■馬飼集団の謎
▶︎蘇我氏を称(たた)えた、推古天皇の歌
蘇我氏に関する先行研究は数多く蓄積されているが、これまでほとんど触れられてこなかったのが、馬・馬飼(うまかい)集団との関係である。馬・馬飼関係の文化を「馬匹(ばひつ)文化」と称するが、これらを通して、蘇我氏の真の姿に迫っていく。その最初の手がかりは、推古天皇紀20(612年)正月丁亥(ていがい・七日)条であるが、この日の宴で大臣(おおみ)蘇我馬子は、天皇に觴(さかずき・酒杯)とともに次の歌を献上したという。
やすみしし 我が大君の 隠ります 天の八十蔭 出で立たす 御空を見れば 万代に斯(か)くしもがも 千代にも斯くしもがも畏(かしみ) 仕(つか)え奉(まつ)らん 拝(おろが)みて 仕えまつらん 歌献(うたづ)きまつる
推古天皇の小墾田宮(現・奈良県高市郡明日香村の北部)が末永く立派なことを称(たた)え、そこに忠勤する決意を表明した内容である。それに応えた推古天皇は、次の歌を返したという。
真蘇我(まそが)よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向(ひむか)の駒(こま) 太刀ならば 呉の真刀の 諾(うべ)し 蘇我の子らを 大君の 使わすらしき
蘇我氏の人は、馬なら有名な日向の駒(譬武伽能古摩・ひむかのこま・宮崎県)、太刀なら有名な呉国(中田南朝)の刀にたとえられるほど優れているので、大君がお使いになるのはもっともなことである、と蘇我氏を褒め称えた内容である。
正月7日・人日(じんじつ)の宴は、中国南朝・梁(502〜557年)の宗懍(そうりん)が湖北・湖南省地域の民間の年中行事を撰録した『荊楚歳時記』にも記される、古代中国の正月儀礼である。この日、綵(いろきぬ)や金箔を人の形に剪(き)った人勝(にんしょう)を作り、屏風に貼り、前髪に飾った。
人勝は、災厄を払う際に用いる人形の起源とみられるが、この日に七種菜羹(ななくさがゆ)を食して新年を祝した(中村喬1990、中村裕一2009)。
ここでは、それが君臣の秩序を確認する政治的な意味を持った儀礼として催されているが、推古朝における宮廷儀礼の整備は遣隋使の派遣と連動し(鈴木2011)、のちには宮廷の年中行事としても定着する。
これまでは、この歌謡の歴史的意味や内容など、ほとんど顧みられることがなかつたが、古代の馬匹文化に関連する呪術宗教的な信仰もあわせて、みていこう。
騎馬民族征服王朝説(きばみんぞくせいふくおうちょうせつ)とは、東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配ないしそれと合作して征服王朝として大和朝廷を立てたという説。騎馬民族日本征服論(きばみんぞくにほんせいふくろん)ともいう。東洋史学者の江上波夫が考古学的発掘の成果と『古事記』『日本書紀』などに見られる神話や伝承、さらに東アジア史の大勢、この3つを総合的に検証した考古学上の説である。この学説は、学会では多くの疑問が出され俗説とされており[4]、支持する専門家は少数である。なお、この説の批判者は、騎馬民族による征服を考えなくても、騎馬文化の受容や倭国の文明化など社会的な変化は十分に説明可能であると主張している。
高句麗の力の源泉は騎馬軍団であった。この勢力に対抗するためには、大量の馬匹と馬具を生産する必要がある。倭人たちは百済や加耶の援助を受け、列島各地に大規模な生産基地=牧を設置していった。それに伴い馬匹や馬具の生産技術を持った人々が、大量に半島から渡来、移住させられていった。
それを裏付けるものは古墳の副葬品である。古墳時代前期の古墳には馬具の副葬が全く見られない。ところが中期の5世紀になると、馬具は、むしろほとんどの古墳に副葬されるようになる。さらにこの時代の古墳周濠内などから、犠牲馬の埋葬が多く見つかっている。渡来技術集団の風習であろう。
さらに6世紀の集落遺構(群馬県・黒井峰遺跡)からは、家畜小屋と推定される遺構が発見されており、このころには牛馬による耕作が広範に行われるようになっていたことが知れる。「鉄の安定確保」という狙いから始まった列島における馬匹生産は、木工、皮革、金属工芸といった総合的な技術を伴い、日本列島の文明化をスタートさせるという結果にもなった。
その引き金は、高句麗の南進による東アジアの国際情勢の緊迫化によるものであったが、倭人社会がすでに、渡来技術陣を受け入れ、それを咀嚼して自らの新しい文化としていくだけの成熟度に達していたことも指摘できるのである。
▶︎馬匹文化の先進地域・九州
倭国には本来、馬・牛はおらず、それらは4世紀後半から5世紀初頭頃に、大陸から導入した先進文化の一つであった。馬・牛は繁殖・飼育・調教しなければ、有効な利用は困難であり、専門的な知識・技術を必要とした。それに関わり、応神天皇紀15年8月丁卯(ていぼう)条には、次のようにある。
百済王、阿直岐(あちき)を遣(まだ)して、良馬二匹をを貢(たてまつ)る。即ち軽(かる)の坂上(さかのうえ)の厩(うまや)に養(か)しむ。因(よ)りて阿直岐を以って掌(つかさど)り飼(か)わしむ。故(かれ)、其の馬養いし処を号(なづ)けて、厩坂(うまやさか)と曰(い)う。阿直岐、亦能く経典を読めり。即ち太子菟道稚郎子(ひつぎのみこうじのわきいらつこ)、師(みふみよみ)としたまう。阿直岐は、阿直岐史(あちきのふびと)の始祖(はじめのおやなり)なり。
同じく、左の応神天皇記も百済から導入したと伝える。
亦百済国主照古王、牡馬萱疋、牝馬萱疋を、阿知吉師に付けて貢上りき。(些 阿知吉師は、阿直史等の祖。)亦横刀及大鏡を真上りき。
阿直伎(阿直岐)と阿知吉師は同じ人物、阿直岐史と阿直史は同じ氏であり、軽の坂上の廐坂(うまやさか)は、現在の奈良県橿原市大軽町近辺にあてられる。阿知吉師の「吉師」は、新羅では官位17等の第14「吉士」にも取り入れられる、古代韓国語に由来ヰる敬称であり、この人物と後裔氏族の名は「アチ」もしくは「アチキ」となる。「日向の駒(ひゅうかのこま)」について述べる前に、まず日向地域の馬匹文化について説明しよう。
延長5(927)年に成立した律令の施行細則『延書式』によると、朝廷に必要な馬牛を飼育・調教する牧(牧場)には、馬寮(左馬寮と右馬寮)管轄の「御牧(みまき)」と兵部省管轄の「諸国馬牛牧(しょこくめごのまき)」などがあった。前者は甲斐(現・山梨県)・武蔵(現・埼玉県、東京都、神奈川県の一部)・信濃(現・長野県)・上野(現・群馬県)など東国「多く、後者は東西の18ヶ国に39牧が散在していた。
日向国(現・宮崎県)には野波野馬牧・堤野馬牧・都濃野馬牧・野波野牛牧・長駆牛牧・三原野牛牧がみえ、牧数は「諸国馬牛牧(しょこくめごのまき)」所在国のなかで肥前国(現・佐賀県、長崎県)と並んでもっとも多く、かつその半数が牛牧であるのも共通する。
このうち、都濃野馬牧は児湯(こゆ)郡都野郷(現・宮崎県児湯郡都農(つの)町)、長野牛牧は児過郡三納郷(現・同県西都(さいと)市三納・みのう)もしくは那珂郡於部郷(現・同県児湯郡高鍋(たかなべ)町か)、酎波野馬牛牧と堤野馬牧は諸県(もろかた)郡(現・同県小林市)など、律令制下の諸県都から児湯都の地域に比定されている(北郷2007)。ただし、野波野牧の諸県地域比定を疑問とする説もあり(柴田2008)、なお確定的ではない。
いずれにしても、多くの「諸国馬牛牧」の設置は、火山裾野に広大な草原の広がる日向国で馬牛の飼養が早くからさかんであり、推古天皇の歌謡にみえる駿馬「日向の駒」が文学的な虚像でなかったことを示している。
さらに、それが児湯郡・諸県郡・那珂郡と日向国南部に集中することから、5世紀代に当該地域で権勢を誇り、仁徳天皇に髪長姫(かみながひめ)を入内させたと伝える日向諸県君(ひゅうがもろかたのきみ)氏が、その馬牛飼育集団と無縁であったとは考えられない。
大陸に近い九州に逸早く馬・牛の文化が定着したのは当然であるが、継体天皇紀6(512)年4月丙寅(へいいん)条には「筑紫国の馬40匹」を百済に賜るとある。倭国は、かつては馬匹文化を導入した先進国・百済に、六世紀初頭には「筑紫国の馬40匹」を供与できるほどになっていたのである。この場合の筑紫国(福岡県全体)は、牧が肥前国(岡山県)や日向国(宮崎県)に集中分布することからみて、のちの筑前国(福岡県西)・筑後国(現・福岡県東)地域ではなく、九州全域を指していると解される。
同じく欽明天皇紀7(546)年正月丙午(へいご)条の百済に供与した「良馬70匹」、さらに欽明天皇紀15年正月丙申(へいしん)条の「馬100匹」なども、九州産の馬であった可能性が高く、6世紀の九州地域は馬匹(ばひつ)文化の先進地であった。
▶︎日向国への集中
次に、日向国地域の考古学上の知見を紹介しよう。奈良時代以前の日向国は広大で、大宝二(702)年に唱更国(しょうこうこく・和銅2年6月癸丑・きちゅう・以前に薩摩国と変更)、和銅6(712)年に大隅国が分立する前は、両国とも領域であほかたくにとみ むつのばる
馬匹(ばひつ)文化は、現在の宮崎県南部地域に顕著だが、同県東諸県(ひがしもろかた)郡国富(くにとみ)町の六野原(むつのばる)8号地下式横穴墓の北20mに位置する5世紀中頃の土壙(どこう)から馬の顎骨(がくこつ)が、同県えびの市久見迫(くみざこ)遺跡の地下式横穴墓に近接する6世紀前半から中頃の土壙から馬の頭骨が出土し、馬の犠牲(いけにえ)祭儀もしくは被葬者とともに葬った殉葬(じゅんそう)として注目される(桃崎1993)。
早くも5世紀中頃には、先進文化である馬の飼育が行なわれていたことは驚きである。古墳時代の馬具が出土した墳墓は南九州では宮崎県が中心であり、2004年度までに馬具が出土した古代墳墓は71例を数える。そのうちの81例が西都市と児湯郡地域、25例が都城(みやこのじょう)市、えびの市・諸県郡地域に集中するが、特に後者はすべて隼人(はやと)との関係が想定される地下式横穴墓であり、この墓制と馬匹文化の強い結びつがうかがわれる。
隼人・・・古く熊襲(くまそ)と呼ばれた人々と同じとする説、熊襲の後裔を隼人とする説(系譜的というよりその独特の文化を継承した部族)、「熊」と「襲」を、隼人の「阿多」や「大隅」のように九州南部の地名であり、大和政権に従わないいくつかの部族に対する総称と解する説などがある
いっぽう、古墳から出土の妄例はかつての児湯(こゆ)郡に多いが、東諸県(ひがしもろかた)国富町の」六野原10号地下式横穴墓出土のⅩ字形環状鏡板付轡(いたつきくつわ)は、宮崎県内最古の馬具と目され、朝鮮半島南部の加耶地域に特有の形式である。宮崎市の下北方(しもきたかた)5号地下式横穴墓出土の鐙(あぶみ)も加耶・百済系の様式で、上の二例は5世紀代のものという(柴田2008)。ちなみに、轡とは馬の口に噛ませ手綱(たづな)をつける馬具であり、鐙は人間が足をかけ踏ん張るための馬具である。
これらは、熊襲(熊=肥後の球磨川流域、襲=大隅半島曾於地域)や隼人(大隅.阿多・薩摩)が住む僻遠(へきえん)の地という中央的認識に反し、早くに先進文物を導入していた南部九州の特色を示すものである。
さらに、馬を埋葬した遺構が、宮崎市山崎町の山崎下ノ原(しものはる)第1遺跡(砂丘列上に6世紀〜7世紀前半の馬埋葬土壙6基)、山崎上ノ原(かみのはる)第2遺跡(5世紀後半〜7世中葉の遺跡で6世紀後半を盛期とするが、竪穴住居58、土壌墓4基、鉄滓(てっさい)、鞴(ふいご)羽口、鍛造剥片など鉄器生産遺物、竪穴住居理土中から馬歯土7カ所)、児湯(こゆ)郡新富町の祇園原古墳群(前方後円墳14基、円墳178基、円墳の周濠(しゅうごう)および付近で10基の馬埋遺構)などからも出土している。これらは、5世紀から日向地域に、馬匹(ばひつ)文化が定着していたことを語っている。
これらを参酌(さんしゃく)すれば、日向国南部地域や隼人らの間に、これまでの予想よりも早くに馬匹文化が定着していたことは確かである。馬匹文化などの先進文物の導入をめぐり、日向国地域と朝鮮半島南部の百済や加耶との、積極的な交流も想定される。
「日本三代実録」貞観2(860)年10月8日甲申条には、「大隅国吉多(よしだ)・野神(のかみ)二枚を廃す。馬多(あま)た蕃息(はんそく)して百姓の作業を害するに縁(よ)る」とある。9世紀中頃でも、大隅国吉多・野神(現・鹿児島県姶良市・あいら)牧では、近隣の農民と利害が対立して牧を廃止しなければならないほど、多くの馬が飼育されていた。
▶︎大和国と日向国の興味深い符合
海女(海洋民)的文化要素が濃厚である日向国南部の人々や隼人の間に、どのよにして馬匹(ばひつ)文化が定着したかは、いまだ明瞭でない。『備前国風土記』松浦郡値嘉郷条は、値嘉嶋〈ちかのしま・現・長崎県五島列島)の白(あ)水郎(ま)(海人)の特色について、次のように記している。
彼の白水邸は、馬・牛に富めり。・・此の鴫の白水郎は、容貌、隼人に似て、恒に騎射(うまゆみ)を好み、其の言語は俗人(くにひと)に異なり。
右の所伝から、隼人が馬・牛を飼育し、騎馬・騎射に巧みな集団として知られていたことがわかる。古代の海人が、馬匹文化を保有していたことも興味深いが、大陸産の馬が船に載せてもたらされたことを思えば、当然であろう。
日向国南部地域や隼人と馬匹文化、および王権との関係を考察する上で注目されるのが、藤原京左京七条一坊(推定・衛門府跡)から出土した、大宝元年2年を中心とする一括性の強い木簡群における、次の木簡(下端切断、裏面割愛)である(木簡学会2003)。ちなみに、隼人司(はやとし)は宮城の門を守護する衛門府の管轄下だったが、のち大同3(808)年正月に衛門府に統合され、同年七月、兵部省に移管された。
日向久湯評人◻︎(平か) 漆部佐卑支治奉牛冊 又別平群部美支□(治か)
「日向久湯評(ひゅうがこゆのこおり)」は大宝令以前の表記で、以降は日向国児湯(こゆ)郡となり、国府や国分寺(上図)が置かれた日向国の中心である。930年頃に編纂された辞書「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』には、児湯郡に平群郷(へぐりごう)がみえ、現在の宮崎県西都市平郡(へごおり)にあてられる。木簡の「平群部美支(へぐりべのみき)」は、この地に縁(ゆかり)の人物で、「漆部俾支(ぬりべのさひき)」が頁進した30頭の牛も、児湯部からのものである。先に触れた兵部省管下の「諸国馬牛牧(しょこくめごまき)」として、日向国には6ヶ所の牧がみえるが、その半ばが牛牧であることにも照応する。
「平群部」は、大和国平群郡〈現・奈良県生駒市、同県生駒撃群町と斑鳩町、同県大和郡山市の南部)を本貫(ほんがん)した平群(へぐり)氏の部曲(かきべ・領有民)であり、平群部の分布や関連地名の存在は、平群氏と日向国地域の関係を示唆している。平群氏は元来、馬飼集団・馬匹(ばひつ)文化との結びつきが強い(辰巳1994、笹川2005)。
まず、武烈天皇即位前紀の伝える、海柘榴市(つばきち・現・奈良県桜井市金屋の南部あたり)の巷で催された歌垣(うたがき)において、平群鮪(へぐりしび)と太子の武烈が物部麁鹿火(あらかひ)大連の娘・影媛(かげひめ)を争う物語のなかで、武烈が平群鮪の父・平群真鳥(まとり)大臣に「官馬(つかさうま・朝廷または国の所有の馬)」を求めたが、久しく進上しなかったとある。
鮪と影媛の関係を知って激昂した小泊瀬稚鷦鷯尊(武烈天皇)は顔を赤くして怒り狂って帰った。そして、その晩に大伴金村を訪ねて数千の兵を集めた。金村はその兵を率いて逃げ道を塞ぎ、鮪は平城山丘陵に追いつめられて殺された。影姫はこの一部始終を目撃し、「あぁ、つらい。愛する夫(鮪)を失ってしまった」と言って気を失った。その後、金村の提案により鮪の父の真鳥も追い詰められ、謀反の計画が頓挫したと知った真鳥は呪いの言葉を呟いて自害した(生存説もある)。こうして平群氏の嫡流は滅んだ。
平群真鳥(へぐりまとり)らが滅ぼされる原因と伝えるが、平群氏が官馬の管理に従事していたことが知られる。また、敏達天皇紀14(585)年3月丙戌(へいじゅつ)条は、物部守屋(もりや)大連と蘇我馬子宿禰による仏教崇拝抗争記事として知られるが、廃仏許可の詔を得た守屋の命を受けた有司(つかさ)は、善信(ぜんしん)ら三名の尼僧を禁錮して「海石榴市の亭(うまやたち)」鞭打ちに処したとあり、海柘榴市(つばいち)宮には王権の亭(厩・うまや)もあった。
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