風景の彫刻

■風景の彫刻

岩崎直人  

 イサム・ノグチ(1904−88)の彫刻に対する想いが濃密に凝縮した189ヘクタールの結晶体一それが、モエレ沼公園である。ノグチの最後にして最大の彫刻作品だ。公園を彫刻作品とする見方は一般には理解しがたいかもしれないが、ノグチにおいて、公園や遊び場の設言卜造成、すなわちランドスケープ・デザインは、常に彫刻の範疇に位置づけられていた。これは、公園内に散在する個々のエレメントのみを指して彫刻といっているのではない。稔合的な空間デザインはもちろん、大地に生い茂る草木、川や池、ひいては空、そこに集う小動物や憩う人々までをも包括した一大空間それ自体を彫刻とみなしているのだ。

 美術史の分類で言えば、この種の作品は「アースワーク」あるいは「ランドアート」と呼ばれる。とりわけ、1960年代後半から70年代にかけて勃興し、その後、さまざまに展開して隆盛を見たジャンルである。アーティストによって手がけられた公園設計や、庭園造成、地上をキャンヴァスに見立てた大規模な空間造形、建築と彫刻の融合化、ひいては都市開発までもここに含まれる。大地と交感し、そこに刻まれた時間や歴史を知り、万物の営みに耳を傾けるところから出発するこの深遠な芸術は、当然ながら社会的、民俗学的要素も多分に内包する。このことは、アースワークの特徴を指し示している一方で、古来より土地に根ざして生きてきた人類にとっては、至極当然の造営でもあった。権勢を誇示する巨大な墳墓、神のみがその全貌を知る地上絵、二千キロを超える長大な城壁など、その社会的、宗教的目的や理由はさまざまだが、それらが風景を一変させ、また時とともに風景に取り込まれてきたという点では、大規模な「アース j4ワーク」の極致とも言える。あえて、その流れを一運動として高めたのが、1960年代後半のマイケル・ハイザー(1944一)やロバートスミッソン(1938−73)らアメリカのアーティストたちであったわけだが、ノグチのランドスケープ・デザインは1933年に早くもその作例が見られることから、それら運動の先駆けとして位置づけることができる。ただ、ノグチほ自身のランドスケープ・デザインをあくまで彫刻の一展開ととらえていた。

 「でき得れば、彫刻が根本的な関わりを持つものを発見し、自分自身で彫刻と大衆や空間との関係、そして過去における彫刻の効用を見きわめようと思った。彫刻は、他の芸術と同じく仲間うちの狭い視野内に閉じこめられてしまっていると、私には感じられた。彫刻には、なにかもっと大きく、より高貴で、より本質的に彫刻的な目的があるにちがいない。」

 ノグチの彫刻に対する愛情が深く突き刺さる一文である。彼は彫刻の潜在的なパワーを知っていた。そしてそれは人と空間とが密接に結びつくことで顕現できるものと確信していた。さらに、逆説的に語ったのが次の文である。

 「私は彫刻というものを拡大解釈してその可能性を追求するのが好きだ。もし軍隊を持ってきて彫刻をやったら?それはすごい!ベトナムで何が起こったか考えてごらん。ベトナムは最も壮大な彫刻だ。枯れ葉剤が撒かれ、軍事空港が建設され‥・・。大地がまったくといってよいほど変えられてしまったのだ。」2

 平和を切に願う気持ちと己の仕事を重ね合わせて皮肉いっぱいに語ったこれも名文である。いずれにおいても彫刻の未知なる可能性を押し広げようとする意気込みをひしひしと感じる。そう、ノグチのアースワーク、すなわち、プレイグラウンド(遊び場)に代表されるランドスケープ・デザインはあくまで彫刻本意だったのである。

 さて、ノグチのプレイグラウンド最初の作例は、ノダチが28〜29歳のころに辛がけた《プレイ・マウンテンの模型》(cat.no.1)であった。彫刻を大地と関係づけるその後の制作と発想の端緒であり、核となった作品であると述懐している。3子どもたちが階段を駆け上り、水と戯れる姿を夢想して作られたおよそ70cm四方のこの遊び場は、見るものの想像力を掻き立て、いつしかその箱庭に迷い込ませる。山の頂上からはスロープが中央部のくぼみへと続く。夏には水が湛えられウオーター・スライダーとなり、雪が積もれば、ソリ遊びを堪能できそうだ。足がすくんでしまいそうな高さと腰が引けそうな急勾配に、一旦は躊躇するが、そのリスキーなところが子どもたちの冒険心をくすぐり、チャレンジ精神を育むのだろう。なお、錐体の一側面がピラミッドのように階段状に削られたこの形態は、モエレ沼公園にも応用されている。

 1939年には、ホノルルのアラ・モアナ公園の遊び場を設計する話が舞い込んできた。そこで考案したのが教育的視点から設計した遊具群げig.2)である。このプロジェクトは、責任者であり、ノグチにデザインを委託した建築家レスクー・マッコイの死によって消滅してしまったが、ノグチはそれら奇抜なデザインの遊具を転じてニューヨーク市に持ちかけた。しかし、それらは安全性に欠けるという理由で拒絶されてしまう。それ以降も遊具のデザインは案出され、≪ニューヨーク国連本部の遊び場の模型》(cat.no.5)や≪リヴアーサイド・ド伽Jlrべ上ヽ亡甘Tork二Harper&Row,1968,p・30&・− −一手.る■亀薫の世界」美術出版社、1969年、p.35ライヴ公園の遊び場の模型》(cat.no.6)にも見られる(いずれも実現せず)。1941年の《輪郭だけで作る遊び場の模型》(cat.no,2)は、その名が示すとおり、大地を削ぎ、築山を盛ることで全体に緩やかな起伏のグラウンドを作って見せた。先の遊具を却下されたことに対して、大地そのものを遊具に仕立てた秀逸な作品である。これは、セントラル・パークに建設される予定であったが、第二次世界大戦の勃発により暗礁に乗り上げた。

 戦時中に作られた《この責め苦しめられた地球≫(cat.no.3)は、戦乱によって荒廃した痛ましい地球の様を伝える一方で、その造形からは先に見たプレイグラウンドと際だって大きな差異がないことも認められる。緑の芝で覆われ、くぼみに水が湛えられると、そこはたちまち遊び場に転ずる。すると、これは戦争で命を失った人々が天国で憩い、遊ぶためのものにも見えてくる。同様に、視点を上空に据えた宇宙規模的なスケールの作品として《火星から見るための彫刻》(原題≪人間のための記念碑》、fig.1)がある。古拙漂う古代文明の遺跡を思わせ、その親逸な表情に口許がついほころびがちだが、人類が争いを繰り返し、荒廃しきった地球の果ての姿を示唆しているのではと頭をよぎったとき、背筋の凍るのを覚える風刺的な作品でもある。《黄色い風景》(cat.no.4)もまた、地球外の惑星上の大地を連想させる作品だが、前二者に比して反戦のメッセージの色は感じられず純粋に宇宙散歩に空想を馳せることのできる楽しい作品だ。