つくば市の歴史情報ヒストリア

■くば市は、茨城県の南西部に位置し、 筑波・稲敷台地と呼ばれる標高20〜30mの関東ローム層におおわれた 平坦な地形と北部に名峰筑波山、東部に霞ヶ関を構え、小貝川などの河川が南北に流れる、 自然豊かなまちです。また一方で、筑波大学など多くの研究機関を持つ、研究学園都市として有名です。
つくばのあゆみ
つくばには縄文時代の中頃、河川に沿って海水が内陸に入り、浅い海がありました。この頃から人が住んでいたことを示す遺跡が残されています。 その後、古墳時代になり権力者が現れると、彼らは古墳を作ります。県指定遺跡の八幡塚古墳はその代表的なものです。 また、大化の改新によって市域は筑波郡となりましたが、平沢には当時の役所と推定される遺跡(平沢官衙遺跡)を見ることができます。
鎌倉時代から戦国時代まで、勢力を誇っていた小田氏はこの地に小田城を建て、本拠地としました。この時期、小田氏擁護の元、律宗の僧侶・忍性(にんしょう)が布教を行いました。三村山極楽寺跡や宝鏡山の宝篋印塔(ほうきょういんとう)など、当時の律宗活動に関わりがあるものが現在も残されています。 江戸時代に入ると、茨城地方の領主は次々に交代していましたが、谷田部藩だけは幕府が倒れるまで独立して存続していました。 和時計やからくり人形などを作った発明家、飯塚伊賀七はこの谷田部の出身です。また、水戸街道・筑波街道・小張街道・細川街道などが整備され、 並木が植えられましたが、谷田部地区には当時の松並木が「不動松並木」として残っています。
近年、国の試験研究機関と筑波大学を中核として、高水準の研究・教育を行う拠点を形成することを目的とした、 筑波研究学園都市の建設が決定しました。東京教育大学の一部がこの地に移り、筑波大学が開学すると、 1985年に 科学万博が開催され、都市化に弾みがつきます。そして1987年、町村合併により、 つくば市が誕生しました。その後は工業団地の誘致、先進技術産業地域を構成し、多くの研究機関があつまり、 まさに国際的な科学技術研究都市と変貌を遂げました。今まで都心からのアクセス不便が問題でしたが、2005年8月24日開通予定の 「つくばエクスプレス(常磐新線)」により、 つくば〜秋葉原間が片道45分で行き来できるようになり、更なる都市発展が期待されています。

つくばの名前の由来

■奈良時代の書物 「常陸国風土記」によると、崇神天皇の時代、大和朝廷から派遣されてきた筑波地方の初代の長官の名が「ツクハコの命(みこと)」といい、 彼が「自分の名をこの国につけて後世に伝えよ」と言ったことから、「ツクハコの国」となり、後に「ツクバ」に転じた。
■むかし、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、父・イザナギ、母・イザナミの二神を慰めようとして筑(ちく=琴に似た楽器を指す)を弾いた。 すると鹿島の海が逆巻いて、波が山頂に着いたことから「着波(つくば)」、 または、筑の音で波が動いたので「筑波」となった。 など、さまざまな諸説があります。

常陸国風土記と筑波山について

 古代からこの地域一帯は、筑波の郡と呼ばれ、郡役所のあったところとされる平沢官衙遺跡が市北部の筑波山麓にある。 付近には、古代の土地区画法として約3キロ四方の条里遺構も残っている。  奈良時代の713(和銅6)年に編纂された『常陸国風土記』には、筑波郡のことや、富士の神、筑波の神の伝説などが記載されている。 この伝説は、祖神(おや神)が新嘗祭の夜に子の富士の神を訪ね一夜の宿を求めたが、富士の神は新嘗祭の特別な夜に入れることは出来ないと断った。 一方、同じく子の筑波の神を訪ね一夜の宿を求めると、特別な夜でもあるにもかかわらず快く向かいいれた。 これを祖神はおおいに喜び、筑波山は四季にかかわらず、草木が生い茂り、人々が集まる山に、富士山は草木も生えず、山頂には雪を頂く山になったという。  常陸風土記による筑波の郡は、現在のつくば市の北半分、旧筑波町、旧大穂町、旧豊里町と考えられている。その郡役所が平沢官衙遺跡。 南半分の旧谷田部町、 旧桜村、旧茎崎町の範囲は河内の郡と見られるが、常陸風土記では河内の郡の部分が失われてしまっている。 郡役所は金田官衙遺跡と考えられている。なお、周囲は、筑波の郡の北側は旧真壁町周辺が白壁の郡、旧岩瀬町、旧下館市から笠間市周辺にかけてが新治の郡、 旧八郷町を含む石岡市、かすみがうら市、小美玉市、旧友部町周辺が茨城の郡で、ここには常陸国の役所・国衙が置かれてた。 東側は稲敷市、阿見町、美浦村、河内町、土浦市、龍ヶ崎市、牛久市の一部など霞ヶ浦南岸の広範囲な地域が信太の郡。 なお、つくば市の西側及び南側は下総国で、西側が豊田郡、南側が相馬郡であったと見られる。 万葉集と筑波山  7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された『万葉集』には、筑波山を詠んだ和歌が多数収められている。 その数25首とされ、富士山の11首と比較しても相当多い。 当時としては、辺境の地ともいえる東国の山がこれだけ詠まれているのは、注目に値する。  その影響もあってか、市内には多くの万葉の歌碑がある。有名なのは筑波山神社境内と テクノパーク大穂。  このほか、小倉百人一首にも筑波山を詠んだ歌がある。 陽成院(陽成天皇)の詠んだ 「筑波嶺の 嶺より落つる みなの川がは 恋ぞつもりて 淵となりぬる」で、筑波山梅林入口やテクノパーク大穂内に歌碑がある。

平将門と源義家

 平将門は、平安時代中期、現在の茨城県南西部を本拠にした地方豪族で武将。 関東一円を支配下に治めた承平天慶の乱(平将門の乱)で知られる。この乱は武士の発生を示すものともいわれている。  将門の史跡は、隣の常総市や坂東市、取手市に多くあり、つくば市内には少ない。 最も有名なものでは、子飼の渡しの合戦跡。 現在のつくば市吉沼と下妻市宗道の間の小貝川にあった子飼の渡しでの、平良兼との戦い。 良兼軍は、将門の祖父である高望王と父良将の像を軍の前に掲げ、そのため攻撃できなくなった将門軍を打ち破ったとされる。 小貝川に架かる愛国橋の宗道側の堤防上に「史跡子飼の渡し」の碑が建っている。  このほか、つくば市松塚の東福寺の近くには、将門の娘の滝夜盛姫の墓とされる遺跡が残っている。 なお、東福寺には、滝夜盛姫の石棺の一部とされるものもある。  源義家は、平安時代後期の武将。八幡太郎の通称で知られ、後の鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府の足利尊氏の祖先に当たる。 そのため、神格化され、各地に伝説が残っているがつくば市内にもその足跡がある。  つくば市今鹿島は、義家が奥州へ向かう際「常陸の国には鹿島神宮という軍神を祀る神社がある。ぜひ参拝したい」としたが、 ここからはるかに東の海の近くであることを知ると、 馬を降りて東の方を向いて戦勝祈願したと伝えられえる。それ以来、 この地を今の鹿島、今鹿島と呼ぶようになったという。 また、この時馬の鞭を地面にさして祈願したが、不思議なことに根付き育った。 これをご神木として祀ったのが今鹿島の鹿島神社である。なお、ご神木は榊で、枝の先を地面にさしたので、逆さ榊と呼ばれる。 同じくつくば市山木の八巻神社は、義家が奥州へ向かう途中、この地にかかった時、疫病が流行しており、兵士達も多くかかり、困っていた。 義家は日頃から信仰していた伊豆山神社に参拝し、伊豆の「豆」にちなんで、「以後、小豆は食べないので兵士達の病を治してほしい」 と願をかけたところ、病は治り、戦にも勝った。 このため、伊豆山神社の神様をこの地に祀り、八幡太郎にちなんで「八巻神社」とした。  このほか、つくば市吉沼の 吉沼八幡神社は、義家が奥州へ向かう途中、戦勝祈願した場所という。

常陸平氏の嫡流・多気氏

栄華を極めた「平家」の象徴でもある平清盛の源流は筑波山麓にある。 桓武天皇から出た、いわゆる桓武平氏は、 ひ孫の高望王が平姓を賜ったことに始まる。 高望王の子が、平国香、平良持で、良持の子が平将門、 そして平将門の乱の平定に功があった貞盛は、国香の子である。 常陸平氏は、平国香が常陸大掾に任命されたことに始まる。 平貞盛は、乱後京に上り、その子・維衡(これひら)が伊勢地方(三重県)に領地をもらったことから伊勢平氏と呼ばれ清盛は維衡の6代目となる。 貞盛の弟、繁盛は、その後も常陸を本拠とし、常陸平氏の嫡流として栄えた。代々常陸大掾を世襲したことから、大掾氏とも呼ばれる。 現在のつくば市北条に本拠を置き、繁盛の子・維幹(これもと)から、北条の地の古名である多気氏を名乗る。 為幹(ためもと)、 重(繁)幹(しげもと)、致幹(むねもと)、直幹(ただもと)、義幹(よしもと)と6代続いた。 鎌倉時代に入って力をつけてきた八田知家の策略によって所領と大掾職を没収された。 その後大掾職は、同族の吉田氏に、そして本拠は水戸に移った。 北条の市街地の北側にあるこんもりした山は、 義幹が築城した場所と伝えられ「城山(じょうやま)」と呼ばれる。 また、義幹は地元の人たちから「多気太郎さま(たきたろさま)」と呼ばれる。 北条用水や日向廃寺を建設するなど地元の人から慕われていたようだ。

戦後のつくばと研究学園都市の建設

 戦後、いわゆる昭和の大合併で、つくば市域は筑波町、大穂町、豊里町、谷田部町、桜村、茎崎村(その後町制施行)となった(詳細は合併前の旧町村へ)。 1963年に研究学園都市を筑波山麓に建設することが閣議了解。1964年には「研究・学園都市建設推進本部」の設置を閣議決定した。  1966年から用地取得開始。1970年には計画を推進するため筑波研究学園都市建設法を制定、施行。 1971年に「筑波研究学園都市建設計画の大綱」 「筑波研究学園都市公共公益事業等の整備計画の概要」を推進本部決定した。  1972年、移転機関第1号無機材質研究所開設。1973年には、東京教育大学が旧桜村に移転し、筑波大学として開学した。 1980年に43の試験研究、教育機関の施設が概成、業務開始した。1983年には、筑波研究学園都市のランドマークとなっている つくばセンタービルがオープンしている。  1985年には、筑波研究学園都市の概成を記念するとともに、筑波研究学園都市を国内外にアピールすることなどを目的に国際科学技術博覧会を開催している。  1987年に谷田部町、大穂町、豊里町、桜村が合併してつくば市が誕生。翌1988年に筑波町が編入合併した。 同年から今も行われている「まつりつくば」 がスタートしている。1999年、つくば国際会議場がオープン。 2002年には、茎崎町が編入合併し、ようやく筑波研究学園都市を構成する6町村がひとつの自治体となった。 同年筑波鉄道廃線跡に大規模自転車道「つくばりんりんロード」が開通している。2005年つくばエクスプレス開通。