戦時下の小学生とその進路

■戦時下の小学生とその進路

伊藤 智比古

▶️はじめに

 昭和16年3月1日国民学校令が公布され、従前の小学校は国民学校に改められた。

 国民学校の目的は、国民学校令第一条に「国民学校ハ皇国ノ道二則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」と定められた。すなわち、教育勅語に示された国民の守るべき道を教育の全般にわたって修めさせることで、皇国民の基礎的錬成をめざしたものであった。

皇民化教育(こうみんかきょういく)とは、大日本帝国の統治地域における日本人以外の民族に対し行った同化教育である。内地・外地を問わず用いられる。
・言語統制、日本語標準語の公用語化。公的な場は勿論、家庭内においても標準語の使用 が奨励された。教育現場においては方言や各民族語の使用は控えられた。
・教育勅語の「奉読」、奉安殿の設置等による教育、国旗掲揚や国歌斉唱などを通じた日本人意識の涵養。
・外地における神社(台湾神社、朝鮮神宮等)の建立や参拝奨励など、国家神道と宗教政策(日本の宗教参照)の推進。その他、軍人への敬礼や宮城遥拝等も行われた。

 国民学校令の内容で特筆すべきことには、

①義務教育年限を八年に延長すること、
②教育課程が尋常科六年・高等科二年とされたこと、
③就学義務の徹底を図ったこと、
④従来の教科が皇国民錬成をめざして統合され、国民科(修身・国語・地理・歴史)・理数科・体錬科・芸能科(音楽・習字図画・工作・裁縫・家事)の五教科に再編されたこと、
⑤皇道精神に即した錬成教育が重視されたことなどが挙げられる。

 本稿では、そうした国民学校期における小学生の卒業後の進路はどのよぅなものであったのかについて、卒業生名簿をもとに考察したい。卒業生名簿は、卒業台帳とも呼ばれ、各年度の卒業生の氏名・住所・成績・卒業後の進路等が記載されたものである。

 【表1】は、土浦市立博物館で行った調査で対象とした各小学校について、所在地・創立年・調査時に記録した年度・地域性を示したものである。記録した年度については、小学校尋常科の場合は(尋)、国民学校初等科の場合は(初)、小学校・国民学校高等科の場合は(高)と表記した。学校資料の残存状況は各校で大きく異なるため、記録のできなかった年度も多い。明治・大正期については、調査の都合上記録を取らなかった年度もある。昭和10年代については、すべて記録した。

 総力戦体制が敷かれたアジア・太平洋戦争期には、学齢期の青少年は「少国民」と称され、国家への貢献が求められた。以下では、土浦小学校・東小学校の高等科を中心に、戦時下という時代・社会のなかで当時「少国民」と称された小学生の進路がどのように変化したのかを考察する。

▶️進学の諸相

 土浦では大正期以来、初等教育の発展に伴って進学希望者が増加していた。土浦中学校(現土浦第一高等学校)では、大正13年度から昭和2年度にかけて、競争率が3倍以上であった。

 アジア・太平洋戦争のなかで、進学者・進学先はどのように変化したのであろうか。【表2】は、土浦小学校・東小学校高等科を卒業して各種上級学校へと進学した生徒の数を年毎に示したものである

  ここからは、特に土浦小学校では中学校・女学校への進学者が昭和16年度・17年度にかけて増加していたこと、そしてともに昭和18年度・19年度卒業生で激減していることがわかる。また、東小学校では、中学校・女学校への進学者が昭和一八年度・一九年度にはみられなくなる一方、実業学校・専門学校等への進学者は増加傾向にあった。 では、進学先の内訳はいかなるものであったのだろうか。【図1】 は、昭和一七年度土浦小学校の卒業生の進学先をグラフで示したものである。

 これをみると、中学校では土浦中学校、女学校では土浦高等女学校(現土浦第二高等学校)など、県南部の公立校への進学者は決して多くないことがわかる。大半の高等科卒業生は、茨城中学校(現私立茨城高等学校)や常総学院(現私立常総学院高等学校)、昭和女学校といった近隣あるいは県内の私立学校へと進学したのであった。

 進学意欲が高い一方、地域の名門校である土浦中学校や土浦高等女学校に入学できる者は限られており、私立学校がその受け皿の役割を果していたという進学をめぐる状況がうかがえる。

 実業学校・専門学校等では石岡・取手・谷田部の農学校への進学者が多く、約半数を占めている。

 また、その他に含めた足立中学校、岩倉鉄道学校、高輪商業学校、東京電機高等工業学校(現東京電機大学)、日本高等女学校など、東京の学校へと進学する事例もみられた。

▶️軍隊への志向

 土浦は「空都」とも称されたように、霞ケ涌海軍航空隊・土浦海軍航空隊の膝元であり、玄関口でもあった。休日には海軍軍人が市中でくつろぎ、特に予科練設置後は指定食堂やクラブに予科練生が出入りし、地域の人々との交流が生まれたという。 昭和18年6月に公開された東宝映画「決戦の大空へ」は、予科練生が通う指定クラブの家の少年が主人公で、身体が小さく、気の弱い土浦中学校の生徒である少年が、予科練生との交流を通して予科練に憧れ、予科練生や家族の応援を受けて自己鍛錬をするうちに心身ともにたくましくなり、ついに予科練に合格するというストーリーであった。

「若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ霞ケ浦にゃ でかい希望の雲が湧く」

ではじまる主題歌「若鷲の歌」も日蓄レコード(現日本コロムビア)より発売され、「予科練の歌」として全国に知られた。

【図1】各種上級学校への進学の内訳(昭和17年庭土浦小学校)

では、「空都」土浦において、「少国民」は軍隊に積極的に志願したのであろうか。【図2】は、土浦小学校高等科を卒業して軍隊に入隊した者の年毎の数をグラフ化したものである。

 これをみて明らかなように、土浦小学校を卒業して予科練生となった者は非常に少ない。予科練以外の陸海軍少年兵となった者を加えても、最多は昭和19年度の卒業生323名中6名にとどまる。他校の事例をみても、調査で把握することができた範囲では、斗利出小学校高等科の昭和15年度卒業生に1名、予科練生となった者が確認できるのみであった。

 アジア・太平洋戦争期、全国的には予科練入隊者は激増していた。また、昭和18年には陸軍少年飛行兵の資格年齢が引き下げられるなど、「少国民」を前線へと送り出す時代が到来していた。映画「決戦の大空へ」のエキストラとして出演し、体育の授業シーンで跳び箱を飛んだ土浦中学校の一生徒が、映画を観て予科練に憧れ、10月1日、予科練生として土浦海軍航空隊に入隊したという事例もあるが、土浦の「少国民」のあいだでは予科練やその他少年兵への志望が顕著に強まったわけではないようである。

 その理由としては、予科練生との交流はあったものの、その姿を間近に目にすることで、かえって軍隊生活の厳しさを知ったということや、「20歳になれば兵隊に行くのは当然だと思っていた」という証言のように、いずれ軍隊には入るのだからそれまでは家業を手伝ったということなどが考えられる。

▶️戦局の悪化と動員の拡大

 日本軍は昭和17年6月のミッドウェー海戦、8月以降のガダルカナル島攻防戦等を境に人的・物的損害を拡大させた。そのため、銃後では兵員や工場労働者の補充・増員が急務となり、国民学校高等科・中学校・女学校の教育環境も、戦時体制に組み込まれていくこととなる。

 昭和18年6月25日、「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、「教育錬成内容ノ一環トシテ学徒ノ戦時動員体制ヲ確立」するという方針が示された。また、9月21日に閣議決定された「現情勢下二於ケル国政運営要綱」は、戦争遂行のための国政の方針を総合的に示したものであった。そのなかの「国内態勢強化方策」の内容は翌日、内閣情報局により公表され、さらに内閣総理大臣東條英機によりラジオ放送を通じて国民に伝達された。

 「国内態勢強化方策」は必勝信念の昂揚・生産の増強・食料の自給態勢の確立・国内防衛態勢の強化の4点を目標として掲げ、そのために「国民動員ノ徹底」を図ることが方法の一つとされた。そして、学生の徴集猶予措置が廃止され、満20歳に達した者に対して一斉に徴兵検査が実施された。また、女子の動員強化や勤労配置の適正が進められ、さらに昭和19年度から実施されることになっていた義務教育8年制も無期延長となった。

 これに伴い、男子の就業職種の制限や理工系・教員養成系の学生以外の学生の徴集猶予の停止等が実施され、戦時体制は戦争遂行を唯一の目的として全国民を動員する性格を強めた。

 昭和19年1月18日には「緊急学徒勤労動員方策要綱」が閣議決定された。そのなかでは、「勤労即教育」という考えのもと、学徒の勤労動員を徹底することがうたわれていた。 学徒動員は、はじめは1年につき4ケ月の動員期間であった。しかし、昭和19年3月の「決戦非常措置要綱二基ク学徒動員実施要綱」によって中等学校以上の学生生徒の通年動員が実施された。さらに、7月にマリアナ諸島が陥落し、アメリカ軍が日本本土の目前にまで迫ってくると、さらに動員の強化が図られた。

 8月16日の閣議決定「昭和19年度国民動員計画策定二関スル件」では、中学校2年生以下とともに国民学校高等科の生徒も通年動員の対象とすることが定められ、国民学校初等科を除くほぼすべての学徒が動員されることになった。

 前年には教育の一環にすぎなかった勤労動員が教育のなかでの重みを増し、「勤労即教育」とされるに至った。「少国民」の本分は、勤労であるとされるようになったのである。

 工場への動員が強まると、土浦小学校では高等科1・2年の男子生徒が第一海軍航空廠、女子生徒が鋳物生産のため森島工場に動員されたようである。森島工場への動員を引率したある訓導の回顧によると、当初は飛行機の部品を作っていたが、昭和19年度の第2学期には資材不足のためか溶鉱炉が停止し、何に使われるかわからないままにタドン作りにあたったという。

 また、土浦中学校では5年生が東京電機製造株式会社(現東京電機)中村航空兵器(のちの中村鉄工所)に、4年生は第一海軍航空廠に動員された。3年生は、はじめは中川ヒューム管や土浦造船所に動員されたが、のちに2年生とともに第一海軍航空廠に動員され、作業に従事した。

 昭和20年3月10日の東京大空襲を皮切りに本土空襲が本格化する頃には、「決戦」がうたわれるようになった。

 3月18日、「決戦教育措置要綱」が閣議決定される。これは、全学徒を食糧増産、軍需生産、防空防衛、重要研究等の「決戦二緊要ナル業務」に動員することを定めたもので、そのために昭和20年度の授業を国民学校初等科以外で停止するとされた。この内容は5月22日、「戦時教育令」として法令化され、公布された。

 戦争末期には、国土防衛を学徒の働きに依存せざるをえなくなっていたのである。

▶️工場への就職 

 労働力、特に工場労働力の需要が高まり、在学中の動員が次第に強化されるなか、土浦市域の「少国民」は、高等科卒業後にどのような進路をとったのであろうか。

 【図3】は、土浦小学校と東小学校を卒業して工員となった生徒の数を年毎にまとめ、グラフ化したものである。

 これをみると、「支那事変」やそれにつづくアジア・太平洋戦争の展開に伴って工場労働力の需要が増すなかで、工員となった卒業生数が両校ともに急増していることがわかる。

 特に昭和19年度についてみると、土浦小学校高等科卒業生323名中130名、東小学校高等科卒業生72名中28名という数字は、卒業生の1/3以上が工員となったことを意味する。在学中の動員だけでなく、卒業後も工員として働くことを余儀なくされる状況であったことがうかがえる。

 では、工員となった卒業生の就職先はどのようなものであったのだろうか。

【表3】は、昭和13年から昭和19年にかけて、土浦小学校を卒業して工員となった者の就職先として主なものとその人数を示したものである。

 まず、第一海軍航空廠が突出して多い。第一海軍航空廠の工員となった卒業生は、【図3】で示した、工員となった卒業生数の増加に歩調を合わせるようにして増加している。また、工員となった卒業生数に占める割合も年々大きくなっている。戦線の拡大や戦局の悪化により海軍航空廠の業務も拡大し、必要とされる工員数も増えたものと思われる。

 第一海軍航空廠以外では、近隣の軍需工場への就職者が多い。中村航空兵器は下高津にあり銃弾等を製造していた。昭和元年四月には土浦中学校五年生を学徒動員で受け入れるなど、土浦における貴重な軍需工場でぁった。東京電機は昭和4年に中高津に工場を設置し、発電機やモーター等を製造していた。また、工員の養成のための東京電機工業技術学校を併設した。土浦小学校を卒業し、この学校へ進んだ者もいた。このほか、東京・芝の池貝鉄工所や立川陸軍航空工廠に就職した例もみられる。

 なお、昭和元年3月、中学校の新規卒業者について、上級学校・軍学校への進学者・軍入隊者以外を卒業後もそのまま徴用し、勤労を継続させることが閣議決定された。国民学校高等科の卒業生について、同様の法令が出されたかは不明であるが、高等科二年生での動員を引き継ぐようにして軍需工場に就職する場合もあったようである。

▶️おわりに

 本稿では卒業生名簿を用いて土浦の「少国民」の進路とその変化を考察した。そこからわかったことは非常に限定的ではあるが、アジア・太平洋戦争期の土浦という地域の特徴について、次のようなことが指摘できるであろう。

 ①市街地に位置する土浦小学校では卒業後に進学する者が多く、その進学先は中学校・女学校・実業学校等幅広いものであった。

 ②工場労働力の需要が高まるなか、工員となる者が急増した。なかでも第一海軍航空廠への就職者が多かったほか、近隣の軍需工場に進んだ者も多かった。

 ③東京の会社・工場・学校に就職・進学する事例が多くみられた。これについては家庭の事情や学校での指導、あるいは国や自治体による奨励等があったことも想定される。本稿での分析では明らかにすることができなかったため、別稿を期したい。

 なお、土浦地域の特徴として、土浦小学校の卒業生の進路には郵便局や銀行の事務・給仕や、鮮魚商・菓子商・繭商などの商業に従事する例が多かったことが挙げられる。このように都市部の土浦小学校では第三次産業に従事する卒業生が多かったのに対し、農村部の東小学校では農業に従事、ぁるいは農学校に進学する卒業生が多かった。

 戦後、軍国主義的な教育は否定され、公教育からは排除されていくことになる。しかし、「少国民」をめぐる環境は依然、厳しいものであった。具体的には、戦争末期に深刻化した食糧難は戦後も変わらず、むしろ復員引揚げによる国内人口の増加のために悪化していた。茨城県は昭和21年5月、各学校に「食糧危機突破学校非常対策に関する件」を布達し、食糧増産のために学校の農園を拡充することや校庭を利用することを要請した。学校では食糧増産や資源収集にあてる日が設けられるなど、授業の実施が困難な日々がつづいた。(土浦市立博物館非常勤職員・筑波大学大学院生)