日本史の始まりを求めて

■日本史の始まりを求めて

▶︎まえがき

 日本の大人たちは「教科書」に思い入れをもっているらしい。さらには教科書がひとつの価値基準になっていることもあるようだ。『00の教科書』という書名の一般書はとにかく多いし、『教科書にのらない00』『教科書が教えない00』のタイトルの本やテレビ番組も少なくない。強い関心からか、教科書に関する話題が新聞記事になることもたびたびある。そうした関心が持たれるのは数学や理科ではなく、歴史、とりわけ日本史であることが多い。

 しかし、それでいて大人たちが現在の日本史関係の教科用図書(教科書)そのものを見ているかというと、教員を除けば、実際に見ている人は多くないだろう。学齢期の子どもを持っている方も、手に取ることはあっても、一冊丸ごと読んだことはないのではなかろうか。現場の教員でも、同一教科の複数の教科書をじっくりと読み比べる機会はほとんどないだろうし、ましてや現在の小学校・中学校・高等学校のそれぞれ複数の教科書を見ることはまずないだろう。多くの方々は、数十年前に自分たちが使った教科書の記憶や、センセーショナルに伝えられたごく一部の教科書記述のイメージで、現在の教科書を捉えてしまっているのが現状ではないだろうか。

 そこで、数十年前の日本史教科書と現在の日本史教科書とでは記述内容や視点にどれだけ大きな違いがあり、またそれが主として日本史研究の進展にともなう学説状況の変化に裏付けられたものであることを読者に伝えるというのがねらいである。

 執筆者の3人は、文部科学省において十数年にわたって小学校・中学校・高等学校すべての日本史教科書に接する立場にあった。それぞれが日本史研究者として第一線に立っており、専門分野の研究状況を一応は把握している。そうした執筆者の知見に裏付けられているというのが特色になっている。

 また、一般の方々はもちろん、教員や日本史研究者のあいだでも、教科書に関する制度が的確に理解されているとはいえない。教科書の内容と並んで、教科書制度も時代の変化に対応した改善がなされているにもかかわらず、いまだに30〜40年前のイメージをもったままの言説で語られていることが多い。

▶︎「日本史」の始まりを求めて

 かって日本列島がアジア大陸とはとんど陸続きになっていた時期があったことは、よく知られている。地質学でいう更新世(こうしんせい・氷河時代とも呼ばれる)に何度かあった寒冷期の話であり、その機会に大型動物を迫って、日本列島にも人類が移動してきたといわれる。やがて世界的な気温の上昇が始まり、新ドリアス期の寒の戻りが終わった1万年余り前から、現在まで続く気候の温暖な時代、すなわち完新世(かんしんせい)に入る。この急速な温暖のなかで、ほぼ現状に近い日本列島が形成され、その植物相や動物相大きく変化する。

▶︎捏造された旧石器時代

 地質年代としての「更新世」完新世」は、1980年代までの教科書では、それぞれ「洪積世」「沖積世」と呼ばれていた。洪積世は大洪水による堆積物形成の時代、沖積世は河川の作用による堆積物形成の時代旧石器発掘の捏造を伝える新聞記事(2000年11月5日付「毎日新聞」)いう意味で、ともに日本の学界では長く使われてきた用語である。だが、ノアの洪水伝説に由来するなどの理由から、現在では基本的に使用されなくなり、教科書でも、新たな国際用語の翻訳である「更新世」「完新世」が定着するにいたった。

更新世(こうしんせい、Pleistocene)は地質時代の区分の一つで、約258万年前から約1万年前までの期間。 第四紀の第一の世。 かつては洪積世(こうせきせい、Diluvium)ともいい、そのほとんどは氷河時代であった。

完新世(かんしんせい、Holocene)は地質時代区分(世)のうちで最も新しい時代である。第四紀の第二の世であると同時に、現代を含む。かつての沖積世(Alluvium)とはほぼ同義である。

 以上の地質年代との関係で「日本史」の時代区分をみると、更新世にはぼ対応するのが、打製石器の使用を特徴とする旧石器時代完新世の新たな環境のなかで本格的に展開するのが、土器の使用などを特徴とする縄文時代ということになる。

 戦後まもなく、相沢忠洋によって群馬県岩宿の関東ローム層から打製石器が発見されたことをきっかけに、日本列島に旧石器時代の文化が存在したことが認知されるようになった。旧石器時代は、前期・中期・後期の三つに区分されるが、1990年代の教科書には、約4万年前以前の中期・前期にさかのぼる遺跡として、上高森遺跡・座散乱木造跡(いずれも宮城県)などが紹介されていた。

 しかし、2000年以降、証拠とされた石器の発掘が担造であったことが確認され、すべての遺跡名が教科書から消えることになった。以後、前期・中期の扱いについては慎重になり、現在の教科書では、発見された旧石器時代の遺跡の多くは後期のものである、と書かれるに止まっている。「日本史」の始まりをめぐる教科書の認識は、担造事件によって大きく揺れ動いたのである

◉謎の捏造裏話<相沢忠洋氏の模倣により偽装発掘した藤村俊一>

藤村俊一は、どうしてこのような犯罪にのめり込んだのか?その動機は依然として本人の供述がえられない以上不明である。しかし我々は、彼が誰を手本にして一連の行動をおこなったかは語ることができる。それは相沢忠洋の人生である。藤村の行動は相沢の行動を恐ろしいまでに模倣している
つまり藤村新一は「相沢自叙伝」を読み、それに感動し、それを模倣することで、しがない「電気メータ工場」の平工員とは異なる新しい人生を夢見たのである。

 旧石器時代の存在を裏づける資料としては、石器のほかに化石人骨がある。教科書では、その例として、静岡県のいわゆる浜北(はまきた)人沖縄県の港川(みなとがわ)人を挙げることが多い。かっての教科書には、静岡県の三ヶ日(みつかび)人や愛知県の牛川人なども掲載されていたが、これらに関しては、年代の問題や動物の骨ではないかとの疑問が浮上し、現在では言及を避けるようになっている。

 また、有名な「明石(あかし)原人」は、原人とする説が否定され、完新世(かんしんせい)のものとする見方が有力になり、現在では教科書にもそのように書かれている。

▶︎ 山内丸山遺跡のインパクト

 続く縄文時代の名称の由来となったのが、縄(撚糸・よりいと)を転がして縄目文様をつけた縄文土器である。1980年代までの教科書では「縄文式土器」と呼ばれていたが、現在では「式」を付けず、「縄文土器」とするのが一般的である。この土器の型式によって、縄文時代の時期区分がなされる。80年代までの教科書では、早期・満期・中期・後期・晩期の5期区分が使われていたが、その前に「草創期」を設ける考え方が強くなり、現在の教科書では6期区分が採用されている。この草創期にみられるのが、無文土器隆起線文土器爪形文土器などの型式で、教科書でも紹介されているが、これらは縄目文様を特徴としない、広義の縄文土器(縄文時代の土器)である。

 縄文時代の遺跡として、近年の教科書で特に大きく取りあげられるのは、何といっても青森県の三内丸山遺跡である。1992年からの発掘調査で、1500年はど続いた大規模集落の跡が確認され、縄文人の社会生活を映し出す大型建物や、経済生活を支えるクリ林の管理ヒョウタン等の栽培などが、教科書でも紹介されるようになった。ヒノキ科の針葉樹の樹皮で小さな袋で編まれた小さな袋、いわゆる「縄文ポシェット」の写真が掲載されることも多い。

 この遺跡が、教科書に書かれる縄文時代のイメージをより豊かなものにしたことは確かであろう。

 近年の変化で注目されるのは、縄文時代の開始年代に関する記述である。従来の教科書では、約1万2000年前あるいは1万3000年前から縄文時代が始まると書かれていた。現在の教科書でも、この年代観に従うのが一般的であるが、同三内丸山遺跡出土の「縄文ポシェット」(青森県教育委員会所蔵)時に縄文時代の始まりを大きく遡らせる、新たな研究成果に言及するものも増えている。1998年に大平山元遺跡(青森県)から出土した無文土器の付着炭化物を、高精度の炭素14年代測定法で測定し、その年代を補正した結果、1万6500年前という数値が導かれたのである。発掘調査の進展と年代測定技術の進歩により、教科書の記述はまだまだ変わっていく可能性がある。

▶︎ 時代区分をめぐる攻防

 縄文時代と弥生時代は何によって区分されるのか。重視されてきた指標のひとつは使用される土器の違いである。弥生土器の特徴として、物を貯蔵する壷が発達すること、装飾が簡素であることなどが指摘され、そうした新た土器の出現が、二つの時代を区分する有力な基準とみなされた。

 もうひとつの指標は、水稲農耕の有無であり、大陸からの水田稲作の伝来が、弥生時代の始まりを告げるものと考えられた。この二つの指標をシンプルに同調させていたのが、1980年頃までの教科書である。すなわち、弥生土器の出現と水田稲作の開始は同時期のできごとであり、両者がみられる紀元前3世紀から弥生時代が始まる、というのが基本的な図式であった。そして、紀元後3世紀まで続く弥生時代は、土器の型式によって、前期・中期・後期の三つに区分されると記されていた。

▶︎ 土器か稲作か

 こうした教科書の図式に変化をもたらしたのが、1970年代未から80年代にかけての新たな水田遺構の発見である。まず、福岡県の板付遺跡で、夜臼(ゆうす)式土器の出土する層から、次いで佐賀県の菜畑(なばたけ)遺跡で、より古い山ノ寺(やまのてら)式土器の出土する層から、それぞれ水田跡が発見された。これらの土器は、一般に縄文土器に分類されていて、土器を指標とする時代区分に従えば、縄文時代晩期にはすでに九州北部で水田稲作が行われていたことになる。

 さらに、岡山県の津島江道(つしまえどう)跡などでも水田跡が確認され、同じ時期に西日本でも稲作が行われていたことが明らかになった。これらの発掘成果を受けて、教科書にも、水田稲作は敵時代晩凱始まった可能性が高いと書かれるようになった。稲作の開始と弥生時代の始まりは一致しなくなったかに思われたのである。

 ところが、問題はそれはど単純なものではなかった弥生土器が使われた時代を弥生時代と考えれば、確かに稲作の開始は縄文時代に位置づけられるが、逆に稲作が行われた時代を弥生時代と考えれば、弥生時代の始まりが1世紀ほど早まることになる。稲作が始まった時期を、土器を指標として縄文時代とみなすか、縄文晩期の夜臼式土器(板付遺跡出土、福岡市埋蔵文化財センター所蔵)か、稲作自体を指標として弥生時代とみなすか。前者の立場は、縄文時代晩期という従来の編年に従い、後者の立場は、弥生時代早期という新たな時期を設定する。縄文・弥生の時代区分をめぐって、重大な意見の対立が浮上してきたのである。こうした議論の状況を踏まえて、近年の教科書では、以上の二つの立場を等しく紹介することが一般的になっている。ただ、弥生時代の始まり紀元前4世紀あるいは紀元前5世紀とする記述も定着していて、実質的には後者の立場に近い年代観が採用されているともいえよう

▶︎ 稲作をめぐる認識の変化

 九州北部に伝来した後の稲作の普及については、弥生前期に西日本まで、中期に関東地方まで、後期に東北地方まで広まった、というのが1980年代の教科書の記述であった。だが、青森県の垂柳(たれやなぎ)遺跡で弥生中期、同県の砂沢遺跡で前期の水田跡が検出され、また東北各地で九州北部の稲作文化に関連する遠賀川(おんががわ)系土器が発見されたことで、東北地方にはきわめて早い時期に稲作が伝播したと考えられるようになった。

 逆に関東地方は、狩猟・採集・漁拷の存在感が想像以上に大きく、東北よりも遅れて稲作を受容したことが明らかになってきた。これを受けて、教科書にも以前のような記述はみられなくなり、新たな認識を踏まえた伝播の過程が描かれるようになっている。

 稲作の技術に関しても、教科書の記述はかなり変化している。かっては、稲作が始まったばかりの弥生時代の技術レベルは、まだまだ未熟なものと考えられていた。田植えの技術はなかったとされ、教科書にも、水田に直接種籾(たねもみ)をまく「直播(じかまき)」が行われていたと書かれていた。ところが、岡山県の百聞川(ひゃけんがわ)原尾島遺跡で、水田跡から配列に規則性のある稲株跡発見されたことなどで、弥生時代にも田植えを行っていたとする認識が強まり、現在の教科書では、田植えのことを大きく記すのが普通である。

 また、かつては、排水不良の「湿田」から潅漑システムを備えた「乾田(かんでん)」へ、という技術の進歩が想定されていたが、水田遺構の調査によって、稲作の開始当初から乾田を利用していたことが判明し、早くから乾田が存在したと記す教科書もみられるようになった。大陸から伝来してきた水田稲作は、すでに完成された技術体系を持っていたと考えられるようになったのである。

▶︎新たな年代観の衝撃

 2003年、国立歴史民俗博物館は、弥生時代の始まりを紀元前10世紀とする研究結果を発表した。旧来の年代観を一変させるこの説は、多くの人に衝撃をもって迎えられ、すぐに教科書でも紹介されるようになったが、まだ学界に異論があり、百聞川原尾島遺跡の稲株跡(岡山県古代吉備文化財センター提供)本文で全面的に採用されるには至っていない。縄文と弥生の境界をどの時期に見出すか、いましばらく議論が続きそうである。

2003年5月の日本考古学協会第69回総会における、弥生時代は従来より500年早く始まっていたという 発表〔春成ほか2003〕は、科学研究費「縄文時代・弥生時代の高精度年代体系の構築」によって得られ たものであるが、それは学界のみならず社会的にも大きな反響となった。 そしてさらに2004年4月から、文部科学省学術創成研究「弥生農耕の起源と東アジア」の交付を受け、 AMS -炭素14年代測定法を用いた、縄文・弥生時代の高精度編年の構築を目的として、主に土器に付 着した炭化物を対象に年代測定をおこなっている。          

■ 邪馬台国論争のゆくえ

 紀元1世紀頃から3世紀にかけての日本列島では、小国(クニ)の分立状態のなかに「倭国」というまとまりが生まれ、さらに邪馬台国を盟主とした連合が形成されるという、政治的統合の過程が進行した。教科書でも、中国の史書と考古学の成果を使って、この過程が詳しく描かれてきたが、近年、さらなる考古学的研究の進展を受けて、その記述に変化が生まれつつある。

▶︎戦いから生まれたクニ

 弥生時代には、石鏃(せきぞく)が大型化して、人の殺傷に適した武器となり、土地や水などをめぐる熾烈な戦いが始まる。そうした「戦いの時代」を象徴するものとして、教科書で取りあげられることが多いのが、環濠集落と高地性集落である。環濠集落は、周囲に濠や土塁をめぐらした集落で、弥生時代中期にとくに巨大なものが出現する。高地性集落は、戦闘時に逃げこむために山頂や丘陵上につくられた集落で、弥生時代中期から後期にかけて発達する。いずれも防御的機能を持つものであり、そのような集落を生み出した戦いの中からクニが発生し、さらには複数のクニによる地域連合が形成されたと考えられている。唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡(奈良県)、池上曽根遺跡(大阪府)、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)などの巨大環濠集落は、それぞれのクニの拠点であったとされ、教科書でも紹介されることが多い。

 こうしたクニの存在は、やがて中国の史書にも記されるようになる。まず『漢書地理志によれば、前漢時代に倭人の社会は百余国に分かれ、朝鮮半島に置かれた楽浪郡に定期的に使者を派遣し、漢王朝に朝貢していたという。次いで『後漢書東夷伝には、紀元57年(建武中元2)倭の奴国の王が後漢に朝貢し、都の洛陽に赴いた使者が光武帝から印綬を賜ったと記されている。この奴国は福岡平野にあった有力なクニであり、福岡県志賀島出土の「漢委奴国王(かんのなのわのこくおう)」と刻まれた国宝の金印が、奴国の王に与えられた印の実物であるとされている。

 また、須玖(すぐ)岡本遺跡(福岡県春日市)の甕棺墓からは大量の前漢鏡などが発見され、奴国の王の墓と推定されている。このように、クニの王たちが中国に朝貢することで先進的な文物を入手し、中国皇帝の権威を背景に自国の地位を高めようとしたことを、教科書は述べている。

▶︎二つの顔をもつ女王、卑弥呼

 『後漢書』東夷伝には、もうひとつ朝貢の記事があり、107年(永初元)に「倭国王」の帥升(すいしょう)らが、生口(せいこう・奴隷か)160人を安帝(あんてい)に献上したことを記している。この記載が正しいとすれば、2世紀初頭までには、いくつものクニが連合し、「倭国」という政治的なまとまりが形成されていたことになる。そして、「後漢書』東夷伝といわゆる「魏志倭人伝」(『三国志』「魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人条)によれば、2世紀後半に倭国に大きな争乱が起こり、クニグニがひとりの女性を王に共立することによって、ようやく争乱が収まったという。この共立された女王が卑弥呼であり、彼女の居住する邪馬台国が、30ほどのクニグニから構成される倭国の盟主となつたのである。

 教科書が「志倭人伝」を史料として掲げ、邪馬台国を中心とする倭国の状況を詳しく述べることは、今も昔も変わらない。大人(たいじん)・下戸(げこ)という身分があったことや、租税・刑罰の制度が整っていたこと、また九州北部の伊都国一大率(いちだいそつ)というが置かれていたように、ある程度の統治組織が生まれていたこと、などが記されている。

鬼道(きどう)とは、邪馬台国の女王卑弥呼が国の統治に用いたとされる。『三国志』魏書東夷伝倭人条に記述がある。鬼道が何であるかについては、諸説ある。

 卑弥呼に関しては、239年(景初3・けいしょ)に魏の皇帝に使者を送り、「魏志倭王」の称号と銅鏡100面などを授けられる一方、国内では「鬼道」と呼ばれる呪術を使い、宗教的権威によって秩序を維持したことが述べられている。国際社会のなかで外交する開明的(かいめてき・優れた洞察に基づいて、新たな分野に積極的に取り組むさま)な王と、神と交信する未開なシャーマンという、卑弥呼の二つの顔が描かれているのである。

▶︎ 纏向遺跡に集まる注目

 国民的な関心事であろう邪馬台国の所在地については、畿内(大和)説と九州説を両論併記するのが教科書の通例である。ただし近年は、新たな考古学的成果を踏まえて、畿内説が有力になりつつあることを示唆するものも増え始めている。その根拠として取りあげられているのが、奈良県桜井市の纏向遺跡である。三輪山の麓に位置し、列島各地の土器が大量に出土する、3世紀最大級の集落遺跡で、2009年には東西の軸線上に整然と配置された建物群跡が発見され、大型建物の存在から、「魏志倭人伝」のいう卑弥呼の「宮室」ではないかと注目を集めた。同年以後に執筆された教科書では、この建物跡の発見に言及することが多い。

 ヤマト王権の成立にかかわる古墳の出現は、かつての教科書では、3世紀末から4世紀初め頃と書かれていたが、現在は3世紀後半あるいは中頃と書かれるようになり、邪馬台国の時代に接近してきている。纏向遺跡の地には、出現期の最大規模の古墳である箸墓古墳があり、卑弥呼の墓では纏向遺跡(辻地区)の大型建物跡(奈良県、桜井市教育委員会提供) 箸墓古墳(奈良県、桜井市教育委員会提供)ないかとの議論もある。これが正しければ、邪馬台国と古墳時代のヤマト王権は、大和の地に存在した連続的な政治権力ということになる。邪馬台国とヤマト王権をどのような関係で捉えるのか、今後の教科書の記述が注目されよう。