馬飼集団の謎-2
■馬飼集団の謎-2
平林章仁
▶︎遺跡から出土する馬具の数々
河内馬飼が史料にはじめてみえるのは、履中天皇紀五年九月壬黄条の、天皇の淡扱島での狩猟に従事したという「河内飼部」であるが、孤立的で具体性に欠ける。
確実なそれは、継体天皇紀元年正月丙黄条の、即位前から継体天皇と親交があっぁという河内馬飼首荒籠である。このことは、五世紀代には、この地域に馬飼集団爪定着があったことを示している。
なかでも、讃艮郡は河内馬飼の本拠として知られ、天武天皇紀十二(六八三)年⊥月条の婆羅羅馬飼造氏・菟野馬飼造氏、平安時代はじめ成立の最古の説碧冒本霊異記』中巻四十一縁の更荒郡馬甘里、「讃良郡鵬釦、耶椚索掛耶齢麻酔馬七打得四至ハ十」と墨書された天平十八(七四六)年の木簡など、関連史料は多い。烹ぅち、大阪府東大阪市日下町の北約四〜五キロメートルに位置し、近年とみに古慧代の馬の骨や菌の出土集中域として知られる四傑畷市域の状況の一端を紹介しよう。
蔀屋北遺跡からは、古墳時代中期の埋葬された馬の全骨格(体高約一二四センチメートル〉、鉄製磯部の表軒の攣頁黒漆塗りの木製の軍馬飼の必需碧ぁる塩を供給した射撃器約言00個、海人との関係を示唆する井戸枠に転用した準構造の船底、渡来系集団との関係を示す陶質や韓式系土器などが検出されている。
中野遺跡からは、古墳時代中期の井戸内の堆積層から板材の上に載せた馬の頭骨が出土、頭骨の上には石と土器が置かれ、馬の頭部を用いた井戸(水神)祭祀を示している。他の場所からも、焼けた木と馬の下顎骨、製塩土器のほか陶質や韓式系の土器が出土している。
奈良井遺跡からは、古墳時代中期の一辺四〇メートルの方形台状地形を囲う清から七頭分の馬の頭骨が出土したが、馬を犠牲に用いた祭祀遺構である。一体は板に載せられた状態で全骨格が検出されたが、体高は約一二〇センチメートルであった。馬の飼育道具である鞭と刷毛、三六個の滑石製臼玉入り須恵器大甕、陶質土器や韓式系土器、二メートル×一メートルの郡雛祭遺構なども出土した。
古墳時代中期の幣遺跡では、一辺一四メートルの方形の台状区画の幅約四メートル、深さ約一てトルの清から馬の↑琴菌、製塩土器、初期須憲、祭祀用の楽器スリササラ、祭祀用具を載せて飾る台、非実用の木製警部木慧、各種の滑石筆頭ガラス玉など、馬を犠牲にした祭祀遺構が検出されている(『四條畷市史』第五巻、大阪府立雪飛鳥博物館二〇〇六、野島二〇〇八、四催畷市立歴史民俗資料館二〇〇九、藤田道子二〇一一、大阪府立狭山池博物館二〇云。
▶︎日下と日向の結びつき
このように、五世紀代には生駒山を挟んだ東・西山麓に馬飼集団が集住しており、王権に従雫る馬飼集団として、倭馬飼・河内馬飼に編成されていた。
雄略天皇記で、天皇が日↑の髭部を使って河内早にいる都賀王を訪れ求婚した際に詠んだという歌謡に、「日↑辺の此方の山と転猷平群の山の此方砦の‥…・」と、日下と平群が山を挟む一体的な地ととらえられているのも参考になる。平群氏系の額田首氏が、河内と平群の二つの額田に拠地を有したことからも、河内匠飼と倭馬飼が相互に交流のあったことは確かであろう。
安閑天皇紀二(五三五)年九月丙辰条に、大伴金村大連に「牛を難破の大隅鴫し媛嶋松原とに放て。薫くは名を後に垂れん」と勅したとあるのも参考になる。名を伝えるためというから、先述の名代に賛した王家直属の牛牧の設置令であるが、大隅嶋は応神天皇の大隅宵と同所で、大阪府大阪市東淀川区大隅・大道町あたり卜求められる。媛嶋は、中津川と神崎川に挟まれた旧・稗島村(現・大阪府大阪市西池川区姫島あたり)、もしくは上町台地の東方で河内湖北岸の、河内国茨田郡内(現占府守口市から門貴市) あたりとみられている。
難波の大隅鴫と媛嶋松原に置かれた牛牧は、『続日本紀』霊亀二(七一六)年二日己西条に「大隅・媛嶋の二牧を罷めしめ、倍姓の佃食することを聴す」と、一般爪人々による水田開発を認める人世紀初頭まで存続した。
ややのちの史料だが、律令の追加法令である格を項目別に編集した『類衆三砕格』の昌泰元(八九八)年十一月十一日付の太政官符には、「河内国交野郡・茨田郡・讃良郡・瀧郡・郡軒摂津国鵬ぷ苧鵬刊軒醗郎郡の河畔にある、公私の牧の牧子(馬牛の飼育係)らが船の往還を妨害することを禁止する」とある。これは、奈川流入地域や淀川河岸、河内湖岸毒の低湿な未開墾地が、のちのちまで牧として広く利用され、牛・馬の飼育がさかんであったことを示している(安田完五九)。
河内馬飼の関わりで見逃せないのが、大阪府芙阪市の目下遺跡からも古墳時代中期のはぼ完全な馬骨が聖していることである(堅田一九六七)。
日下遺跡は、郵欝代後期から晩期の貝塚として知られるが、古墳時代の遺構。遺物も出土する複合遺跡である。一九六六年の発慧査では、軒誹の宗に埋葬された状態のほぼ完全な馬骨が聖した。これは馬墓とみられるが、年齢は一二歳前後、体高一二五〜三〇センチメートルの警馬系中型馬で、五世紀後半のものという(古墳時代の遺物は五世紀後半を下るものはない)。製塩土器も多く聖しているが、一九三九年の孟では、小型馬の骨二点が聖した(『姦府史…。
これらは、五世紀中頃から後半には河内早でも馬が飼われ、死んだ馬を埋葬する習俗のある、馬飼集団が居住していたことを示している。先述のように、河内日下は第三章 馬飼集団の謎日向諸県君氏・隼人系集団の一大移住地であり、日向系キサキが天皇との間にもうけた王族「日下宮王家」 の拠地であった。
日下の馬、日向諸県君氏、日下宮王家との直接的な結びつきは明らかではないが、日向南部地域や隼人らの間に馬匹文化が濃密であったことを思えば、日下の馬と目下宮王家や隼人、さらには「日向の駒」が無縁であったとは考えられない。先の額田馬の真上伝承などを考えれば、それらが密な関係にあったとみるのが順当である。
▶︎隼人の楯(たて)
河内日下に拠った日向諸県君氏や隼人らの馬匹文化、特に馬の額の町形・旋毛を考察する上で注目されるのが、「隼人の楯」である。これについて述べた神武天皇記を引用しよう。
故、其固より上り行でましし時、浪速の渡を経て、青雲の自肩津に泊てたまい き。此の時、登美能那賀須泥昆古……、軍を興して待ち向えて戦いき。爾に御船に人たる楯を取りて下り立ちたまいき。故、其地を号けて楯津と謂いき。今者 に目下の蓼津と云う。
東に向け進んで来た神武の一行は、日下に上陸する際に船から楯を取り出し、立てて戦ったという。一見、荒唐無稽な地名起源詳のようにみえるが、のちにここが日向諸県君氏や隼人、および彼らが支える「日↑宮王家」の拠地であったことを思えば、河内の日下と楯の嫁が読み取れる。
説話が伝える日下と楯の不可分な関係は、すでに固定的な所伝として存在してい方とみてよい。そこに隼人の著名な楯が想起されても、何ら不思議ではない。特徴的お隼人の楯のことが神武東遷伝承に取り込まれ、右の地名起源諸になったと推察される(
ちなみに、『続日本紀』和銅三(七一〇)年正月庚辰条には、次の記事がみえる。
日向隼人曾君細麻呂、荒俗を教え喩して、聖化に馴れ服わしむ。詔して外放 五位下を授けたまう。
これは、二日前の日向国大隅地域からの采女の貢進と晶わろうが、「日向隼人」の署細麻呂が供巌の宗怒に尽くしたとして、外従五位下に叙されている。支女は、地方豪族の姉妹や娘が服属の郵として、天皇の身辺に仕えた女性である。却銅六年四月の大隅国の雛賢前は、薯の本拠である大隅半島の斬新地域は日向固に属していた。
『類聚国史」延暦12(793)年二月己未条も、王権との関係を伝えている。
大隅国曾於郡ガ碗外票位1郎加郡獣に外従五位下を授く。隼人を率て入 朝するを以てなり。
「酢(撃は熊襲の「鄭」でもあるが、曾乃君薯氏は、曾於郡の那訃産命される地域の有力豪族である。この地域の隼人は「大隅隼人」と轟ばれたが、大隅国設置以前は日向国に属したので、「日向隼人」と記されたのであり、もともと日向との結びつきが強かったのである。
▶︎楯の文様は何を表わすのか
『延喜隼人司式』によると、「元日即位及蕃客人朝等儀」において、隼人は大内裏八省院南面正門である応天門の外の左右に分陣し、楯・槍を執り胡床(椅子)に座して‥謂規定であった。
その威儀を正すために用いる物品は、それぞれ一八〇の横刀・楯・木槍・胡床で永る。楯の形状は、「枚別の長さ五尺、広さ一尺八寸、厚さ一寸、頭に馬髪を編み革け、赤白の土・墨を以て鈎形に画け」と定められていた。
一九六三年から翌年にかけて、平城宮の西南隅で実施された平城宮第十四次発規調査で彩色の楯(写真7)一一指瑚出土した〈奈良国立文化財研究所一九紹、中村洞蔵一九七八)。大きさや表面の紋様がまさしく『延書隼人司式』の記載に適うことふら、隼人が宮廷の儀式で用いた威儀用の楯であると判明した。その楯は、次のよう卜非常に色鮮やかで、大胆な紋様が描かれていた。
写真7 発掘された隼人の楯 幅約48cmX高さ約150cmX厚さ1.3〜2.3cm木製で、儀式に使用された○のちに井戸の枠板に転用
楯の表面には基線で渦文と鋸歯文を描き、全面を白土・苧赤の彩色で埋める。
渦文は楯面の大部分を占めて大きく描かれている。上半の渦文を下半の渦文が中央で連続して逆S字形となるが、これに二本の線を加えて黒・赤で塗りわけて禎 合渦文を作り、さらに余白部分を白土で塗彩することによって三重の渦文を構成 する。鋸歯文は上端と下端にあって、連続する五個の鋸歯文を内方にずらせて一 段に施文し、外方の鋸歯文を黒に、内方の鋸歯文を赤色に塗彩している(奈畠 立文化財研究所一九七八)。
元日・即位・書写入朝などの儀式の際に、隼人は応天門の左右に分陣して楯と槍え執るが、これは軍事的な目的ではない。特徴的な号の紋様に、この場合の楯の機撃目的が表現されていた。ほまち細いない。
注目されるのは、楯の項部に穿たれた一二から二七の小さな孔である。この小刀は『延書隼人司式』に「頭に馬の髪を編み著けよ」とあるように、馬髪を編んで結l、つけるためのものである。これは隼人と馬の結びつきを物語る(井上辰雄一九七四、中村明蔵一九七七)だけでなく、楯の連続渦文が表現しているものや、その呪術宗私的な意味についても示唆している。
写真8楯を持つ人物が描かれた絵画土器
弥生時代終末から古墳時代初頭と推量される
南九州は奈良県とともに古代の絵画土器が多く出土することで知られているが、隅半島南側の鹿児島県鹿屋市の名主原遺跡からは、多くの竪穴式住居跡や地下式穴墓とともに、左手に大きな方形の楯、右に梓のような長い棒状のものを持つ人物を描いた絵画土突(写真8)が出土している(大阪応立弥生文化博物館二〇〇七)。
時代の差はあるものの、これは『延青草人司式』に「楯と槍を執れ」と定められた、隼人の姿を彷彿させる。ただし、楯と尤・棒状の武器を持つ弥生時代の絵画土器は、奈良県天理市の掛和郎遺跡や、すぐ南の同県軌跡郡田原本町の唐古・鍵遺跡などからも出土している(田原本町教育委員会二〇〇六)。
▶︎肥人(くまひと)の髪型
隼人の楯の紋様や額田馬の問題を解く際に参考となるのが、「肥人」の習俗である古代日向には、隼人と親密な関係にあった肥人と称された人々がいた。『続日本紀』文武天皇四(七〇〇)年六月庚辰条にみえる、南九州へ領域拡大を進はる使節の覚国使刑部真木を脅迫した薩末比売・肝衝難波らに従った肥人、天平†(七三三)年の平城京右京の徴税台帳(『寧欒遺文』)にみえる、阿太肥人床持売など・す知られる。
肥人の史料は僅少ゆえ、実態は明瞭ではない。「肥人は肥後国の球磨地方の人」「胞人と文化的共通性を持つ、特に阿多隼人と親密であった海人的集団」などとみられJいる(中村明歳一九八六、青木・稲岡・笹山・自藤一九八九、植垣一九九七)。
おそらく、肥人は肥後国の球磨川上流、人吉盆地地域に盤居した集団を指し、熊劫の「熊」にあてることができよう。彼らはある時期、大隅半島曾於地域に住む、のふの大隅隼人=「襲」とともに、日向の夫妻族である諸県君氏の影響↑にあつて、曹州を代表する集団の二羞なされ、宴と表的に誉れることがあったと考えまれる。
さて、喪堅暫祭都鵬賢条は、興味深い肥人の記事を載せている。
猪養野 右、猪飼と号くるは、雛掛の前掛の宮に碗しぎめしし天皇の峯恥郎の肥 人、禦野蒜裔の祭る舟の於に、猪を持ち崇て、た準りき。.…
猪養野の地名起源説雫あるが、それは、日向の肥人の朝戸君が、船に天照大神を奉斎し、猪(ブタ)を持ち来て飼育したことに始まる、という。実際に仁徳朝のことであったか、天照大神が髭枇と同じか否かなど定かでは汽が、所伝の他の部分にっいては特段に疑うべき理由はない。
彼らが上陸したという賓毛郡山田芸者は現在の兵庫県小賢東南部にあてられるが、ここが応神天蓋士二年九月条に日向諸県吾が髪長媛をともなって最初に上陸したという賀川の、中空岸であるのも偶然ではなかろう。
次に、『万葉集』巻十一の歌謡をみてみよう。
肥人の整える知和瞥染みにし心撃れめや(二四九六)
「肥人が額芸撃を結う染木綿のように、染みついたあなたの心を、私は忘れようか、けっして忘れはしない」という恋の歌である。この歌謡から、肥人は特徴的な髪形をしていたことが知られる。
右に続く二軍番歌が去パの名に賢所いちしろくわが名は告りつ妻と警(早人1−隼人の有名な夜声が明瞭であるように、はっきりと私の名前を申しましたので、妻として信頼してください)」という、儀式における隼人の挙例示した詠であることは、肥人と隼人の近しい関係を示唆している。
さて、木綿は麻や楮の樹皮を剥いで繊維としたもので、祭祀において軍神に捧げ、また賢木に採り懸けて祭儀に用いた。こうした木綿で額髪を結ぶのは、京都の賀茂祭に祭人が葵を冠に挿し飾ったのと同様、儀礼の場における聖性の象徴的表一紹鴨てよい。
遡っては、『慧倭人伝』に、倭国の風俗を「男子は皆露紛し、和掛を学頭に招け(男性は髪を左右に分けて結い、頭には木綿をかけている)」と記している。ここでの倭人は九州の海人であろうが、木綿で額髪を結うのは、儀礼に際しての古来の習俗であった。
『延書隼人司式』によると、元日・即位・蕃客人朝・践詐(即位)大嘗祭・行幸な第三章 馬飼集団の謎どに供奉した隼人も、自・赤の木綿を用いて耳形掌(髪飾り)にするきまりであった。
耳形撃の形状は明瞭ではないが、儀式において肥人と隼人が、ともに色鮮やかな太綿で髪を結い飾るという、酷似した習俗を有していたことは興味深い弄上辰雄一九七四)。この額髪を結う習俗が、額田馬の伝承や隼人の楯の項部に馬髪を編んで結いつけることに、通じ合うところがあると考えられる。
▶︎馬の額髪飾り
馬の額髪飾りなどの有機物が、今日まで遣り伝わることは期待できないが、古墳睦代中期から後期の古墳墳丘に樹て並べられた飾り馬を表現した馬形埴輪なら、その一端をみることができる。
馬形埴輪には、藍を切りそろえて美しく成形したものが多いが、なかには額髪部写真9頭部が特鞍的な馬形埴輪1額髪を細く束ね環状に撚っている。同形状のものは、奈良県磯城郡田原本町所在の笹鉾山2号墳からも出土分を一段高くしたものや、ふく留状に束ねたものもある。具休例を示そう。
四世紀末〜五世紀初頭の抄材製の鞍(乗馬用具) が出エした奈良県香芝市の下田膚遺跡に隣接する、五世紀後地の下田東一号墳(全長一六.ートルの帆立貝形古墳)か′頭部が特徴的な鳥形埴肯2子二写真10山言古墳(全長九四メートルの前方後円墳)額髪が角状に突き出し、その先端を内巻で渦巻状にした、特異な形状に作られている出土した馬形埴輪(写真9)や、五世紀後半の大阪府大阪市の長原八七号墳(一辺一二メートルの方墳)から出土した馬形埴輪(写真10)がそれである。
暫状に結うものは、東海から関東地方に多い。六世紀前半の愛知県春日井市の味美二から出土した二体の馬形埴輪は、額髪を宥状に成形し、その根元部分を細いリボン状のもので交差させて結った形に表現している(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館一九九〇二九九一・二〇〇八、香芝市二上山博物館二〇〇九)。
儀式用の飾り馬では、撃額髪の成形を重視する習俗があったわけで、これらはまさに馬の額警結ったものである。そこには、美的効果以1の重い意味があったと考えられる。
おそらく、これら馬の宴を結って角のように成形したものは、霊的威力を象徴する角のある碗鰍、磯部を表現しているとみてよい。『釈日本紀』所引「私記」が、まと「鮎の郎」を「日向国に出る千里の駿駒なり」と記しているのも、あながち的はずれとはいえない。
ちなみに、『猷郭蘇弼整でも、祭儀に用いる馬は額髪を飾り結う規定であった。就国「琴衰患馬(いわゆる賀茂驚)十二疋」には、「額髪を結う糸」が準備された。他の祭りの「馬装も瞥轡皇とあって、他の祭儀もこれに準じる定めであった。
たとえば、五月音節では馬の額髪を排(赤色)の糸で結い、正月七日の青馬(白馬)節では「慧。…:袈額に当てる花形。……額髪と尾を結う縦射」などが必要とされた。慧とは、馬の頭から頼にかける糸製の轡飾りであり、鈴をつけて馬額につける花形飾りも興味深いが、額髪と尾は絞(萌黄色)の糸で結うきまりであった。
このように、平安時代にも祭儀に用いる飾り馬の額髪などが美しく結い飾られていたことは、そのことを重くみる伝統的観念の根強さを物語っている。
なお、紀元前四世紀のパクトリア(現・タジキスタン)製の馬形リュトン(鍍金さあた銀の角杯)は、両脚を前方に出して疾駆する姿に造られているが、宣は角状に成形されており(MIHO MUSEUM二〇〇二)、馬の額髪・髭を成形する文化の源流鼻示唆している。
▶︎隼人の楯=隼人鳥の額?
先述のように、隼人の楯に描かれた連結逆S字形渦巻紋は、『延青草人司式』には「鈎形に画け」とあった。このことから、隼人がヤマト王権に服属奉仕する起源物語として知られる、海幸彦・山幸彦神話の主要素である、「鈎(鈎は鈎の俗字)」に関連つけて解釈することは容易である。しかし、それでは楯の項部に編み結われた、多くの馬髪との関係が整合しない。
あるいは、隼人に特徴的な海人的文化と結びつけて、飽貝を抽象化した呪術的静様(藤井一九七五)、さらには楯につけられることが多い巴形銅器の原形である、永字貝や法螺貝を形象化した渦巻紋様などと説明されてきたが(中村明歳一九七八、大下一九九六、橋口一九九八)、楯項部に結いつけられた馬髪との関連が考えられない占では、先の場合と同じである。
しかし、隼人の楯の項部に結いつけられた馬髪が、馬の額髪を表現しているならば、楯の中央部も隼人馬の額面を形象化していると理解するべきであろう。それは、先に引いた『新撰姓氏録』にいう、馬の額の「町形の廻毛」「額の田町」であり、卓さに隼人馬の馬面を象徴的に表現したものにほかならない。
ここまで「日向の駒」が額田馬=隼人馬であり、隼人の楯は隼人馬の額面を形象ルしていたことを考察したが、引き続き次章では「日向の駒」=額田馬=隼人馬が駿臨とされたことの歴史的背景を追い、蘇我氏と馬飼集団の関わりを明らかにしたい。
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