百済の役」の亡命者に関する一考察

■「百済の役」の亡命者に関する一考察・・・亡命百済人の活動を中心に

川島孝幸

▶︎はじめに

 一般に渡来人が、日本の国家(文化)形成に果たした役割は大きいとされる。彼らの活動は学術全般、医・薬学、陰陽・天文学、土木・建築(寺院造営等)、農業技術・土地開発等多岐にわたる

 また、その渡来時期の差から、6世紀以前・7世紀(主に後半)以降といった形で大別され、それぞれについて、評価・検討がなされてきた。前者の代表格としては、秦氏山城国葛野郡を拠点に活動、在地性の強い氏族、繊維製品を朝廷に貢納)・東浜氏大和国高市郡周辺に集住、多く朝廷の官人として出仕手工業を中心とした技術者集団を統率)・西文氏河内国古・多比二郡を中心に集住、特に朝廷の財政収支の計算・記録を専業(文筆業)とする)が挙げられ、後者の代表格としては、「百済の役」の亡命者(亡命百済人)がそれとして挙げられる。

 「百済の役」前後の情勢については森公章氏の研究に詳しいが、その中で森氏は、多くの亡命百済人が来倭・定住したことの影響力に言及している。しかし、史料上彼らの活動が目立ってくるのは、その二世ないし三世の世代からであって、亡命時当初からの活動が窺い知れる人物は案外少ない。また、これまでの研究を概観しても、亡命後の彼らの活動を、史料に基づき検証し、時系列にまとめ上げたものは少ないように思われる。

660年、百済が唐軍(新羅も従軍)に敗れ、滅亡する。 その後、鬼室福信らによって百済復興運動が展開し、救援を求められた倭国が663年に参戦し、白村江の戦いで敗戦する。 この間の戦役を百済の役(くだらのえき)という

賜姓(しせい)・・・天皇が皇族,貴族,武士などの功績に対して姓を賜うこと。古代からあったと思われ,平安時代には盛んに行われた。特に,姓を与えられて臣籍に下った皇族を賜姓皇族と呼び,後世,公家あるいは武士として発展した。

 そこで今回は、彼らの内、主に百済官僚(貴族)層の動向に着目し、その末裔への大量賜姓がなされた神亀年間までを下限として、その活動実態を整理する。その上で、それぞれの時期における彼らの立場(社会的地位)と、その推移・変動について考察する。そのことにより、亡命2・3世の能動的な活動経済基盤整備・有力者との関係構築等)によって彼らの政治的・社会的地位が確立されていったことを明らかにする。また、それが後世の亡命百済人全体に対する評価に、少なからず影響を与えたのではないかと考える。

▶︎「百済の役」後の亡命百済入来倭とその評価 

 663年8月、「白村江の戦い」にて大敗した百済政援軍の帰還に伴い、多くの百済官僚・百姓等が来倭。また、百済の直系王族である善光等は難波に遷居させられる。

 森公章氏は、「亡命百済人は倭国の律令国家成立に大きな影響を及ぼした」と指摘する。その具体的事例として、朝鮮式山城の築城(【史料1】)や律令官制の整備(【史料2】、天武朝の六官(法官・理官・民官・兵政官・刑官・大蔵)のさきがけ)が挙げられるとする。

【史料1】 『日本書紀』巻第27天智天皇四年(665)秋八月条 秋八月。署(後略)

史料2】 『日本書紀』巻第27天智天皇10年(671)正月是月条 是月 以大錦下授佐平余自信 沙宅紹明。(習刃醐)以小錦下授鬼室集斯(学職頭。)以大山下 授達率谷那晋首。(閑妄法。木素貴子。(閑兵法)憶礼福留(閑兵法)答体春初。(閑兵法)掛目比子。賛波羅。金羅金須(解薬。)鬼室集信(解薬)以小山上授達率徳頂上。(解薬)吉大尚(解薬)許率母。(明五経)角福牟一。(閑於陰陽)以小山下授鎗達率等五十偉人也(後略)

壬申の乱は、天武天皇元年6月24日 – 7月23日、に起こった古代日本最大の内乱である。 天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇弟・大海人(おおあまの・後の天武天皇)皇子が兵を挙げて勃発した。反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では例を見ない内乱であった。 名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申にあたることによる。

 

壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 – 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 – 8月21日)に起こった古代日本最大の内乱である。 天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて勃発した。

 だが、その一方で、壬申の乱における亡命百済人の動きは不明(わずかに、近江側‥智尊?、大海側‥百済淳武微子(じゅんむみし)が知られるのみ)とする。その後も、大博士許率母(こそつも)、百済僧道蔵、侍医百済人億仁、書博士百済末士善信(まつしぜんしん)、医博士徳自珍咒禁(じゅごん)博士木素丁武(もくそていぶ)、沙宅万首(さたくまんしゅ)等、学問や技術で朝廷に奉仕する百済人は多かった。しかし、一方で天武朝以降は新羅との通交が活発におこなわれ、新羅の影響を受けながら、中国風の律令制が導入されたことも事実。したがって、壬申の乱は天武天皇の朝廷亡命百済人との関係や百済文化に依存する度合いを考え直す契機になったと位置付けることができるとしている。

▶︎亡命百済人の活動実態・・・天智〜持統期(主に一世の活動)

①「百済官僚(貴族)」の事績

 以下、亡命百済人たちを「直系王族(百済王氏)」・「百済官僚(貴族)」・「百済道民(一般・僧)」といった形で大別し、それぞれの天智〜持続期における活動(事績)を追っていく。

 まずは、「百済官僚(貴族)」から確認する。【表1】は、その代表格ともいうべき【史料2】 に名を残す面々に焦点をあて、六国史をはじめとする諸史料に散見される彼らの事績をまとめたものである。

 【表1】に見られるように、「百済官僚(貴族)」の事績は【史料1】∴史料2】に見えるもの以外、主に文芸分野(漢詩文)においてのそれを見出せる程度である。また、【史料2】の段階では各人旧来の氏名(うなじ)を帯び、且つ無姓(かばね)である。これにはいくつかの理由が考えられる。まず、天智10年(671)正月段階においては未だ唐・羅戦争中であり、あくまで当時の認識としてだが、状況によって彼らは帰国する可能性が残されていたため、「外臣」ないし「蕃客」として過せられていたと考えられること。次に、そもそも氏名・姓を受けるには倭国(日本)の「風俗」に慣れていなければならなかったと考えられることである。

【史料3】 『続日本紀』巻第二十一淳仁天皇天平宝字二年(七五人)十月丁卯(二八日)条 丁卯。(中略)美濃国席田郡大領外正七位上子人。中衛元位吾志等言。子人等六世祖父乎留和斯知。劇」萄詞レ 化魂渕。】t剖噂対‥繊「胤ヨヨ淵叫劃「。望随二国号一。蒙二賜姓字一。賜一一姓賀羅造一。

 時代は下るが、これはそのことを示す記事といえよう。また、賜姓における「無制限勅許」で著名な以下記事にもその精神は看取される。

【史料4】 『続日本紀』巻第二十孝謙天皇天平宝字元年(七五七)四月辛巳(四日)条 (前略)其高麗。百済。新羅人等。九泉」ヨ。志二願給7姓。悉聴許之。其戸籍。記二元姓及族字一。 於レ理不レ穏。宜レ為二改正一。(後略)

 いずれにしても、彼らを取り巻く環境は非常に不安定なものであり、一部の者を除いてはその活動のための素地がなかったというのが実態であろう。

②「直系王族(百済王氏)」・「百済道民般・僧)」 の事績

 次に、「直系王族(百済王氏)」・「百済遺民(一般・僧)」に目を向けよう。

 まず、「直系王族(百済王氏)」について。『続日本紀』巻第二十七称徳天皇天平神譲二年(七六六)六月壬子(二八日)条の百済王敬福の薨伝(こうでん・みまかるつたえ)に、曾祖父善光(禅広)が「藤原朝廷賜号曰百済王」と見える。その具体的な時期を持続5~7年(691〜693)の間に求める見解は多いが、賜姓記事自体は正史に見えない。

 この百済王氏創設の意義について、長瀬一平氏は「白村江の役敗戦後によって崩壊した『東夷の小帝国』の構造を再編しうる唯一の根拠として、かかる構造の法制化である律令制国家の成立に際し、『王民』(良人)であるとともに、天皇の藩屏たる『百済王権』として、亡命百済王族を位置付けることにあった」とする。

 さらに、同氏には朝廷(王権)と百済遺民(ここでいう「百済官僚(貴族)」百済遺民(一般・僧)」)の結節点とな)ることが期待されていたともされる。間接的ではあるが、それを示すのが以下史料である。

【史料5】 『続日本紀』巻二十七称徳天皇天平神護二年(七六六)六月壬子(二八日)条壬子。刑部卿従三位百済王敬福蓑。(中略)放縦不レ拘。頗好二酒色一。感神聖武皇帝殊加二寵遇一。賞賜優厚。時有二土成」考。然性了弁。有二政事之量一。(後略)

【史料6】 『続日本紀』巻四十桓武天皇延暦九年(七九〇)七月辛巳(一七日)条秋七月辛巳。君国署ヨ叫。真道等本系出レ自一石済国貴須王㌔貴須王者百済 始輿第十六世王也。(中略)伏望こ改二換連姓一こ蒙二賜朝臣二−於レ是こ勅因レ居賜二姓菅野朝臣

 どちらも百済王氏創設期からは時代の下る記事となるが、前者が百済王氏(敬福)を核とする社会集団が形成されていたことを、後者が百済系渡来人の血統を保証する存在としてのその立場を示すものといえよう。

 また、「白村江の戦い」後、来倭した亡命百済人たちが善光の居す「難波」(摂津国百済郡か)に一旦集結していた可能性もあることが以下史料に窺える。

【史料7】『日本後紀』巻第八桓武天皇延暦十人年(七九九)十二月甲成(五日)条 甲成。甲斐国人止弥若虫。久信耳鷹長等一百九十人言。己等先祖。元是百済人也。仰二慕聖朝一。航レ海投化。印周更遷二甲斐国一。(後略)

 そして、善光がその兄豊埠(ほうしょう)とともに皇極2年(643)に来倭していたと見られることを考慮するならば、その滞在期間の長さから十分に倭国における人的ネットワークを巡らすことが可能であったとも考えられる。来倭当初における居地については不明とせざるを得ないが、渡来人一般が集任させられることが多かったことからすると、豊埠の居した「百済大井之家」(河内国錦部郡か)付近に彼も居を構えていた可能性は高い。

 次に、「百済遺民(一般・僧)」について。前者は、主に近江(神前郡・蒲生郡)・東国(武蔵国等)といった地域へ)遷され、租税免除の特権を得ながら在地の土地開発に従事した。後者には、医師・陰陽師(陰陽博士)として、あるいはその祈祷の力を重んじられて朝廷に出仕(しゅっし・民間から出て官職につくこと)した者(法蔵・道蔵)と、『日本霊異記』に見える僧義覚(般若心経を念誦して不思議を現した(上巻・第十四))・僧多羅常(看病の効が著しかった(上巻・第二十六))・僧弘済(こうさい・ぐさい・備後国三谷郡の三谷寺ほか伽藍を道立(上巻・第七))等在地にて活動する者とがあった。白鳳期には地方寺院が増加(寺院分布の全国化)し、それに伴って仏教文化が地方へ拡大したとされるが、それには在地で活動する亡命百済憎が大きな役割を果たしたと考えられる。

弘済・・・「日本霊異記」によると,7世紀後半,百済救援におもむいた備後(びんご)(広島県)三谷郡郡長の先祖とともに渡来,三谷寺を創建した。仏像をつくるため京都で金や赤の顔料などをもとめての帰途,売り物の亀(かめ)をたすけた。船上で賊におそわれ海に身を投じたとき,その亀にたすけられたという。「本朝高僧伝」では放済。「こうさい」ともよむ。

③ 小指・・・対新羅外交の視点を踏まえ 

 これまで見てきた天智〜持統期における亡命百済人の活動実態とその境遇を振り返ると、以下の通りとなる。

・「百済官僚(貴族)」・・・築城・文芸等限られた活動。所属含め不安定な存在。

・「直系王族(百済王氏)」・・・主に持統朝における「帝国」意識の表象として存在感を示す。また、同時に亡命百済人との結節点となることを期待されていた存在。

・「百済遺民(一般・僧)」・・・一般民は土地開発の担い手として、僧侶はその個人的技能をかわれた者も存したが、主に仏教文化の地方拡大の担い手として活動。

 これらの背景には、彼らの有する社会的脆弱性(言語・経済基盤・有力者との人脈等の問題)があると考えられる。

 また、「百済官僚(貴族)」層の活動を制限した要因として、森氏の指摘にもある当該期(特に天武期)の新羅との活発な交流を考慮する必要があろう。さらに関晃氏は、当該期における遣新羅使の文化史的意義に注目され、特に新羅学問僧の果たした役割を評価している。

▶︎ 亡命百済人の活動実態・・大宝〜神亀期(主に二三世の活動)

①「直系王族(百済王氏)」・「百済遺民般・僧)」の事績

 今回は、「直系王族(百済王氏)」・「百済遺民(一般・僧)」から確認していく。

 まず、「直系王族(百済王氏)」について。この時期以降、守・介といった地方官はもとより、中央の衛府、馬寮、兵庫等の軍事的宮司の上級官職や、鎮守府の武官(陸奥・出羽等東国辺境地の国司含め)をも歴任するなど、世襲的に軍事官僚として、要職につくことが目立つようになる。

 次に、「百済遺民(一般・僧)」について。この時期は史料上、その活動があまり見られない。今回は詳述を避けるが、主に一般民についは、新羅人(一部高句麗人)の安置に関する記事が正史に目立つようになるのである。

②「百済官僚(貴族)」の事績

 そして、「百済官僚(貴族)」について。律令国家形成期における亡命百済人の果たした役割は高く評価されてきた。しかし、その根幹をなす律令編纂自体(浄御原令や大宝律令)にはその関与が窺われないなど、その初期段階における活動には不明な点が多い。史料上、徐々に彼らの足跡を辿ることが可能となってくるのは、以下記事以降の時期においてである。

史料8】『続日本紀』巻第八元正天皇養老五年(七≡)正月庚午(二三旦鮎) 庚午。詔二従五位上佐為王。従五位下伊部王。正五位上紀朝臣男人。日下部宿禰老。従五位上山田劇ヨガ。従五位下山上臣憶良。朝来直賀須夜。紀朝臣清人。正六位上越智直広江。倒通力剣。山口忌寸田主。正六位下閻脚凶。従六位下大宅朝臣兼麻呂。正七位上土師宿禰百村。従七位下塩家達吉麻呂。国皿等。退朝之後。令侍東宮焉。

 これは、退朝の後、東宮(首皇子=聖武)に侍(はべ・使える)ることを命じたものだが、その中に楽浪河内・刀利宣令(とり の せんりょう/みのり/のぶよし、生没年不詳)の名が見える。楽浪河内については『続日本紀』巻第29称徳天皇神護景雲2年(768)6月庚子(28日)条の子高丘 比良麻呂(たかおか の ひらまろ)(藤原仲麻呂側近)の卒伝に、「其祖沙門詠。近江朝歳次発亥(六六三)自二百済一帰化。父楽浪河内。正五位下大学頭。神亀元年。改為二高丘連一。」とあり、彼が亡命百済人二世であったこと、また高い学識を有していたことが窺われる(他、【表2】の⑨を参照)。

高丘 比良麻呂・・天平宝字8年(764年)正月に大外記を兼ねる。同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱に際して藤原仲麻呂が独断で諸国の兵士の招集を始めたことから、比良麻呂は災いが自身に及ぶのを恐れて、これを孝謙上皇に密告する。その功労により比良麻呂は外従五位下から一挙に内位の従四位下に叙せられ、翌天平神護元年(765年)には勲四等の叙勲を受けた。

刀利氏は百済系の渡来氏族で、『新撰姓氏録』には記録が存在せず、本拠地・祖先伝承とも明らかでない。一族の百済人・甲斐麻呂ら7人は、天平宝字5年(761年)丘上(おかのえ)連に改姓している。氏人には宣令のほかに刀利康嗣がおり、ともに『懐風藻』に漢詩作品が掲載されている。

 刀利宣令についても、同氏が百済系出身だったこと、また『懐風藻』・『高菜集』それぞれ缶)に二首の詩・歌を載せていること、さらに大学助藤原武智麻呂の要請により釈尊の文を作ったことなどから河内と同様の性質を有していたであろうことが窺える。彼らの才能と藤原氏(商家)との密接な関係性から、『日本書紀』の(編纂にも関与していたのではないかとする指摘がある。

【史料且の四日後、優れた文人・技能者等に賜物がなされた。 

【史料9】『続日本紀』巻第八元正天皇養老五年(七三)正月甲成(二七日)条 甲戊。(中略)又詔日。文人武士。国家所レ重。医卜方術。古今斯崇。宜丙擢下於百僚之内。優二遊学業一。堪レ為二師 範一者㌔特加二賞賜㌔勧乙励後生甲。因賜二明経第一博士従五位1鍛治造大隅。正六位上越智直広江。各絶廿疋。 辣廿絢。布什端。鍬甘口一。第二博士正七位上箋叫珂刀。謝a笥司圏矧。従七位上額田首千足。明法正六位上箭 集宿禰虫万呂。従七位下塩屋達吉麻呂。文章従五位1劃習川川。従五位下紀朝臣清人。下毛野朝臣虫麻呂。正 六位下圏矧凶各施十五疋。練十五絢。布什端。鍬甘口。竿術正六位上叫笥。正人位上悉斐連三田次。 正人位下私部首石村。陰陽従五位上大津連首。従五位↑津守連通。丑相可邑。正六位上回圏幽。秦l弼矧週醐軸昭。医術従五位上国。従五位下邑。従六位下秦朝元。対当刊司嘲。解工正六位上意我宿硝国成。河剖叫刊山風。慧。正六位下国風。正七位↑胸形朝臣赤麻呂各施十疋。締十絢。布廿端。鍬甘口。和琴師正七位下刻司刊囚mm叫。唱歌師正七位↑大窪史五百足。正人位↑記多真玉。従六位下螺江臣夜気女。茨田連刀自女。正七位下置始連志祁志女。各施六疋。練六施絢。布十端。鍬十口。武重正七位下佐伯宿禰式麻呂。従七 位下凡海連興志。板安忌寸犬養。正人位下置始連首麻呂各施十疋。練十絢。布廿端。鍬甘口。 

 【史料9】には合計17名の渡来系氏族の名が見える。そして、その約3分の1(6名)を「百済官僚(貴族)」出身者が占めるようになるのである。さらに、彼らの多くは賜姓されるにまで至る。

【史料10】『続日本紀』巻第九聖武天皇神亀元年(七二四)五月辛未(一三日)条 辛未。従五位上薩妙観賜二姓河上忌寸一。従七位下王吉勝新城連。正人位上高正勝三笠連。従人位上高益信男練達。従五位上吉宜。従五位下吉智首並吉田連。従五位下都能兄麻呂羽林連。正六位下貫受君神前連。正六位下楽浪河内高丘連。正七位上四比忠勇椎野連。正七位上荊軌武香山連。従六位上金宅良。金元吉並国者達。正七位下高昌武殖槻連。従七位上王多宝豊山連。勲十二等高禄徳清原連。無位狛祁乎理和久古衆連。従五位下呉粛胡明御立連。正六位上物部用善物部射園連。正六位上久米奈保麻呂久米連。正六位下賓難大足長丘連。正六位下押巨茂城上達。従六位下谷那庚受難波連。正八位上答本陽春麻田連。

賜姓(しせい)とは。意味や解説、類語。天子から姓氏を与えられること。

 これについては、賜姓(しせい)された個々人(各民族)に焦点をあて検討する。結果は以下表(【表2】)の通り。 賜姓された全24名のうち、百済系と思われる者が11名高句麗系と思われる者が6名新羅系と思われる者が2名、その他が5名となり、百済系(主に「百済官僚(貴族)」出身者と思われる)が多くを占める。

 さらに、「百済官僚(貴族)」出身者11名に焦点をあて、【表2】から読み取れる情報を、これまでに触れてきた内容と合わせて確認すると、以下の特徴が見出せる。

④ 小括・・・対新羅外交の視点をふまえて

 これまで見てきたように、大宝~神亀期(特に養老期以降)にかけては、主に「百済官僚(嘉)」出身者の活動が目立つようになる。また、主にその能動的(積極的)側面に注目し、検討してきた。しかし、前節の検討の際にも触れた通り、彼らの活動・活躍の背景には、当時の社会的要請(いわば受動的部分)も存したであろう。その一側面として、対外関係(対新羅外交)の推移も無視できないと考える。

 天智朝末年から、倭国は新羅と密に(連年ないし隔年)交流し、その影響を受けながら国家体制の整備を進めてきた。しかし、持統・文武朝以降は、徐々にその関係性が変化(新羅使の来航回数減少等)していく。その要因を、日本・新羅それぞれにおける対外方針・政策の変化と合わせて確認していきたい。

 まず、日本側で注目すべきは大宝の遣唐使派遣(大宝元年<701>八月任、翌2年6月発)であろう。その目的は、新羅との関係変化により、東アジアでの孤立化を防ぐため、日唐関係の再開を企てたものであるとか、律令編纂の際に表面化した法技術的問題の解決を図るためのものであったなどとされる。それはともかく、ここで重要なのは日唐間直接交渉の再開(約30年ぶり)が、新羅の外交政策に影響を与え、結果として唐への接近を助長したと考えられることである。なお、この遣唐使にて武周革命を知った日本が、新羅の提供する中国情報に一定の疑念を懐いたとする指摘もある。

則天武后は科挙制を強化(進士科の中心試験科目に詩賦を置き、官吏登用に文学的才能を重視した)し、官僚制を整備した。また律令制度の官職名を『周礼』を手本としたものに改めた。さらに自ら漢字を創作し、則天文字と称した(国を圀とするなど)。また仏教を崇敬し、官寺を大雲寺として保護したり、畜類の殺生や魚の捕獲を禁止したりしている。これらの改革は武周革命とも言われる。

 また、文武朝に入り、新羅使に対する迎接姿勢が変化したことにも留意すべきである。具体的には、筑紫での海陸両道からの迎接・入京時における儀伎騎兵の編成・朝賀の儀式への参列勅書の内容等であるが、これらは当時の国際意識(日本の中華思想)が現実の外交に作用し始めたことを示すものと理解される。

 次に、同時期の新羅側だが、同国は外交上新たな局面に立たされていた。新羅の聖徳王代(702〜737)は、渤海との対抗関係から外交政策が第一の課題とされた時代である。これに、前述した大宝年間の遣唐使派遣も影響し、親唐路線が顕著(使節派遣の増加等)となっていく。また、その過程で聖徳王代の二大外交整備事業とされる通文博士(詳文司を改める)と後期倭典(領客典・倭典の分置)の設置(双方714年に設置)もなされたと見られる。これにより、対唐外交中心の外交政策が内外に示された。

 さらに、日本側から養老の遣唐使(霊亀2年(716)8月任、養老元年(717)3月発)が派遣された。同遣唐使の目的は二つあり、一つが平城京建設を唐朝に示すこと、もう一つが養老律令の編纂に資する中国の典籍・資料の収集にあったとされる。この派遣自体を、新羅がいかに受け取ったかは定かではない。しかし、大宝律令と養老律令の差異は、日本的法体系から中国的法体系への転換を表徴し、またそれは「新羅律令ないし、新羅的律令国家に対する優位性を獲得するための努力の所産」でもあったとするならば、日本側の対新羅観を理解する上で、この遣唐使派遣を無視することはできない。

 そして、新羅側も北(渤海)と南(日本)に対する警戒を忘れなかった。聖徳王17年(718)、漠山州(京畿道広州市)管内に多くの城を築城、同20年(721)には何瑟羅道(かしつら・江原道江陵市)の壮丁2000を挑発して北側境界に長城を築造し、渤海の脅威に対応した。また、翌年(722)には、首都の南側の出口である蔚山港と通じる要所の毛伐郡に、関門城築城して日本に備える措置をとった。日本が養老5年(721)に新羅の朝貢使を太宰府から放還したのは、この築城等の対抗的姿勢への反発と捉える見解がある。

 日羅関係の悪化が紛争といった形で表面化するのは、天平6年(734)のいわゆる「王城国」改称問題以降と見られるが、当然その素地は前段階において形成されていたと考えるべきであろう。少なくとも、天武朝をピークに、その活発な交流が見られなくなっていくのは事実である。遣唐使派遣が再開されたとはいえ、新羅から逐次、先進技術・技能を移入することは困難となりつつあった。こういった情勢変化が、国内技術者保護政策の強化といった形で「百済官僚(貴族)」出身者への評価に結びついていったのではないかと考える。

■ おわりに

 今回の検討結果を簡単に振り返ると以下の通り。

①天智〜持続期にかけては、主に国家例の要請によりそれぞれの立場が決定された(受動的)。

「直系王族(百済王氏)」・・・「帝国」意識の表象、亡命百済人の結節点。 

「百済官僚(貴族)・・・一部技術・技能者へ冠位授与。その所属も含め不安定な存在。 

「百済遺民(一般・僧)」・・・一般民は土地開発の担い手、僧侶はその個人的技能と仏教文化地方拡大の担い手として期待された存在。

②大宝〜神亀期にかけては、受動的側面は強いものの、一部に社会的地位向上にむけた能動的活動が見出せる。

「直系王族(百済王氏)」・・・地方官(長官・次官)、軍事貴族化。 

「百済官僚(貴族)」・・・有力者との関係構築(人脈)、経済基盤整備(土着化)、律令宮人組織への浸透(「名家」としての立場を確立)。

 主に「百済官僚(貴族)」へ着目すると、①の背景には、彼らの抱える社会的脆弱性(言語・経済基盤・有力者との人脈などの問題等)や国家側の「俗」に対する意識の問題などがあり、②には、当時の対外関係が作用していた側面もある。

 以上、本稿は多くの貴重な研究に依拠しっつ、それに推測を交えた部分も多いが、大方のご叱正を賜われれば幸いである。