■弥生時代国際社会への参入
■前4世紀古墳成立前夜の状況
▶︎古墳とは何か
どこの国でも権力者の墓を大きくつくる時代があるが、日本の場合には古墳時代がそれにあたる。弥生時代にもすでに首長の墓と考えられる巨大な墓はつくられていた。したがって、巨大な墓を弥生時代のものと古墳時代のものとに区別しなくてはならず、それが古墳とは何か、古墳時代とは何かを考える基礎になる。その区分の評価の違いは、古墳時代の始まりをめぐって意見が分かれるところでもある。
楯築遺跡・・・倉敷市域北東の岡山市と境を接するあたりに広がる王墓山丘陵の北端、楯築神社の境内を中心とする弥生時代後期の墳丘墓です。自然地形を利用し盛り土を行って整えられて墳丘の規模は、現在知られている弥生時代の墳丘墓としては最大級です。円丘部は径約50m、高さ5m。墳丘頂部には5個の巨石が立っており、墳丘斜面には円礫帯がめぐっています。岡山大学考古学研究室による発掘調査の結果、朱の敷き詰められた棺とそれを納めた木製の槨の痕跡が発見され、鉄剣と大量のガラス小玉、土製の勾玉などもみつかりました。弥生時代から古墳時代にかけての社会の変化を研究するうえで、触れずにすますことのできない全国的にも重要な遺跡のひとつです。
古墳は前方後円墳に代表されるように、地域をこえて画一的な墳墓形式をもつのが特徴である。その点からすれば、2世紀後半に築造された岡山県倉敷市楯築墳丘墓や島根県出雲市西谷墳丘墓群などは、円丘の両側に方形の張り出しがつく双方中円型墳丘墓、あるいは方形の墳丘の四隅に張り出しがつく四隅突出型墳丘墓といった、地域ごとに独自な墳丘墓をつくつている段階のものであり、古墳とは呼べない。
3世紀になると奈良県桜井市纏向遺跡で纏向石塚という前方後円形の墳墓が築かれた。纏向型墳丘墓は前方後円墳と共通する平面形態をとり、西は九州から東は関東にまで広がる。そうしたことから、これを古墳とみなす人も多い。しかし、前方後円墳に特有の竪穴式石室をつくりその中に長大な木棺が安置され、さらに鏡など多量で画一化した内容の副葬品を納めるという特徴は、まだ成立していない。
そのような特徴を備えたもっとも古い前方後円墳が、おそらく奈良県桜井市箸墓古墳である。全長280mとそれまでの墳丘墓の倍以上の長さであり、三段以上に階段状に築造されている。おそらくといったのは、箸墓は孝霊天皇の皇女とされる陵墓だから発掘することが許されず、主体部がどうなっているかわからないからである。しかし、墳丘上から採集された特殊器台や埴輪からすれば、すでに発掘調査されているもっとも古い前方後円墳とほぼ同じ時期であり、それに加えて規格的な墳丘の型式などからすれば、主体部もおそらく竪穴式石室であり多量の鏡を副葬するなど同じような内容をもったもっとも古い墓、最古の前方後円墳といってよいだろう。
つまり、古墳時代と墳丘の規模と副葬品の内容にそれ以前とは格段の違いをもち、広い範囲に波及した前方後円墳に代表される首長墓が築かれた時代をさす。箸墓がつくられた3世紀の半ばから、大きな前方後円墳が終了してからもまだ大王や首長が墳丘墓を築いた7世紀はじめまでを、古墳時代と呼んでいる。
▶︎古墳の意義と古墳時代
古墳時代は前・中・後期に区分される。前期が3世紀半ばから4世紀後半、中期が5世紀後半まで、後期が7世紀はじめまでであるが、7世紀の古墳は終末期古墳とされる場合が多い。古墳は首長を葬った個人的な埋葬の場であるが、それと同時に画一性の高さと拡がりの大きさからすれば、政治的な役割をもつモニュメントとしての性格も帯びているといえよう。
古墳時代前期における規格性の高い大型の前方後円墳は、奈良県の大和地方に集中することから、ここがヤマト政権という政治中枢の発祥の地であると目されている。前期の前方後円墳の副葬品には、三角縁神獣鏡という縁の断面が三角形をして内区に神や瑞獣(ずいじゅう)を描いた特殊な鏡が特徴的にみられる。この鏡を30面以上出土する古墳が畿内地方に存在しており、同じ鋳型あるいは一つの鏡に粘土を押しっけてつくった兄弟の鏡がよその地域に配布され副葬されている。それはあたかも畿内地方の初期ヤマト政権と地方との間に何らかの政治的な関係が結ばれたことを示すかのようである。また、古墳を取り巻いて樹立される埴輪が地方に拡散していることも、巨大な前方後円墳の葬送儀礼が各地の古墳に取り入れられたことを示している。
古墳には大小の差があり、前方後円墳は前方後方墳やその他の型式の古墳よりも序列が高い傾向性も指摘されている。つまり、古墳というのはたんに墓であるばかりでなく、墳墓儀礼などを通じてヤマト政権との政治的結びつきの外的承認や地位を明示した施設であるといえよう。
ただし、その関係性が支配や服属によるものなのか、あるいは同盟関係や連合によるものなのかは議論が分かれる。これは、前期古墳が出現した段階ですでに中央と地方との間に政治的な支配関係が成立した国家の段階に到達しているとみるのか、それが5世紀あるいは7世紀に下るのかといった議論とも重なるものである。いずれにしても、古墳時代というのは、政治的な中心で成立した墳墓様式の広まりを通じて人々の間に政治的な優劣関係が固定化し制度化していった時代だといってよい。
▶︎古墳出現前史と纏向遺跡
しかし、古墳は突如として出現したものではない。古墳のはじまりが時代を画す決め手になるが、それでは最初の古墳の被葬者がそれだけのモニュメントをつくらせるにいたった時代背景を評価しなくてよいのか、という問題も提起されている。具体的にいえば、2世紀後半〜3世紀前半の卑弥呼の治世における卑弥呼を中心とした政治的な動向に対してである。卑弥呼の住まいや邪馬台国の位置がどこなのかという問題は別にしても、箸墓をはじめとする歴代の首長墓をいただく初期ヤマト政権揺藍の地に2世紀の終末に忽然と現れた大集落である奈良県桜井市纏向遺跡は、古墳の成立を考えるうえで注目しないわけにはいかない。
纏向遺跡は面積がもっとも大きくなった3世紀後半には東西2Km、南北1.5Kmも あり、その大半がまだ調査されていないが、それでもいくつもの重要な知見が得られている。幅およそ5mの大きな溝は運河ではないかとされ、農業生産ばかりでなく物資の運搬に重要な役割を果たしていたことが推測される。近年の調査で明らかになったことであるが、大型の掘立柱建物が三棟、軸線1に並んで出土した(図1)。日本列島全域の3世紀の大型建物群のうち、のちの都城制という都市整備計画と通じる点ではもっとも規格性のある配置状態を示す。また、辻地区の土坑からは数多くの祭祀遺物が出土している。このように、経済的、政治的、宗教的な施設を兼ね備え、突発的といってもよいような出現のあり方から、これが日本列島でもっとも古い都市ととらえてよいのではないか、という意見も聞かれる。
都市の要件としては、突発性とともに外部依存、すなわち食料など生活必需品を外部から調達する仕組みをとっていたか否かが大きを焦点となる。これは、都市が農村から分離していることに起因して、食料を外部からまかなう必要があるからであり、そのためには流通機構の整備がかかせない。そうなると今度は逆に外部からものや情報が都市に集中するようになるが、そうした求心性を反映するかのように、纏向遺跡には西は九州地方から東は関東地方に及ぶきわめて広範囲の土器がもたらされている。
さらに、都市を成り立たせるには政治的権力の存在が重要なポイントであるが、纏向遺跡がもっとも大きくなる以前の三世紀半ばに箸墓古墳が、3世紀の前半には当時の日本列島でもっとも大きな墳丘である纏向石塚をはじめとしたいくつもの墳丘墓が形成されており、歴代の首長が存在していたことがうかがえる。
▶︎首長の役割の評価
首長の役割は、物資や情報を配下のものや同盟を結んでいる集落や地域に再分配することにあるが、当時再分配された物資としては、鉄器などの経済的、武威的な道具や青銅鏡などの威信財が含まれており、他の地域と比べ物にならないはどの量が、ヤマトを中心とした前期古墳に副葬されていることからすれば、3世紀に纏向遺跡の政権を中心として広域にわたる物資流通網が構築されたことを推測することができる。その際、重要なのは鉄にしても青銅鏡にしても、製品や素材の多くを朝鮮半島や中国に求めていたことである。つまり、首長の役割は遠隔地との交通を確保して物資流通を高度化、円滑化することにあった。それがますます首長の威信を高めていったのである。
卑弥呼は景初2年(238)に魏が遼東の公孫氏を滅して帯方郡と楽浪郡を接収すると、翌年に使いを送っているように、すぐれた外交官でもあり、首長の役割を十分に発揮したわけである。その際さまざまな貢物を魏から得ているように、中国との交通関係はかなり深いところに達していたとみてよいだろう。この点について、近年の纏向遺跡の調査でわかってきたことに、若干の推測をまじえながら考察を加えてみたい。
纏向遺跡の辻地区で新たに発掘された土坑から、木製の仮面が出土した。農具である鋤 鍬を利用したものであるが、顔よりもやや大きく実際に使用した可能性も考えられる。いっしょに出土した遺物のなかに、盾の破片と鎌の柄がある。鎌の柄は武器である戈(か)の柄かもしれない。
中国の古い文献である『周礼』には黄金の四つ目の仮面をかぶり、戈と盾をもって墓に入り、四隅を打って魅魅を退散させる呪術師の「方相氏」が登場するが、纏向遺跡の三点セットは、方相氏の持ち物である可能性が高い(図2)。漢代の『漢旧儀』に は方相氏は桃を用いた呪術もおこなっていると記述されているが、纏向遺跡の別の土坑からは桃の種が多量に出土した。これらは、三世紀に中国から威信財ばかりでなく、宗教的な 道具やその使い方の情報が入ってきたことを推測させる。この時期の中国とのパイプとその結びつきは、予想以上に太く深いものになっていた可能性があるのではないだろうか。
▶︎日本海沿岸の勢力
纏向遺跡で銅鐸が打ち割られた状態で出土していることも、注目されている。2世紀までは、近畿地方は銅鐸を極度に大型化して祭りに用いており、共同体の呪術が支配的な段階であった。北部九州でも銅矛を大型化して共同体の呪術に用いており、それぞれの地域が異なるシンボルを競い合うようにして大型化していくという、二大勢力の競覇的な状態をよく物語っている。それが3世紀になると、はぼ一斉に埋納され廃絶されるが、そこに集団の統合の象徴を別のものに求めるようになったとみなす考え方は、大いに注目しなくてはならない。
あらたな統合の象徴が、墳丘墓であった。つまり、銅鐸や銅矛などの共同体の祭器ではなくて首長個人の権威にそれを求める社会が到来したのである。その際に、重要な役割を果たしたのが、まだ九州や近畿地方が青銅器の祭りをおこなっていたころにいち早く墳丘墓を形成した日本海沿岸および吉備地方の勢力である。
2世紀後半に築造された島根県出雲市西谷墳丘墓群や岡山県倉敷市楯築墳丘墓は、その代表的な例である。四隅突出型墳丘墓と双方中円型墳丘墓という、それぞれ個性的な墳形をとることによって領域支配の独自性を主張しているが、西谷2号墓には吉備地方の勢力から特殊器台と特殊壷という供献土器がわざわざ運ばれて墓に供えられたように、同盟関係のようなものをうかがうこともできる。統一的墳墓としての前方後円墳とは区別されるものの、新たな墳墓祭式の出現とそれを通じた地域間の結びつきの再編成が急速に進展していった。
近年注目されているのが、伯耆(ほうき)、丹後地域の弥生後期における鉄器の出土量の多さである。もちろん玄界灘を通じて朝鮮半島と往来する伝統的な物資流通ルートを確保していた北部九州が、鉄器出土量では群を抜いているが、丹後地方などはそれに次ぐ。
とくに際立っているのは、大型の墳丘墓に副葬された鉄刀や鉄剣である。鳥取県湯梨浜町宮内1・3号墓、兵庫県豊岡市妙楽寺墳墓群、福井市原目山墳墓群などからは、1mを超える長さの鉄製大刀が出土しており、兵庫県豊岡市東山墳墓群、京都府京丹後市左坂墳墓群や三坂神社墳墓群などから鉄剣が出土している。
このうち、佐坂26号墓や三坂神社3号墓から出土した素環頭の小刀が1世紀の後期初頭に、宮内1号墓の1mを超える長さの長刀が後期前半〜中葉にさかのぼる点は重要である。
▶︎中国との関係と倭国乱の背景
鉄器の副葬は、北部九州で紀元前3〜前2世紀の弥生中期中葉にはじまる。その後、紀元前1世紀の中期後半になると、福岡県飯塚市立岩遺跡35号窯棺などで前漢鏡に伴って素環頭鉄刀が副葬されるようになる。中国では素環頭大刀は前漢代に流行するものとされており、前108年に設置された楽浪郡を通じて前漢鏡とともにもたらされたのであろう。
弥生後期前半になると、福岡県糸島市平原(ひらばる)遺跡、佐賀県上峰町二塚山道跡、佐賀県吉野ケ里町三津永田遺跡、横田遺跡、長崎県対馬市トウトゴ山道跡など方形周溝墓や嚢棺塞から鉄製素環頭大刀の出土がにわかに増えるようになる。
前漢の後半代に新しい鋼素材が開発されることによって、華北地域でも鉄剣よりも鉄刀が多く用いられるようになるが、北部九州にいち早くその傾向が反映していることに対して、岡村秀典はその理由を倭と中国との政治的な関係性の変化に求める。つまり、鉄製の長刀は中国と倭が冊封関係を結び、「軍事的安保協定」を締結したことを象徴した中国からの下賜品だというのである。
当初それは奴国との間に結ばれた関係を反映するように、鉄刀の副葬は北部九州に限られていたが、中期未〜後期初頭になるとその範囲が伊都国あるいは遠く伯耆や丹後地方にまで及ぶことに対して、野島永は王莽(おうもう)の周辺諸民族政策の結果、奴国の権威が一時失墜したことに求める。光武帝による楽浪郡の回復と建武中元2年( 57) の奴国の朝貢などが示すように後漢の権威回復はあったが、2世紀になると楽浪郡が衰退し黄巾の乱によって後漢は衰退していく。そうした状況下に朝鮮半島の弁辰の鉄が楽浪郡の手を離れて韓・濊(わい)・倭などの広域流通となり、丹後地域にまで鉄刀が及ぶことの背景を野島は見通している (図3)。
当時生じた倭国乱という西日本一帯を巻き込んだ騒乱の背景としては、邪馬台国を中心とした勢力が北部九州のおさえていた鉄資源の流通ルートの争奪をめぐるものであったという見解が中村五郎、春成秀爾、山尾幸久、白石太一郎、都出比呂志らによって提起され有力視されていた。
その一方で、鉄器の出土状況にもとづくこれに対する批判が村上恭通らによって展開されている。たしかに村上の実証的な鉄器出土量の研究からすれば、流通ルートの奪取が完遂されて鉄器保有量が北部九州と畿内地方などの間で逆転してしまったとは考えにくいが、弥生後期における丹後地方などを中心とした鉄器の出土状況に岡村秀典が明らかにした青銅鏡の流通の変化を加え、畿内地方における前期古墳の鉄器保有量の圧倒的な状況を考え合わせれば、倭国乱の裏にやはり資源を確保するルートをめぐる確執が存在しており、それは中国の歴史的動向と即応した倭国における地域間の駆け引きやパワーバランスの変化と密接に進行した点は動かすことができないのではないだろうか。
▶︎長距離交易の意義
近年、国家形成に果たした経済活動の重要な役割が注目されている。岩崎卓也はシリア時代国際社会への参入前4世紀のエル・ルージュという盆地を例にとって、この問題に取り組んだ。エル・ルージュは肥沃な盆地で新石器時代に栄えるが、国家形成期になると没落してしまう。農業生産力の点では発展が期待されていたのに、なぜかそれに劣る周辺で国家形成が順調に進んでいく。周辺の地域にあってエル・ルージュになかったものに、ハラフ土器があった。これはいわゆる彩文土器で大変美しく商品価値に優れていた。その交易のネットワークに、エル・ルージュは乗り遅れたのが没落の原因ではなかったか、というのである。
これまで国家形成といえば農業生産力や征服戦争などの軍事的な力に負うものとされてきたが、C・レンフリユーの経済活動の進化が国家形成をたどる指標になるという見解を引きながら、交易など情報獲得戦略が国家形成の大きな鍵を握っている場合のあることを岩崎は指摘した。
楽浪郡の設置以降、漢帝国の動向という歯車とかみ合いながら、倭国の政治的な動きの歯車が回っていたことがわかる。その際に重要な役割を果たしていたのが、遠距離交易であった。さまざまな威信財(王など権力者の権威や権力を示す財物。とくに、古代における銅鏡や宝剣・王冠などで、神権と王権の不可分性を象徴した)の源泉であった中国という遠方の地域と直接、間接を問わずいかにして接触をもちそれらの品々を手に入れて蓄財し再分配するかが、共同体をまとめ上げて周辺地域の共同体と伍していく首長に課せられた大きな使命であった。初期前方後円墳の副葬品のなかに中国から入手した三角縁神獣鏡をはじめとするさまざまな威信財があり、その分有すなわち再分配が前方後円墳体制を支えているのであるとすれば、初期国家形成における首長の遠距離交易に果たした役割が大きかったことは日本列島の場合にもあてはまる。
▶︎ある推論より
○古墳時代グループ(日本:紀元3世紀~5世紀)
3のグループの三国西晋時代の神獣鏡は、同時期の他の鏡に比べ数値が集中しているが、三角縁神獣鏡については、舶載(中国製)と考えられる6面はすべて中国の三国西晋時代神獣鏡の狭い分布範囲に入り、日本製と考えられる2面はいずれも古墳時代の日本製鏡の分布範囲に入った。
この結果に関する泉屋博古館のコメントが、朝日新聞に次のように掲載されている。断定するには鏡をもっと多数分析する必要があるが、材質からは三角縁神獣鏡の一部が中国製である可能性が高まったのではないか。