■はじめに
芹沢銈介
芹沢銈介の作品は自由、闊達。領域問わず、さまざまな主題、多彩な技法に正面から挑み、独特の文様世界を展開しています。その作品め豊かさ、力強さには、目を見張らされるものがあります。
▶︎文字の美を、さまぎまな場に生かしきる
文字を主題にした作品は、無数にあります。最も典型的な文字絵の作例は、のれんに染めだされたもの。また屏風仕立ての文字絵もたくさんあり、ときにガラス絵に挑んだり、板絵にしたりしています。平面作品だけではなくて、着物にも美しい文字模様が染めだされている。
好んで手がけられ室内装飾、あるいは立体作品の中にも文字の美が積極的に生かされて、優れた作品が残されています。
つまり平面、立体の区別を問わず、あらゆる場のなかに芹沢流の文字の美を持ちこみ、独自の着想で展開しています。その数はじっに膨大です。
芹沢さんはこのように、日本の文字に特別な愛着を持ちつづけた。文字の形に新しい生命を吹きこみ、独創的な作品へと昇華された。この点で、日本の工芸史上、美術史上でも希な作家であったのではないかと思います。
芹沢作品の豊かで美しい文字意匠を見ていると、またその文字たちが、私たちの日常生活を豊かに彩るありさまを眼にすると、心安らぎ、幸福な気持ちが湧きおこります。
この本では、そうした芹沢さんの文字による作品の主だったものを、いくつかのグループに分けて鑑賞していきたいと思っています。全体を括(くく)る題名として、「豊穣の文字・至福の文字」と名付けてみました。
「豊穣の文字」とは、芹沢文字がじつに豊かな生命力をはらんでいる。ものを生み出す力を感じさせる文字である・・・ということ。
もう一つの「至福の文字」とは、じつは至福というと少し西洋的な響きがするのですが、芹沢さんの文字絵を見ていると、ごく自然に、えも言われぬ幸福感が湧きおこゎます。文字たちが喜びにふるえている。あるいは見る人にふくよかさを与えてくれるというような、独特の文字ではないかと思うのです。
このふくよかな感じ、幸せな感じ・・・という意味合いを、「至福」という言葉で表現してみました。
▶︎美しい文字意匠、アジアの美と結びあう
さて、これからお話しするのは、芹沢銈介の文字作品についての文字論ですが、単に芹沢作品の素晴らしさを紹介するだけでなく、私流の見方をその上に重ねてみようと思いました。
▶︎私流の見方とはどのようなものか。
じつはここ二十年以上、私は、アジアの民衆が生み続けるさまざまな美の世界に魅せられて、それらのものを目をこらして見続けています。その造形がもたらす深い意味を、いろいろな角度から考え直し、.現代の視点でとらえなおそうと試みています。
たとえば、マンダラにまつわる展覧会を企画したり、アジアの宇宙観についての図像分析を試みたりしているのも、そうした関心から生まれでたものです。
アジアの無名の人々が作りつづけてきた優れた文物(文化の産物。学問・芸術・宗教・法律・制度など、 文化に関するもの)には、この芹沢作品と共通する要素が、さまざまな形で見いだされる。それらを並べ、重ね合わせながら、芹沢作品がもつている豊かな魅力、その底に潜むアジアの諸作に共通するエネルギーを見いだしてみたいと思うのです。
▶︎独自の作見を、九つの視点から甘み解いてゆく
全部で、九章に分けてまとめてみました。
まず宏の「山・水の豊穣」では、この本のタイールにも用いた「豊穣」という言葉が、芹沢作品において何を意味するのか‥・ということを、「山」文字、「山・水」や「山・河」の文字を例にあげて説明したいと思います。
第二の「翻る文字」、第三の「結ぶ文字」、第四の「血脈流れる文字」。この三つの章では、芹沢文字が包みこむ生命ある形、芹沢文字が持つ生命力がいったい何に由来するのか…について考察します。
「翻(ひるがえ)る文字」では、独創的なひらひらする芹沢文字鑑賞しながら、その背景に潜む書法や、民間芸能との結びつきについて考えてみます。「結ぶ文字」では、芹沢流「ねじり文様」がもつ意味を考察し、「血脈流れる文字」では、ひとつながりの線で書かれる文字に、どのような生命力が宿るのか…を見てゆきます。
第五の「寿・福の変幻」では、我々のまわたある「寿」や「福」という吉祥(めでたいこと,また,幸先のよいこ)の文字を、芹沢さんがどのように豊かに膨らませ、魅力的なものに昂(たか)めているかについて考えてみたいと思います。
第六章の「生命をはらむ文字」という部分では、もともとは自然を写すという象形性から生まれでた漢字の形を、もう一度自然の中に押しもどしてみよう・・・とする芹沢さんの文字絵の試みを、再考してみたいと思います。
第七の「点・画を区切る」、第八の「文字を着る」の章では、芹沢さんが展開した独特の型絵染の技法、つまり「型」あるいは「型を使った染め」というものの魅力が、どのように文字作品の中で生かされているのか・・・を見てゆきます。さらに、「いろは歌」による美しい小袖文様が、桃山期以降に流行した「文芸を着る」という着物の伝統とどのように結びつくのか・・・を取りあげています。
第九の「文字マンダラ」は、日本に伝来した曼荼羅の美、曼荼羅の力を、芹沢さんがどのように作品のなかに取りいれ、自己流に展開して見せているのか・・・について、考察するつもりです。
あわせて、芹沢さんの梵字(インドから渡来した仏教的な文字)への取り組み方にも触れておきたいと思います。
九つの章が連なっていますが、ご覧になってお分かりのように、次々と王題を変えて芹沢文字が流れるように現れてくる。それらの作品の背景をなすものを、アジアの図像を重ねあわせて読み解いてゆく・・・という構成です。
▼芹沢さんの類例をみない独創性と、アジアの美の奥深さが結びあい、絡みあい、溶けあって生みだされる文字絵の面白さを堪能して下されば幸いです。
■山・水の豊饒
まず、「山水の豊穣」。「山」、そして「水」の文字です。芹沢作品の中には「山」という文字、この一文字だけを描いたものが数多くみられます。また「水」の文字も好んで造形された。さらに「山水」という二つの文字を、重ねて意匠したものもあります。これらの文字たちが、じつに魅力的な姿を見せている。なおかつ文字たちが、深い意味をはらんで形づくられている…ということを、幾つかの作品をとりあげながら見ていきたいと思います。
▶︎千変万化する、「山」文字の表情
まず最初の作品は、大きな円相の中に山と日輪を描くものです[上図]。室内でいきなりこのようなのれんに出会うと、あまりにも直裁な構図に、はっと驚かされます。まっ赤な太陽。その下にそびえたつ三角形の山を見ると、誰しもがすぐに富士山を思い浮かべるでしょう。その上空に向かいあう二つの瑞雲。まるで二羽の鳥が翔び立つかのように並んでいる。じつに簡潔で躍動的な造形です。山頂も、瑞雲も、その先端が赤く染まっている。早朝、あるいは夕暮れの、澄みきった富士の姿です。
日本の山、日本人の心の中にある山の形を見事に単純化して、まん丸い円相の中の直裁な構図として表現しています。
▶︎雲の尾が、左右に巻きあがる
芹沢作品を一覧して、このような「山」にかかわる造形、あるいは「山」文字をとりあげた造形を集めてみると、描きだされた山の形が、じつに千変万化の表情を見せはじめます。
▼次ののれんは、いうまでもなく富士山です。雄々しい直線で山を形どり、その山頂を三つのうねりで描きだす。これは、多くの日本人が知らず知らずのうちに描きだす富士山のかたち、伝統的な山のかたちです。 ・・・
さきほどの山上に現れた翔び立つような一対の雲が、この場合には山鹿に渦巻き、渦の尾を右・左に巻きあげるという構図に変わって、山の全体を躍動的に支えています。単純極まりない、しかし力強い造形です。
だが、もっと優しい「山」の姿も描かれている。これは、松島の風景を主題にしたもの。山の頂に樹木が生え、その高さを強調している。この「山」の意匠では、山稜のうねりが三つある…ということに注意していただきたいと思います。三つ山に生い茂る、三本の松の構図です。
▶︎三つの山のうねり、三蓋の松、三つ雲の動き
三つの山と、その山中に生い茂る樹木。それを「山の文字」に托して表現する試み。つまり山の形が、「山」という文字に置き換えられた。山中に生い茂る豊かな木立ちを、文字の字形にとりこんでしまう…という構図です。
そのスケッチが残されています。「のれん」と題された紋様集のものです。
敏感な方は、この構図をみて気づくと思うのですが、「山」という文字は、三つのうねり、三本の縦棒をその字画に含んでいます。山文字がなぜ三つのうねりをもち、三本の縦棒で形づくられるのか。芹沢さんは、このことに気づいていたのではないでしょうか。
▼「山」文字の造形は、さらに展開します。次の例では、山を構成する三本の縦棒の中に、見事な松が生えている。三本の松、しかも三蓋の松…。
「山」文字自身が三回のうねりを見せ、その中に松が三本現れる。三つのうねりを見せる松葉が三層に重ねられている。三という数が執拗に繰り返されて、山と松の構図をリズミカルに整えていることに気づかれるでしょう。
次の例も、さらに美しい、ゆったりとした「山」文字の意匠です。ここでは「山」文字が、実際の山の姿を映しとるかのように、シルエットとして描きだされています。山肌が、例えば中国の山水画を想わせるような、霊妙で荒々しい、ときに艶めかしいほどの稜線を見せて彗えています。樹木はその山上に、小さな点々となって現れる。こうなるとこの山は、巨大な山、たとえば日本アルプスのような山であるということが分からます。
雲はその下に、雲海となって広がっている。だがこの場合にも、三つ雲として繰りかえされ、独特のリズムが生まれている。これものれんの作品ですが、この「山」の描写は、何気ない美しさ、力強さにあふれたものだと思います。
山の姿を、ひと思いに簡潔に表わしてしまう。これもじつは、「山」文字です。
中心には、しつかちと聾(そび)えたつ山がある。山頂はひと息に線をうねらせて、三つ山のかたちで造形される。山腹には、これもまた三つのうねりをもつ雲が現れて、山と雲を合わせた全体が、「山」文字を表しています。
「山」文字の中に、山と、山を中りかこむ雲海のうねりが合体している。これは芹沢さんの「山文字」の一つの到達点を示す、優れた造形だと思います。
▶︎雲が沸き立ち、川が流れでる
山文字の中に、山と雲が共存する。雲とは、後でお話しするのですが、この雲がたっぷりと雨を降らせる。つまり雲は、水を生む源になります。その雲はどこで生まれるのか…というと、山で生まれるものもある。山頂や山中から雲が立ちのばり、ときに山の全体を覆っていく。雲はこの世を覆ってゆく。山から湧き立つ雲の姿。山を望む場所に住む人々は、日々の風景の中にこの山と雲のかかわりを見つづけています。
山と雲の深いかかわり、その働きを、「山」という文字の形に一気に凝縮してしまった。これはじつに見事な「山」文字だと思います。
山と雲のかかわりを、もう少し分かりやすく、絵解きしたものもあります。「山」文字の中から、天に向かってもくもくと雲が湧き立つ。一方、山麓にひろがる雲の塊から、水が流れ出す。雲の尾が、川の流れを予想させるかのように、地上に向かって伸びています。雲が生みだす水、山に降り注ぐ雨が次第に集まって渓流を生み、川の流れを作り、平地の田畑を潤す水を生んでいく。
山と水、雲と水。地上に豊穣をもたらす根源の力となるものが、この簡潔な意匠によって、はっきりとその姿を表しています。
このような過程を迫って一つの文字の変化を見ていくと、芹沢さんが「山」文字に託したイメージ、あるいは「水」文字に託したイメージの源が見えはじめてくるのではないでしょうか。
▶︎「山水」の力。生命あるものの根源となる
そしてついに、「山」と「水」を組みわせた「山水」の二文字が出現します。この場合の「山」文字は、まるで燃え立つ炎のような火のかたち、火の色をしています。一方の「水」文字は、ひと思いにうねる太々しい草書体です。山中から湧き出た水が集まって大きな流れを形成する、そのうねりを簡潔にとらえています。山は水を生む場所である。水は流れ、谷間を蛇行して大きな川の源になる。
この「水」は、白い色で描かれています。それに対し、雲を生み熱をはらむ土の塊である「山」は、赤い火の色で象られる。火と水、赤と白が、山の力によって出会つている…。おそらくそのような意味をこめて、山と水の二つの文字を二つの色で染め分けたのだと思います。
さらに不思議な「山水」の文字絵があります。たぶん赤い紙に型染されたものだと思いますが、これが「山水」の文字だ…ということは、言われてみなけれは分からないかも知れません。
赤い「山」、白い「水」…。雲が湧きたつ山文字には、数知れぬ木立ちが立ち並び、山鳥が飛んでいる。水文字には樹や草花、川の流れの中には魚の姿が見いだされる。山、雲、雨、そして水…。この水の働きが、生命あるものを生みだしてゆきます。
つまりこの「山水」という二文字は、芹沢さんの心の中では、この世に生命を産みだすもの、この世の豊穣をささえる場所である。その根源となるイメージが、「山」「水」の二文字にしっかりと組み込まれていたのではないでしょうか。
▶︎三回繰りかえす、漢字のかたち
山という文字を、私たちはふだん何気なく書き記しています。まず中心に一本の高い垂直線を書き、その両側に短い二本の縦棒を添え、この三木を結びつけて形をととのえる。中心の一本が高く、両側は低い。三つのうねりを生む山文字のリズムは、芹沢さんの山文字にも繰り返し現れるものです。
中国古代の甲骨文字、あるいは金文で山文字を見ると、この文字はすでに古代から三つのうねりをもち、あるいは三つ山のかたちで書かれていたことがわかります。
山文字はその発生の初期から、三つ山の姿をとつていた。天に向かって聾え立つ一つの山、あるいは平らな地面を添えた単純な山の姿として書き記せばいいものを、なぜこのように三つ山の形で造形したのだろうか…。
それには、いくつかの理由が考えられます。ここでは、三つの際立った理由をとりだして考えてみたいと思います。
中国語では、「山」、つまり「サン」の発音は、数の「三」の発音とよく似ているよぅです。イー(一)・アル(二)・サン(三)・スー(四)…。「三」は「サン」と発音する。さらに、ものを生み出す…という意味をもつ「産」も、「サン」と発音する。つまり中国の人々はこの「山」の文字と、「三」、あるいは「産」の文字が重なりあうものと感じていた。「山」の姿に、数字の「三」、ものを生み出す「産」の働きを重ねみた…ということが分かると思います。
さて、「山」文字に潜む三つのうねりの繰りかえしに気づいた後で漢字の構成を見なおすと、漢字の中に「三回繰り返す」文字がいかに多いか…ということに改めて驚かされます。
森 爪 洲 品 心 蟲 恍 彩 姦 參
例えば「森」は、木を三回繰りかえす。あるいは「爪」も、五本ある人間の指を三本に簡略化してしまっている。さらに「洲」の字などは、まず水を三つの点で表し、っいで川の流れを三本の線で象り、その中に浮かぷ砂の洲を三つの点に要約している。つまり三つの「三」が繰ち返されている。また「森」や「品」のように、一つの文字を「三つ積み重ね」て作る文字は数多くある。
こう見てくると、漢字の造形の基本には、三回繰り返す、三つを集める…ということが、重要な構成要素になっていることに気づかれるでしょう。
■■「三」は無数であり、天地人の道である・・・■■
なぜ、このようなことが起こるのか。
中国道教の開祖とされる老子の言葉に、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず…」というものがある。この二とは、陽の気、陰の気という二つの気の流れだと考えられています。陰陽の二気が絡み合うと、三が生まれる。この「三」は、じつは無数であることを指しています。
世界の根源をなす「一」の中から、無数のものが現れる。この無数である…という「三」の意味が、「山」のサンの音に重なっていると言うことになります。
あるいはまた『説文』という秦代に編集された辞書によると、三とは「天地人の道なり・・」と説かれています。つまり、この世にあるすべてのものの道理を象徴する数だという。
「三」とは無数であり、天地人の道であるという。これが「山」文字が三本の線で構成されていることの、第一の理由ではないでしょうか。
▼ 中国では山の姿を、神韻縹渺(しんいんひょうびょう・芸術作品などに、きわめてすぐれた趣が感じられるさま)たる山岳図として描き表します。この山の稜線には幾つものうねらがあるのですが、知らず知らずのうちに、山のかたちの中に三つ山が現れることがある。つまり「山」という漢字の姿が、山岳図の中にも潜んでいたりする。
▶︎ 気を行きわたらせ、万兵を産みだす
この「山」に、中国では、どのようなイメージを托していたのでしょうか。
さきほどの『説文』によると、「宣(せん)なり。能(よ)く散気を宣(の)べ、萬物を生ずるを謂(い)う・・・という。「気」とは、天地自然に満ち溢れる眼にみえぬエネルギーのこと。中国では、気こそが万象を活気づける大切なものだと考えていた。
この気があまねく行きわたる(宣)ところ、それにより万物を生みだすところ…それが山なのだという。
山は気の源である。この気のエッセンスが精になるのですが、山はこの「精を含んで雲を産み出す…」場所だ、とも説かれています。
雲が生まれる。この雲は降り注ぐ雨に変わり、降った雨水は山肌に添って流れ、あるいは地中から湧き出して、川の流れに変容します。川の水は大地をうるおし、自然を活性化する無数の生物を育てることになる。すべての源に山と雲がある。
その根源に気の力がある…と言っています。「山」は万象を産みだすところ。
「山」は「産の力」をもつ…。これが山文字にこめられた第二の意味なのです。
中国の戦国時代に作られた、ユニークな山の文様があります。経文を入れる筒の表面に刻まれたもの。
奇妙なうねりは山の稜線です。じつと見ていると、山のうねりの中に鹿が走り、虎が潜み、数多くの動物が轟く姿が見えはじめます。動物たちの姿が見えなければ、線のうねりはただ単なる炎のゆらめき…としか見えないでしょう。古代の中国では、山のかたちはこのようにゆらゆらとうねり、どよめく姿をもつものだと信じられていました。
ことのついでに、もう一つご覧に入れると[119]、これはまるで全体が燃えさかる火を象っているかのように見えます。
だがゆらゆらと揺らめき、右に左にうねる炎の線の隙間に目を凝らすと、ここにも数知れぬ動物が潜んでいる。虎のような動物がいる。猿がいる。鳥が飛んでいたりする。揺らめきに包まれて、さまざまな動物が棲息している。つまりこの炎は、山であった…。これも戦国時代(紀元前四世紀ごろ)の漆画です。
古代中国の人々は、このように揺らめき燃え立つうねる山なみ、それこそが生命を生み出す「山」なのだ…と考えていた。芹沢文字には、この中国の意匠にみる山の姿、山に潜むただならない「産みだす力」に相応するものが表れている…ということができると思います。
▶︎ 三尊形式にも結びつく、山文字の形
さて次は、日本人が江戸末期に描いた富士山の図。江戸時代に描かれた、「富士山詣曼荼羅図」です。
この簡潔な構図、色彩の鮮やかさ…を見ると、こういうものと芹沢文字の簡潔さ、色使いがよく似ていることに気づかされる。ことに最初に見た、円相の中に描かれた富士山の絵などは、よく似た感じの構図であることが、わかるでしょう。
この富士山図は、太陽と月を山上に輝かせ、山頂のうねらは知らず知らずのうちに三つにまとめられている。つまりこの構図にも、「山」の文字が現れているということができるのです。
山頂には、阿弥陀三尊が現れる。阿弥陀如来を中心にして、右に観音、左に勢至の両菩薩が並んでいる。三尊形式といわれるもの。仏たちが、まるで「山」文字のように並んでいます。
「山」文字の三本の縦線や三つの山の姿には、この三尊形式と同じ造形感覚が潜んでいるのではないでしょうか。
中心となる一尊があり、その左右に脇待が並ぶ。この形式は、大相撲の土俵入らでも見られるもの。横綱を中心に据え、露払い、太刀持ちが左右に従っています。
この形式を生む感覚、おそらく人体に潜む左・右身と中心軸の三身の感覚に似たものが、「山」文字の形に投影されているのだと思われます。
これが「山」文字が三本の線で構成される、第三の理由ではないでしょうか。
仏たちを乗せた瑞雲が、渦巻き、たなびく。この部分は、さきほどの「山」文字の意匠に似ています。
この富士山図に見られるような、かつての日本人が持ち続けていたに違いないえもいわれぬ造形感覚が、芹沢さんの血肉の中に生き生きと流れていたのです。それに加えてさきほど見た、、中国人の「山」文字に対する深い思い…これらのものがなぜか知らないけれども芹沢さんの文字絵の奥深くに潜んでいます。
▶︎ 人々の、山への想いが盛りこまれる
さて、ここでふたたび芹沢文字の「山・水」に眼を戻してみましょう。今まで見てきたような中国での「山の豊穣」に対する思い、さらに日本の無名の画家たちが描きあげた山の絵に見られる色彩や造形感覚、こうしたもののことごとくが、彼が描くじつにダイナミックな「山・水」の文字に吸収され、生き続けていると思われる。
この文字が伝えるものは、「山・水」の豊穣の働きです。芹沢さんの「山」「水」の文字は、じつに豊かな生命力を感じさせる文字絵ではないでしょうか。
「山・河」という文字絵もあります。この二つの文字も、その中に動植物が出没している。
「河」文字には、水の流れ、その渦の魅力が簡潔な筆さばきで巧みに写しとられています。しなやかに型どられた芹沢文字の一例です。このような文字絵については、第六章の「生命をはらむ」で、もう一度説明したいと思います。