第三章・花々 花開く琉球文化

■第三章 花々 花開く琉球文化

▶︎第一節 琉球美術の華 絵画                                                  林  進

 近世(十七〜十九世紀)の日本において、特色ある優れた美術品を生んだ三大地域といえば、いうまでもなく京都と江戸、次に摂津大坂、尾張名古屋、加賀金沢あたりをあげる人がいるかもしれないが、わたしは南海の小さな王国、琉球であると考えている。

 太平洋戦争の戦火によって琉球の美術品の多くは焼失してしまったが、さいわい、かつて本土にもたらされた名品が伝存し、沖縄の遺品の欠を補う。琉球宮廷絵師が描いた絵画作品、華やかで精緻な沈金、箔絵、蝶細、堆錦などの琉球漆器、鮮かな琉球紅型や情緒ある芭蕉布などの染織品は、実用性はもちろんのこと芸術性においても本土の美術と比して決して劣るものではない。

 この展観では、十七、十人世紀の琉球絵画の名品がまとめて展示される。琉球絵画を初めてご覧になる方は、南国の風土を感じさせるその明るさ大らかさ、王朝の雅びと装飾性、中国絵画の伝統に基づく琉球画の画品の高さに感銘を抱かれるにちがいない。

 この展観の見所は、琉球王朝文化がもっとも盛んであった第十三代尚敬王(一七〇〇〜有二)の時代に活躍した琉球を代表する宮廷画家山口宗季(唐名は呉師慶、一六七二〜一七四三)の三つの作品、すなわち個人蔵『花鳥掴綽た芯欄)、大和文華鮨蔵『花鳥図』(NO聖、那覇市蔵『猫図』(NO聖が展示されることである。宗季は京都の琳派の巨匠尾形光琳(一六五八〜一七一六)と活躍期を同じくする画家である。宗季の作品を通じて、直接に中国画の影響をうけ独自に開花させた琉球絵画の特質を知ることができる。

 一六〇九年の薩摩侵入以来、薩摩の付庸国となった琉球王国は、幕府に対して王襲位の謝恩便、徳川将軍への慶賀便を江戸へ派遣し、薩摩大守とともに江戸上りを行った。薩摩をはじめとする諸大名、公家、幕府への進上品として中国画風の山水・花鳥画、琉球風俗画を贈った。薩摩からの依頼の画も多かった。それは琉球王朝の誇りを示す絶好の機会であった。

 そういう情況下、一七〇四年、宗季は王府の命を受け、中国との進貢貿易の便を得て、福建省福州に画学留学、当地の画家孫億(一六三人年生)に師事、伝統的な清朝の写生体花鳥画を学び、一七〇七年に帰朝、のち貝摺奉行所の絵師主取 (主任画家)となった。初公開の個人所蔵の宗季筆『花鳥図』(N0.64)は一七〇五年に福州の地において制作された作品で、師孫億の写生的画風を真筆に学んだ跡がうかがえる貴重な遺品である。一方、大和文華館所蔵の宗季筆『花鳥図』(NO63)は帰朝後の一七一五年に描かれた紙本署色の横幅の大作で、ここには孫億風花鳥画の重厚さはなく、牡丹の花には濃い鮮やかな古代朱が用いられているが、その外は代緒、膝脂、群青などの顔料が薄く施され、作品全体から受ける感じは淡い包】彩至言′る。写実的であるとともに、日本の絵らしい装飾的な美しさを見せ、琉球特有の明るさ大らかさをたたえている。

 清時代の写生的花鳥画は、一七三妄に長崎に渡来した批雛(郁野生没年不詳)によって日本に期の画壇に大きな影響を与えたが、琉球は地理的、歴史的関係から本土より、いち早く中国の新画風の感化をこうむった。

 宗季の花鳥画の優れた写実性は、京都の公家で郡部常に造詣が深く画才があった鮎雛毅郎手芸、を驚かせ、一七一五年の春、家照は薩摩を介して琉球の宗季に「花鳥画」を依頼したほどであった。星御用の「花鳥画」(紙本著色)は、一七一五年初夏に描かれた大和文筆館の『花鳥図」(紙本著色)と製作時期が近い。大和文華館本はその副本のようなものかもしれない。今回展示される本草学的に描かれた「中山花木図」(薩摩の画家木村探元模本を重模写したものの一つ。No.73)の祖本(原画)は琉球画であったにちがいなく、その祖本は「琉球絵」(呉姓家譜』。琉球特産の花木、草花を描いたものか)を作ったといわれる宗季の筆になるものではなかったか。

 とすれば、近世写生画の勃興へ直接寄与した中国からの影響として、来舶活人画家沈南頚の影響とは別に孫低から宗季へという系譜をたどり得る。この事実は近世絵画史の盲点であった。なお当時、本土の人々は宗季をその唐名の落款「呉師慶」から、明代あるいは晴代の画人と誤解したらしい。彰城百川編著『元明暗書画人名録』 (一七七七年刊) に「清、呉師慶、字子敬境雲谷、花鳥」とある。今後、中国画と見倣されている作品の中から宗季の作品が見出される可能性がある。
唐名を用いる他の琉球画人の場合も同様である。

今回の特別展のもう一つの見所は、宗季に師事した宮廷画家座間味庸昌(唐名は股元良、一七一人〜六七) の二つの花鳥画である。庸昌は北京へ向かう進貢使の一員として中国に二十カ月余り滞在し、直に中国の風土と中国絵画に接した画家で
あり、一方本土の狩野派や土佐派の画風も学んだ。山水、花鳥、人物と画域が広く、しかも平明な画風をもち、琉球でもっとも人気があった画家である。彼の『雪中雅子図』(N。65)は中国の画家章聾の『雪中花鳥図』を模写した作品であり、『花
鳩咽』なれ榊欄)は狩野派の表現法の影響を受けた作品である。また、北京に留学した経験があり山水画を得意とした宮廷画家・屋慶名政賀(唐名は呉着温、一七三七〜一人〇〇)の『雪景山水図』(N。67)は精神件の深さを感じさせる作品である。泉
寛英(唐名は慎恩九、一七六七〜一人四四)は、山水画、人物画、風俗画に優れた貝摺奉行所の絵師である。初公開の個人蔵『漁夫図』(N。69)、沖縄県立博物館蔵苧秋景山水図」二恥鵬)は、その筆墨法と構成法に明暗画の影響が顕著で、寛英の個
性が遺憾なく発揮されている。

 宗季以前、十七世紀に活躍した早世の宮廷画家齢眺献獣(唐名は雛恥竿号は削不一六一四〜四四)の筆になる白沢図』(N。70)は中国の想像上の霊獣を描いたものであるが、琉球画が中国文化圏にあることを示す貴重な遺品である。

(関西大学非常勤講師二九大和文華館)

▶︎ 第二節 王国内で用いられた琉球漆器

岡本 亜紀

 近世の琉球では王府に貝摺奉行所を設け、中国や日本向けの献1品、王家で使用する祭祀道具などを製作していた。妄、芸事行所以外にも民間の漆工房があり、奉行所の↑請けや生活用具の製作が行われていた。献上品や王家の祭祀用具につ¥は別稿で語られる予定なので、ここでは近世、王国内の士族の暮らしの中でどのように漆器が用いられていたかを紹介したい。

 上級士族の家で用いられる祭祀用漆器として重要なのが、「御籠飯」(NO撃とよばれる二段丸型の台付食籠である。正月や祭事などには、神仏へ「御花」とよばれる米を御籠飯に盛って捧げる。これは足付盆に載せた酒瓶一対と共に供えられた。婚礼の時にも、御籠飯に入れた御花や素麺などが婿方から嫁方へ贈られる。その他、上級士族が大きな役職に任命された時や葬儀の時など、御花を王や王族などから賜ることがあった。御籠飯はこのように、行事や人生の節目に用いられた漆器であった。

 琉球の士族は、役職によっては薩摩役人をもてなしたり、冊封使に踊りを披露したり、といったことが求められた。十七世紀の摂政・羽地朝秀の令達でも、学問や算術、医道などの芸に一つでも通じていなければ役人として召抱えられない、とされ、その中には書・茶道壷道が含まれていた。書や茶などの芸道が必須の教養だった士族の人々にとって、硯箱や科耗箱といった文具類(NO甲77)、四方盆や風炉塞屏風(≠芯)などの茶道具などは大切な品であったはずである。こうした文化は、中国・日本への渡航時だけでなく、冊封便や薩摩役人、日本からの渡来僧などとの交流によっても育まれていった。

 中国から伝わった形態の漆器に、東道盆(NO91)があるC東通盆は中に小皿を組み込んだ容器で、主に祝宴での酒の肴入れに用いられるものである。中国や日本への献1品としても贈られているが、国内では個人宅での祝宴や賓客の接待の際に                               しLがき′二んち用いられていた。個人宅での祝宴としては、石垣島の名家石垣殿内の膳符(金城須美子琶良殿内・石垣段内の膳符日記』)に、「元服之祝」「歳目視」「昇進之時」などで東通盆が出された記録がある。妄賓客のもてなしの例では、三司官(宰相)を務めた伊江親方朝睦の日記(『沖縄県史資料編七巻伊江親方日々記』)に、寺の住職など囲碁の招待客や、送別のため自宅に招いた客へ、吸い物や酒などと共に東道盆を出しご馳走している記述がある。1級士族などの家には、こうした宴会や接客のための東道盆があったことは間違いない。

 琉球に駐在する薩摩役人への接待にも、様芸漆器が登場する。琉球士族は薩摩の在番奉行や役人達を、役宅や自宅の宴、馬寄見物・綱引見物といった物見遊山にしばしば招き、もてなした。屋内では日本的な膳椀の饗応だったようで、外出先では酒と共に東道盆や硯蓋、掟重といった漆器に盛られた肴が出されている。「琉球交易港図屏風」(NO鵜)にも祥を来た武士が酒を飲んでいる姿が描かれているので、探してみてほしい。

 伊江親方の日記や那覇士族の役職日記には、よく薩摩役人や身近な人に食べ物などを贈る記述が出てくる。伊江親方が薩摩の在番奉行へ「」にいれたちんすこうを進呈したり(「沖縄県史資料篇第七巻 伊江親方日々記」)、高里親雲上が那覇を管轄する役所・親見世へ茶請け「八寸重一次うすらもとちあけ素めんあけ豆ふ」を差し入れたり「(那覇市史資料篇第一巻九』)といった記事をみると、重箱が生活の中で活用されている様子がうかがえる。

 このように祭祀道具から食具まで、様々な漆器が琉球士族の暮らしを彩っていたのである。そそ