この作品をはじめとして《本を読む労働者≫(8)《トラルパムにて》(上図)などに、ゴーギャンを想わせる色面を重視した画面構成が試みられるようになった。また独特の厚塗りの絵肌が《本を読む労働者》や《ロバ》には見られるようになったことも併せて指摘することができる。この時期、北川はその後を決定づける画家としての課題をはっきりと自覚し、それ以前のいわば自らの課題を模索していた段階を脱して、今度はこの課題をいかに彼にとって現代美術として成立させるかという、新しいリアリズム表現の追究へと自らのステージを移したのである。そして、その初期の試みのなかでは、《水浴》(12)に見られる植物の形や人の顔を類型化して描くような、かなりプリミティヴな絵画表現へと一時的な接近を見せてもいるのである。

◉トラルパム霊園のお祭り 1930(昭和5)年 名古屋市美術館・・・北川民次のトラルパム時代の制作を代表する重要な作品である。教会のある丘には人生にまつわるさまざまな場面を見ることができる。手前に大きく描かれている集団は赤ん坊を抱いた女性を囲んで、皆でこれから教会へと洗礼に向かうのであろう。それとは対称的に橋を渡って墓地へと向かう、小さな棺を頭上に掲げる男と多くの人たち。その橋の下、流れの中では水浴の娘たちが健康な生命の輝きを見せている。教会近くの家並みでは人々の日常の生活が見られる。この作品では、人間の生と死が際だったかたちで向かい合うように描かれている。そして、人間の一生を絵巻のように見ることもできるように構成されていて、北川が生と死、人生といったテーマを一つの作品に表現しようとして初めて取り組んだ、本格的な構想画ということができる。ここに描かれた風景は、そのままに現実にあるものではなく、各々のモティーフを寄せ集めて構成されたものである。画面に大きく描かれた赤ん坊を連れた集団には、右から二人目に妻の鉄野が描き込まれてしる。彼は1929年11月に鉄野と結婚し、この作品弓完成させた年には長女、多美子が誕生している。彼はこの自らの人生の記念となる幸福なできごとの契機としてこの作品を描いたのであろう。トラルノム時代の野外美術学校の生徒であったマヌエルェチャウリ氏によれば、北川はこの作品をずいぶん時間をかけて制作したとのことである。

 北川は、在メキシコ日本公使の家庭教師としてメキシコに生活していた二宮鉄野と1929年35歳に結婚した。そして翌年には長女、多美子が誕生している。彼はこれを契機に《トラルパム霊園のお祭り》を制作し、この作品で〈生と死〉、あるいは〈人間の一生〉を主題とした構想画に取り組み、自身にとっては新しい絵画表現にも制作領域を広げていった。また、この年には《踊る人たち≫(下図)という、彼としては珍しくメキシコの人々の風俗そのものを描いた作品を制作している。

 この二点の作品に共通するのは、画面をいくつかに分割するようにして、種々のモティーフを集めて画面を構成し、そこに何か物語を暗示するような方法である。特に《トラルパム霊園のお祭り≫は、誕生の祝福と、死の葬送を対極として、その間に人々の日常の生活や女性たちの健康な水浴の姿などを描いて、人間の一生を絵巻物でも見るかのように展開させている。当時の北川は、リベラやオロスコ、シケイロスらの壁画がもつ強い表現力とその社会的な影響力に関心を寄せていたことであろう。それは、後年の彼らに関する記述からも知ることができる。しかし、彼は壁画派とは異なる野外美術学校派に属していたし、彼ら壁画派とは世代的にも隔たりがあり、メキシコでは壁画を描く機会など望むべくもなかった。そのような状況のなかで、この作品は彼らの壁画に見られる物語性や構想力を意識しながらも、それを直接に取り入れるのではなく、日本人画家である北川民次の独創性を打ち出そうとする試みであった。

▶︎日本人画家として

 北川は1932年、トラルパムから野外美術学校の校長としてタスコに移り住んだ。それは野外美術学校運動が終焉に向かいはじめていた頃ではあったが、彼は一校の運営を任されるまでになった。このことは、彼が外国人としては、当時のメキシコ美術界で特別に評価され、広い意味での革命運動への参加を許容されていた事実を物語るものであり、彼がメキシコ社会と美術界に活動の根を張っていたということを忘れる訳にはいかない。しかし、北川はメキシコ人画家ではなかった。彼は、トラルパム時代の後半、すでに《トラルパム霊園のお祭り≫でも言及したように日本的なものを意識して制作をはじめていた。

 これ以降、彼は日本の浮世絵にヒントを得たと思われる《画家の肖像》(上図)、また1932年38歳から1933年39歳にかけて滞在した藤田嗣治の影響をうかがわせるような《水浴》(下図)《インディオの姉弟》などに見られるような、線による表現を意識した、当時のメキシコにおいてはかなりエキゾチックな東洋的な絵画表現を試みるようになっていった。

◉水浴 1932(昭和7)年個人蔵 これに先立って制作された《水浴≫二点とは、また傾向の異なるものである。二人の女性は、円く描かれた水の中に立ち、背後の樹木は適当な高さに切られて一列に並び、この二人の人物を浮き立たせるように配置されている。全体は非現実的な絵画空間として設定されている。人物の目は写楽の浮世絵にみられるような特異な形に描かれて、不思議な表情をしており、右側の大きく描かれた女性の髪の毛などは、片側が剃り取られたようになっていて、この作品には画家の意図を理解しきれないものがある。そして人物の肌の白、その輪郭を描く細い線などには、この年の11月にメキシコを訪問し、12月には、45点の作品によってメキシコ市で個展を開いた藤田嗣治の影響が早くも現れている可能性を指摘することができる。

 これは《メキシコ柳》(下図左)という、モティーフの選択や、抽象的な空間に事物を浮かび上がらせるような表現の、いかにも東洋的な絵画を描いた1934年頃まで続いた特徴であった。

 それは、彼が日本人画家でありながら、革命後のメキシコにおける民族主義的な美術運動である野外美術学校の活動に参画しているという、その複雑な立場の反映だったのであろう。また、当時はアメリカ人観光客がメキシコの記念として求めることに応えるかのように水墨による作品を盛んに描いており、彼はメキシコの日本人画家としても振る舞わねばならなかったようである。そのためか北川はメキシコ時代を通じて、リベラやオロスコ、シケイロスに代表される壁画運動のような、当時のメキシコ美術界をリードしていた民族主義的な絵画を、主題の選択においても、表現様式においてもほとんど描いていない。先に触れた《踊る人たち≫、あるいは《トルティーヤを売る女たち〉(cat.no.23)などは、肖像的な人物像や風景を除けば、彼がメキシコの風俗や民衆の姿そのものを描いた数少ない作例なのである。

▶︎世界観の形成と絵画表現の深まり

 このような制作活動の展開のなかで、彼はタスコ時代の後半になって、画家自身の人格とも深くかかわる対象への認識を中心にすえて描くという、トラルパム時代から追究してきたリアリズム表現を確かなものとしていった。そして自らの独創的な絵画を確立したのである。まず、彼は《老人・下図右)《聖書を読む少年・下図左》などの人物像で、その人物と向かい合い、その内的な精神性までもを独特のリアリズムのなかで表現するまでになっていった。

 また1935年41歳頃には、<子供を抱くメキシコの女>(姉弟)(下図)に端的に見られるように、近代化されていくメキシコ社会の矛盾、いわば近代と伝統との葛藤テーマとした主題性の明確な絵画を描くようにもなっていった。ここに描かれている二人の子供が、白い肌の男の子の世話をするメキシコ人の娘であるにしても、あるいは実際には姉弟であるとしても、そこには、白人的なものとインディオ的なもの、言い換えれば、近代文明と伝統との葛藤が暗示されているのであろう。

 北川はこの時期、これと共通した主題によると思われる《アメリカ婦人とメキシコ女》(下図左)、あるいはインディオの娘が化粧をする姿を、絵画としては意識的に稚に描いてみせた化粧》(下図右といった作品を制作している。

 

 それらに一貫して流れるのは、近代と伝統文化の葛藤に対するこの画家の視線である。これらの絵画が成立する客観的な背景として、当時彼が住んでいたタスコの町に銀細工が盛んとなってアメリカ人観光客が多く訪れるようになり、急速に近代化が進んでいった時期にあたっていたという事実があった。そして、より重要なことはこの問題に北川自身がかかわっていたことである。当時の野外美術学校の生徒であるアマドール・ルーゴ氏によれば、当時の北川のもとには多くのアメリカ人観光客が訪れて、彼の家に宿泊もしていたとのことである。その状況は、二人のアメリカ人によって著わされたメキシコ旅行記『メキシカン・オチノセイ』にも詳しく紹介されている。また、伊藤高義氏が紹介しているように、1935年のアメリカで出版された観光ガイドブック『Terry,s Guide to Mexico』にも北川のことが紹介されているとのことで、結果的に彼自身がタスコに観光客を呼び寄せ、この町の近代化に加担していた。先のルーゴ氏は筆者の聞き取り調査に対して「タスコを国際的な観光地にしたのは、この町に銀細工を起こしたスプラットニングと、そして北川である」とまで語っている。これはいささか誇張した言い方であるとしても、ある程度は事実を伝えている言葉であろう。

 彼はこの時期になって、このような問題を明確に自覚し、近代化とそれによって喪失していく本来の人間性との関係を対比的にとらえるようになった。それは日本に帰国後、労働する人々の姿や家族、母子といった題材を肯定的に描く一方で、近代社会のかかえる問題を取り上げて告発するという、彼の画家としての制作姿勢にも大きな影を落としている。そうして、この時期に北川が意識したこの葛藤は、北川自身の内面の問題でもあったように思われる。近代社会に生きる人間が本質的に抱えねばならないこの視点は、彼のメキシコ時代の最後を飾る作品である《カンディダ(無垢の女)》(下図左)と《女の像》(下図右)という、やはり近代化されたものと、それ以前の本来の人間としての還しさを対比した作品でも、造形的にも確固とした彼の独自のリアリズムによって描かれることになった。

 

 そして北川はこの二点の作品や《女》に代表されるような、堅固な造形性による、画家の世界観や時代認識までもが表現されたような人物像に到達してメキシコでの制作活動に終止符を打ったのである。北川がメキシコを離れようとしていたこの時期、彼の活動の基盤であった野外美術学校運動も終焉を迎えようとしていた。

■ 帰 国

▶︎メキシコ的な絵画と戦争への抵抗

 北川民次は1936年42歳に帰国した。その目的は、グッゲンハイム財団の奨学金を得て、日本における児童美術教育の研究をするためであったという。確かに、彼の手元には、この時期にグッゲンハイム財団とやり取りをしていたことを物語る手紙が残されており、これは事実であったと思われる。しかし、この計画を実施に移すことは、当時の日本社会の状況が許さなかった。結局、彼の日本における児童美術教育の実践は、戦後を待たなければならなかった。一方、画家としては、メキシコ時代からの知り合いであった藤田嗣治の勧めもあって翌1937年の第24回二科展への出品をめざして制作を始めた。《タスコの祭》・(cat.no.29)、《メキシコ・悲しき日〉(。。t.nO.30)、《メキシコ三童女》(cat.no.31)などがこの二科展に出品され、その評価によって彼は二科会会員となった。

◉タスコの祭 1937(昭和12)年43歳・・・「これはメキシコから帰ったばかりの作品で、壁画をかく心持でかいた。私はすくなくともこの三倍ぐらいに引きのばす計画だったので、原画は中途半端て構図に無理があり、きゅうくつな感じをまぬかれ得ない。それは今になって見ると、異国趣味みたいで、恥ずかしい。」と北川自身がこの作品について1956年に記している。彼はこの作品を瀬戸で制作したが、そこの部屋で可能な大きさ一杯に描いたという。北川は1936年に帰国すると、既にメキシコで知り合っていた藤田嗣治の勧めで二科展への出品をめぎして制作を始めた。この作品をはじめとして《メキシコ・悲しき日≫(下図左)《メキシコ三童女≫(下図右)などを1937年の第24回二科展に出品して、同会の会員となった。

 日本の美術界ではニューヨークから長いメキシコでの生活を経て帰国したという異色の経歴をもつ北川は、自己の存在を強烈にアピールするためか、この作品にみられるようにメキシコの風俗などを壁画的な構成で積極的に描き始めた。彼が最もメキシコらしい作品を制作したのはメキシコ時代ではなく、実は帰国後のこの時期であった。それは日本の美術界への自己主張であるとともに、一方でメキシコではこのような絵を描けなかった事情があったと思われる。リベラやシケイロスなどメキシコ革命を美術界でリードした壁画派に属した画家ではなく、野外美術学校の活動に身を投じていた日本人画家が、存分にメキシコ的な絵を描くには帰国を待たなければならなかったのである。このような事情が、作者自身が「異国趣味みたい」と後年になって回顧する作品成立の背景だったのであろう。タスコの祭の情景を描いたこの作品では、楽隊の一群と聴衆たちに極端な大きさの対比を導入し、また聴衆たちの一群では人々の配置にリズミカルな効果を意識して、この大きな画面を構成している。

 これらの作品は、彼の生涯でも最もメキシコらしい表現を試みたものということができる。とりわけ《タスコの祭》は、メキシコの風俗を壁画を意識したダイナミックな構成によって大きな画面に描いたものである。これらの作品には、アメリカを経てメキシコから帰国した画家という、彼の異色の経歴を日本の美術界に対して明確に打ち出すことのできる作品を発表しようとする意気込みと、メキシコ時代には描けなかった壁画を、メキシコ的な題材によって存分に描いてみたいという欲求があったと思われる。もちろん、彼がメキシコで確かなものとしたリアリズムを日本画壇に問うという意味もあった。ともあれ、すこし皮肉な言い方をすれば、北川は日本に帰って、はじめてメキシコの画家として振る舞うことができたのである。そしてこの帰国後の数年間は、北川が非常に充実した制作活動を展開した時期であった。彼は油彩画やテンペラ画にとどまらず、水彩画と版画の分野でもこの時期に注目すべき作品を残している。

◉メキシコ戦後の図 1938(昭和13)年 宮城県美術館・・・1938年の第25回二科展に《ランチエロの唄≫などとともに出品された作品である。メキシコニニ・▲司東にあるポポカテベトルを中央にして、その三・ ̄三ではメキシコ国旗が掲げられ、裾野一帯に;一三二ニセちがいくつかの列をなして行軍している。蓬 て;刊車が転覆していたり、手前には瓦礫や ̄ヒモ7二きく配して、革命の戦いが終わった後の声 ̄て至≒的ともいえる光景を描き出している。  「二号力回想によれば、この作品を発表した帯二 ご∴_‥こ対して大砲を向けているような絵〉として問題になりかけたという。確かにこの中央の山は、富士山を連想させる形であり、絵の基本的な構図は、この山を頂点とし、大砲や画面右下の材木によって構成される三角形によっていて、山と大砲は造形的にも緊密に結び付けられている。作者自身は、この批判を〈思いがけぬこと〉と語っているが、《ランチエロの唄≫が当時の世相への風刺として描かれたように、この作品にも制作時から何らかの風刺の意味が込められていた可能性は否定できない。

 彼が帰国した当時の日本は、国家権力が強大となって国民の生活を圧迫しはじめ、戦争へと向かっていくという、美術家にとっても自由な表現が制約を受ける不幸な時代であった。北川は一人の画家として、このような時代状況に対して、その作品による発言を試みていった。1938年44歳の《ランチエロの唄》で「実はひそかに第二次大戦前の日本の世相を皮肉ってかいた」と自身が語るように、戦争へと向かっていく日本社会への批判と抵抗を、風刺的あるいは比喩的に表現するようになった。1939年45歳の《大地》《鉛の兵隊(銃後の少女)≫(cat.no.37)では、画家からのメッセージが、ある程度は具体的なかたちをとって示されている。

◉鉛の兵隊(銃後の少女)1939(昭和14)年・・・この作品は1939年の聖戦美術展に《銃後の少女≫と題されて出品された。娘の多美子をモデルとした少女は青い目の人形を背負って、机の上の兵隊の動きを見つめている。そこには日本軍の兵士や戦車、大砲が中国軍を攻撃している情景が繰り広げられている。戦争をテーマとして描くことを余儀なくされた北川は、一般には日中戦争における日本軍の勝利を喜ぶ少女を描いたと受け取られるように場面を設定し、実は背後にアメリカの強大な存在があることを暗示して、日本の当時のやがて孤立へと向っていく状況を予測し、それを比喩的に描いたのであろう。

 

◉岩山に茂る 1940(昭和15)年・・・練習船に便乗して南洋へ旅行した。その時のスケッチをもとにして、例の二千六百年展のためにかいた作品である。もはや材料が思うように手に入らない時代だったから、キャンバスの地塗りには白粘土を用い、陶器に使う顔料を利用してかいた。

 窮乏にたえる民族を、不毛の土地にねばり強く生きる植物にたとえたのである。」 紀元二千六百年奉祝美術展は、当時の文部省当局が美術界に挙国一致体制をつくりあげて開催した空前の規模による総合展であった。この展覧会には梅原龍三郎《紫禁城≫安井曽太郎《黒扁≫など、当時を代表する数々の作品が発表された。それは美術界が戦争一色に染まる直前の大展覧会であった。この展覧会に北川は奉祝気分とはまったく無縁の、苦悩に身悶えするように絡み合う植物を描いて、時代に対する精一杯の抵抗を試みたのである。

 なお、この作品の背景にディエゴ・リベラの1937年からの植物モティーフ(上図右)による一連の《象徴的風景≫が関係することを名古屋市美術館、竹葉丈氏が指摘している。

 しかし1940年・46歳の《岩山に茂る》(上図左)、《南国の花≫(下図右)などになると、画面から感じられるある種の不安といった漠然としたものに、そのメッセージが暗示されるようになっていった。この戦時体制への抵抗の姿勢を、彼は最後までもち続けようとしていたようである。ここに〈油絵のための下描き〉という意味のスペイン語による書き込みのされた1942年の年記のある素描作品がある(下図左)

 

 この作品は、まず大地に裸の女性が横たわりその手に戦闘機を捧げ持っている様子が描かれている。そして空にはこれと呼応するように、裸の男性が浮かぶようにしている。そしてこの二人の間では、戦闘機が飛び交い、空中戦を繰り広げているような情景が描かれている。この男女が〈アダムとイヴ〉であることは明かで、イヴが手に持つ戦闘機は、禁断の果実と重なりあうものである。北川は、藤田嗣治等が戦争記録画を描くために南方に派遣されたこの1942年になってもなお、発表はできないとしても、戦争への批判を試みる作品の構想を練っていたのである。《ランチエロの唄≫を描いた1938年44歳から《農園の夢》を描いた1943年49歳頃までの作品には、その多くに北川の戦争への抵抗と批判のメッセージを、また時代状況への不安を読みとることができる。この時代の北川は、多くの制約を受けながらも戦争への抵抗を自分の描く作品によって試みた、当時としては数少ない反戦の画家であった。そして、それは彼の一人の人間としての良心からの訴えであったことを銘記しておかねばならない。

■ 戦  後

▶︎壁画をめざして

 北川民次は敗戦を瀬戸で迎えた。彼はこの1945年51歳の12月に二点の作品を制作した。《焼跡≫(下図左では、戦争で疲弊した民衆の辛酸を描き、《家族と画家夫妻≫(下図右)では、現実にはこのような生活の余裕はなかったとしても、平和を取り戻した自分たちの日常を確かなものとして描いている。彼はここで戦後の苦悩と平穏な生活の双方を、いずれも現実のものとして呈示してみせたのである。

 

 この後、1947年53歳から1949年55歳頃は《雑草の如く》(下図上・中の連作に代表される〈VAE VICTIS(征服せられたる者は不幸なるかな)〉を主題とした制作を続けることになる。先行する《重荷≫下図下)《地にうごめく》などもこの主題による制作で、戦争によって日本の民衆が背負わざるを得なかった辛苦を表現したり、あるいは社会のなかでの支配する者とされる者とがあるという現実を描きだすなど、時代状況を反映した主題による制作がしばらく続いた。

 

 そして彼は、これらの作品の多くを壁画の下絵として構想したと語っている。彼が壁画を描いてみたいという欲求は、おそらくメキシコ時代から抱いていたはずである。帰国後の《タスコの祭≫などの作品でも壁画を意識したことがあり、彼はどうしても壁画を制作してみたかったのであろう。彼にとって壁画は、革命後のメキシコ壁画のように、画家が民衆に対してメッセージを発することができる、社会的な役割を担った絵画の一つの理想であった。彼は《雑草の如く》など〈VAE VICTIS〉を主題にした作品で壁画を描き、自分たちを取り巻く敗戦後の社会状況や精神状況を社会の人々とともに確認し、認識を共有しようと考えていた。しかし、この時期のものは壁画として実際に制作することはできなかった。浅川幸男氏によれば、北川は、実際にいくつかの壁画を完成させた後になって「日本では壁画はかならずしも自分が思うようには制作できなかった」と語ったとのことである。おそらくそれは、日本の社会が求める壁画が、北川のイメージする壁画とは異なっていたことに起因するのであろう。彼は壁画を、メキシコで目の当たりにしたように最も社会的な機能をもつ絵画と位置づけていたはずである。一方、日本の社会一般は、壁画を建物の装飾としてしか受け取ろうとしていなかった。北川は日本での壁画制作の実践を通じて、この壁画に対する認識の違いを痛感したと思われる。結局、彼はメキシコ時代に見たような壁画は終生描けなかった。そして、この間題は、北川の絵画が、日本では、ともすれば理屈っぽい異色のものとして評価されてきたこととも問題の本質を共有している。我々は、北川が残した実際の壁画よりも、《雑草の如く》など壁画としての制作をめざして描いた作品にこそ、彼が思い描いていた壁画の本質を読みとるべきなのである。

▶︎社会の画家

 1950年56歳頃から、彼の絵画には新しい傾向があらわれてくる。《かまど≫(上図)、《森の泉≫(上図中)、《かまどと働く人々≫(上図下)など、特異な形態に描かれた人間や動物、物語が隠されているような一見不可解とも思える場面設定など、それ以前には見られなかった絵画世界が出現する。これは壁画を意識した〈VAE VICTIS〉の主題による制作に一区切りをつけて、画面の構成や造形的な効果そのものに画家の気持ちが向かっていった時期ということができる。これらの作品にはメキシコの画家ルフィーノ・タマヨからの影響を指摘することができ、いわば北川民次のクマヨ的造形の時代を迎えたのである。そしてその後のメキシコ再訪から、ヨーロッパを経由して帰国した後に、彼はフエルナン・レジェの造形などをヒントにして、強く太い線によって形態をとらえ、絵具のつやを抑えた絵肌と堅固な構成によって描く、独自のスタイルを成熟させていった。

 そして1950年56歳代末から1960年66歳代にかけて、北川は、次々に重要な作品を世に送った。この時期には、安保闘争を主題とした《白と黒≫(上図)、公害問題を取りあげた《公害のまち≫(上図中)、《花と煙突》(下図左)など、日本の社会がかかえる問題に対しても作品によって発言することが目だつようになった。

 

 また《砂の工場≫(上図右)、《労働者の家族≫(下図左)といった瀬戸に取材したものではその堅固な構成力を見せ、《哺育》(下図右)、《愛情≫(cat・nO・94)などの母子や家族を主題にした作品でも、その代表作となるものを多く残している。

 

 この時期の作品で、北川は〈主題と表現〉という、根本的な問題に対しての彼なりの解答と得たということができる。また日本の美術界ではあまり顧慮されてこなかった美術と社会の関係という問題に対しても、一つの可能性を具体的なかたちで示したのである。それは彼がアメリカ時代から真剣に取り組んでいた、自らの芸術の本質にかかわるテーマでもあった。

▶︎北川絵画の位置

 「ぼくにとって絵画は絵具や筆やカンバスと同様な一種の手段である。目的は他の所にある。絵具や筆のような材料の他に、美術には線の動きや、色彩の調和や、バランスや、統一や、明暗など幾つかのテクニカルな要素が必要である。其の他、構成上の幾何学的な知識や、左右上下の均衡、テーマやモチーフの選択等限りもない問題が制作の前には横たわっている。しかし、これ等は単なる手段に過ぎない。極端に言えば、作品そのものだって手段に過ぎないのだ。目的はもっと奥の方にある。それは画家の人格、画家の人生観、世界観が画面を通して適度に表現されることである。つまり、絵も他の芸術と同じように結局は哲学である。

 日本の洋画家たち、フランス流に飼い馴らされた美術家たちは実に絵が巧い。前述のあらゆるテクニックを驚くばかり上手に使いこなしている。こんな芸当は、僕の如き素人にはとても真似ができない。それなのに、惜しいかな彼らは大いなる構想、強烈な願望、人生への熱意が欠如している。あれだけの技巧の持ち主がなぜ思想の一端でも絵に打ち込んでくれないのか。」

 北川のこの言葉は、彼の絵画についての考え方、また日本の洋画界にっいての評価を簡潔に述べている。そして、この言葉を裏返してみると、北川が日本の洋画界、もっと広い意味では美術界全体で、どのように受け入れられていたかを知ることもできる。彼の独自のリアリズムによる絵画、つまり自己の人格とかかわる人生観や世界観に基づく〈認識〉を基本におき、それによって描こうとする絵画が、結局のところ日本の美術界の大方では正当に評価されず、受け入れられなかったことを物語っている。日本の美術界は、彼の絵画がもつ真の意味や、その価値を理解し得なかったのかも知れない。メキシコの風物を好んで取り上げるメキシコ帰りの異色の画家、あるいは教育問題や公害問題など絵にならないような問題を取り上げて理屈っぽい絵を描いてみせる画家、このあたりが北川に対する過去の評価のアウトラインではなかったであろうか。もし、日本の美術界が、北川の絵画をこの程度にしか評価できず、いわば敬して遠ざけるような態度をとってきたとするならば、それは北川の例の問題というよりも、日本の美術界の方が、その弱点をさらけ出していると言わねばならない。北川が追究し確立した絵画は、先にも述べたように、後期印象派以降の具象絵画の領域で、二十世紀の美術としての成否を問われるような新しいリアリズムの可能性についての彼なりの結論であった。そして、それはメキシコのリベラやシケイロスの絵画が、二十世紀の絵画におけるリアリズムの系譜のなかで高く評価されていることと同様、北川の絵画もまた、今世紀の美術の課題に正面から取り組んだ成果であった。それは正当な歴史的な営みとしても評価されなければならない

 「ぼくは斯う考える。大凡美術を二つに大別して、一つは美の追及を事とするものと、今一つは主義主張を表現する手段とするものと。

 そして美の追及にこだわる画家は悪くすると広い意味での装飾画家に堕落し、その反対の側はプロパガンダに身をやつして広告屋になってしまう危険がある。」

 彼は、この二つの絵画の問いにあるはずの、彼にとって真実の絵画を求め、それを我々の前に実際の作品として呈示したのである。

 そして北川の絵画が、自身も語っているように「理屈っぽい主義や主張ばかり描いている」絵画であるとして、それでは彼の絵画は、それ故に我々から遠い所にあるものなのであろうか。答は否である。彼が一人の人間としての世界観や価値観から絵画の主題として取り上げ、描いたものを見てみるとそのことはよく判るはずである。家族、母子の愛情、労働、生活の姿といったものは、我々人間の根本にかかわるテーマである。そして彼が自身の絵画によって批判を試みたり、訴えかけたりした問題、例えば戦争、沖縄、教育、安保、公害、民主主義の未成熟といった問題は、二十世紀も終わろうとしている今日になっても、それが解決をみているどころか、北川がそれらを取りあげて描いた当時よりも、より広範で深刻な問題として私たちを包み込み、また私たちの前に立ちはだかっている。そして未だにその解決の糸口さえ見いだせないでいる問題ばかりである。北川が、彼の良心から訴えかけた諸問題は、現代の私たちにとっても切実なものである。その意味で、画家北川民次は我々にとって、今もなお最も近いところにいる画家なのである。北川民次は二十世紀を、我々とともに生き、絵画を人間と社会との関係においてとらえ、描きつづけた一人の人間であった。

            (むらたまさひろ 愛知県美術館主任学芸員)