あがた駅遺跡②

■あがた駅南遺跡

発掘の原因     足利市あがた駅南地区用地造成事業

所 在   足利市県町地内

期 間   平成29年4月1日〜平成30年3月31日

時 代   縄文時代、古墳時代、奈良・平安時代、中世

面 積   33,400㎡(32,000 ㎡)

担 当 者  塚本節也・中村享史・江原英・亀田幸久・谷中隆善保・初山孝行 大木丈夫

▶︎遺跡の概要

 足利市街地から南南東に約5kmで、東武伊勢崎濠あがた部の南東部に位置する。渡良瀬川とその支流である矢場川に挟まれた沖積期に立地し、調査前の現況及び周囲は水田が広がっている。

 標高は24〜26mで、遺跡内の土壌にロームは無く、主に粘土、シルト〜砂質土で構成されている。開発区内の調査総面積40.400㎡のうち、平成29年度は32.000㎡を調査した。

 調査区は、主に縄文時代後晩期の集落跡である西区と、主に古墳時代及び古代の集落跡である東区に分かれる。

 平成29年度調査区では、場所による遺構の粗密が想定されていたことから、東区の大半及び西区の一部でトレンチによる遺構確認を先に行い、遺構の分布が確認できなかつた区域については、面的な調査範囲から除外した。

 西区の調査二造成工事の進捗に対応する形でA〜L区の調査を順次行った。

 この範囲全体に、古墳時代層の直下で縄文時代晩期の黒色土包含層が10〜40㎝程度堆積しており、ここから多くの遺物が出土したほか、石囲炉などの遺構も確認された。黒色土下位の褐色土、更にその下位のシルト〜粘質土(厚いところでは計80㎝程度)でも多量の遺物や遺構が確認されており、区域により異なるが、2〜4面の調査を行ったことになる。包含層の状態は地点や層により異なり、極めて密な遺物が出土するところと、比較的希薄な場所とが確認されている。

 また、より下位の層位ほど古い時期の遺物が出土する傾向が認められ下位の粘土層まで掘り下げたB区や=区の下位包含層や遺構では、後期後半のものが自立っていた0西区の遺構覆土・包含層全体では約1・200箱と多量の遺物が出土した。土器l石器の他、土偶や耳飾りなどの土製品や石剣・石器類などの石製品も多く認められた。層中の骨片や炭化物の出土も目立ち、骨類の中には加工のある骨角製品も数点確認されている。遺構としては住居跡11軒、土坑約50基、配石遺構2基・埋設土器遺構8基、ピット多数が認められている。

 A区ではピットの集中的な配置から住居跡を想定しており、今後の検討によつては住居跡軒数が増える可能性もある。C区で確認されたS−143bは、晩期前半期の一辺8mを超える大型の住居跡である。

  ここでは方形プランの壁際に垂直に立つ炭化材が数本認められたほか、壁際での厚い焼土の堆積、焼けた床面などの特徴が認められた。

  床面近くで対の耳飾りが近い位置で出土している。

 東区の調査:平成29年度の東区の調査では、古墳時代前期〜中期の竪穴建物跡56軒、古代の竪穴建物跡4軒が確認された。平成28年度調査分と併せると、古墳時代〜古代の建物跡給数は100軒となる。

 古墳時代集落跡の時期は前期〜中期で、粟区の中でも中央部のV区では前期後半の建物跡が目立ち、東側のⅦ区では古墳時代中期の建物跡が主体となっている。

 カマドを伴うものは1軒のみである。竪穴の掘り込みや、炉・柱穴等の附帯施設のものも多い。

 Ⅶ区で掘立柱建物跡1棟が確認され、一部柱穴内に材も遺存残していた。古墳時代の遺物に、集中箇所は42箇所あり、中には径1〜2m程度の範囲内に小型の石製祭具が集中して出土したところもある。

 溝は計19箇所確認され、Ⅳ・V区で確認された溝では居住域を区画するかのような形態・配置となっているものがある。

 またⅥ〜Ⅶ区にかけては、古代の溝も確認された。他に、中世の溝や土坑も少数確認されている。遺物は古墳時代土師器等、約30箱が出土している。

※以上の記録転載に文字変換したため数多くの誤字・脱字あり。

■田中勇司氏による資料転載

▶️「県の歴史」

  有史以前足利市史によると高松遺跡(高松町)は足利の南部平野の中に突き出た東西に長い舌状台地(邑楽台地)の西端部、愛宕台と呼ばれる台地上にある。

 あがた縄文時代遺跡(晩期)は東武線あがた駅の南部にあった。耳飾りなど高松遺跡と同様のものが出土していて交流があったと思われる。また、耳飾りは漆加工がされていたので江戸時代に大久保町(東松苑ゴルフあたりか)で漆の生産が文書に残っているので古代から漆が生育していたと考えられる。

 県主は古墳時代初期(3~4世紀ごろ)に成立したと考えられていて、氏姓制度より古いと考えられている。このころ県主が県にいたと思われる。

• 古墳時代になると天王塚古墳(上写真?・県集会所)、県薬師堂古墳(県下寶常寺)がつくられた。県主との関連が考えられる。

 寳常寺の開山は元禄元年(1688)舜海上人。しかし、それ以前より地域の豪族であった県氏の城下県城の護持寺としてあったと考えられている。

 県氏は県郷の豪族であり、唐沢山を居城とする佐野氏との関係が深かったとされるが、天正元年(1573)に佐野昌綱により下県城は夜討をかけられたと資料に残っている。

 昭和初期には本堂・庫裡・薬師堂を合わせ持つ寺院であったが、戦後の動乱によりほとんどが失われ、現存するのは薬師堂のみである。

 平成25年(2013)に本堂を再建した。同寺は大正5年(1916)に正善寺の源田貫秀和尚が第9世住職となって兼務、現在に至っている。

 • 浄徳寺に鎌倉中期と考えられる板碑と五輪塔が三基あり、大きさから(藤原行家:法玄寺と比較して)力のあった豪族が県にいたと考えられる。また、百頭の地蔵院の墓地にある御厨太郎(下写真・天慶の乱の平将門の弟といわれる)の墓と同じぐらいか。

• 室町時代中後期に長尾家が足利地方を統治した。
• 長尾没落後北条氏の統治が続いた。
• 北条氏以後県町を治めた大名について記す。

徳川綱吉の生母桂昌院の口利きで異母兄・本庄道芳の孫・本庄道章が宝永二年(1705年)3月に一万石の大名として高富に入ったことから(正式に高富に陣屋が移ったのは宝永六年))、高富藩が立藩した。