信仰と地名

■信仰と地名

■鹿島神宮ゆかりの地名・・・軍神として特に東国の武士の信仰を集めた鹿島神宮は、蝦夷征討とともに東北地方に分社がつくられた。

川島孝一

 鹿島社の惣鎮守(そうちんじゅ)である鹿島神宮は、茨城県鹿嶋市(佐賀県鹿島市と区別するため字体を変えている)に鎮座する古代以来の大社であり、「神宮」と称されたのは、伊勢・香取とこの鹿島の三社のみでとある。祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)であり、この祭神はの祭神である経津主命(ふつしぬのみこと)とともに、天孫降臨に先立ち、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定した神として知られている。『常陸国風土記』では「香島天之大神」と記され、香取神宮の祭神とともに、大和朝廷の東国平定事業に大きな役割を果たしたところから、「軍神」として信仰をあつめていった。

  また常陸国防人(さきもり)とも関係が深く、天平勝宝七年(755)2月九州へ赴く常陸国那珂郡の上丁大舎人部(おおとねりべ)千文が詠んだ「あられふりかしまの神を祈りつつ すめらみくさにわれは来にしを」(『万葉集』巻二〇)という和歌がもととなり、出征する者・遠出する者は、武運の長久・行路の平安を鹿島の神に祈願をし出立していった。いわゆる「鹿島立ち」とよばれることとなる。

▶︎ 藤原氏の崇敬と蝦夷征討

 鹿島神宮の社領は、『常陸国風土記』によれば、大化5年(649)下総国海上国造部(うなかみくにのみやつこべ)の一里と常陸国那賀国造部内の五里をそれぞれ割き、別に神郡として鹿島郡を設置した。そしてその地にあった「天(あめ)の大神社(おおかみ)・坂戸の社・沼尾社」の三社を合わせて「香島の天の大神」と称したという。鹿島建都に際しては、中臣氏の関与が深かったようで、中臣鎌足がこの地の出身であるとう言い伝えは古くからあったようである。そのため以降、藤原氏の厚い崇敬を受けることとなる。

出生地は『藤氏家伝』によると大和国高市郡藤原(奈良県橿原市) 。また大和国大原(現在の奈良県明日香村)や常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)とする説(『大鏡』)もある。

 鹿島社の祭神・武甕槌命(たけみかづちのみこと)が軍神としての性格をもっていたところから、律令国家による蝦夷征討と深く関わっていたようであり、東北地方を中心に多くの鹿島社の分社が残されることとなった。

鹿島神宮 茨城県鹿嶋市宮中2306-1
鹿嶋神社 茨城県常陸太田市春友町字箭之根山406
鹿嶋神社 富山県下新川郡朝日町宮崎1484
鹿島神社 福島県福島市鳥谷野宮畑8・9・10
鹿島神社 福島県福島市小田字鹿島山29
鹿島神社 福島県福島市岡島字竹ノ内63
鹿島神社 福島県伊達郡国見町大字藤田字北38
鹿島神社 宮城県栗原市築館字黒瀬後畑64
鹿嶋神社 福島県いわき市常磐上矢田町字花木下34
鹿嶋神社 福島県白河市大鹿島8

 たとえば十世紀初頭に編纂された『延喜神祇式(えんぎじんぎしき)』に「陸奥国一百座」のなかに「亘理郡(わたりぐん)」の鹿島伊都乃比気神社をはじめ七社がみえている。これらは蝦夷征討軍に参加した東国の兵士たちの守護神として、また東北地方へ移住した坂東の人々が信奉していたことによると考えられる。東北地方の鹿島社の分社の分布をみてみると、太平洋沿岸諸地域および北上川などの大河川沿いに所在している。このことは蝦夷征討軍や移住民が海上航路から進んでいったことを暗示するものである。鹿島社には、在地では水上交通の神としての信仰もあわせもっていたためである。

▶︎鹿島事触れ

 武神・鹿島社はその後、源頼朝をはじめ武士たちの信仰を集めていくが、鹿島神宮には古くから巫女の役割をもった「物忌(ものいみ)」という女性神職があり、これが本殿の奥に出入し神の託宣を受ける霊力があるといわれた。この「物忌」が予示したその年々の豊凶などを民衆へ伝えるべく神人団による巡業が行われた。これが「鹿島事触れ」とよばれるものであり、のちこの事触れの豊凶の予示とともに、鹿島神が悪霊を歌舞によって退散させ得るとの信仰を付加し、鹿島送り・鹿島人形・鹿島詣などの習俗を東日本一帯に流布させることとなる。

 しかし江戸時代になると、「鹿島事触れ」と称して神託といって予示をし礼物を受けとったりして庶民を惑わしはじめたので、寛文10年(1670)、寺社奉行は取締りに着手した。この結果、「鹿島事触れ」に代わって御師(おし)の制度が生まれ、講を組織したあらたな信仰形態が形成されることとなる。

 「鹿島」は東日本を中心に、信仰と結びついた地名として各地に伝わっていくこととなる。他方、佐賀県鹿島市の「鹿島」の由来の一説には、「常州鹿島社を此に遷す」とあり、古代の防人がもたらしたものであろうか。

■香取神宮ゆかりの地名・・・鹿島神宮と並ぶ東国の大社、香取神宮は、10世紀以降の開拓地である利根川・元荒川流域に分社が祀られた。

川島孝一

 香取社の惣鎮守である香取神宮は、千葉県佐原市の亀甲山に鎮座する古代以来の大社であり、『延書神祇式』神名帳においては、伊勢神宮・鹿島神宮とともに「神宮」と称されている。祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)であり、この祭神は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天孫降臨に先立ち鹿島神宮の祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)とともに、出雲国へ赴き大国主命(おおくにぬしのみこと)に国譲りをさせたという神話に登場する。経津主神という名は、神武東征神話にみえる「布都御魂(ふつのみたま)」という刀剣の鋭い霊威を示す語であり、大和朝廷の国土統一に大功のあった「武神」として語られている。

 他方、『日本書紀』には香取の語義として、「東国楫取(かじとり)の地」とあるように、カジトリすなわち船の航行を司る神として説明されている。香取の地は関東地方の東端に位置しており、利根川の河口近くにあり、湖や入り江が多く、かつ太平洋に臨む地にあり、「香取の海」と称され、鹿島神宮とともに大和朝廷の水上交通要地として重要視されていたようである。

▶︎香取・鹿島から春日大社へ

 香取・鹿島の祭神は、藤原氏の始祖となった中臣鎌足の出身地という伝承があり、中央での藤原氏の繁栄を背景に、藤原氏や律令国家の厚い保護が加えられていく。すなわち藤原氏は、奈良時代に入り氏神の社を三笠山に建立し、香取・鹿島の神を勧請(神仏の来臨を願うこと)し、春日大社を創建していくのである。宝亀8年(777)7月、内大臣藤原良継の病気平癒のために、香取の神正四位の神階が授けられ、元慶元年(877)には最高位正一位・勲一等に叙されていく

 香取・鹿島へは、中央より「鹿島・香取奉幣使」と呼ばれる使者が発遣され、幣帛(へいはく・神前の供物)が奉納された。これは、藤原氏一族の者の大臣就任や娘の立后などを、鹿島・香取の両神へ報告するものであった。

  『延喜神祇式』神名帳には、「香取神宮(名神(みょうしん)大、月次(つきなみ)、新嘗(しんじょう))」とみえており、鹿島神宮とともに、20年ごとに造営が行われる定めであった。この造営・神事などを支えていたのが神郡(しんぐん)であり、古くより香取郡が神領として設置されていた。『新抄格勅符抄(しんしょうきゃくちょくふしょう)』大同元年(806)の(ちょう・文書をかきしるした、うすい木のふだ)によれば、香取神宮には70戸の神戸が属していたことがみえている。

 奈良時代より東北地方平定のための蝦夷征討軍が派遣されるが、香取・鹿島の神が「軍神」との性格をもっていたところから、深い関係をもつこととなる。『延書神祇式』神名帳には、陸奥国牡鹿郡に香取伊豆乃御子神社、栗原郡の香取御子神社の名が記されており、香取神宮の分社として祭祀されている。これらは蝦夷征討軍に参加した兵士たちによって分祀されていったものと思われる。そして鹿島神の分社と合わせ、これらの分社の多くは太平洋沿岸地域および北上川などの大河川の流域に分布していることをみると、蝦夷征討の軍勢は、関東における水上交通の拠点であった「香取の海」から東北地方へ、太平洋海上を遡っていったことが推測される。

 香取・鹿島の神が東北地方へ広がっていったのは、蝦夷征討のみならず、律令国家による移住政策も関わる八世紀後半から九世紀初めにかけて律令国家は陸奥国桃生(ものう)城・伊治(これはり)城・胆沢(たんざわ)城周辺に、関東諸国の浮浪人などを強制移住させたり、百姓などを租税免除という形で優遇措置をとり移住者を募ったりしている。こうした政策によって移住した人々のあいだで、関東で著名であった鹿島・香取の御子神を、豊作を祈願し、疫病を払う自らの守護神として集落内に祀っていったものであろう。

▶︎船の航行を司る神

 平安時代以降、関東平野においても開発が進んでいくが、香取神宮が利根川流域に鎮座していることから、香取神宮は利根川流域に広く分布している。そして信仰圏の視点からみると、関東平野を流れる利根川・荒川・元荒川の三河川流域には、それぞれ香取社・久伊豆(ひさいず)神社・氷川神社の三社がたがいに境界を乱すことなく分布していることが説かれている。

 このうち氷川神社が祀られている村々は、関東ローム層の丘陵地帯に位置しており、森林を開墾し谷の湿地を水田とした農村であり、他方、香取神社・久伊豆神社を祀る村落は、利根川・元荒川沿岸に分布し、この地域は10世紀以降の開拓地で、たびたびの洪水にも見舞われた低湿地であることが指摘されている。

 「船の航行を司る神」である香取神社の信仰をもった人々は、利根川の水運を利用しっつ開発を展開していったにちがいない。「香取」の名称については、「鹿取」「紆托」「楫取」などの文字があてられていたが、『和名類衆抄』では「加止里」と訓じられ、郡名の由来にはかた糸堅織説舟輯取説があった。郡内には、大槻・香取・小川・健田(たけだ)・磯々(いそべ)・訳草(おさかや)の六郷があったが、その後いくつかの変遷があった。

 中世には香取郡六郷のうち、香取神宮周辺の香取郷(佐原市香取付近)・大槻郷(佐原市多田付近)を中心として東部に向けて香取神宮社領が形成され、「社領十二郷」と称された。しかし千葉氏をはじめ中村氏・多田氏などの押妨(おうぼう・他人の所領などに押し入って乱暴を働いたり、不当な課税をしたりすること)を受け、社領は衰運をたどっていく。室町・戦国期には松子城を拠点とした大須賀氏と、矢作城に拠った国分氏が勢力を拡大し、国分氏は矢作領を形成した。

 香取郡は利根川を利用した水運が古くから開け、佐原・神崎に多くの港津が発達した。特に佐原には八日市場・二日市場、香取神宮周辺には五日市場・新市場などの商業活動の活発な地域でもあった。天正の検地で郡域が再編されるとともに、江戸時代になり、小見川藩・多古藩・高岡藩などが、香取郡内に立藩した。『元禄郷帳』によれば、郡内の村数は286ケ村、石高12万7106石であった。

▶︎香取神宮ゆかりの地名

 ところで、古くより神郡として設置された香取郡内には、香取神宮ゆかりの村名が付されている。以下にそのいくつかを記していきたい。

 香取神宮が鎮座する佐原市の「佐原」とは祭事で用いられる土器製作に由来する。香取神宮の神職に「土器判官」という職があり、文字通り土器製作をする職であるが、作られた土器を現地では「オサハラ」と呼ぶことがあり、それが転じてサワラとなったというのである。

 同様に、玉造村は、祭事の玉を作成していたところから発したものであり、大根村・加符村はともに、神饌(しんせん・神に供える酒食)として献上される大根・蕪(かぶ)を献上していたことにちなむ。丁子村というのがあり、丁子は「よほろ」「よぼろ」などと読み、香取神宮の祭事の神輿の担ぎ手を出すところから名付けられた。造営に従事した諸職人のために市場を開いたことから、従来の大畠村から自然と人々によって新市場村と呼ばれるようになったという。また利根川に面したところに津宮というのがある。津とは浜の出入り口という意であり、ここには香取神宮の摂社(本社に付属し、その祭神と縁の深い神を祭った社)である「東の宮」「西の宮」の鎮座地によるという。また『利根川図志』には、当地の竃(かまど)神社の祭神が奥津彦神・奥津姫神を祀る津の鎮護神によると説かれている。

 三重県多度町香取という地名がある。この地は香取神が鹿島神とともに、奈良時代の神護慶雲(じんごけいうん)元年(767)に藤原氏の氏神社となる春日大社創祀に際し、奈良の三笠山へ勧請(かんじょう・神仏の来臨を願うこと)されたときに伊賀に立ち寄った地ということで、香取という地名が付されたという。香取の神はその後、藤原氏の発展とと もに氏神の一つとして広がっていくことになる。