町の記憶(大正・昭和)前編

■町の記憶(大正・昭和)前編

■ 二つの航空隊と土浦

▶️霞ケ浦海軍航空隊の誕生

 大正10(1921)年、阿見村(現阿見町)に設立された臨時海軍航空術講習部が、翌11年に独立し誕生したのが「霞ケ浦海軍航空隊」である。これは日本で3番目に創設された海軍航空隊であった。

 第一次世界大戦(1914〜18)後、航空技術の底上げが図られた。陸上機と水上機の両方の訓練ができ、人家も少なく飛行場に適したこの地が選ばれたとされている。

 しかし、航空隊設置の背景には、この地に広大な土地と湖面があることに加え、東京の近郊で、物資の供給や交通に利便性のあることが重視されたと考えられる。江戸時代以来水陸交通の要衝であった土浦に近く、明治20年代に開通した常磐線大正七年に開通した筑波鉄道、さらに霞ケ浦舟運が人や物資の輸送を支えていた状況が、航空隊の設立には少なからず影響している。

 交通網の発達と航空隊の設立によって、土浦は一層の活気を見せた。航空隊には国内外を問わず多くの人々が訪れ、特に土浦駅はその玄関口となった。

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▶️ ツェッペリン伯号の飛来

 霞ケ浦海軍航空隊と土浦にとって、大きな出来事のひとつが、昭和4(1929)年8月19日のグラーフ・ツェッペリン号(ツェッ ペリン伯号、12127)の飛来である。ドイツのフエルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵が開発した硬式飛行船のひとつで、全長236.6m、直径30.5mという驚くほど巨大なものであった。

 この大型飛行船は、飛行技術の宣伝のため世界一周飛行を行っていたが、その途中で寄港したのが、大型の格納庫があった霞ケ浦海軍航空隊であった。

 第一次世界大戦においてドイツは敗戦国となり、多額の賠償金を負った。大型格納庫は日本の戦利品として、霞ケ浦海軍航空隊の地に移築された。この格納庫は、押収格納庫とも呼ばれ、その存在により霞ケ浦海軍航空隊が東洋一規模の飛行場と呼ばれるようになった。

  巨大な飛行船の飛来に、当時の新聞は大きく紙面を割いた。また一見ようと霞ケ浦海軍航空隊へ人々が押し寄せ、土浦の町も大いににぎわった。

▶️ 航空隊と町のにぎわい

 霞ケ浦海軍航空隊の設立以前から、土浦は商業の町として栄えていた。大正六(一九右)年に豊島庄十郎が創設した土浦繭糸市場は、昭和3(1928)年頃には全国一の取引高を誇った。また、商取引の時期以外は百貨店として営業を行い、町の経済を享えた。

 交通網が発達し、霞ケ浦海軍航空隊がおかれて以降、土浦の経済は一層潤った。土浦には航空隊へ品物を納める商店があり、航空隊関係者が住み、また集会所や飲食店などは航空隊関係者が訪れる場となった。

 料亭には、海軍の士官クラスが多く出入りし、会談の場としても利用されていた。また、カフェや芸妓・待合なども、昭和初期にかけて数を増やした。

 昭和7年頃は世界恐慌の影響で、日本は不況下にあった。そのような時勢のなかで、町は、航空隊の見学を筑波山登山・霞ケ浦遊覧・桜川の花見・花火大会などと合わせた観光資源のひとつとしてとらえ、土浦の「遊覧都市」としての性格も打ち出していった。

▶️ 青年たちの政治意識

 航空隊が創設され、土浦がにぎわいをみせた頃、土浦・真鍋両町では政治への関心と意識の高まりがうかがえる動きがあった。

 茨城県初の国務大臣となる原脩次郎(しゅうじろう・1871〜1934)は、大正9(1920)年に憲政会から衆議院議員に立候補するが、政友会派の激しい選挙干渉で落選した。土浦町の憲政会党員らは「亀城立憲青年会」を結成して、原を応援し、活発な運動を展開した。

 真鍋町では、菊田禎一郎(1880〜1964)や天谷丑之助 (1888〜1974)らが中心となり、大正12年に「惜春会」を創設した。農村経済の振興と文化の向上には、農民自身が政治に関心をもつべきと主張し、憲政擁護や政界刷新をスローガンに、機関紙「惜春」を発行した。菊田の家には、多くの青年や軍人が訪れたと言われる。

 また、真鍋町の本間憲一郎(1889〜1959)は忠君愛国の思想をもち「紫山塾」 を開いた。本間は勤皇運動・殉国精神を説く「一県勤皇まことむすび運動」を推進した。彼の思想は多くの思想家や軍人に影響を与え、血盟団事件や5・15事件などにも関与した。

▶️ 土浦市と土浦海軍航空隊

 昭和15(1940)年、土浦町と真鍋町は対等合併し、「土浦市」が誕生した。合併を推進したい土浦町に対し、財政状況の良い真鍋町は合併に消極的であったが、中国を視察した真鍋町長菊田禎一郎が方針を変更したこともあり、11月3日に市制が実現した。

 同年11月15日には、「土浦海軍航空隊」が誕生する。これは日中戦争が長期化の様相をみせてきたことによる。昭和14年3月に、横須賀海軍航空隊の海軍飛行予科練習生霞ケ浦海軍航空隊の水上班に移り、これが霞ケ浦海軍航空隊予科練習部(通称「予科練」)となった。翌年独立したものが土浦海軍航空隊であった。

 軍事的色彩が濃くなるなかで、土浦は霞ケ浦海軍航空隊の軍人に加え、日曜日ともなると予科練生と面会にきた家族で大いににぎわった。


 この時期、土浦は「空都」と呼ばれ報道されることがあった。首都防空の役割を持つふたつの航空隊と関わりをもちながら、土浦は「」として新たな歩みを始めた。

■土浦と戦争の記憶

▶️ 小学校から国民学校へ

 土浦市と土浦海軍航空隊が誕生した昭和15(1940)年頃は、日中戦争が長期化の様相を呈した時期であった。昭和16年になると、小学校は国民学校に変わり少国民(しょうこくみん)育成のための国家主義的教育が推進された。

少国民(しょうこくみん)は、日中戦争から第二次世界大戦までの日本において、銃後(戦争の状況下で、戦場における銃の後ろ、すなわち前線に対して、直接の戦場ではない後方という意味で用いられる。)に位置する子供を指した語で、年少の皇国民という意味がある。これは、ドイツのヒトラーユーゲントで用いられた「Jungvolk」の訳語である。現在では死語である。

 「お国の為に死ぬことは名誉なことだと思っていた」。高等科生徒だった市民の言葉は、当時の教育が浸透していたことを物語る。特に教育勅語や御真影天皇・皇后の写真)のある奉安殿の存在は、「お国のため」という意識を子供たちに植え付けるためのものであった。

 土浦市域には、海軍住宅や第一海軍航空廠(しょう)などがあったため、保護者には海軍関係者が多かった。また予科練から征空体操の指導を受け全国的に有名になった真鍋国民学校など、予科練との関わりがある学校もあった。

 戦争が激しくなると、生徒たちは授業の代わりに農作業などの勤労奉仕や避難訓練に明け暮れた。高等科の生徒は、第一海軍航空廠や東京電機などの軍需工場に動員され、飛行機の部品作りなどの労働を担った。

▶️ 教練と勤労動員

 中等学校での教育も、軍国主義のもとに進められた。「教練で2年半鍛えられた。絶えず社会の動向に目を向けるといった、生きていく上で大切なこともここから学んだ」。昭和18(1943)年当時、土浦中学校(現県立土浦第一高等学校)生徒であった方の言葉には、軍隊式の教育の影響力の大きさが現れている。軍事に関する教育や訓練の科目であった「教練」は、中等学校以上で現役の陸軍将校が学校に配属されて行われ、生徒の軍隊への意識を高めた

 戦争が激しくなると、昭和19年7月には勤労動員が始まった。「動員が決まったとき、何とも言えないような気持ちになった。国のせいだと思った。でも、成り行きに任せるしかないと思った」。土浦高等女学校(現県立土浦第二高等学校)生徒であった市民の言葉には、女学校に行けずに働く現実へのやるせない思いが現れている。

 第一海軍航空廠や海軍航空隊適性部へは、中等学校の生徒らも動員され、半ば海軍航空隊の一員としての意識を持ちながら、またそれぞれの学校の生徒という誇りを持ちながら、忠実に奉仕する日々を送った。

▶️ 兵士になる

 昭和12(1937)年の日中戦争とその後の戦況の悪化は、否応無しに人々を戦争に巻き込んだ。

 「すでに兵隊に出ていた兄のような盛大な見送りはされず、荒川沖の駅前まで送ってくれたのは、家族のうち一人か二人だった」。昭和18年に出征した市民の言葉は、出征が常態化した状況を現している。戦力が不足し兵員の充足が急務となり、大量に発行されたのが、召集令状、いわゆる「赤紙」であった。「こんな年寄りまで戦争に行くようでは、日本も負けだな」。

 40代の父親の出征への祖母の反応として、市民が記憶していた言葉である。兵役を免除されていた年長者や大学生も、臨時召集の対象になった。「あっと言う間で考える暇もなかった。どうせ死ぬんだと思った」。学徒出陣が決まった時を思い出しての、市民の率直な言葉である。


 土浦中学校を中退し予科練へ入隊したが物資が不足し出征することはなかった、という市民もいる。さまざまな市民が兵士となり、戦争に関わる立場になっていった。


▶️ 銃後の暮らし

 「戦争は軍人がするものだと思っていた」。戦闘には加わらなかったという意味で、直接戦争に関わっていない、あるいは戦争体験はない、という市民の記憶は思いのほか多い。しかし、無意識のうちに戦争に巻き込まれ、戦争を支える立場におかれた市民が、空都とも呼ばれた土浦には多かったのではないだろうか。

 国民統制組織である大政翼賛会が昭和15(1940)年に組織され、地域で暮らす日常さえもが戦時体制下にあった。「仕事をやめないようにと、白紙徴用があった。恐(こわ)かったがやめることはできなかった」。昭和12年から土浦郵便局で働いた電話交換手の女性は、戦争中は24時間交代勤務に代わり、空襲警報を伝える仕事を担当した。戦後はすぐに郵便局勤務をやめてしまったそうである。

 「昭和16年7月には水害12月には戦争がはじまった」。土浦では戦争が水害とともに語られることがある。天災と人災が混在した労苦の記憶として、戦争が人々の心に刻まれている。

▶️ 空襲と疎開

 「わたしにとって戦争は家族がばらばらになること」。市民の言葉は、戦争の実情を表している。戦況の悪化は、軍人ではない市民を戦争の一部として、より一層巻き込んでいった。

 昭和19(1944)年七月のサイパン島陥落後、本土空襲は大幅に増加し、爆撃や機銃掃射から逃れるため、土浦には都内の児童・生徒が疎開した。「恐怖の空襲がうそのように、のどかな情景があった」。昭和20年4月に東京で空襲に遭い、学童疎開した方の土浦に対する印象である。

 しかし、予科練に近い土浦も空襲の危険が迫ると、さらに遠方へ再疎開することもあった。 昭和20年6月10日には、土浦海軍航空隊が大型戦略爆撃機B29による爆撃を受け、350名以上の予科練生や阿見町・舟島村の住民が犠牲となった。

 「広島に原爆が投下された後は、空襲警報が出たら一里半(約6km)以上遠くに逃げるよう指示され、夜間に移動した」「服を着たまま布団に入らず寝た」。昼夜を問わず、たくさんの市民が死の恐怖から逃れるように生活をしていた。


▶️復興への道