モエレ沼公園に託したイサム・ノグチのメッセージ

■モエレ沼公園に託したイサム・ノグチのメッセージ

▶︎第1章・モエレ沼公園の系譜

 1998年7月に札幌市の北東郊外に一部オープンしたモエレ沼公園は、世界的彫刻家イサム・ノグチ(1904−1988)の最後にして最大規模のランドスケープ彫刻であり、いわばノグチ・イサムの作品といえる。そこにはイサム・ノグチから次の世代の子供達すなわち21世紀へのメッセージが込められているという。彼が制作の舞台として選んだ土地<キュレ>は、もともとアイヌの人々の言葉で<静かな水面>を意味し、四半世紀前までその静謐な面影を残していたが、その後、清掃事業計画のゴミ処理場として札幌市が用地を取得し、1979年から不燃ゴミや焼却残滓といった廃棄物を埋め立て、さらに1982年から公園造成開始という数奇な遍歴を経て今日に至る。

 本研究は、イサム・ノダチが1988年12月30日に急逝する直前の数カ月間に携わったモエレ沼公園のマスタープランにおいて、彼自身の手によって作成された設計図面や模型を主な分析対象として、モエレ沼に託した彼のメッセージが何であったかを考察するとともに、2005年7月1日の全面完成を目指し現在も建設進行中のモエレ沼において彼のコンセプトがどのように受け継がれているか現地調査を通して検証することを目的とする。

▶︎ 1−1モエレ沼公園に関する既往の研究

 本研究に関連する国内及び国外における研究状況についていえば、イサム・ノグチ及び彼の作品に関する評伝の類は枚挙にいとまがなく、ニューヨークのイサム・ノグチ庭園美術館ではこれらをまとめインターネットのホーム・ページでも公開している。しかしながらモエレ沼公園に関しては、当該作品が彼の逝去後に実現し、なおかつ建設途上であることもあってイサム・ノダチ作品としての記録はまとまっておらず、当然その芸術作品としての評価も定まっていない。この点については札幌市当局としてもモエレ沼関連のドキュメントが散逸する前にその編纂の必要性を指摘している。なお、イサム・ノグチが手がけた庭園など公共的作品の制作過程についての稀少記録として、建築家ルイス・カーンとのコラボレーションによるニューヨークのリヴアーサイド・ドライヴ公園計画(1961−八代克彦66)があるが、これは計画案にとどまり、その後30年間イサム・ノダチの体内で熟成されたアイデアが時空を超えて札幌で実現されたことになる。

▶︎ 1-2 イサム・ノグチとモエレ沼公園の系譜

『THE SCULPTURE OFISAMU NOGUCHI,1924−1979 ACatalogue(イサム・ノグチの彫刻 カタログ1924−1979)』03『ISAMUNOGUCHI/A StudyofSpace(イサム・ノグチ/空間の研究)』

 モエレ沼公園の図面を中心とした分析に先立ち、モエレ沼公園とノグチの生前の作品との関係を一望するために、その系譜を図1−1の樹形図にまとめた。主な資料としての2文献の中から、モエレ沼公園に関連する作品を抽出し、時間(年代およびノダチの年齢)を縦軸に、作品の規模(左が大、右が小)を横軸にとり、樹形図を作成した。この樹形図で各作品下の作品名に付された丸印は、●がノグチの生前に実現した作品で、○が実現せず計画案にとどまった作品である。この中で明らかにモエレ沼公園で引用されているものについては樹形図の線を●または○に延ばして表示した。なお各作品の所在地を図右上の世界地図に示す。

 この樹形図では、ノグチの生前に実現した●38作品と計画案にとどまった。15作品がモエレ沼公園と結ばれており、モエレ沼公園には少なくとも50を超える姉妹作品が世界中に存在していることになる。またこれらは年代的に見てもノグチの20代から晩年にいたるまでの作品を満遍なく網羅しており、まさに彼の生涯がモエレに注ぎ込まれているといっても過言でない。

 また樹形図中の作品名から、年代順に8つのキーワード:Play Mountain Playground,Park,Garden,Sculpture,Plaza,Fountain,Gateを抽出することができ、これらのキーワードによって樹形図の幹が構成されている。こうした構成はモエレ沼公園が単なる既存の公園とは異なり公園に集まった人々のさまざまな行為や体験を許容することを顕現している。

■第2章モエレ沼公園の設計過程

 イサム・ノグチは、彫刻、モニュメント、舞台美術等、幅広い活動を行った芸術家である。ノグチは、1933年(29歳)「未来の彫刻は大地になされるものかも知れない」と直感し、その後も大地にメタファーとしての遊び場を創るアイデアを生涯心の中に抱きながら制作を続けた。モエレ沼公園(図2−1)はそうしたイメージの集人成であり、ノダチの死後も札幌市が彼の意思を引き継ぎ、イサム・ノグチ財団とショージ・サダオが監修し、設計総括をアーキテクト ファイブが行っている。

 モエレ沼公園のマスタープラン作成時にノグチ自らが制作に携わった図面と模型を分析対象に、その設計過程を明らかにするとともにモエレ沼の土地の来歴と併せて考察を加える。

▶︎ 2−1 分析対象とする設計図面

 ノグチは1988年2月中旬(84歳)に、モエレ沼を含む参画予定候補地の3カ所の資料を札幌市より受け取った後、計4回来札した。この間の経緯については表2−1(表の網かけ部分はノグチが札幌に滞在)に、また分析対象とした図面の出典を表2−2に示す。 

 図2−2は、1988年5月から11月までの7カ月間にノダチが作成した図面と模型を時間軸に沿ってまとめたもので、岡の下半に各施設の変更内容を記す。このうち図面番号⓪:ノグチ参画前の予定案と、⑦:完成図はそれぞれ市当局とアーキテクトファイブによるもので、ノグチが実際に描いた図面と制作にかかわった模型は白抜きの❶〜❼および❶’❼’である。また下半の表の網かけ施設は、ノグチが参画後に新たに提案した施設である。マスタープランの制作はヒアリングによれば、ノグチが高松市牟礼町及びニューヨークのアトリエで作成した図面をアーキテクトファイブが模型にし、ノグチの来日時、その模型を修正するという手順を繰り返しながら進められた。ノグチはスケールに関して絶対の自信を持ち、模型でのスタディを繰り返していたとのことである。

▶︎ 2−2 モエレ沼公園基本設計図の検証

 図2−2の⓪は、1982年に市当局が作成したものであり、その延長上にノグチは参画することになる。⓪からの引継事項すなわち変更出来ない項目として以下の7点がノグチに提示された。

01モエレ沼河川区域の計画内容の変更
02 造成済みの施設の改変
03 送電線のルート
04 ゴミの埋設区域
05 桜の木一万本の植裁
06 山と運動施設
07 公園区域内の雨水貯留機能

このうち03送電線ルートについては、当初公園内の一画、南側メインエントランス部分を東西に横切るという無謀なものだったが、ノグチと市担当者の関係機関への要請によって❹の1988年9月時点で幸いにも変更となった。

 またノグチはモエレ沼公園のマスタープランの基本構想として当初から「全体をひとつの彫刻」とすることを掲げている。以下では、この点を勘案しながら図2−2の各段階における変更点を細かに検証する。

 ⓿から❶では、計画そのものが根底から見直された。すなわち⓪では園路が回遊式の不定形曲線だったのが、ノグチ案❶では大小の点在する円形エリアを直線囲路でネットワーク化するという劇的な変更が提示された。ネットワーク化することで全体をひとつにするという強い決意がうかがわれ、同時にモエレビーチと中央噴水を貫通する軸によって公園全体に方向性が暗示される。また駐車場ヤ管理事務所の設置にともないメインアプローチが北から南へ移動した。

 ❷では、野外ステージに大まかな等高線が描かれ、タワー、中央噴水、モエレビーチなどの位置やスケールに試行錯誤の痕跡が見られる。タワー右側には、「entry,exit,garage」と書き込みがあり、細かな機能配置についても同時に考えていることが読み取れる。公園へのアプローチは5カ所から南東の1カ所を削って4カ所となる。またこの段階で主軸のスタディが盛んに行われていることがいくつものコンパスの針の跡から読み取れる。

 ❸では、市からの要請もあり、北側に防風機能を持つプレイマウンテンが出現し、西隣のテトラマウンド、カナール等の位置や規模にも変化を与えたことが読み取れる。図面右下には「Each rise x 2m to scale」の書き込み通り、図面に2mおきに等高線が措かれ、基準レベル「±0」の表記もみえる。同時に、中央噴水とモエレビーチの中心を通る主軸が一点鎖線で顕在化し、公園全体の立体的イメージや配置構想が固まりつつある。なお野外ステージには「Amphitheater」、タワーの右側には「Play ground for child with parents Restaurants Underground garage.Administration on CENTER」といった諸施設の名称が記されている。

 ❸までの模型及び図面は縮尺1/3000であったが、❹以降は1/2000とスケールアップされ、ノグチの視線とモエレ沼公園との距離が徐々に接近していく様子が読み取れる。❹は公園東側半分の図面で、中央噴水の中心を通る、東西方向から28.60傾いた主軸が確定し、これ以降、中央噴水を囲む全ての施設が主軸及びその直交方向に沿って整然と配置される。具体的には、プレイマウンテンは三角錐から四角錐へと変形し主軸に沿って配置され、さらにサクラの森の園路もそれまでの放射状配置から主軸とその直角方向の格子状配置へと変化した。また公園へ南側からアプローチする際のランドマークであったタワーがなくなり、右側のガラスのピラミッドにその機能が移行したことで、公園全体に反時計担=〕の回遊性が自然に生まれ、人々は中央噴水を左手に見ながら、ガラスのピラミッド→桜の森→モエレビーチープレイマウンテン、さらにプレイマウンテンの頂から市街を一望というストーリー性も加わった。

 ❺はそれまでの経過をまとめたもので、❸のときにくらべ野外ステージの瓢箪形(ノグチはこれを「saddleすなわち鞍形」と表現したが)のプロポーションが細長くなり、その他の部分についても主軸とその直行方向で全体的に統一された。なおアーキテクトファイブの川村氏は軸の決定に作用した要素として、沼の形とのバランスと南北2つのアプローチの存在を指摘している。

 ❻では、中央噴水の中心を通る第2軸が描かれ、中央噴水が公園の中心であることが再確認できる。また野外ステージはそれまでの鞍形曲面から正方形の対角線を折り曲げた形態へと改変され、モエレ山と野外ステージのなめらかな一体性を故意に崩している。この点については公園北側からアプローチしたときのシークエンスに対するノダチの執拗なこだわりがうかがえ、陸上トラックの観客席−−−土手状で「walk」の文字が記入、公園を散策する際の経路−−−−の後方で重なり合う、野外ステージとモエレ山の稜線の対比−−−前者の石の硬質な直線と後者のなだらかな緑の曲線−−−が意図されている(写真2−1)

 ❼では、プレイマウンテンの西側三角面の傾斜が緩やかになり、モエレビーチの水面の形態を決定するなど、細部での詰めが行なわれている。さらにノグチ自身が模型上でスタディしたといわれている植裁配置についても、幾何学的形状に整えられたことが読み取れる。

 ❼から実現案⑦での変更点としては、東側の橋があげられる。モエレ沼公園は公園内部で完結するのではなく周辺敷地への連続性も配慮したものであったが、東部対岸の用地買収が出来ず、実際には東の橋は軸線上を通すことが出来なかったことがわかる。

▶︎  2−3 モエレ沼公園の軸についての歴史的な考察

 図面❹で確定した東西方向から28.60傾いた主軸(図2−3)は、ノダチが航空写真や地形凶を参照し、さらに現地視察を経てモエレ沼の形態とのバランスの中で決定したものである。このモエレ沼全体の配置をコントロールする軸線について古地図を辛がかりに札幌市の歴史と重ね合わせると以卜のことが明らかになった。

 モエレ沼周辺が早く現れるものとして図2−4の約100年前の地図があり、モエレ沼下端から放射状に村境線が放射状に描かれている。村境12′15は一般的に、川筋や地形の起伏をよりどころとする自然境界と、測量によって直線的に決める人工境界の2種類ある。札幌市史編集委員会へのヒアリングによると、モエレ沼周辺の村境は後者によるとのことである。ただし図2−4を見ると、人工的とはいえ、河川の分岐点や既存の橋などを起点としていることがわかる。ここでモエレ沼公園の空撮写真(図2−3)と一連の古地図を見くらべると、ノグチが採用した主軸は時代的には分断されながらも丘珠村と苗穂村間の村境をほぼ引き継いでいることがわかる。少々牽強付会の説ではあるが、モエレ沼の土地柄について〈イサム・ノグチ〉〈市民のゴミ捨場〉、さらに世紀を遡り、〈明治の開拓者たち〉、〈アイヌの人々〉〈静かな水面〉と言葉を重ね合わせるとモエレという土地のゲニウス・ロキ(地霊)を垣間見ることができる。

ゲニウス・ロキ(genius loci)はローマ神話における土地の守護精霊である。 地霊と訳される。 蛇の姿で描かれることが多い。 欧米での現代的用法では、「土地の雰囲気」や「土地柄」を意味し、守護精霊を指すことは少ない。