カミナリとアート

■カミナリとアート

■雷という気象現象からアートを考える

熊谷ゆう子

 屋外にいる時に雷雨に出会うと、落雷の被害に合わないための知識が頭を巡る。現代では富の性質を理解した上での回避行動を取ることができるが、昔の人々は各地で生み出された様々な慣習(蚊帳に入り節分の豆を食べ雷がすぎるのを待つ習慣など)や、まじない(クワバラ、クワバラと唱えるなど)で富を遠ざけようとしたものであるこ今も昔も変わらぬ自然の脅威は、古代には神の手による現象であるとされ、各地に雷の特性を帯びた神々が登場するのである。

 この展覧会は、雷の発生回数の多い地域(足利(私の出身地)・館林・邑楽村)にある美術館として、雷をテーマにどのような美術表現を見ることができるのか、探してみようとするものである。

▶︎1.雷をあらわす

 群馬県を含む関東平野の北部は、昔から夏に雷の多い地域であった。近年では、その発生回数は減ってきており、各地でゲリラ雷雨が発生する昨今では、この地域に特別雷が多いという印象ではなくなっているように思われる。しかし冬のからっ風とともに夏の雷上州名物としてきた群馬県では、雷は発生回数の多い身近な気象現象として昔から人々の暮らしに深く結びついてきたものであった。1975(昭和50)年発行の『雷とからっ風』(みやま文庫)では、気象学や民俗学など多角的な視点からこれらの気象現象についてまとめている。

 

 これによるとこの名物を知るために、前橋の気象台に過去に勤務した人が様々な研究分析を行ってきており、持に雷は先進的に観測を行っていたことから、1940(昭和15)年には、全国から著名な気象学者が群馬に集まり、大規模な観測調査会が行われたという。実際に落雷の被害が多かったため、観測機器も未発達な時代に、雷発生のメカニズムや動きを知ることで、被害を最小限にしようと調査が進んでいたのだろう。

 群馬で夏の雷が多い理由としては、関東平野で最も海から離れた地域として暖められ続けてきた空気が赤城山や榛名山をはじめ、御荷鉾(みかぼ)山などの南西部の山々の斜面を上昇することで上空の冷たい空気と人り交じって積乱雲を生みその雷雲が利根川沿いに南東方面に移動していくと考えられている。

 雷現象は稲妻の閃光や雷鳴の轟きなど視覚や聴覚による体験と、落雷という直接的な被害による体験が結びついて特に印象的であるとともに、体験する機会の多い自然の脅威である。古代の人々は、それを神の力によるものと考え、畏れ敬ってきた。直接的に絵画などで表現された雷(  稲妻)の作例としては、神の怒りなど人智を超えた出来事としての表現の他、自然災害の記録や現象としての写実的な表現となる。

 第1章では、稲妻などを表現した作品や雷をテーマとしたいくつかの作品を紹介する。

 《浅間焼吾妻川利根川泥絵絵図>(下図左)は活発な噴火活動を続てきた浅間山の中でも大規模な噴火として知られる、1783年(天命3)の墳火の様子を記録したものである。被害の大きかったこの時の噴火の様子は、様々な形で記録が残されているが、ここでは泥流の到達経路が詳細に記されている。上部に描かれた噴火の表現では、噴火によって発生する火山雷が描かれている。川端龍子の《怒る富士》(下図右)は、太平洋戦争が終戦となる一年前に「国に寄せる連作」と題した連作の中の一点として制作されたこ日本一の山である霊峰富上に暗雲立ちこめる中、稲妻が不気味に走る様子は、当時の国民の思いを託したものとして表現され、日本の行く末を暗示しているようにも見える。

 ラウル・デュフィの《電気の精≫(下図)は、1937年のパリ万国博覧会の電気館のために制作した壁画を版画にしたものである。雷や嵐などの自然現象の脅威に怯える時代から、科学の進歩により近代化していく社会の様子を背景とLて、科学の発展に貢献した科学者たち、またそれらを見守る神々の姿とともに、中央には近代化を代表するエネルギーである電気を象徴するかのような大型の装置と、稲妻が表現されている。

 現代では、カメラによってその一瞬の場面を捉え、写真に表すことができる。嵐を追いかけるストーム・チェイサーとして活動する青木豊は、群馬、栃木に近い、やはり雷の多い地域に含まれる茨城県の筑西市の出身である。雷に魅せられた青木は、決定的な場面を押さえるために、嵐を追いかけ続けている。

 なお雷の作品というと、雷現象そのものを作品としたウォルター・デ・マリアのランドアート《ライトニング・フィールド≫(1977年)(下図)を思い浮かべる人も多いだろう。広大な自然の中に避雷針となるステンレスのポールが多数設置された作品は、現地に行かなければ見ることのできないものであるが、行ったとしてもちょうど落雷の瞬間を見られる保証はなく、まさに自然そのものの作品と言えるだろう。

 稲妻を描くなどのほか、雷現象を言葉や抽象的なイメージとして捉え、絵画化する作品も見てみたい。表意文字である漢字では、一つの文字からイメージが膨らみ、情景を思い浮かべることができる。記号や文字のイメージを作品化する菅井汲は、「雷」という漢字を記号としてとらえ、表現している。足で絵を描くアクション・ペインティングで知られた白髪一雄の作品《普門品雲雷鼓電・ふもんぼんうんらいくせいでん》(下図右)は、その題名が雷除けを祈願するために唱えると言われる『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』の一節であり、空が曇り雷鳴が轟くという意味がある。奔放な筆致と色彩は嵐を思わせるが、白髪は1971(昭和46)年に仏教に帰依しており、その頃仏教に関する題名をつけることが多かったという。

 オノサトトシノブは雷神の持つ太鼓のイメージ(下図左)を、円を組み合わせた形で表現している。加納光於の《稲妻捕り》(下図右)は、宇宙誕生や嵐の混沌状況における稲妻のイメージを思索する中で、色彩豊かなデカルコマニー風の表現として様々な要素を散りばめた作品となっている。

 

▶︎2.雷さまのすがた

 群馬県内には、雷を祀った神社が多く、現在では数を減らしているが、1877(明治10)年の神社明細表では大小合わせて354社あったという。雷の多い地域に集中的に建てられているのは、やはり雷除けの目的があったと考えられるが、一方で嵐をもたらす雷は雨を呼ぶものとして待ち望まれることもあったため、水神として崇められた雷神は、農業を営む人々にとって大切な存在でもあった。最も知られているのが、館林に近い板倉町にある雷電神社である。この神社は、関東一円の雷電神社の総本社格とされ、近隣のみならず、遠方からも雷除けの札を求めて多くの人が訪れてきたという。

 また、群馬県の雷神を語る上で必ず触れられるのが、富岡市の一之宮貫前(ぬきさき)神社《雷神小窓》(下図)である。この神社の本殿は壮麗な装飾が施されているが、妻入破風の小さい窓に鮮やかな色彩の雷神の絵が取り付けられている。この小窓の絵は全部で3点あり、1点は劣化が激しいとのことだが、本殿に常設される1点は、1698(元禄11)年に奉納されたとある。

 今回展示する作品は昭和に入ってから制作されたものであるが、これは13年ごとの式年遷宮の際に造営される御仮殿に設置される役割を担うものであるここの雷神小窓の設置目的については、本殿と向き合う先に、雷の発生地である御荷鉾山などの山々があり、そこで発生した雷が貫前神社に向かってくるため、この小窓より雷神を勧請し、神の怒りを鎮めようと祭りを行ったのではないかという説がある。

 雷は、昔から特別な気象現象として重要視され、世界各地の宗教でも雷の属性を持った神が登場するが、多くの神が存存する日本では、日本最占の歴史書である「古事記」や「日本書紀」からその属性を持った神々が発揚し、各地の神社の御祭神として祀られている。

 雷神の姿としてすぐにイメージされるのは、上半身裸で下半身を覆う衣類を身に着け、背中に円形に配置した大鼓を背負い、撥(ばち)を握りしめた姿であろう。この場合、風袋を携えた風神と対になり、向き合うように表現されるここのような表現の起源は中国にあるとされ、敦煌石窟で6世紀前半に制作された天井画では連大鼓を担いだ雷神と、風袋を担いだ風神の姿が既にみられるという。古代インドの神が転じたとされるこれらの神は、その後千手観音の眷属(けんぞく・仏,菩薩につき従う者,すなわち脇侍,随順する諸尊などをいう)となって日本に伝来した。平安時代末から鎌倉時代にかけて作られた千手観音の木版摺りには、背後の中空に風神と雷神の姿が見られるものがある〔また、13世紀半ば(鎌倉時代)に制作された三十三間堂の国宝風神・雷神像は二十八部衆とともに千体千手観音像の前、南端と北端に配置されている。

 一方、《北野天神縁起絵巻》(13世紀後半)の清涼殿落雷の場面では、菅原道真の怨霊(おんりょう・自分が受けた仕打ちに恨みを持ち、たたりをしたりする)が、太鼓を背負った鬼の姿の雷神として表現されている。俵屋宗達はこれらの作品からイメージを取り出し、最もよく知られた《風神需神図屏風》(17世紀前半)を完成させた。宗達の作り上げた風神と雷神のイメージは、その後、尾形光琳、酒井抱一をはじめとした琳派の画家たちを中心に受け継がれながら、やがて普遍的な画題の一つとして多くの芸術家たちが様々に表現するようになった。

 今回は、江戸時代末から明治にかけて様々なモチーフに取り組んだ鬼才として知られる河鍋暁斎(かわなべ きょうさい、天保2年4月7日〈1831年5月18日〉 – 明治22年〈1889年〉4月26日)による風神雷神から、橋本雅邦、中島清之の円本画家たちによる雷神表現を紹介する。現代においても、宗達からのイメージを踏襲しつつ、新しい風神雷神が産み出されている。

 絹谷幸二による現代的な解釈による風神雷神の表現福田芙蘭、岡本健彦、高橋房雄によるヴァリエーション豊かな風神雷神の世界など、画題としての幅広さを見ることができる。

 群馬県民になじみ深い「上毛かるた」にも、この定着したイメージの雷神が登場する札がある。「ら」の札「雷と空風 義理人情」である。群馬名物である雷とからっ風、そして「義理人情にあつい」と言われる群馬人の気質についての札だが、絵札では雷神のみが描かれているこ終戦後まもなく制作されたこのかるたには、GHQの指導により国定忠治」や「高山彦九郎」など入れることのできなかった人物があった。彼らへの思いを群馬の名物に込め、その思いの強さを表すために、一番最初の「い」と並ぶ二枚しかない特別な赤い読み札にするとともに、風神雷神岡の持つ強いイメージに託されているという。

 宗達による風神雷神のイメージとは別に、雷の擬人化は古くから盛んに行われてきた。人々は恐ろい。落雷を避けたいと考える一方、雨を呼ぶものとして待ち望むこともあり、全国各地に様々な雷よけのまじないや雨乞いの儀式が存在する。こうした二面性のある、生活に強く結びついた気象現象であるためか、特定の神様はもとより、雷を操る空の上の住人としての「雷さま」や、子どもの姿をした「雷小僧」が登場する伝承が生まれ、親しまれてきた。ここで表現されているのは、虎縞の衣類を身につけ、太鼓を持った鬼の姿であることが多い。これらの鬼は恐ろしい姿をしているものの、天から落ちてきて帰れなくなったり、持ち物を落としたり、人間のへそを狙っていたり、どこか憎めないエピソードが多い。

 

 雷神が鬼の姿で表現されるのは、前述の<北野天神縁起絵巻》によるところが大きいと考えられるが、そもそもの角を生やし虎の皮を身につけるという鬼の姿形はどこから来たのかというと、吉野裕了・氏の説では陰陽五行による「鬼門」から来ているという。「死」を表す「丑」、「新生」を表す「寅」が接する北東の方角は「鬼門」と呼ばれ、死から生まれる恐ろしいものとしての鬼が出入りする場所として恐怖の対象であり、忌避(きひ・きらって避けること)されてきた。丑は動物の牛寅は虎であるため、先人たちは鬼の顔に牛の角を付け、虎皮の衣服を身につけさせることで、恐ろしいものの象徴をまとめて分かりやすいイメージに作り上げたということである。

 江戸時代、近江国(滋賀県)の大津近辺で土産物として売られ、民衆に親しまれてし、た「大津絵⊥は、鬼が背場する図柄が多い。落とした太鼓を拾うため、雲の中から焦って錨を垂らす宙の姿で知られる《雷と太鼓》(下図左)雷除けの護符として所持されていた。他にも、様々に語り継がれて来た伝承から生まれた童子の姿自然の脅威を人形にしたものなど、雷さまの姿には定番の雷神像にとらわれることのない幅広い表現を見ることができる。今回は、石井鶴三によって擬人化された雷 (下図右)、桂ゆきの絵画に描かれる陽気な雷さま伊藤三枝による童子の人形、中野恵祥の金工作品など、様々なジャンルの作品を紹介する。

 

▶︎3.光・音・電気のアート

 雷をイメージする要素としては、稲妻の光轟く雷鳴の音、そして空で発生する電気などがあげられる。光と音、エネルギーとしての電気は、今や絵画として視覚的に表現するだけでなく、現代の作品にとって重要な要素でもある。最後の章では、雷を構成する要素によって制作された現代美術の表現を紹介したい。

 光の表現としては、光る素材として照明機材などを使う作品、光を絵画などで表現する作品があげられる‥光そのものを作品にする作家としては、ペンライトを動かす軌跡を作品化するナガタタケシとモンノカズエの二人組ユニットTOCHK(トーチカ)を紹介する。

 また平面作品の中で光を表現する作家として、写真を削って光渦巻く光景を作り出す多和田有希の作品(下図)を紹介する。

 音に注目した作品としては、音楽や楽器を使った作品が考えられる。今回は、前橋市で活動する小野田賢三による、箱の中に閉じ込めた楽器の音が鳴ったり、光るなど雷による現象をイメージした仕掛けを施した作品を展示する。

 17世紀以降の研究者たちの電気の研究は、ゆっくりとしたものであったが、1750年のベンジャミン・フランクリンライデン瓶に凧の糸を結びつけて行った実験により、稲妻と静電気が同一の電気現象であることを突き止めることに成功した。これにより、以降の研究は飛躍的に進み、電気は現代では欠かすことのできないエネルギーとなった。

 杉本博司の《放電場)(上図)は、そんな18世紀の科学者たちの実験を思わせる手法で制作されている。印画紙に迸(ほとばし)る光の軌跡は、自作の発電装置を使って様々に発生させた電気の形を写し撮ったものである。紙の上で作られる雷は、杉本の試行錯誤により典型的な稲妻の形はもちろん、その時々で異なる不思議な造形が生み出されている。

 自然や自然現象に注目した作品を制作する木村崇人は、食材に直接電気プラグを剛付けて調理を行う《出前調理人≫(上図)のパフォーマンスによって、電気のエネルギーを視覚的に見せる作品を制作する。

 タムラサトルの「接点のシリーズ」(下図)は、回転する金剛奉が鉄板に触れることによって通電し、壁に取り付けるなどした白熱灯が光る仕組みの作品である。モーターによる電気仕掛けの作品は工業的な要素が楽しめるとともに、木村の作品とは別方向から電気の作問を視覚的に体験することができる作品である。

 群馬名物の気象現象である「雷」を幅広く捉えて紹介する今回の展覧会では、多くのジャンルの作品を集めることとなったこ一つのテーマを設定す ることで、多種多様な美術表現を見ることができ るのは、テーマ髭ならではの楽しみがある‥この展 覧会によって、テーマとした「雷」について考える機会となったり、新しい美術表現と出会う機会となれば幸いである。

(群馬県立館林美術館学芸員)

■群馬県立館林美術館外観