「県(あがた)」の歴史

■「県(あがた)」の歴史

田中勇司

■有史以前

 足利市史によると高松遺跡(高松町)は足利の南部―平野の中に突き出た東西に長い舌状台地(邑楽台地)の西端部、愛宕台と呼ばれる台地上にある。

 あがた縄文時代遺跡(晩期)は東武線あがた駅の南部にあった。耳飾りなど高松遺跡と同様のものが出土していて交流があったと思われる。また、耳飾りは漆加工がされていたので江戸時代に大久保町(東松苑ゴルフあたりか)で漆の生産が文書に残っているので古代から漆が生育していたと考えられる。

県主とは県主は、国造(くにのみやつこ)や伴造(とものみやつこ)の「ミヤツコ」よりも古い「ヌシ」の称号をもち、名代・子代の制よりも古めかしい奉仕形態をとることから、3 – 4世紀(古墳時代初期)に成立したと考えられている。「国」が日本氏姓制古代国家の行政目的で作られた行政制度であるのに対し、「県」は発生と発展がもっと自然の性格をもつ。

 県主は古墳時代初期(3~4世紀ごろ)に成立したと考えられていて、氏姓制度より古いと考えられている。このころ県主が県にいたと思われる ?

古墳時代になると天王塚古墳(県集会所)、薬師堂古墳(寶常寺・下図右写真)がつくられた。県主との関連が考えられる?

 浄徳寺に鎌倉中期と考えられる板碑と五輪塔が三基あり、大きさから(藤原行家:法玄寺と比較して)力のあった豪族が県にいたと考えられる。また、地蔵院の墓地にある御厨太郎平将頼天慶の乱の平将門の弟といわれる)の墓と同じぐらいか。室町時代中後期に長尾家が足利地方を統治した。長尾没落後北条氏の統治が続いた。
北条氏以後県町を治めた大名について記す。

平 将頼(たいら の まさより、-將頼)は、平安時代中期の武将。名は将貞とも。平良将の子で平将門の弟。「御厨三郎」と称す。『尊卑分脈』では四男、『相馬系図』では長子の将持がない為に三男である。子に将兼があるとされる。将門私授下野守。

 徳川綱吉の生母桂昌院の口利きで異母兄・本庄道芳の孫・本庄道章が宝永二年(一七〇五年)3月に一万石の大名として高富に入ったことから(正式に高富に陣屋が移ったのは宝永6年))、高富藩が立藩した。これはもちろん、綱吉と桂昌院の縁故のためである(桂昌院は綱吉:五代将軍の母親)。

※訂正文書
縣の剣豪家泉柳八郎を送ります。田中勇治氏より
文中の宮津藩は高富藩のまちがいと思われる。天明は今も佐野の1町名として
残り鉄器で有名です。

▶️高富藩 本庄家加増 1万石 譜代 菊間 陣屋

  高富藩は五代将軍綱吉取り立ての比較的新しい藩。
綱吉の小姓で4,000石を得ていた本庄道章が6,000石を加増されて万石に達し、諸侯に列した。藩領は美濃に7,000石、下野に3,000石だったという。

  本庄道章の祖父庄道芳は綱吉の母の桂昌院の兄で、本庄道章にとっては桂昌院は大叔母にあたる。その引きもあって、大名に取りたてられた。

本庄道芳:ほんじょう みちか
美濃高富藩祖。二条康道に仕え諸大夫となり従四位下宮内少輔に叙任。のち将軍家光・家綱に仕える。書道を藤木敦直に学び一家をなす。寛文8年(1668)歿、65才。

   丹後宮津藩の本庄家の方が家格が上で、しかもこちらは新出来なので、高富藩は宮津藩の支藩という感じだが、家系から言うと、本庄宗正には3人の子があり長男がこの本庄家の祖である本庄道芳、2番目が桂昌院、3番目の弟が宮津藩の本庄家の祖、本庄宗資なので、高富藩の方が宗家とも言える。

   代々の藩主は実子に恵まれず、過半は他家からの養子であった。
定府で、参勤交代はしなかった。

■歴代藩主
       藩主官位・通称出自(実父・嫡出関係)
      初代本庄道章(みちあきら)従五位下 宮内少輔本庄道高の子
      二代本庄道矩(みちのり)従五位下 大和守本庄道章の子
      三代本庄道倫(みちとも)従五位下 和泉守旗本松平登之助信晴の子
      四代本庄道堅(みちかた)従五位下 大和守信濃小諸藩主牧野康周の二男
      五代本庄道信(みちのぶ)従五位下 大和守三河吉田藩主松平(大河内・長沢)信復の弟松平正温の二男
      六代本庄道揚(みちあき)従五位下 山城守三河吉田藩主松平(大河内・長沢)信復の子
      七代本庄道利(みちとし)従五位下 甲斐守松平対馬守信直の二男
      八代本庄道昌(みちまさ)従五位下 式部少輔本庄道利の子
      九代本庄道貫(みちつら)従五位下 伊勢守上野吉井藩主松平(鷹司)信明の子
      十代本庄道美(みちよし)従五位下 宮内少輔本庄道貫の子

 先日は貴重な資料を贈っていただいてありがとうございました。
私も忙しくご一緒できずすみませんでした。
荒萩の探索は非常に興味があります。いただいた資料を見て更にその思いが強くなりました。

■県陣屋

 大重さんの東にある稲荷様は最近までやっていたが今はやっていない。館林の花山近くの尾曳稲荷を勧請したもので、機が優勢の頃分社した。西向きの稲荷様で珍しい。

 大月のおばあちゃん:木崎、尾島の生まれで財閥であったが、大月の爺さんと一緒になって機屋をやって財を成す。明治の後では。
どうも、陣屋は結城屋(羽生から越してきた)、家泉(花屋の分家)さんあたりではないかとの伝承有り。牢屋は原田さんの前辺りにあった。;長谷川絵描きのばあさんが言っていた。これは確かと思われる。

 石巖当は小曽根の高木先生も関心があり保存をいっている。

 <足利>沖縄や九州地方で多く見られる「石敢当」が県町で発見された20日、研究者らが現地調査を行った。石敢当は江戸末期の建立と推測される。県内では4基確認されているが、江戸期のものは関東地方では埼玉県内の2基だけで、歴史的価値は限りなく高いとみられる。
 見つけた石敢当は高さ48センチ、幅30センチ。丁字路がぶつかった場所の塀沿いにあった。
 市文化財愛護協会の臼井好雄さん(68)が歴史研究仲間から聞き、2008年5月から調査を進めていた。建立者や時代の記入はないが、V字型に字の溝を彫る技法や他の石碑との比較などから、江戸末期の建立と推測される。 この日の現地調査には、国立古文書館長などを担った石慎重研究の第一人者である小玉正任さん( 84)=横浜市=も参加しました。
 石敢当は中国で誕生し、悪霊が家や村に進入して災害を防ぐため、家の門や道突きに石碑や表札などの形で立てられた。伝わり、沖縄や鹿児島を中心に31都道府県で確認されている。県内では、これまで「1896(明治29)年建之」と記された佐野市多田町のものが最古とされていた。
 江戸時代、足利学校に石敢当の関連書籍が多数考えられていた記録があることや、当時石敢当を建立した一人である大窪詩仏が足利学校で学んでいたことから、足利と石敢当のつながりは深い。
 発見された石敢当の近くに住む大月一能さん(82)は「『庚申様』として大切にしてきたが、貴重な文化財とは思ってなかった」と見た様子。 「足利視聴した石正しくを地域ぐるみで大切にしたい」と話し、調査や保存活動を続けていることに。

 大重(だいしげ)さんこのあたりは陣屋ではないらしい。生駒神社の伝承、さらし首、牢屋辺りで見ていく必要がありそうです。

■荒萩陣屋

 道路より30cm程度高くなっています。近くに荒萩橋があり高松の港より渡良瀬に近く年貢米の輸送に便利ではないかと推測できます。道貫の位牌がある点からして荒萩は高富藩の坂東における中枢ではないか。近くには阿弥陀堂がある墓地がある。
できれば荒萩を探索してみるのも面白いのではないか。

神道無念流(しんとうむねんりゅう しんどうむねんりゅう)は、日本の剣術流派。宝暦年間(1751年 – 1764年)頃に福井兵右衛門嘉平によって創始された。「立居合」という居合も含むが、実際に立居合も学んだ者は極めて少なく[2]、免許皆伝
神道無念流練兵館跡靖国神社境内)
福井嘉平は下野国都賀郡藤葉村(現 栃木県下都賀郡壬生町)出身で野中権内より新神陰一円流を学んだ後、廻国修業し、信州の飯縄山(戸隠山とする文献もあり)の飯綱権現に参篭中、現れた老人より7日間にわたって剣法の妙要を授かり、下山後伝授された妙要から立居合十二剣を編み出し、神道無念流を開いたと伝えられる

 幕末に県に家泉柳八郎?という剣術使いがいて、神道無念流の免許皆伝で弟子が600人ほどの弟子を持ったという話がある。あとで資料が見つかったら送る。
大久保町で漆の栽培で高富藩に小物成として税金を納めていたというう古文書がある。県は相級でなかったので筑波の中でも生活はいい方であったらしい。

[現在地名]足利市瑞穂野町みずほのちよう

矢場川北岸の平地に位置し、対岸は上野国邑楽おうら日向ひなた(現群馬県館林市)、東は簗田やなだ郡日向村。康永三年(一三四四)一二月日の鑁阿寺雑掌申状案(鑁阿寺雑録)に足利庄「荒萩郷」とみえる。文和二年(一三五三)一二月一二日には、足利幕府執事仁木頼章領となっていた同郷などに対する大平修理亮らの乱妨を停止するよう小俣尊光に命ぜられている「関東公方足利基氏御判御教書」鶏足寺文書

■添付書類・田中勇司氏より(Friday, December 1, 2023 3:19 PM)