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歴史・人物と地名
■製鉄に関わる渡来氏族の地名
塚本洋司
日本の鉄の歴史は、
縄文時代晩期以降に少数の鉄器が輸入
されたことから始まる。日本各地から見つかった、鍛冶が行われた
遺跡の発掘調査の結果
から、移入鉄器と鉄素材を用いた
鍛冶の開始時期が、紀元1世紀
であることがわかってきた。
3世紀
には
精錬鍛冶が開始
され、
5世紀が鉄の生産量や生産技術において鍛冶の転換期
であったこともわかってきた。
その転換期である
5世紀に、鉄の生産に関係
したのが、
朝鮮半島から来た渡来人
だと考えられている。ここでは、この
渡来氏族
に関わる
地名を紹介
してみたい。
▶︎大和の四邑の漢人の祖
まず、
中国系と称する渡来人集団
およびその
後裔
だという漢人は、
『日本書紀』神功皇后5年3月己酉条
にはじめてみえる。ここには
葛城襲津彦(かつらきのそつびこ)
が
新羅を攻撃後に連れ帰った俘人
(とりこ・捕虜のこと)が、
桑
原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしみ)
の
四邑の漢人の始祖
となったという内容である。これら四つの地名をみてみよう。
桑原
は、平安期にみえる地名では
大和国葛上郡桑原郷
である。現在の
奈良県御所(ごせ)市池之内・朝町
には桑原の小字が残っている。この地を拠点とする、地名にちなむ氏族が
渡来系の桑原氏
である。
姓氏家系」によれば、大和国葛上郡桑原郷にいた新羅の俘人とか。この俘人とは新羅人ではなく、新羅に道を阻まれた帯方漢人だろうかとありますね。桑原村主は漢の高祖の末裔と称していたようです。
公姓の桑原氏は、朝鮮半島からの技術者である漢人集団の在地統率者として、桑原村主の系統を引く渡来系民族。桑原の姓は大和国葛上郡桑原郷(現御所市掖上)の地名に由来する。
佐糜(さび)
は、現在の御所市
東佐味・西佐味に比定
(ひてい・同質のものがない場合、他の類似のものとくらべて、そのものがどういうものであるかを推定すること)される。中世には
佐味荘
があった地域であった。地名の由来は、
韓鍛冶
の技術に関係するもので、
サヒは朝鮮語で鋤(すき)・剣を意味
するという。『
常陸国風土記
』には、
香島部高浜松の鉄
で剣を作ったという鍛冶の
佐備大麻呂
がみえる。
【韓鍛冶】大和朝廷に仕えた渡来人の
鍛冶部 (かぬちべ)
。鍛冶・銅工・金作などに従事した。
高宮
は、平安期にみえる地名では
大和国葛上郡高宮郷
である。高宮は、現在の御所市森脇の
葛城高丘宮伝承地
とする説、
同市西佐味の
とする説がある。この地を拠点とする、地名にちなむ氏族が
渡来系の高宮氏
である。
忍海(おしみ)
は、古代から近代までの
郡名
としてみえ、現在の
御所市と葛城市とを含む広域地名
であった。現在は
葛城市忍海
として残っている。この地を拠点とする地名にちなむ氏族が
渡来系の忍海氏
である。忍海氏は、
金属に関係する技術者
と考えられている。
金属生産に関わると思われる地名は、
佐糜と忍海
であるが、これら四つの地名は、古代に活躍した
葛城氏の勢力圏内
に存在する。葛城氏の勢力圏内で、
金属に関わる地名をいま一つ紹介
する。それは
朝妻(あさづま)
で、江戸期には
朝妻村
とみえ、現在は
御所市朝妻
として残っている。この地を拠点とする、地名にちなむ氏族が渡来系の朝妻氏である。
▶︎有力豪族葛城氏の下で
これらの地名を含む一帯は、大和政権内の有力豪族であった
葛城氏の勢力圏内
である。紹介した地名を中心とした周辺が、
技術者集団である渡来人を葛城氏が管理下
におき、住まわせた場所であると考えてよい。このことは、
葛城氏の勢力圏内
における
発掘調査の成果
でもわかってきたのである。
南郷遺跡群(御所市南郷・下茶屋ほか)の発掘
で、
葛城氏の管理下の金属器工房
の様子がわかってきた。
南郷遺跡群から鍛冶に関連する遺構や遺物
が確認され、五世紀には鉄器の生産が行われていた。工房と思われる施設が、首長の居館内など特定の地域に集中していることから、工房が集中管理されていたという。
そして
韓式系土器が出土
していることから、朝鮮半島からやってきた人々が生活していたことが推定されている。なお、
御所市の名柄・南郷遺跡群
が葛城氏の本拠地であり、「高官」とする説がある。
この5世紀という時期は、
葛城襲津彦の娘である磐之媛(いわのひめ)が、仁徳天皇との間に履中(りちゅう)・反正(はんぜい)・允恭(いんぎょう)天皇をもうける
など、
大王家との外戚関係で政治力を高めた葛城氏
の政治動向時期と一致するのである。さらに、葛城襲津彦の墓と推定されているのが、全長246メートルの
室宮山古墳(重大墓とも、御所市室
)である。
この古墳の時期が、
4
世紀末から5世紀初
である。また、この時期は、いわゆる
「好太王碑文(こうたいおうひぶん)」や「倭の五王
」などにみられる、
大和政権の対外活動が活発な時期
であり、
渡来人の動向と関係があったことはいうまでもない
。
発掘調査の成果から、大和政権の歴史のなかで、
葛城氏の歴史が徐々に解明
されてきたのである。そのなかで、葛城氏の管理下にあったと思われる
渡来系氏族
を考えるうえで、
現在までに残っている地名は大きな役割
を果たしているのである。
■官職名を含む地名・・・官職名にもとづく地名も、たどってみると伝説に由来していたらする。
横 道雄
律令制度の成立によって誕生した
官職名を含む地名
は、その
官職自体が形骸化
してから以後も、長期間にわたって
出現
しっづけている。それは、令制の官職名のみならず、令制成立以後に追加された
令外(りょうげ)の官職
名
も、武士の活躍した時代には、官途や通称などとして盛んに用いられたからであった。
令外の官・・・律令の令に規定された以外の官職・官庁。内大臣・中納言・参議・検非違使・蔵人所・近衛府・摂政・関白などがある。
位田(いでん)は、日本の律令制において、五位以上の有位者と有品の皇族へ位階・品位に応じて支給された田地である。租の納税が義務づけられる輸租田とされていた。なお、品位に応じて支給された田地は品田(ほんでん)とも呼んだ。
とはいえ、当初は貴族層に位階に応じて与えられた
位田(いでん)
にちなむ地名が多かったように看取される。
本来は、死没すれば没収されるはずの位田
ではあるが、
寺院に施入(せにゅう・寄進)されれば没収をまぬがれる
ようになり、やがて十二世紀から十三世紀にかけては
私領化
して、その
家領(けりょう)荘園化
が進んだ。
▶︎位田・職田名より名主名
長承3年(1134)閏12月15日の
待賢門院庁下文案
(たいけんもんいんのちょうくだしぶみあん)によると、越前国(福井県)
河和田荘
に所在した「
左衛門督家位田(さえもんのかみけいでん)
」は、京都の西北にある
仁和寺に臨接する法金剛院の
懺
法堂領(せんぽうどうりょう)に寄進されている
ことがわかる。この場合、「左衛門督家位田」という地名は、河和田荘に「混合」されてしまうことで、ほどなく消滅していったことであろう。
左衛門督とは。意味や解説、類語。左衛門府の長官。正五位上相当
また、天治2年(1125)8月13日の
法隆寺伝教院下文
にみえる「
大弐荘(だいにのしょう)
」は、関連文書から
大和国平群(へぐり)郡
のうちに所在していたことがわかる。この荘園は、太宰府次官の職に応じて支給された
職田(しきでん)
にちなむ地名のようにも考えられるが、多くの荘園名が荘園制度の崩壊とともに消滅していったのと軌を同じくして、その名称は今に伝わっていない。
ところが「太郎丸」「次郎丸」「松永」とよなが「豊永」など、平安・鎌倉時代の荘園あるいは公領内に所在していたであろう名田に由来する地名は、意外に多く現存しているように考えられる。たとえば、弘安九年(1286)9月5日の
関東下知状写に鶴岡八幡宮若宮の神主伴時綱の領地
としてみえる「
越後国加地荘富塚条
」内の「内記大夫新保」とは、「
新保」(国司公認の新開発地)
とはいうものの、
名田
(名主の開発した私有田)と同様なものであったと考えられ、その「内記大夫」とは、その名主である人物の通称と考えられる。この地名は、「
天保郷帳」
では、「
太夫新田
」「
太夫興野(こうや)
」に引きつがれ、
新潟県聖籠(せいろう)町の「大夫(だいぶ)」
となっている。
また、江戸時代でも、
新田開発は全国的に大いに発展
するが、それに応じて
開
発主体の人物名が地名につけられることも枚挙にいとまがない
。そのとき、その人物名の通称に、
官途名のなごりとして官職名
が含まれることが多くみられる。元和年間(1615〜24)に山田市右衛門が開発した
新潟県新津市「市右衛門新田
」、寛永十六年(一六三九)の「
横越島絵図」
にみえる「
八郎右衛門尉新田
」(のち寺山新田の枝郷となり、現在は新潟市「
石仏新田」
)などは、その例である。
▶︎伝説にちなむ官職地名
このほか、伝説にもとづくものもある。たとえば、鎌倉市雪ノ下に所在する鶴岡八幡宮の背後にある「
大臣山
」は、
藤原かまたり鎌足が鎌を埋めた所だと伝えられていた
。
すなわち、鎌足が死没直前に「
大織冠(たいしょっかん)
」とともに「
大臣
」の位を与えられ、「
太政大臣正一位」を追贈
されたところから、
その山名が生じた
のであろう。ただし、「
大神山
」と書くのが正しいとする説もあり、源頼朝が
勧請(かんじょう・神仏の来臨を願うこと)
した「
八幡大神の奥の院の山
」から名付けられたものであるともいう。真偽のほどは不明とするしかないが、後者のほうが説得力はあろう。
また、宮城県気仙沼市の市街地の郊外西方の丘陵は「
中納言原
」と呼ばれるが、それは弘仁年間(810~24)頃に「
三位中納言
」であった「
菅原昭次卿
」の住居があったことにちなむと伝えられている。この伝説は、
安永元
年(1772)
に成立した『
封内風土記
』にみえるが、上級貴族が陸奥国に住居を有したとは考えられず、中納言だったとされる
人物名も江戸時代的な架空のもの
であり、とうてい信じることはできない。
『封内風土記』(ほうないふどき)は、日本の江戸時代に仙台藩が編纂した
地誌
である。1772年に完成した。仙台と領内のすべての村について、地形・人文地理に関わる事項を列挙・解説し、各郡ごとに集計し、さらに郡単位の統計事実や解説を加える。著者は仙台藩の儒学者田辺希文。全22巻で、漢文で書かれた。
これに対して、
岡山県岡山市の「中納言町
」は、江戸時代に同市小橋町の東で「大伴中納言家持」をもじって「
中納言の焼餅」と称した焼餅屋に由来する
という。これなどは、店の看板から生じた地名である。
■足利一族の名字と地名・・・室町将軍家であった足利氏は、清和源氏から出て広く各地に広がら、多くの氏を生み出した
。
下山 忍
名字は苗字とも書くが、代々伝わるその家の名である。現在では氏や姓と同義語として用いられるが、
氏・姓・名字は本来別のもの
である。古来、
氏は血族集団の公式の名称
であり、
姓は「かばね」と読んで真人・朝臣などの世襲の家格を示す称号
であった。これに対して名字は、
平安後期以降
、
同一の氏から分離した武士の支族が新たに名乗った家の通称
であり、
地名にちなむものが多い
。
尊氏以来の室町幕府将軍家として知られる
足利氏
は、氏としては
清和源氏
である。
源義家の孫義康が下野国(栃木県)足利荘を本拠として足利氏
を称した。ちなみに義康の兄弟である
義重に始まるのが新田氏
で、後の南北朝内乱においては足利氏と相争うことになる。
義康の子義兼は源頼朝の鎌倉幕府創設に功を挙げ、北条時政の娘を妻に迎えた
。その後の
足利氏嫡流も代々執権北条氏と姻戚関係を結んで勢力を増し
、幕府内で重きをなした。もちろん
「足利」も名字
であるが、一族が各地で発展して代を重ねると、それぞれの家の別を示す必要が生じて
新たな名字
が生まれたのである。
上野国(群馬県)は
新田氏の勢力が強かった
が、
本拠足利荘からも近いことで足利一族も移住
した。足利義兼の子義胤(あるいは義兼の次男義助の子という説もある) が
桃井郷(群馬県榛東村)を領して桃井氏
を、泰氏の子義顕は
渋川荘(群馬県渋川市)
を領して渋川氏を称している。また、後に室町幕府の管領家となるしば
斯波氏(しばし)
も
足利泰氏
の子
家氏
に始まる一族で、
陸奥国斯波郡(岩手県紫波郡紫波町)
領有に由来する。
▶︎各地に広がった一族
藤原秀郷の流れをくむ大豪族の小山氏
が
ひかえていた関係で、鎌倉時代、足利氏は本領のある下野国の守護となることができなかったが、
上総国と三河国の守護
となり勢力をふるった。とりわけ
三河国には足利氏の所領も多く、一族も発展
して国内各地に
蟠据
(ばんきょ・
根を張って動かないこと
)した。足利義氏の
従兄弟(じゅうけいてい・いとこ)
である
義実の三子実国・義季・義宗
が、それぞれ
仁木郷・細川郷
(いずれも愛知県岡崎市)
戸賀崎郷
(愛知県西尾市)を本拠として、それぞれ
仁木氏・細川氏・戸賀崎氏
を称した。このうち、
細川氏
は後に室町幕府管領家として発展し、阿波・讃岐両国を中心とした戦国大名としても知られる。安土桃山時代には
没落
するが、支流の細川藤孝(幽斎)・忠興父子の活躍によって
再興
され、江戸時代には肥後熊本の大名として残った。
そのほかにも三河国では、
足利義氏
の孫
満氏(吉良家)
・
国氏(今川家)
がそれぞれ吉良荘(愛知県吉良町)・今川荘(愛知県西尾市)を本拠として、それぞれ
吉良氏・今川氏
を称し、同じく義氏の孫公深が吉良荘の一部である一色(愛知県一色町)に住して
一色氏
を称した。
今川氏
は室町時代、遠江や駿河の守護となって勢力をふるった。戦国時代、上洛を目ざした
今川義元が桶狭間の戦い
で織田信長に敗れたことはよく知られている。また、
吉良氏は江戸時代、幕府の儀礼をつかさどる高家
となった。
吉良上野介義央
(よしなか)は「忠臣蔵」の
赤穂浪士の敵役
としてあまりにも有名である。
余談ながら、
室町幕府管領家の畠山氏も足利氏の一族
で、これは鎌倉御家人の畠山重忠が北条氏に討たれた後、その妻
(北条時政の娘
)が
足利義兼
の子
義純に再嫁
したため、
義純
が
畠山の名跡を継承
したことによる。また、下野国
喜連川(きれつがわ
・栃木県喜連川町)によった
喜連川氏
は
古河公方につながる由緒で豊臣秀吉に見出され
、江戸時代は石高5000石ながら10万石の格式を与えられるなど優遇された。参考文献豊田武『苗字の歴史』(中央公論社、一九七一)
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