土浦市の歴史情報ヒストリア
土浦市は、茨城県南部に位置し、関東の名峰「筑波山」を背に、全国第2位の淡水湖「霞ヶ浦」に面しています。江戸期には、 水戸街道と桜川、霞ヶ浦の水運と相まって交通の要衝として、また、物資の集散地として発展をしました。今日でも、寺社をはじめ、 道標、一里塚や家並みなどにその面影を見ることができます。 また、水郷筑波国定公園の玄関口であり、筑波研究学園都市に隣接し、豊かな自然と環境に恵まれた歴史と文化のまちです。
土浦のあゆみ
今から1万4千年以上前の旧石器時代に、人々がすでに土浦で暮らしていたことを知らせる遺跡が市内の摩利山・中村・宍塚・木田地区の10数カ所で発見されています。 また、その規模で全国的に知られている上高津貝塚は、縄文時代中・後期の大貝塚で、土偶や腕輪、土器、骨角器、製塩土器などが発掘されています。 弥生時代から古墳時代にかけて、烏山遺跡に見られるように、土浦一帯の人口は徐々に増加しました。 4世紀前半から后塚古墳や王塚古墳を始めとする多くの古墳が築造され、土浦にも大和政権と手を結ぶような勢力をもつ豪族が現れていたことを今に伝えています。 奈良時代の常陸国は、11の郡からなり、土浦市域は茨城・筑波・河内・信太の4郡にまたがっていました。 また、この時代は、仏教に代表される新しい文化が、地方へと広がりを見せ始めた時期で、常福寺の薬師如来などから人々の信仰を知ることができます。 常陸国南部に中世を通じて活躍した武士、小田氏がいます。鎌倉時代に大掾氏に代わって力を伸ばした小田氏ですが、 戦国時代に入ると県北部の佐竹氏との争いの中でしだいに領地を失い、天正年間にはその軍門に下ることになります。
土浦の歴史