各地域の地名

■東北の地名

■会津(あいづ)会津は川が合流して出る所

 喜多方は会津の「北の方」こと。磐梯山は磐(いわ)の橋のごとき高い山である。

▶︎会津の由来

 福島県の会津地方は、県下でも早くから独立した地域を形成し、奈良時代初期に、陸奥国の「会津郡」で記されるほか、『古事記』にも「相津」として表される。崇神天皇のとき、征討将軍の大彦命が北陸道から北上し、建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)が東海道から北上して、この地で出合ったので「相津」と呼んだという説話が『古事記』にある。

 一般に解釈されているのは、会津盆地で河川が出合う所を「あいづ」と呼んだというものである。注意したいのは、「あいづ」の「づ(津)」である。これは「あいづ(会出)」で、「いづ(出)」の「づ」であろう。南九州に「島津」という地名があって、「しまづ(島出)」と考えられるから、ここも同じであろう。会津盆地の塩川町の西で二つの大きな川が出合って(これを「会い」という)、西へ向かって阿賀野川となって、流れ出る所(これを「出づ」の「づ」という)が「会津」であろう。

▶︎会津地方の地名 会津の中心都市「会津若松市」は、もとは「黒川」と呼ばれ、天正18年蒲生氏郷が当地を領有して築城し、故郷の近江国の若松の森にちなんで「若松城」と改名したことによる。盆地の北には、ラーメンで有名となった「喜多方市」がある。会津盆地の北部一帯は、中世以来「北方(きたかた)」と呼ばれており、明治に入って製糸業が盛んになると、好字(こうじ)を用いて「喜多方」と改字したことによる。会津のシンボルで、盆地の北東にある会津磐梯山(標高1819メートル)は、明治21年に火山史上まれな大爆発をおこし、山体の一部を吹き飛ばして、山の北側には馬蹄型の大きな窪みを残している。「いわ(磐)はし(梯)」がもとの音で、後に「ばんだい」と呼ぶようになった。天に昇る磐の橋(梯)のごとく高い山の意味である。

■関東の地名

■常陸(ひたち)と水戸(みと)常陸は直道で、じかに行く道

 日立は朝日が早く昇る土地。茨城はイバラの柵(城)に由来する。

▶︎常陸の由来  茨城県の大半をしめていた古代の常陸の国は、初めは『古事記』にみえる「常道(ひたぢ)」という表記であった。常道の北は、朝廷の支配の及ばぬ「道の奥」と呼ばれる蝦夷(日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称)の土地であった。当初は、ここから直接「道の奥」へ行ける地域であったので、「直道(ひたぢ)」の意味で「常道」と表記したのであろう。「直」を「常」の字で表したのは「いつものように」という意味の似た「常(つね・いつでも変わることなく同じであること)」という縁起の良い字を用いたものであろう。大化の改新以後、「道の奥」が国として安定すると、「道」の意味は失われて、土地を意味する「陸」という表示になり、「常陸」と書くようになった。したがって「常陸」の文字そのものでは意味をなさず、原義は「直(じか)に道の通じる国」ということである。なお、県内の「日立市」の「ひたち」は、「常陸」とは関係なく、元禄時代に、徳川光圀が当地の神社の高台から、朝日が早く立ち昇るのを見て、「日立」と名づけたことによる。

▶︎水戸の成立 茨城県の県庁所在都市の「水戸」は、南北朝頃に成立した地名で、那珂川と千波湖の間の台地の端に立地し、南北から水のせまった細い土地を「水戸」と称したことによる。古代では、付近一帯は「吉田」と呼ばれていた。これに関して、葦(よし)生えた土地に由来するという説があるが、私は当地にあった美しい田を、初めから「吉田」と名づけたと考えている。

 さて、水戸の発展は、慶長14年(1609)、徳川頼宣(よりのぶ)が水戸藩主となってからで、以後「徳川御三家」の水戸藩35万石の城下町として栄えてきた。なお、県名の「茨城(いばらき)」は、はるか昔に、朝廷に従わぬ者に対して、茨を用いた柵(き)で防御したので、「茨城」と名づけられた?

県名は『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』による茨棘(うばら)に由来する茨城(うばらき→いばらき)の郡名による。

■利根川(とねがわ)と霞ケ浦(かすみがうら)・・・利根川とは長い川ではなく、門嶺(とね)の意であろう

 霞ケ浦は霞の立つ浦ではなく、船頭の住む土地のことである

▶︎利根川の由来

 関東平野を流れる利根川は、流長32キロメートルで、日本第二の河川であるが、その流域面積は日本一である。この河川名は、川の特徴から名づけられたものではなく、群馬県北部の「利根郡」という名より成立している。

 『日本後紀』弘仁2年(811)に、「上野国利根郡」として初めてみえ、この郡の深い谷間を流れる川を「利根川」と呼んだものである。「峠(とうげ)」が「とね」に変化したとか、長い川の意とか、「鋭峰(とね)」と読んで、鋭い峰が並んでいる所などの解釈があるが、どれも問題が多い。筆者は「門嶺(とね)」と解釈しており、山谷のせまった狭い所が「門」であり、その両側に山の嶺がそそり立っている地形を「嶺」といい、狭くて深い山谷と嶺の並んだ所を「とね」と称したと考えている。

▶︎霞ケ浦とは

 茨城県南部に、琵琶湖に次いで日本第二の大湖である「霞ヶ浦」(面積168平方キロメートル)がある。この地名に関しては、しばしば、霞が立ちこめる湖であるという解釈がある。また、『常陸風土記』の中の行方郡に「香澄里(かすみのさと)」が記されており、風土記はここを「霞の里」の意であるとしたために、彼の人も、右へならえで、「霞」の意としているのである。

 いずれにしても、「香澄里」に由来して、鎌倉時代に「霞ノ浦」と呼ばれ、後に「霞ケ浦」となったことは事実である。ところで、兵庫県に「香住町」があり、霞ヶ浦の南東端にも「香澄(茨城県潮来市)」があり、ともに古来より、漁業や水上交易が主菜であった。従って「揖(か)住(すみ)」の意味とも思われる。「楫(かじ)」とはかじ取りのことで、水先案内や漁船のかじを取る船頭のことだ。古代において、船頭の住む土地を「かすみ」といったのではないか。

■鹿島(かしま)と香取(かとり)鹿島は島ではなく、船の停泊地のこと

 香取は船のカジを取る船頭の集団が住んでいた所らしい。

▶︎鹿島の神の宮

 茨城県鹿鴨市にある「鹿島神宮」は、古代からこの名で特別の扱いを受けてきた。この神宮に祭ってある神は「タケミカズチノミコト」といって、『古事記』や『日本書紀』という奈良時代の本によると、日本各地にいた悪者を退治した勇敢な神であったという。この神を先祖の神としてお祭りしてきたのが、はるか古代から、天皇の側でつかえてきた中臣(なかとみ)と呼ばれる豪族であった。この中臣の一族は、奈良時代に入ると、奈良の都に「春日大社」という大きなお宮を追って、姓も藤原と改め、古代を代表する貴族になった。そこでなぜ中臣氏が鹿島の地に神を祀ったかといえば、そこが大和朝廷の東国経営と、大和朝廷に反抗してきた北方の蝦夷と呼ばれる人たちを監視する基地だったからだろう。

 さて、鹿島の意味は、神の住む島という説もあるが、著者は「かし(船をくいつなぐ杭<くい>)ま(所)」で、大和朝廷の船団が停泊する船着場と考えている。

▶︎香取の神の宮

 千葉県佐原市にある「 香取神宮」も、古代からこの名で特別の扱いを受けており、このお宮も中臣氏の先祖の神を祀ってある。ここの神は「フツヌシの神」と呼ばれる。『日本書紀』によると、「フツヌシの神は東(あずま)の国の揖取(かとり)の地にまします」とある。この神は、剣の神の御子であって、従わない悪者を剣で切って捨てた武勇の神であった。この神もまた、奈良の「春日大社」に祀ってある

 さて、香取の意味はというと、「かじとり(梶取)」ということで、船の梶をとる船頭のことをいう。はるか昔は、大和朝廷に属する船団の船の梶を取る船頭の住んでいた土地と思われる。

■上総(かずさ)と下総(しもうさ)総の国が上総と下総に分れた

 手賀沼や印旛沼は土砂流で塞(ふさ)がれた沼であった。国中、いたる所で塞がれ、総は塞の国である

▶︎上総と下総の由来

 千葉県北部の大半をしめていたのが古代の「下総国」で、千葉県中南部をしめていたのが「上総国」であった。大化前代に「総(ふさ)」という国があって、これが「上総(かみつふさ)」と「下総(しもつふさ)」の二国に分かれたことによる。そこで「総」とは何かということになる。平安前期に書かれた『古語拾遺』に、「総とは、麻のことである」と記されているものだから、その後の人たちは、千葉県の古名の「フサ」は麻の産地に由来すると信じて疑わなかった。しかし、「総」の原義は、麻糸や絹糸などの糸を束ねたものであって、必ずしも麻の意ではない

 県下の地名を調べてみると、下総国に「匝瑳(さふさ)郡」や「布佐(ふさ)郷」がみえ、これが「総」国の語源をひもとく地名と筆者は結論づけた。

▶︎「総(フサ)」の原義

 『和名抄』の下総国相馬都に「布佐郷」がみえ、今の我孫子市布佐の地をいう。鬼怒川(現在の利根川)の氾濫で小河川が土砂流で塞がれそこにに形成された「手賀沼」の人口に「布佐」の地名がある。同様に「印旛沼(いんばぬま)」や千葉県北部に散在する大小の沼はこうして生じたものが多い。

 また、九十九里浜に目をやると、下総国の「匝瑳郡」がある。古代の「サフサ」の音が今は「ソウサ」と呼ばれ現在の匝瑳郡や八日市場市のあたりをいう。古代には、ここに「椿の海」と称する巨大な入海があった。それが沿岸洲の発達によって次第に塞がれ、江戸時代にはまだ一部が干潟として残っていた。したがって、ここの部名は「さ(接頭語)ふさ(塞)」で、塞がれた地形に由来する。九十九里浜には、他にもこうした入海の塞がれた所があったらしい。「総(ふさ)」とは「塞(ふさ)」の意と決定される。

■出雲(いずも)と松江(まつえ)出雲とは雲の多い所か、出隈と考えられる

 松江は中国大陸の景勝地から縁起の良い名として成立したらしい。意宇(おう)の海には白貝が多くいた。

▶︎出雲の由来

 島根県東部にあった国が古代の「出雲」で、『出雲風土記』によると、「八雲立つ出雲の国」と記されている。この記事から、雲のよく出る国と、多くの人に解釈されてきた。しかし、地名研究者の間では、この考えは支持されておらず、「い(接頭語)つま(端)」説や「厳藻(いつも)などが代表的な語源説となっている。『和名抄には「出雲郡出雲郷」がみえるが、他の国名由来の例から判断して、郡郷名から国名にしたものが多いので、出雲郡内に「いずも」の地名の発生源があるにちがいない。結論として、郡郷名から由来した国名であり、「いづ(出)くま(隈)」が「いづくも・いづも」に変化したと思われる。

 出雲大社のある大社町の一帯が地名の発生源で、目御碕(ひのみさき)で土地が突出(これが出づ)、大社町稲佐(いなさ)で砂浜が大きく曲がる(これが隈)、こうした出雲郡の地形に由来した地名であろう。

●松江の成立

 島根県の県庁所在地は松江市で、(しんじこ)から流れ出る大橋川をはさんで、中世には、北側が島根郡末次(すえつぐ)村南側が意宇(おう)郡白潟村といわれた。慶長12年(1607)には、堀尾吉晴(ほりおよしはる)が出雲・隠岐24万石の大名として末次の地に城を築いた。そして、風景が中国大陸の江(ずんごう)に似ていると当地の和尚の話などを開いて、「松江城」と名づけたという。元の名の「末次」は、『出雲風土記』に「スエツクの社」でみえる古い地名で、「末尽(すえつく)」の意と思われる。最も端にある土地という意味であろう。

 ところで、南側の意宇部の「おう」とは何か。『万葉集に「おうの海」があって、中海(なかうみ)や宍道湖を指していたと思われ「おふ(白貝)」という貝が多くいたことによると考えている。

 

■唐津(からつ)と伊万里(いまり)唐津とは唐の国へ渡る津のことか

 伊万里は今できた里の意で、有田は荒田の変化と思える。

▶︎唐津の由来は 

 佐賀県北部の都市「唐津」については、古代より唐国へ渡る津であったという説で定着している。ところが、南北朝時代になって「唐津」で初めてみえ、松浦川河口海岸部の地名であった。この背後の台地に「唐川」の地名があり、関係があるかもしれない。

  唐川とは、「(から)川」の意で、水涸れのおこる小河川である。慶長7年(1602)、寺沢広高が12万余石で唐津に入り、唐津城を造営した。以後、城下町として発展し、「唐津焼」というとうぎよう陶業が盛んとなった。市の東部には「虹の松原」という景勝地があり、背後の鏡山を別に「領巾振(ひれふり)山」と呼ぶ。その昔、大伴狭手彦が任那(みまな:韓国南部)へ船出した際、妻の松浦佐用姫が、この山より領巾を握って別れを惜しんだからということだ。

▶︎伊万里の成立

 佐賀県西部にある伊万里市は、鎌倉初期に「伊万里」でみえるが、平安中期にあった皇室領「宇野御厨(うののみくりや)」の中で、奈良時代の条里制に基づく地名とみられている。それは「今(いま)里」の意味で、今、新たに開発した村ということである。「宇野(うの)」は、「うの(浮野)」の意で、水のあふれる焼野である。戦国時代には、後に佐賀藩主となった鍋島氏が、船を停泊させる根拠地にして、「伊万里浦・伊万里津」とも呼ばれた。

 江戸時代に入ると、内陸の「有田(ありた)」で陶業が発達し、伊万里はその陶器の積み出し港として発展した。この陶磁器の町「有田」は、「荒田(あらた)」の変化した地名と思われる。また、延宝3年(1675)には、鍋島藩の藩陶が、伊万里市街の南の「大川内山(おおかわちやま)」で開業し、有田と並ぶ陶磁器の町となったのである。

*唐津焼・伊万里焼・有田焼には、戦国末期の帰化陶工の影響が大きい