奈良の都と天平文化

■奈良の都と天平文化

西宮秀紀

▶︎国際関係と国境

 時代は少しさかのぼり、660年に百済、668年に高句麗が滅んだ後、唐は朝鮮半島での旧百済・高句麗領をめぐって新羅と争った。その最中に唐の西部に位置した止蕃(とばん)による唐への侵攻が開始され、676年朝鮮半島での新羅に対する軍事行動がとれをくなり、新羅の領有を認めざるをえをくなった。

 また、中国北部や北東部では682年に突厥(とっけつ)が第二可汗国(かかんこく)を形成し、696年には契丹族が反乱を起こした。また強制移住地の営州(えいしゅう)を脱出した高句麗遺民と靺鞨(まつかつ)民が唐(なお、690年9月から705年2月までは周という国号名)軍と戦い、大祚栄(だいそえい)が唐軍を打ち破り東牟山(とんぼうさん・吉林省)で 698年に震(振)国を建てた。唐にとって西方や北方民族の動向は領土侵略という最重要課題であり、そのような東部ユーラシア情勢の対外関係のなか、唐の外圧が減った分、新羅も倭国も国内整備に邁進することができたのである。

 新羅686年に使者を派遺し冊封体制下に入った。旧百済・高句麗の土地と人々を統合したため、その二国の官人を新羅の官位制に格差をつけて組み込み、また高句麗を冊封するなどして内なる「帝国」化をはかった。

 一方、大所栄が建てた震(振)国は、713年渤海郡王に唐から冊封され、渤海と名を改めた。しかし、次の武王(ぶおう)の時代、726年唐が黒水州を置き羈縻(きび・中国の王朝によっておこなわれた周辺の異民族に対する統御)政策をとろうとしたため、渤海は唐と対立し、732年唐の豆州を襲撃し戦争となった。唐は新羅の聖徳王(そんどくおう)に渤海南辺を攻撃させ、735年新羅の損江(はいこう・大同江)以南の領有を認めた。762年文王は唐から渤海国王の冊封を受け、8世紀後半に北東アジアで存在感を示すこととなる。この唐・新羅・渤海という三国が、8世紀の日本国の外交相手となる。

▶︎日本国の使者

 文武天皇5年(701)正月、30数年ぶりに栗田真人(あわたまひと)が第8次(全20次説による)の遣唐執政使に任命された。翌大宝2年の6月に入唐することになり、10月ようやく楚州の塩城県(えんじょうけん・江蘇省塩城)に着き長安に至り、翌々大宝4年7月唐から戻ってきている。『旧唐書』には、栗田真人方物(朝貢物)を献上したことが載っており、真人はよく経史を読み文章を作るのがうまく容止温雅(ようしおんが・たちふるまい)と評されており、武后(ぶこう)は大明宮(だいめいきゅう)の蟻徳殿(ぎとくでん)で宴会を賜い、真人に司膳卿(しぜんけい)(「釈日本紀しゃくにほんぎ」を授けたとある。ちなみに武后は3年後82歳でなくなっている。

 遣唐使はこの時初めて日本国と名乗ったが、『旧唐書』には「日辺」にあるので日本を国名とした、ぁるいは倭国は自分たちの国名が雅でないので改めた、あるいは日本はもと小国であったが倭国の地を併合した、などの説明を載せており、中国側はこれを疑ったという。 大宝公式令(くしきりょう)に日本天皇と要されていたにもかかわらず、律令編者の一人栗田真人が明確に返答できなかったのは、当時の朝廷でも一つだけの理由ではなかったのであろう。しかし、日本という国号の由来は、かつて隋にあてた国書に「日出天子」と記し不興をかったように、日が出る国、日の辺(本)にある国という意識が強烈であり、さらに皇祖神天照大神も、もともと日神であることからすれば、さして不自然ではない。その意味で、先ほどの『旧唐書』の日本側の一番目の説明は、中国側には不明であったかもしれないが、要を得ていたといえよう。

 不思議なことに、『日本書紀』『続日本紀』は日本国号の決定を明記していない。『日本書紀』天武天皇三年(674)3月7日条に対馬から銀が産出し、「倭国」では初めてのこととあり、この時点では「日本」という国号は使われていなかったという説の可能性が高い。現在のところ、公的には大宝令段階としておくのが穏当であろう。

 さて真人は周(唐)の都で、はるか40余年前白村江の戦いで唐の捕虜となり、官戸(かんこ・賤民)となっていた讃岐国那賀郡錦部刀良(にしごおりのとら)ら三人に会い驚いたであろう。おそらく武后の恩恵により解放され真人に手渡されたのであろうが、翌4年3月祖国日本の地を踏んだ。

 雍煕(ようき)元年(984)、日本僧奝然(ちょうねん)が入宋した際持参した「王代年代紀」によった『宋史』には、栗田真人を遣わし書籍を求め道慈(どうじ)に経を求めさせたとあり、単なる外交だけではなく、この時新しい文物の確保も目的であった。久しぶりの国際舞台への復帰は大成功であった。

▶︎ 遣 唐 使

 遣唐使の乗組員は、大使・副使・判官・録事という四等官制をとり、時にはその上に執節使・押使が置かれた。随行員は、知乗船事・訳語(おさ・通訳)・請益生(しょうやくしょう・短期留学生)・主神(かんづかさ・神主)・医師・陰陽師・画師(えし)・史生(ししょう)・射手・船師・音声長(おんじょうちょう・楽長)・新羅奄美等の訳語・卜部(うらべ)・留学生・学問僧の兼従(けんじゅう)・雑使・音声生(楽師)・玉生(ぎょくしょう)・鍛生(たんしょう)・鋳生・細工生・船匠(せんしょう・船大工)・柁師(操舵長)・兼人(使節従者)・挟杪(かじとり・操舵手)・留学生・学問僧・還学僧・水手(かこ)長(船長)・水手(こぎ手)など(『延書式』)で、その多くは船自体を動かし導き修理する人たちであった。

 

 船数も8世紀はだいたい4船が通例であった。万一の場合に備えて複数船団を組むという危険な航海でもあった。遣唐使船については『続日本紀』に左右に櫓棚(ろだな)があったことがわかるが、平安時代の『吉備大臣入唐絵詞』などの絵画からの想像によると、中国の伝統的なマスト二本の帆船(ジャンク)のようで、140人くらい乗っており、唐や新羅の外洋船は60人乗りが一般的だとすると2倍以上である。

 さて、旅程であるが、難波津から、瀬戸内海を通り長門を経て、太宰府の博多湾から出航した。航路であるが、7世紀は基本的に往復とも壱岐・対馬を経由し朝鮮半島の南岸から西岸を経由し、中国山東半島の登州(とうしゅう・山東州牟平県)などに上陸し、陸路で洛陽・長安をめざす道程であった。これを北路という。ところが、大宝以降は博多から値嘉嶋(ちかのしま・五島列島)に行き、そこから東シナ海を渡って現在の江蘇省(こうそしゅう)から福建省にかけての沿岸に到着し、そこから揚州などの大都市に集められ、陸路洛陽・長安をめざすコースであった。これを南勝という。

 揚州から洛陽までは大運河があり、船で行くことが可能であった。なお、かつて述べられていた南島路という南西諸島を島伝いに南下し、東シナ海を渡りきるコースは、商務のコースをはずれた非常事態という説に賛成である。

 なお、かつて述べられていた南島路という南西諸島を島伝いに南下し、東シナ海を渡りきるコースは、南路のコースをはずれた非常事態という説に賛成である。また、遣唐使はだいたい20年に一度くらい派遣されているが、大宝2年(702)出航の遣唐使の使節からの約束のようである。

▶︎ 霊亀二年の遣唐使

 第9次の(716)の遣唐使は多治比県守を中心とし、留学生として吉備真備(きびのまきび)と阿倍仲麻呂、留学僧として玄昉(げんぼう)が乗船していた。

 この時は557人という大人数で、四船に乗り(『扶桑略記』)、翌養老元年出発し翌2年帰国した。この時の使節は、ほぼ全員帰国できており順調だったらしい。

 『旧唐書』 によれば、日本側は儒士に儒学を教えてもらうことを要請したので、四門の助教趙玄黙(ちょうげんもく)が鴻臚寺(こうろじ)で教えたという。そこで、束修の礼として「白亀元年調布」と題のある幅の広い布を贈ったところ、人々は何故か偽物と疑ったといい、また賜り物をすべて書籍購入に充て、帰国したという。『冊府元亀(さっぷげんき)』には、日本国の使者が孔子廟堂に拝謁し、寺観(じかん・寺院と道教の道観)を礼拝したがっているというので許可したとある。また、唐は州・県や京内守衛に使節らを統制させ、蕃国(ばんこく・野蛮な国。未開の国)への輸出禁止品以外の品物購入を認めていた。

 この時唐に渡った一人の青年がいた。2004年西安東郊の工事現場でみつかった墓誌によって、その存在が明らかになつた井真成(せいしんせい)である。それによると、日本から命を受け留学し、学なかばで開元22年(天平6年)正月に36歳で客死、そこで玄宗は悼み尚衣奉御(しょういほうぎょ・唐の官職で従五品上に相当し、皇帝の衣服管理・調達を職掌)を贈り、2月4日に万年県(ばんねんけん)の滻河(さんが)の東の原に葬られたとある。井真成は中国風の名で、本名は井上か葛井(ふじい)という渡来氏族の一字をとったものだと推定されている。

▶︎ 天平五年の遣唐使

 井真成が長安の片隅で息をひきとったころ、日本から第10次の遣唐使(前使より17年後)が中国に到着㌶如附していた。天平5年(733)8月に蘇州に到着していたが、その年は日照りが続き 秋から大飢饉にみまわれていた。多治比広成らは翌年正月末から洛陽に行幸していた玄宗と4月にようやく対面し、日本の特産品の美濃絁あしぎぬ)とは、古代日本に存在した絹織物の一種)や水織各200疋などを献上した(『冊府元亀』)。

 なお判官秦朝元の父僧弁正は、かつて大宝二年に遣唐使として唐に渡り、囲碁を通じて即位前の玄宗と親しくなった。還俗し唐の女性と結婚し朝慶と朝元が生まれ、朝元は日本に帰国し今回生まれた唐の地を踏んだのである。そして玄宗と対面、父の縁で特に優遇されたという(『懐風藻」)。10月蘇州から四船帰国の途につき、大使の乗った第一船は翌年三月無事入京し節刀を返すことができた。この船には、玄妨・吉備真備羽栗吉麻呂や唐人の袁晋卿(えんしんけい)も乗っていた。

 一方、副使中臣名代の乗った第二船は南海を漂流し、再び洛陽に戻り玄宗に万物を献上し(『冊府元亀』)、閏11月老子経本(玄宗による君子』の御柱『老子道徳経』)と道教の神像である天尊像などを求め、玄宗皇帝の勅書を賜り帰国の途についた(同右)。この時の勅は『文苑英華』に収録されているが、日本は道教を公的には受け入れておらず、名代の要求は帰国に有利なための方便だったのであろう。また「天皇」号では、「主明楽美御徳」(スメラミコト)という和訓の呼び名で記されており、従来から述べられているように、「天皇」号は唐書もかつて使用していたことへの配慮から、日本側では避けられたのであろう。

 名代らは天平8年(736)、唐僧道せん・波羅門(ばらもん)僧菩提林邑(りんゆう)僧仏哲(ぶつてつ・『東大寺要録』)と波斯人(はしひと・ペルシャ人)李蜜翳(りみつえい)を伴い、8月に拝朝した。平群広成(へぐりのひろなり)らの第三船115人は、崑崙国(ベトナム南方)に漂着し、なんとか船で唐国に戻った。阿倍仲麻呂の仲介により玄宗皇帝から船と食料を賜り、同10年3月登州から海に入り、荒れた海のなか7月、ようやく出羽国に到着した。第四船は行方不明である。

▶︎ 大伴古麻呂の抗議

 天平勝宝2年(750)任命の第12次の遣唐使は、9月に大使藤原清河と副使大伴古麻呂ら、そして同3年11月吉備真備が副使として追加任命され、同4年閏3月に節刀を賜り出発した。この年入唐し、翌5年(天宝12載)正月朔に長安の蓬莱宮(大明宮)の含元殿(がんげんでん)で、宮人や話者の使者が皇帝に新年の拝賀(目上の人に(新年などの)祝い事の喜びを申し上げること)を行う、盛大な朝賀 (元日に天皇が大極殿で群臣の年頭の拝賀を受ける儀式)の儀式に出席した。

 古麻呂の帰国後の奏上によれば、この日古麻呂は西班第2吐蕃の次で、新羅の使は東班第 1大食(たいじき)国(アッバース朝イスラム帝国か)の上であった。そこで、古麻呂は「昔から今日に至るまで、新羅が日本に朝貢することは久しい。しかし、今東班の上に列し私はその下に位置している。義に反する」と述べた。その時、将軍呉懐実は古麻呂が納得しない様子をみて、新羅使を引いて吐蕃の下につかせ、日本の使を大食の上に位置させたという。

 延暦僧録の「勝宝感神聖武皇帝菩薩伝」(『東大寺要録』)によれば、この遣唐使記事が詳しく記されているが、玄宗皇帝の勅命で決着がついたらしい。さらに玄宗は、阿倍仲麻呂に使者府庫の隅から隅まで案内させ、三教殿を開き、また大使・副使の肖像画を描かせ大使・副使に位階官職や御製の詩まで贈ったという。

▶︎ 阿倍仲麻呂と鑑真

 鑑真の来朝の経緯などは、『唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)』に詳しいので、以下主にそれによりたい。

 大使藤藤原清河は帰国のため都を出る前、玄宗皇帝に鑑真とその弟子5人を日本に招請することを上奏した。

 かつて天平5年の遣唐使の留学僧であった興福寺の栄叡・普照らが、同十四年に揚州の大明寺で鑑真に渡海を要請しており、決意したものの五度にわたる計画も妨害や風浪に遮られ、日も不自由になりながらうまくいかなかったのである。玄宗は道教の布教のため、道士も同行させることを命じたので困ってしまい、とりあえず春桃原(はるのももはら)ら四人に道士法を学ばせることにし、鑑真等の招請を撤回せざるをえなかった。

 そのため、清河らは鑑真にひそかに同行することを願い鑑真も了承し揚州の竜輿寺(りゅうこうじ)を脱けだし揚子江の岸から船に乗った。その時24人の沙弥に戒を授け船に乗り、蘇州の黄泗浦(こうしほ)に着いた。ところが清河自身が土壇場で弱気になり下船させてしまったのを、大伴古麻呂がひそかに自船に鑑真らを乗船させたという。ちなみに、阿倍仲麻呂が「あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」(『古今和歌集』巻九−四〇六)と詠んだのは、この餞別の場と語り伝えられている。

 天宝12年(天平勝宝5(753))11月16日に遣唐使船四船は揃って蘇州黄泗浦から出発した。第一船は大使清河と留学生阿倍仲麻呂ら、第二船は副使大伴古麻呂と鑑真ら、第三船は副使真備と普照ら、第四船は判官布施人主(ふせひとぬし)らであった。

 21日第一船・第二船が一緒に阿児奈波嶋(あこなはじま・沖縄)に到着し、第三船は前夜から停泊していた。12月6日南風が吹き出港、第一船は座礁して動かなくなり、暴風にあって唐国の南辺驩洲(かんしゅう・安南〈ベトナム〉北部)に漂着し、地人に襲われた(古今和歌集目録』安倍仲麿伝)が、清河と仲麻呂はかろうじて助かり再び長安に戻った

 しかし、二人と再び日本の地を踏むことはなく、皇帝の恩顧を受け宮人として唐朝廷で活躍した。仲麻呂は王維(おうい)や李白らと漢詩を通じて交遊があるという文化人であった。

 一方、第二船の古麻呂・鑑真らは多禰(たね・種子島)に向かつて出航し、12月益救嶋(やくしま・屋久島)、20日薩摩国阿多郡秋妻屋浦(あきめやのうら)に着き、26日大宰府に入っている。ちなみに第三船は第二船と同じく7日に益久(救)嶋(やくしま)に着き、そこから漂流して紀伊国牟漏埼(むろのさき)に到着した。第四船は天平勝宝6年(754)4月18日帰国途中船火事が起こつたが、なんとか戻ってこられた。

▶︎迎入唐大使

 藤原清河らの船と別れ、行方不明になつてから約五年後の天平宝字3年(759)渤海国使楊承慶の情報によりが生存していることを知り、高元度(こうげんど)を迎入唐大使に任命した。2月高元度ら99人は渤海国使を送り渤海国に到着したが、唐国内が安史の乱により危険あることを知り、ら11人は賀正使楊承慶の手引きで唐に入った。十月残つていた判官蔵全成(くらのまたなり)らは、渤海使高南申(こうなんしん)と戻ってきて右の状況を報告した。

▶︎ 迎入唐大使使

 同5年8月ようやく高元度から戻ってきた(八去「安史の乱の影響」)。その報告によれば、唐帝は特進讐監河清(とくしんひしょげん・清河の中国風の名)を帰国させるとしたが国内の治安が悪いので、元度が先に南路をとり帰国して報告するようにといわれ、河清を連れ戻せず唐使らと戻ってきたという。なお、高元度の録事であった羽栗翔(はぐりかける)も河清のもとに留まって帰国しなかった。

円仁(えんにん、延暦13年(794年) – 貞観6年(864年)は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。

 9世紀の中ごろ円仁が登州の開元寺に投宿した時、仏殿の西廊外の僧伽和尚堂内北壁上に日本国使の願による絵をみつけ、仏像の左右の日本国人の官位姓名を写し取ったが、そのなかに「録事正六位上羽豊(栗か)翔」とある(『入唐求法巡礼行記』)。霊亀2年(716)の遣唐使のおり、学生阿倍仲麻呂の傑人として入唐した、羽栗吉麻呂と唐の女性との間に生まれた子供がで、である。吉麻呂は天平6年(734)翼と翔をつれ日本に帰国し、は出家していたが還俗し、次項の宝亀8年(777)の遣唐使の准判官として唐に渡った

▶︎ 宝亀8年出航遣唐使

節刀(せっとう、せちとう)は、日本の歴史において、天皇が出征する将軍または遣唐使の大使に持たせた、任命の印としての刀。 標の太刀(しるしのたち)、標剣(しるしのつるぎ)とも。 「節」は符節(割り符)のことで、使臣が印として持つ物の意。

絁とは、古代日本に存在した絹織物の一種。交換手段・課税対象・給与賜物・官人僧侶の制服などに用いられた。 『日本書紀』に振られた和訓は「ふとぎぬ」、『和名類聚抄』においては「あしぎぬ」である

 奈良時代最後の本格的な遣唐使は、第16次宝亀6年(775)任命の大使佐伯今毛人(さえきのいまえみし)を中心とするもので、翌7年4月節刀とともに、藤原清河の帰国実現のため絁(あしぎぬ)100疋・細布100端・砂金大100両を賜った。しかし、翌8年になっても大使佐伯今毛人は病気を理由に埒(らち)が明かず、結局朝廷は副使小野石根(いわね)を新たに任命した。6月24日4船同時に航海に出て唐に向かい、8日目の7月3日に第一・三船が揚州海陵県に到着している。8月29日に揚州大都督府(だいととくふ)に着いたが、禄山の乱で駅がうまく機能していないため、大幅な使人の人数制限がかかり、請願の末、計43人が翌9年正月3日長安城に到着、15日宣政殿礼見が行われた。その日天子代宗・だいそう・皇帝)の出御はなく、国信物と別貢物などを献上するにとどまった。天子は喜んで群臣に班(た)ち示したという。3月22日(あるいは24日)ようやく延英殿(えんえいでん)で代宗と対面ができたが、4月19日趙宝英(ちょうほうえい)と判官4人日本派遣が告げられた。24日に帰国となり、唐使を婉曲(えんきょく・表し方が、遠まわしなこと)に断ろうとしたがうまくいかず、6月24日(あるいは25日)遣唐使船で帰国することになった。

 日の夜、風波が強まり副使小野石根ら38人、唐使趙宝英ら25人は海に沈んで救えなかった。11日の早朝、帆柱が船底に倒れ(へ・へさき/船首部分)部分と(ろ・人力によって舟艇の推進力を得るための装置)部分に分かれてしまい、舶にいた判官大伴継人藤原河清(宝亀4年〈773〉ころ死亡)の娘喜娘(きじょう)ら41人は、6日目の13日夜中肥後国天草郡西仲嶋に漂着し、にいた主神津守国麻呂(かんづかさつのもりのくにまろ)や唐の行宮ら56人は薩摩国甑嶋(こしきしま)に漂着した。第二船は13日に薩摩国出水(いずみ)郡に無事到着している。

 第三船は9月9日出航し、3日目に逆風にあい座礁したが、修理しながら再び海に入り10月23日松浦郡橘浦に到着した。第四船耽羅嶋に漂着し判官海上三狩(うなかりのみかり)らは嶋人に奪われ、録事韓国源(からくにのみなもと)らが40人を率いてなんとか脱出し、11月10日薩摩国甑嶋(こしきしま)郡に戻れた。

 翌10年2月太宰府の下道長人(しもみちのながと)を新羅に派遣し、7月10日に海上三狩唐使判官高鶴林の救出に成功している。

▶︎唐使の来日

 唐使趙宝英が亡くなったとはいえ、配下の判官孫輿進(そんこうしん)らの来日は朝廷にとっては一大事であった。実は奈良時代に入ってから唐使が来日したのは初めてだったのである。唐は大国であり日本が朝貢に行っている国であるから、皇帝の使者としての待遇をとる必要がある。

 しかし、現実には日本国内では唐を「外蕃(がいばん・外国人をさげすんでいう語)」として扱う令文が存在した。