古代の歴史
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列島古代の歴史文化
■列島古代の歴史文化
佐藤信
■日本列島の古代史
▶︎あたらしい古代史
日本列島の古代史研究は、
近年大きな進展をみせている
。その動向としては、まず第一に、世界がグローバル化する中で、改めて東アジア、東ユーラシア的な視点から
中国・朝鮮半島・日本列島・北方・南方の歴史を見直すようになったこと
があげられる。
東アジアのそれぞれの古代国家は、一国のみの歴史展開の中で形成されたものではなく、東アジアの国際関係のもとで、対外的契機にうながされながら国家形成を進めた
ということが、
常識
となってきたのである。
第二には、考古学的な発掘調査が高度経済成長期以来全国的に展開し、その
調査成果が膨大に積み上げられたこと
によって、
古代史像が具体的で豊かになったこと
があげられる。発掘調査で明らかになった遺跡・遺物によって、旧石器時代から古墳時代の歴史像が大きく変わってきたのはもちろん、宮都や地方官衙遺跡などの調査成果を受けて、
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世紀以降の歴史時代の歴史像も、多く変容
し
てきている。
第三に、とくにその中でも、
木簡・漆紙文書・墨書土器・文字瓦・金石文
などの出土文字資料が多く出現し、それら新資料によってあたらしい歴史像が提供されてきている。
埼玉古墳群の稲荷山古墳(埼玉県行田市
)から出土した
鉄剣の銘文
によって
五世紀の歴史像が大きく描き直され
たり、木簡の出土によって
律令国家の宮都や租税制度の解明
が進んだことなどがあげられる。
また第四に、こうしたことを受けて、日本列島それぞれの地域の古代史像が掘り起こされてきたことがある。諸地域の歴史が多元的に展開した様相が明らかになり、それら諸地域の間でさまざまな
レベルの境界を越えた交流が豊かに展開
していたことが注目されるようになってきた。
このように、日本古代の王権・国家が編纂した
文献史料
だけでなく、発
掘調査成果や出土文字資料
などをも用いて、
活発に越境した国際関係
、掘り起こされた各地域の歴史や、古代都市の実像などが具体的に明らかにされ、
日本列島の古代史が多元的に見直されている
。
ここでは、こうした研究動向をふまえて、
東アジアの国際交流
に留意しつつ、
史料・史跡・遺物など多様な歴史資料に焦点
をあてながら、日本列島の古代史をたどりたい。
その際留意しておきたい焦点をあげると、まず一つには、古代史が律令国家中心の
一元的な歴史として割り切れない
という点がある。前近代には、近代国民国家とは異なり、日本列島には、
琉球王国の歴史や北海道のアイヌの人々の歴史
などが存在しており、あらかじめ
一元的な日本国家が存在していたわけではない
。
「日本」という国号や「天皇」号も歴史的に形成されたもの
であるし、近代的な意味での「国境」がない状態で、
古代の多様な交流が展開していた
のである。
二つめは、発掘調査による遺跡・遺物の発見、とくに
木簡出土文字資料の出現
によって、急速に各地域の
古代史像が豊かになつてきている
という点である。古代史を語る時に、
考古学的な知識をも持つことが必要
となつてきているといえる。
そして三つめには、日本列島のそれぞれの地域における、さまざまな境界を越えた
地域間交流の展開
が明らかになつてきたことである。中央政権の歴史も各地域の歴史も、それぞれ単独で展開してきたのではなく、
相互にかつ国際的に交流しながら、開かれた歴史として展開していた
のである。
▶︎多様な歴史資料
古代史、そして歴史を学ぶ1で欠かせない材料が歴史資料である。歴史資料にこめられた歴史情報を、
正しく出来るだけ多く読み解くこと
によって、私たちは過去の歴史像を描くことができる。
この歴史資料による事実確定の積み重ねにもとづかずに、自分の思想や思いつき・思いこみで歴史を語ることは
、歴史小説ならば許されようが、どんをに魅力的であっても
恣意的な歴史観といわざるをえない
であろう。私は、どんを歴史小説よりも、巻き戻しのきかない
一度きりの歴史そのものの方が
、はるかに
波乱に富む展開であって興味深いと考える
。歴史を学ぼうとするからには、ぜひ自ら歴史資料と向き合い、そこから歴史情報を引き出しをがら
自ら歴史像を構成する努力を行いたいもの
である。それこそが、歴史を学ぶ醍醐味といえるのではないだろうか。ところで、歴史資料というと、かつては文献史料を思い浮かべるのが当然であったが、最近は文献史料以外にも、さまざまな種類・性格の歴史資料が歴史像を築く上で重要な材料となつてきている。
文字資料の中でも、
絵画史料や発掘調査
でみつかる
出土文字資料
、そして新たに発見される
非文字資料
であるさまざまな遺跡・遺物によって、古代史はいつも見直されつつあるというのが現状だといえ かつては、『日本書紀』をはじめとした六国史や律令格式などから古代史像の枠組みが描かれてきた。しかし、正史のように
国家が自らを正当化する意図のもとに後から編纂した文献史料の場合
、どうしても天皇・貴族中心、畿内・中央中心、ハレの場中心、自国家中心の記載に偏るという面がある。
たとえば『
続日本紀
』などの場合、登場人物は原則として
五位以上の貴族に限り
、また「
米塩の事」は些末な日常的なこととして記載しない
という編纂方針が採られている。歴史学の手続きとして、
史料批判が必要となるゆえん
である。
それに対して、出土文字資料や発掘調査により解明された遺跡・遺物などは、その同時代の資料であり、
下級宮人や租税を負担した民衆レベルの資料
をふくみ、
地方の姿を物語る資料
であり、日常的な
ケ (褻・普段の生活である「日常」を表している)の場の資料
でもある。平城宮跡から聖した木簡の中には、米や塩の貢進物荷札(こうしんもつにふだ)木簡が多数出土しており、
地方諸国の民衆が米塩を負担して都まで貢納した姿
や、米塩が中央の官司に収納され最終的に宮内の各役所に配分されて消費されたシステムを知ることができるのである。出土文字資料には、すでに
40万点を超えて列島各地から出土している木簡をはじめ、漆紙文書・墨書土器・文字瓦・金石文などが知られる
。また、発掘調査成果としての遺跡・遺物も、古代史像を具体的・立体的に豊かにしてくれている。
律令国家の宮都を例に挙げると、平城京の具体的な実像が発掘調査によって判明してきたことを受けて、日本における古代都市のとらえ方は大きく変容してきた。かつては、西洋中世都市を基準とする西洋史的な都市概念にもとづいて、日本古代の宮都は都市とはいえないと考えられてきたが、発掘調査によって平城京の都市実態が明らかになったことを受けて今では西洋中心の都市概念から離れて、アジア的都市類型型の一つとして日本宮都位置付け、都市的要素・都市性から日本の古代都市をとらえられる方向となっている。
■列島の多元性
▶︎地域の古代史
日本列島の古代史は、古代律令国家を中心として語られることが多かったが、八世紀においても律令国家の領域統治が及ぶ範囲は、本州では北東北をのぞくところまでであり、九州でも南九州まで及ぶかどうかというところまでであった。北東北の律令国家の領域外には、律令国家が
まつろわぬ者
(平定事業において抵抗を続け、帰順しない者)として「
蝦夷
」と名付けた人々の歴史が展開しており、さらに北海道には別の歴史が展開していた。また、九州南部にも、律令国家が同じく周辺の異族と位置づけて「
隼人(はやと)」
と呼んだ人々がいて、南西諸島には
琉球の歴史
が展開していた。
日本列島の古代史は、律令国家のみの歴史ではなかったという面がある
のである。
発掘調査の成果からは、律令国家から
「蝦夷」
と呼ばれた東北の人々は、関東地方で竪穴住居に住んだ東国の人々と号違わない生活を営んでいた。今日からいうと、蝦夷の人々も
私たちの先祖にあたるといえ、蝦夷の歴史をそれなりに列島の古代史の中に位置づけなくてはならないであろう
。このことは、隼人についても同様にいえよう。したがって、かつていわれたような「
蝦夷征伐
」
を正当化する一方的な歴史観
で
古代東北の歴史を扱うことは、難しくなった。
また、
発掘調査成果や出土文字資料
などが出現したことによって、新たに各地域の古代史像が見えるようになってきた。これまで文献史料によって中央・国家・貴族・ハレの出来事中心の歴史像が形成されてきたのに対して、
地方・社会・民衆・日常的出来事の姿も知られるようになってきた
のである。かつての県史・市町村史など地方史の古代史の部分は、ほとんど
六国史・律令などによって中央政府の出来事が語られていた
が、今日では、各地の地方官衛や寺院・集落・交通遺跡の姿や、聖した木簡・墨書土器・文字瓦などによって、
地方豪族や地域の人々の動向を描き得る
ようになったのである。こうして、それぞれの地域の古代史像も、
東アジア、中央や他地域との間で盛んに交流しながら展開していた
ことが明らかになった。史料に富む中央の国家貴族の歴史はもちろん大事であるが、遺跡・出土文字資料が語る地方の社会・民衆の歴史も同じょうに位置づけて、列島の歴史の全体像を総合的に措くことが求められるようになったのである。
▶︎律令国家の中央集権制
古代の律令国家が、律令や戸籍・計帳の古文書が示すように、国家による直接的な個別人身支配が津々浦々まで貫かれた「
一君万民
」の社会
だったかというと、国司のもとで戸籍・計帳の作成に果たした郡司たちの役割を考えるならば、
地方豪族の協力なしには中央集権的なシステムは動かなかった
とみられる。こうした地方豪族たちの伝統的な地域支配権を「
総括
」することによって、はじめて律令国家が存立し得たという、
石母田正(いしもだしょう)
の「
在地首長制
」の考え方は、説得力があるといえよう。
石母田 正(1912
– 1986)は、歴史学者。元法政大学法学部教授。専攻は古代史および中世史で、多数の著作・論文がある。唯物史観の観点から多くの論文・著作を発表、戦後の歴史学に多大な影響を与えた。戦後、歴史学を志した人々の多くが石母田の著書を読んだことにより、歴史学を専攻する道を選んだと述べている。
律令国家の中央集権的な地方統治の体制が、どのようにして形成され得たのかを考える時、
中央と地方の関係に焦点をあてて、国司対郡司の関係、地方豪族の動向、そして地方官衝のあり方
などから、律令国家の中央集権性について検討することが、大切になろう。その際、
古代史料がもつ制度と実態の両面の別に注意しながら、それを史料批判しなくてはならないだろう
。律令に「盗み」を禁じる条文があるからといって、古代社会には盗犯がなかったとみるべきか、『万葉集』や正倉院文書に記載された盗難の事例が示すように、実態として
盗犯があるから律令条文が規定された
とみるべきか、
制度と実態の別を十分考慮しつつ総合的かつ公平に判断すること
が求められるのである。
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