律令国家の最盛期はいつか

■律令国家の最盛期はいつか

 7世紀までの王族や豪族は、屯倉(みやけ・ヤマト王権の支配制度の一つ。 全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる)田荘(たどころ・古墳時代に設けられた土地や人民の支配制度の一つで、豪族たちが支配した私有地のことを指す。 田所とも書く)と呼ばれる私有地を所有していた。しかし、646年(大化2)に出された大化改新詔(みことのり)で、屯倉・田荘を廃止して土地・人民を国家の所有とする「公地公民制(皇族・諸豪族の私有地・私有民を廃止し、すべての土地・人民を国家すなわち天皇の所有とすること。大化の改新で宣言され、律令制の基本とされた。 )」の方針が示され、7世紀後半を通じて、それが実現されていった。そして、公地公民制にもとづく律令体制は、701年(大宝元)制定の大宝律令で完成し、国家が人民に口分田を与える班田収授制が確立された。ところが、口分田の不足のため、政府は耕地の拡大をめざし、開墾を奨励するようになった。

 723年(養老7)三世一身法((さんぜいっしんのほう・奈良時代前期の養老7年4月17日(723年5月25日)に発布された格(律令の修正法令)であり、墾田の奨励のため開墾者から三世代(または本人一代)までの墾田私有を認めた法令である。 当時は養老七年格とも呼ばれた。)で、墾田の一定期間の私有が認められたのに続き、743年(天平15)には墾田永年私財法(奈良時代中期の聖武天皇の治世に、天平15年5月27日(743年6月23日)に発布された勅(天皇の名による命令)で、墾田(自分で新しく開墾した耕地)の永年私財化を認める法令である)が発布され、ついに墾田を永久に私有することが可能になった。その結果、貴族や寺院が各地に「初期荘園」を作るようになり、公地公民制は崩れ、律令体制は動揺していった。

▶︎ 事件としての長屋王家木簡

 かつての教科書で描かれていた、7〜8世紀の律令体制の成立・展開過程は、おおよそ以上のようなものであろう。律令体制は、8世紀初めの大宝律令の制定によって最盛期を迎え、8世紀半ばの天平時代には早くも崩壊し始めると考えられていたのである。だが、現在の研究では、このような見方は大幅に修正されている。いわゆる「公地公民制」の実態と、墾田永年私財法の意義について、根本的な見直しがなされているのである。

長屋王(ながやおう/ ながやのおおきみ、天武天皇5年(676年)/天武天皇13年(684年)? – 神亀6年2月12日(729年3月16日))は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。太政大臣・高市皇子の長男。官位は正二位・左大臣。皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。

 1986年(昭和61)からの発掘調査で、平城京内の長屋王の邸宅跡が発見され、3万5000点余りの木簡が出土したことは、あまりにも有名である。東西約240メートル、南北約230メートルの広大な邸宅のなかで、政府の要職を務める長屋王とその家族たちが、多くの人員と豊かな経済基盤に支えられながら、豪奢な生活を送っていたことが明らかになった。その研究成果は、教科書にもいち早く取りいれられ、長屋王邸と出土木簡にかかわるさまざまな事柄が紹介されるようになった。

▶︎ 公地公民制への疑問

 そうした事柄のひとつに、「御田」「御薗」と呼ばれる長屋王家の私有地の経営がある。同家所有の水田や菜園が、大和国(奈良県)を中心とする畿内の各地にあり、そこで収穫された米や野菜が、毎日のように長屋王邸に進上されていたのである。現地には平城京の邸宅から人員が派遣され、その管理のもとに、農民の雇用による耕作が行われていた。奈良時代初めの王族の私有地経営について、その実態が具体的に明らかになったのは画期的なことであった。

 この長屋王家の「御田」「御薗」は、父の高市皇子から伝領された可能性が高いといわれ、7世紀の屯倉・田荘と実質的には同じものであったと考えられている。奈良時代になっても、王族や貴族は、屯倉・田荘のような古い形態の私有地を所有し続けていたらしいのであり、大宝律令制定の時点で、「公地公民制なるものが本当に実現していたのかどうか、疑問が出てきたのである。従来は、墾田永年私財法によって「初期荘園」が乱立するまでは、「公地公民制」のもとで、王族・貴族の私有地はほとんど存在しなかったと考えられていたが、その見方は再考を迫られることになった。また、大宝律令の制定で律令体制が完成したとする考え方にも、より強い疑問が投げかけられるようになった。

▶︎ 評価が変わった墾田永年私財法

 一方、天平時代を律令体制の崩壊の始まりと位置づける捉え方には、墾田永年私財法の意義という点から、疑問が突きつけられた。私財法は、単に墾田の永年私有を認めるだけではなく、位階によって墾田の所有面積に制限を設け、さらに開墾に地方官の許可を必要とすることも定めていた。私財法によって、身分に応じた墾田所有の規制が可能になるとともに、開墾の公的手続きも明確になったのである。

 また、墾田口分田と同じく、国家が作成す田図に登録され、租を納めるべき輸租田とされたのであるから、墾田の増加は国家が支配する土地の拡大であるともいえる。こうした点を考えると、律令国家による土地支配は、墾田永年私財法によって、むしろ強化されたと評価できるのではないか。このような見方が、現在では有力な説のひとつとなっているのである。

 もちろん、墾田の永年私有が認められ、班田収授制の枠外の土地が広がることは、律令体制の大きな変更である。しかし、田図に登録して土地を管理する体制は、たしかに墾田永年私財法を契機として整備されており、天平時代以降、律令国家の支配が深まったという側面は否定できない。近年の教科書の多くは、このような時代認識を踏まえて書かれており、私財法をきっかけとして、天平時代以降、律令体制が崩壊していくという記述は、すでに一般的なものではなくなっている。かつての教科書では、墾田永年私財法は、「土地制度の崩壊」「律令体制の動揺」といった見出しのもとに語られる場合があったが、もはやそのような例は全訳文庫本『続日本紀』(名古屋市蓬左文庫所蔵)にみえる墾田永年私財法見当たらない。現在の教科書には、新たな時代認識にもとづいた、新たな律令体制の展開過程が描かれているのである。

■ 皇位を揺るがす権力者・・・仲麻呂と道教

 奈良時代後半の政治史を彩った人物として、まず思い出されるのは、藤原仲麻呂道鏡という2人の権力者であろう。教科書でも、この時代の政治動向は、彼ら2人を中心に描かれることになる。

 藤原仲麻呂は、749年(天平膠宝元)に即位した孝謙天皇の時代に、光明皇太后との結びつきを背景に、政治の実権を掌握していった。光明の施政機関として設けられた紫微中台の長官である紫微今に就任し、太政官とは別の権力基盤に依拠しながら、実質的に政治を領導したのである。757年(天平宝字元)紫微内相に就いて軍事権まで掌握した仲麻呂に対し、橘奈良麻呂(たちばなならまろ)らが打倒の謀議をめぐらすが、密告により敢なく失敗する。この橘奈良麻呂の変によって反対勢力が一掃され、仲麻呂の専制体制が確立する。758年仲麻呂の擁立した淳仁天皇が即位すると、仲麻呂は大保(右大臣)に昇進するとともに、姓に「恵美」の2字を加え、名を「押勝」とする栄誉を賜わる。そして、760年には大師(太政大臣)に任・命され、太政官の最高権力者として権勢を極める。教科書には、このような仲麻呂の栄達の過程が、簡潔に記されている。

▶︎ 仲麻呂の唐風政策

 仲麻呂政権の政策としては、新羅征討計画、雑彼の日数の半減、年齢区分の改定による課役(かやく・律令制下での調(ちょう)・庸(よう)・雑徭(ぞうよう)の総称)負担の軽減などが、これまで教科書に取りあげられてきた。

 しかし現在、教科書でもっとも重視されているのは、儒教を基礎とした唐風政策と、養老律令の施行であろう。唐風政策としては、「太政官」を「乾政官」とするなど、官司名を中国風に改称したことが有名で、教科書でも言及されることが多いが、ほかにも孝謙・光明などへの尊号の奉上、天皇などの名前を避ける避諱(ひき・親や主君などの目上に当たる者の諱(本名)を呼ぶことは極めて無礼なこと)の実施、「天平宝字」甲ような四字年号の使用、『孝経(こうきょう・中国の経書のひとつ。曽子の門人が孔子の言動をしるしたという)』『維城典訓』の読習の奨励などがよく知られ、また先に触れた年齢区分の改定も、唐の玄宗の施策に倣ったものであった。このような中国を意識した政策傾向が、仲麻呂政権の基調をなすものとして、教科書でも重視されているのである。

玄宗は日本からの遣唐使に対しては好意的な対応を行っており、日唐関係は安定した時代を迎えた。

 一方、757年養老律令の施行には、編纂の中心となった祖父の不比等顕彰する意図があったとされるが、759年に律令の必読命令が出されているように、仲麻呂政権律令尊重の姿勢をみせていることも注意される。中国伝来の儒教や律令に強い関心を示した、開明的(優れた洞察に基づいて、新たな分野に積極的に取り組むさま)な権力者としての仲麻呂の姿が、教科書では重点的に描かれているといえよう。

▶︎ 仏教重視の称徳・道教政権 

 仲麻呂・淳仁天皇孝謙太上天皇との関係悪化のなかで、764年、恵美押勝の乱が起こり、仲麻呂は敗死する。その直後に大臣禅師に任じられ、政治権力を手にしたのが、孝謙の信任を得ていた僧侶の道鏡である。孝謙は重詐(じゅうそ・一度位を退いた天子が再び位につくこと)して称徳天皇となり、そのもとで道鏡は、765年(天平神護元)太政大臣禅師に進み、766年には法王の位を授けられる。供御(天皇の飲食物)に準じる食料を支給され、居所が「法王宮」と呼ばれるなど、法王の地位は天皇に匹敵するものであった。

百万塔(法隆寺所蔵)と陀羅尼経掴立国会図書鋸所蔵)

 この称徳と道鏡の政権によって、仏教を重視した政策が行われる。その例として教科書で取りあげられることが多いのが、西大寺の造営との製作である。西大寺は平城京の右京に町の敷地を占めた大寺院で、東大寺を強く意識して造営された。

 百万塔は100万個の木製三重小塔で、恵美押勝の乱を契機に発願され、770年(宝亀元)に完成、諸寺に分置された。その一部が法隆寺に現存しており、塔内に納められていた陀羅尼経は、貴重な奈良時代の印刷物として、教科書でもしばしば紹介されている。

▶︎ 動揺する皇位

 道鏡をめぐる出来事として、教科書に必ず記述されるのは、769年(神護景雲3)宇佐八幡神託事件である。道鏡を天皇にすれば天下は太平になるとの宇佐八幡神託宣が伝えられ、称徳は神意を確認するために和気清麻呂を宇佐に派遣するが、清麻呂は皇位継承者には必ず皇族を立てよとの託宣(神が人にのり移ったり夢に現れたりして意思を告げること)を報告し、道鏡の即位は実現しなかったという事件である。この事件については、道鏡が皇位を狙ったとする道鏡主体説と、称徳が道鏡に譲位しようとしたとする称徳主体説があり、教科書の記述も一定していない。

 一方、清麻呂の行動の背景には、道鏡に対する貴族層の反発の強まりがあったとされ、そのような貴族層の代表として、教科書では藤原百川の名前を挙げる場合が多い。道鏡の即位が挫折した要因として、清麻呂個人の活躍ではなく、貴族層全体の抵抗が重視されているといえよう。

古代の女性天皇をここでずらっと並べておきますと……。
【飛鳥時代】
推古天皇(33代)
皇極天皇(35代) →斉明天皇(37代=元祖2回やった天皇)※重詐
持統天皇(41代)
元明天皇(43代)
【奈良時代】
元正天皇(44代)
孝謙天皇(46代)→称徳天皇(48代)※重詐

 道鏡は天皇に準じる待遇を受け、皇位に接近する存在となっていた。仲麻呂もまた、藤原というウヂ名避諱(ひき・親や主君などの目上に当たる者の諱(本名)を呼ぶことは極めて無礼なこと)の制を適用するなど、自身と一族を皇族に擬する意図をもっていた。2人は、儒教と仏教という外来思によって、伝統的な天皇のあり方を揺るがした、新たな時代を象徴する権力者だったのである。