琉球の歴史

■うるま ちゆら島 琉球

▶︎はじめに                                                       原田あゆみ

 日本の南に美しく浮かぶ琉球列島。東シナ海の東端、太平洋との境界ラインに点在する、かつて琉球王国として知られた島々。その魅力とはなんだろう。広大な海域にわたる琉球王国形成の背景に見えてくる東アジアの激動の歴史、そのダイナミズム。また、シマごとの個性、つまりシマやムラといった自立的な生活単位(小宇宙)の中で息づく祈りや祭り、その厳かな生命力。そして、とりまく自然美にふさわしい人々の豊かな営み。

 この展覧会では、こうした琉球文化の魅力を紹介するためにキーワードをもうけた。「ティーダ(太陽)」「海」「花々」「人々」の四つであり、展覧会の柱になっている。「ティーダ」とは沖縄で太陽を意味し、時に国王は太陽として謳い崇められた。琉球国支配の拠点であった首里城と、琉球王家(尚家)はまさに「琉球の太陽」だったと言える。ついで、海洋国家琉球のすがた。小さい島ながら琉球が外来文化の影響を巧みにとりこんでいけた背景には東アジア諸地域をつなぐ「海上の道」があった。琉球は地理的あるいほ歴史的な事情から、アジア各地を結ぶネットワークの中で魅力的な場所だったのだ。

 そして、「花開く琉球文化」。日中の間にあった琉球は両大国の文化を学び、献上品にも磨きをかけた。琉球士族の華やかな文化と美術品は琉球の「花々」と言えよう。最後に、琉球文化を担ってきた「人々」。まぶしく降り注ぐ太陽のもと、人々の営みは続いてきた。シマの人々と生活はどのようなものだったのだろう。時代とともに人々の暮らしはゆるやかに、ときには急激にかわってきたが、その中でかわらないのは祈りや、豊作を祈願し、そして感謝する祭りなのではないだろうか。

 さて、「うるま」は、沖縄で「うる(珊瑚のかけら)」の「ま(間=空間、島)」という語源を持つ説があり、「沖縄島」をさす言葉。また、聖域など大切な場に基壇を設ける前には、珊瑚のかけらを敷いてその基礎としたことが、発掘調査から明らかになりつつある。珊瑚のかけらを敷きつめたのは、単に堅固な基層づくりのためであったのか、塩をふくむそのかけらは聖域を清めるためのものだったのか・‥。「ちゅら島」は「美しい島」という意味で、「ちゅらさん(美しい)」という言葉のほうがおなじみかもしれない。本来は「きよらさ」から転じた言葉なので単なる美しさをいう言葉ではなく、心清らかであることをいう。それから「琉球」。最後まで「沖縄」にすべきかどうか悩んだ。なぜなら、「琉球」という名は、外から沖縄を指していうことばでもあるからだ。しかし、「琉球王国」という時代性だけでなく、「琉球列島(琉球弧)」という地域性についても伝えたかった。


 このような意味をこめはしたが、「うるま ちゅら島 琉球」は、耳で聞いて軽快なタイトルであり、意味について知らない方にとっては、どこか知らない世界へいざなう呪文のようだと感じていただければしめたものだ。(九州国立博物館研究員)

■ 第一章 ティーダ 琉球の太陽 

宮里 正子

 ちゅら島と称される沖縄。「ちゅら」は「きよらさ」から転じた沖縄の方音といわれ、姿や形だけでなく、心やたましいといったいわゆる内面的にも清く美しいことを意味する。

 ちゅら島沖縄は、日本の南西海上に連なる島々(琉球列島)で構成され、かつて琉球王国と称される独自の国家を形成していた。

 十五世紀初頭第一尚氏中山(しょうしちゅうざん)尚巴志(しょう・はし)は、山南、山北の王を制し始めて琉球に統一王朝を樹立したが、統一政権はわずか六四年伊是名島出身の金丸を祖とする第二尚氏にその座を奪われる。

 

 1470年、初代王に尚円が即位した第二尚氏王統は、中国とは臣下の国家として朝貢・冊封関係を継続しっつ、さらに1609年薩摩侵攻以降は日本の幕藩体制下の国家として、明治の廃藩置県にいたるまでおよそ四百年にわたり、琉球王国を治めてきた。

 琉球王国は、北に日本、西に中国・朝鮮、南に東南アジア諸国を控えた島国としての地理的特性を発揮し、これらの国々との中継交易国家として繁栄した。

 琉球王国の文化は、中国や日本の大きな影響を受けつつ、その地理的風土から醸し出される東南アジア諸国の雰囲気も処々に見出すことができる。

▶︎ 第一節 尚王家と文化遺産

 第二尚氏の居城首里城は、国王の生活の場であり、王国の種々の儀式が執り行われた。そこには、中国皇帝から下賜された宝物や王国の最高技術で製作された漆器や染織品、金工品などが蓄えられていたことは想像に難くないが、現存する尚王家の伝来品は僅少(きんしょう・ごくわずか)である。その大きな要因が、第二尚氏が遭遇した、三度の大きな災難であろう。

 一度目1609年の薩摩侵攻である。首里城に攻め入った薩摩軍は城内の宝物を戦利品として持ち帰ったことが「琉球渡海日日記」に記されている。島津氏は尚寧王を捕虜にし、駿府の徳川家廉や将軍秀忠に謁見させ、琉球を征服した証とする。その際、首里城の戦利品として家康に献上され、家康の第九子で尾張徳川家の初代義直に形見分けされた漆器が、徳川美術館蔵所蔵の御供飯花鳥文密陀絵沈金下図)である。精敵な技法や豪華な文様は、王国の看板工芸であった琉球漆芸の極致といえる作品である。

 二度目1879年の廃藩置県である。琉球王国は崩壊し沖縄県となり、首里城は明治政府が接収した。最後の国王十九代尚泰は華族(侯爵)に列せられ東京にその居を移された。親族らは世子殿の中城御殿(現在は沖縄県立博物館の敷地になっている)での生活を余儀なくされた。

 王府の文書類は明治政府により押収され、明治政府、尚家、沖縄県庁、沖縄県立図書館へと四組織に分割され王国旧来の様相を失った。

 王国を象徴する王装束や諸儀式用の御道具類、紅型や織物などの衣裳類も東京と中城御殿に分散された。現在、尚家伝来品として遺された品々である。

 三度目の大きな災難が、第二次世界大戦による沖縄戦の戦禍である。

 沖縄戦では、多くの人命とともに王国が築き上げた文化遺産も消失した。中城御殿では厳重な金庫や壕に避難させた王国の遺産の殆どが灰燼に帰したり、盗難にあったとされる。戦後、米軍により持ち去られていた「おもろさうし」(N29)。や「黄金簪(かんざし)」は、1953年にぺリー来航百周年記念として米国から返還された文化財である。近年、米国在の王冠が話題になっており、事実であれば国を挙げて返還に取り組むべきであろう。

▶︎ 那覇市所蔵の尚王家伝来品

 那覇市は、1995〜96年に尚家第22代当主尚裕氏より尚家伝来の文書1341点、美術工芸品85点の寄贈を受けた。

 那覇市に寄贈された尚家伝来品は、戦前に尚家の東京邸に移された品々で、そのために沖縄戦の戦禍を免れた。また、東京空事では東京邸は焼失したが、土蔵の中の伝来品は無事であった。そして、戦中戦後は尚裕氏が、幾多の困難を乗り越えて守り通してこられた。

 義家伝来品は、琉球王国の存在を証す第一級の資料群で、いずれも王国の歴史や文化の〝証人〟である。2002年、国は美術工芸品と文書の一部を「琉球王尚家伝来品」として重要文化財に指定した。

 邪覇市では、寄贈された品々を中心に1998~2002年に文化庁の補助を得て「尚家関係資料総合調査事業」を行ったので、詳細は『尚家関係資料総合調査報告調査事業に委ね本稿では概略を述べる。

 文書類1,341点は、1879年首里城を明け渡した際に、中城御殿に移された文書の一部で、尚秦王の王代記編纂のため、歴史学者の東恩納寛惇(ひがしおんなかんじゅん・<1882年 – 1963年>日本の歴史学者。沖縄県那覇市出身)が東京に取り寄せたものとされる。『尚家関係資料総合調査報告書』では、➀尚王家関係資料、➁冠船関係資料、➂進貢・接貢船関係資料、➃琉球・薩摩関係資料、➄政務・財務関係資料、➅異国船関係資料、➆琉球処分及び東京関係資料、➇典籍・版本・刊本に分類し調査した。

 本展では、王国の優れた織物のデザイン帳である「御絵図帳」(上図左)や最後の国王尚泰の葬儀記録「御葬具図帳」(上図右)、首里城の改修記録の「百浦添御普請絵図帳」(15)や王装束に関する「唐冠服図帳」(13)を出陳する。

 美術工芸品八五点は琉球王国を象徴する玉御冠(上図左)王衣装(上図右)、刀剣はじめ紅型(下図左右)など、さらに金銀器や漆器などの御道具類(下図)である。

  

 玉冠や美術工芸品は尚昌(1888~1922)の婚儀に際し運ばれたともいわれている。紅型の衣裳類などに見られる神に振りを伴う衣裳構成も多く、東京邸で王子の着装した衣裳との伝聞もある。

 2004年、那覇市では、北京・故宮博物院蔵の琉球国王から中国皇帝に献上した漆器などの里帰り展を開催し大きな話題となった。尚王家の伝来品と中国皇帝の遺品は、琉球王国の歴史を解明していく上で非常に重要な意味をもつ二大伝来品である。

 那覇市では、今後も尚王家伝来の文化遺産を保存し、広く公開するとともに、次世代へ王国の歴史を継承する活動を展開していく所存である。(那覇市歴史博物館主任学芸員)